🐉21」─1─チベットにおける、中国共産党政府の漢族化政策とチベット人大虐殺。~No.71No.72No.73 @ 

消されゆくチベット (集英社新書)

消されゆくチベット (集英社新書)

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 チベットは平和を求め戦争を避けるべく中国共産党を信用した。
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 中国共産党は、儒教思想を人民を搾取する封建制度として徹底的に破壊した。
 中国から信頼や契約が消失し、嘘や不正が蔓延した。
 中語の文化とは、嘘の文化となった。
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 中国人は、唯一の天子・皇帝として、中華思想に基ずく華夷秩序で世界を支配する事を夢見ている。
 そして、中国人以外の人間を下等な野蛮人と見下し、生きる価値を認めてはいなかった。
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 中国が他国の領土を奪うときは、相手の土地を手に入れ、多数派になるまで平和的に漢族を大量に入植させた。
 中国の他国侵略は、相手の中に親中国派を作り、彼らに手引きさせる事であった。
 中国の侵略は、平和的で巧妙であった。
 中国人は、侵略する相手に対して、警戒させないように柔やかに笑顔を見せながら接近していった。
 人の心が読めない単純思考の無能力者は、中国人の下心が読めず、全てのモノを奪われ、そして最悪は虐殺された。
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 中国は、隣国の土地を手に入れる為に大量の中国人を移民させ、中国人入植者に中国流で地元無視の傲慢な態度を取る様にそそのかした。
 地元住民が民族的な伝統文化や宗教や生活習慣を中国風から守る為に中国人排斥運動を起こすや、中国軍は同胞の保護を宣言して大軍を派遣して侵略し土地を奪い、地元住民を大虐殺して領土とした。
 それが、中国の偉大なる栄光である。 
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 徳川幕府は、中国とは底知れぬ怖ろしさを秘めていると感じていたがゆえに、朝鮮同様に中国とも国交を開こうとはしなかった。
 日本と中国・朝鮮との間に、1000年の長きにわたって友好関係はなかった。
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 中国は、目的達成の為には時間を惜しまず、十数年でも、数十年でも、数百年でも、我慢し耐えて取り組む。
 行動を正当化する為に歴史を歪曲し、相手を屈服する為に軍事力で恫喝し、相手を殲滅する為に大虐殺を行った。
 それが、中国の歴史である。
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 中国人は、毛沢東を偉大な指導者と崇拝し、毛沢東のような偉大な英雄になる事に憧れを抱く。
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 中国共産党人民解放軍には、100万人以上の世界最大級の軍人専用慰安婦を民間業者に管理させていた。
 中国軍兵士は、何時の時代でも軍紀や軍律を守らず占領地で強姦を繰り返していた。
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 ダライ・ラマ14世「司法の独立がない事が中国の最大の問題であり、悲劇です。司法は中国共産党に従属し、判事の任命も判決も共産党の了承なしには不可能です。判決は法ではなく、政治的イデオロギーに基づいて下されます。中国の司法は事実や真実も認定でず、独裁政治を支えることのよって、中国社会を蝕んでいます」
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・中国のチベット侵略そして併合。
 「チベットは、歴史的に、昔から中国の一部である」
 1946年 チベットのラサ政府は、独立国として第二次世界大戦終結関連の祝賀使節を中国に派遣し、蒋介石に書簡を送った。
 「我々はダライラマによる恒久的な宗教・政治的統治によってチベットの独立を守り続けたい」
 チベット使節団は、南京で行われた中国の憲法制定議会に参加した。
 1947(49)年 ラサ政府は、シャカッパ蔵相を代表とする通商使節団をインド、イギリス領香港、南京の中華民国アメリカ、イギリスへと送った。
 イギリスとアメリカは、連合国の一員である中華民国チベットの領有を主張していた為に、独立を主張するチベット使節団との正式協議を避けた。
 だが。国際的に独立国として認知されている以上、チベット使節団がラサ政府のパスポートで旅行する事を許し、非公式に通商使節団を受け入れた。
 ラサ政府は、インドのデリーで行われたアジア会議に使節団を送り、独立国家であると表明した。
 インドは、54年までチベットを独立国家と認め、この会議でチベットの旗(雪山獅子旗)を掲げる事を許した。
 1948年 チベット使節団は、渡英し、英国首相クレメント・アトリーに面会した。
 1949年 中国共産党は、国共内戦中華民国に勝利して全中国を掌握した。
 チベット政府は、中国政府とつながりのある全ての中国人を国外追放した。
 国民党と中国共産党は、チベットの行為を非難した。
 中国共産党は、チベットに食い込む為にパンチェン・ラマ10世を厚遇し、ダライ・ラマに対抗する親中国派のチベット民族指導者に仕立て上げようとした。
 中国には、漢族以外にウイグル族モンゴル族チベット族など9つの少数民族が存在していた。
 中国共産党は、古い歴史や文化、独自の言語文字や宗教を持つウイグル族モンゴル族チベット族などの発言力を削減する為に、少数民族の数を38民族に増やした。
 そして。80年代には、その数を55民族と定めた。
 毛沢東は、戦前にチベットの独立性を容認していたが、中国を統一するや前言を翻してチベットを侵略し中国領とするように命じた。
 共産主義者は、平気で嘘をつくし、約束を破る。
 中国共産党政府は、チベット侵略の前段階として、中国とチベットの平和の証としてチベット人を動員して友好道路(軍用道路)を建設した。
 軍用道路が完成するや、チベット全土に漢族を移民として送り込み、漢族とチベット人との間にトラブルを起こした。
 中国共産党政府は、チベット併合の為に、チベットの混乱を鎮め漢族移民の安全を守る事を名目として、人民解放軍を派遣してチベット全土に駐屯させて制圧した。
 中国人軍人は、不利な状況にある時は和やかに陽気で接して相手を油断させ、有利に立ったと判断した時は凶暴に豹変して襲いかかった。
 6月11日 パンチェン・ラマ10世が、パンチェン・ラマ9世の転生として国民党政府の承認を受けて即位した。
 1950年1月 中国共産党政府は、チベット政府に対して、中国の正統政府としてチベット駐留を要求した。
 6月 イギリス政府は、庶民院で「中国のチベットに対する宗主権を認める準備は出来ている、しかしチベット自治権を尊重されていることだけは理解してほしい」と表明した。
 10月 人民解放軍は、チベットのカムドに侵攻し、チベット軍の散発的な抵抗を破った。
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 中国特派員「中国は〝帝国主義者を一掃する〟という名目で、東チベットに4万人の人民解放軍を進行させました。当時、チベットにいた外国人は僅か6人でしたから、言い掛かりにすぎない。人民解放軍との戦闘で、8,000人のチベット兵はなす術もなく壊滅しました」
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 1951年 チベットは、総人口約600万人のイギリスなどが承認する独立国家であった。
 中国共産党政府は、チベット代表団との間で17箇条協定を締結したが、全ての約束を破り、油断している隙を突いて軍隊を投入した。
 中国軍は、チベット全土を制圧した。
 中国共産党は、内戦期にチベット民族の自主独立を認めていたが、「チベットはもともと中国の一部である」を主張し、軍事力による威嚇で中国に都合の良い17条協定を結んだ。
 チベット内での親中国派の力の弱い内は、チベット人を油断させる為に、チベット人に配慮して、「革命を強制しない」と約束してチベット仏教や文化を尊重した。
 中国人とは、相手より弱い内は柔やかに微笑みを見せながら「猫を被る」が、相手より優位に立つたと判断するやと凶悪・凶暴に「君主は豹変する」のである。
 中国共産党は、チベット仏教を私物化し搾取の道具として人民に悪政を強いていた反共産主義一派から人民を解放するとして、親中国派チベット人の手引きで人民解放軍(8万人以上)を侵攻させた。
 人民解放軍は、チベットを人民中心の民主改革を行うとして、反宗教無神論から、国内の全ての僧院を破壊し、仏像や仏具を壊し、経典や仏画を燃やし、多くの僧侶を還俗させた。
 生活習慣を中国化する為に、広大な牧草地を所有していた遊牧民から牧草地を取り上げ、遊牧民を農夫として狭い農地の中に押し込めた。
 民族浄化と民族文化覆滅の為に、多くの貧困階級の中国人農民を入植させ、中国文化と中国語を広めた。
 親中国派チベット人は、ダライ・ラマ14世らを裏切り、中国共産党に忠誠を誓う事で、民族代表という特権を与えられ北京中央の人民会議で特別な地位をえた。
 チベット人は、侵略者から国家、民族、宗教、文化を守る為にゲリラ戦を始めたが、国際社会は中国の横暴を見て見ぬ振りをした為に窮地に追い立てられた。
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 1952年 中国に併合されたチベットは、自主独立を勝ち取るだけの軍事力がない為に、せめて自治だけでも認めて貰うべく粘り強い交渉を続けていた。
 中国共産党政府は、中華思想に基ずく華夷秩序から非漢族の少数民族の人権など認めてはいなかった。
 カロン地区のチベット人は、独立を求めて抵抗運動を始めた。
 中国軍は、独立運動を弾圧し、58年までに女子供に関係なくチベット人1万人以上を虐殺した。
 中国共産党政府は、カロン地区の独立運動を封じ込める為に、チベットから切り離して甘粛省甘南州に編入した。
 さらにチベットの力を分散する為に、チベットの分割を実施した。
 中国に忠誠を誓うチベット人が多いカム西部(昌都地区)を、昌都解放委員会の下で引き続き西藏地方に帰属させた。
 カム地方東部のチベット人は、独自の西康省藏族自治区とし独立させたが、55年に四川省編入した。
 チベット人の比率が低い南昌地区は、雲南地方に移管した。
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 1956年 中国共産党政府は、チベットの完全中国化の為に、民族宗教を排撃し、遊牧地であった土地を取り上げ、漢族の大量入植を進めた。
 同年末 アムドやカム地方のチベット人は、大量に入植してきた漢族に反発し、民族を守る為に蜂起した。
 中国共産党政府は、共産主義大義の下で民族主義民族宗教を撲滅する為に軍隊を増派した。
 チベット動乱の始まりである。
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 1957年末 中国軍は、チベット人の第一次蜂起を大量虐殺を行って鎮圧した。2万人が虐殺され、2万人以上が逮捕された。
 逮捕されたチベット人が、その後、どうなったかは不明とされている。
 カム反乱。CIAの工作員は、反共戦略として、東チベット人を中心とした反乱部隊を支援した。成しゲリラ戦を開始する
 1958年 バタン(巴塘)、維西、徳欽、中甸などで、第2次蜂起が起きた。
 中国軍は、年末までに5,500人以上を虐殺して鎮圧した。
 3月(〜8月) 甘粛から青海にかけてのチベット人13万人が反乱を起こした。
 中国軍は、11万人を虐殺して青海地方の反乱軍を鎮圧し、青海省におけるチベット人・モンゴル人の遊牧民5万人を不法に逮捕した。
 中国共産党は、叛乱を未然に防ぐ為に拘留中の2万3,260人を殺害した。
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 1959年 チベット人抵抗組織は、孤立無援の中で、独立を求めて首都ラサで大規模な叛乱を起こした。
 人民解放軍は、チベット併合を完成させる為に武力鎮圧を行い、女子供でも容赦なく虐殺した。
 親中国派チベット人は、中国人民軍の解放に感謝するチベット人という捏造した情報を流した。
 国際世論は、親中国派チベット人による事実を歪曲したプロパガンダを信じ、型どおりの中国非難を行って、中国共産党の非人道的弾圧に苦しむチベット人を見捨てた。
 人民解放軍と親中国派チベット人は、チベット独立を訴える民族主義者や宗教関係者を不法に逮捕し、拷問し、殺害した。
 その数は120万人から200万人とされ、民族浄化政策は今も続き、チベット独立派は今以て弾圧され殺害されている。
 2月 中国共産党は、チベット問題の最終解決として、「チベットを人民の手に解放する」事を大義として法王ダライ・ラマ14世の暗殺指令を出した。
 人民解放軍は、法王を暗殺する為に駐屯地で観劇に計画して招待状を送り、混乱をさせる為に「護衛なしで来るように」と条件を付けた。
 3月10日 政府内の親中国派は、中国共産党との平和共存を望み、人民解放軍の指示に従って観劇に参加する事を熱望した。
 在野の民族派や宗教関係者は、法王が拉致され危害を加えられ恐れがあるとして猛反対し、中国人民解放軍に対してチベットから立ち去れと騒ぎ、法王の居住するノルブリンカ宮殿を取り巻いて民衆の壁を築いた。
 人民解放軍は、盛り上がる反中国民族運動を暴動と決めつけ、暴動鎮圧を名目として軍隊を集結させた。
 3月12日 独立派は、ラサの街頭でチベットの独立を宣言し、通りにバリケードを築き、中国軍との衝突に備えてラサ内外の拠点を要塞化し始めた。
 独立派は、諸外国の支援を要請する為に、インドの領事などに対して支持を嘆願した。
 3月15日 ダライ・ラマ14世は、ラサ市からの避難準備を始め、ラサ市からの避難経路を確保する為に叛乱部隊を派遣した。
 3月17日 ダライ・ラマ14世は、中国軍の砲弾2発が宮殿の近くに着弾した為に、インドに亡命し、チベット亡命政府を樹立した。
 3月17日夜 ダライ・ラマ法王は、武力衝突を避ける為に、宮殿を脱出してインドとの国境近くにあるロカに逃げた。
 約30万人のチベット人が、ダライ・ラマ14世が中国軍の魔の手から守る為に宮殿を取り囲んだ。
 3月19日 中国軍は、ノルブリンカやラサにある宮殿やラサの三大寺院であるサラ寺、ガンデン寺、デプン寺を砲撃し、それらの周囲で野営していた数多くのチベット人を虐殺した。
 叛乱部隊は、2日間、市内外の各所で抵抗したが排除され、捕らえられた者は全て公開で処刑された。
 ラサ市周辺の僧院や寺院は略奪もしくは破壊され、何千ものチベットの僧侶は処刑されるか逮捕された。
 チベット蜂起で、8万6,000人が虐殺された。
 3月19日 チベット蜂起。人民解放軍は、「チベット解放」を大義として、ノルブリンカ宮殿への一斉砲撃を開始した。
 砲撃は、41時間行われ、宮殿は完全破壊され、宮殿内にいた民族派全員を皆殺しにした。
 チベット自治区の中心都市ラサで、反中国・反共産主義の民衆暴動が勃発した。
 中国軍は、チベットの村や僧院に対して制裁攻撃を加え、反乱するゲリラ部隊を屈服させる為に「ポタラ宮ダライ・ラマ14世を爆撃する」と脅した。
 ラサ蜂起では、三日間で1万〜1万5,000人のラサ市民が中国軍によって殺害された。
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 反宗教無神論中国共産党は、「チベット人民を宗教的束縛から完全解放する」として、6,000以上のチベッド寺院を焼き払って完全破壊し、数多くの僧侶や尼僧や熱心な信者、反中国派民族主義者を人民の敵として虐殺した。
 中国共産党は、民族が得意とする歴史の改竄や捏造や歪曲で、「中国=正義、チベット民族派=悪」と「チベットは中国の一部」を世界に宣伝した。
 漢族の本質は「保身」で、自分で冷静に真実を見極めて判断し行動するのではなく、権力者や指導者の「ウソ」や「デマ」を信じ命じられた事を忠実に実行する。
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 反宗教無神論共産主義者は、宗教的指導者のダライ・ラマ14世を人民から搾取する専制君主であると断定し、人民の正義を狂信的民族主義から守る為に排除する事を決めた。
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 国際法律家委員会(ICJ)は、中国人によるジェノサイド目撃談を集めて『チベット中華人民共和国』というレポートにまとめた。
 「穴には泥が入れられ、泥は男が死ぬまで次々に押し込まれた。男の顔から眼球が飛び出すと、中国人はその眼球を切り取った」
 「僧侶が殴り殺される様子を目にした。僧侶達は糞を食わされ、尿を飲む様に強制され、人々はその様子を見る様に強要された」
 その残虐行為は、日本軍が中国人民に行ったという戦争犯罪に酷似していた。
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 1962年3月(〜59年3月) 中央チベットで、9万3,000人が虐殺された。
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 1963年 アムド地方ゴロク地区(中国の区分で青海省果洛州)では、56年には13万人いたチベット人は6万人に激減した。
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 中国に忠誠を誓う親中国派は優遇されたが、民族主義で抵抗する反中国派は皆殺しにした。
 弾圧は徹底して行われ、反中国派の家族は女子供、乳飲み子さえ容赦なく惨殺した。
 それが、儒教的支配である。
 刃向かう者は極悪人で、その血を受け継ぐ者も悪人とされ、殺した後も悪人とされ霊魂を滑翔した。
 儒教は、如何なる宗教も否定する。
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 1966年 文化大革命紅衛兵は、ラサに進駐し、信仰や文化を殲滅させる為に全ての宗教施設を破壊した。
 儒教による中華思想に基づき、中国文化以外の少数民族の文化や宗教は徹底して破壊された。
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 中国共産党は、柔やかに楽しんでチベット人を女子供に関係なく200万人以上を虐殺した。
 中国人兵士は、非漢族は人間とは認めず、チベット人女性を強姦して殺害し、子供は岩に叩き付けて殺害した。
 中国人は、喜んで、猟奇的惨殺を行った。
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 1951年から83年にかけて
 抵抗して虐殺された者、43万2,000人、
 餓死した者、34万3,000人、
 獄死した者、17万3,000人、
 拷問で惨殺された者、9万3,000人、
 処刑された者、15万7,000人、
 自殺した者、9,000人、
 合計120万7,000人が中国共産党人民解放軍によって殺された。
 1982年当時の中国国内におけるチベット人総人口は約387万人で、総人口の約3分の1が中国人(漢族)によって弾圧された。  
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 2006年 中国共産党政府は、チベットの地下資源を開発する為に、邪魔なチベット人の排除に乗り出した。
 「社会主義新農村建設計画」という偽装計画を発表して、伝統的遊牧生活をしていた200万人以上のチベット人に、僅かな金を与え不毛の大地に開墾した農村に強制移住させた。
 中国共産党の狙いは、少数民族チベット人の死滅であったがゆえに、如何なる非人道的な蛮行を行っても気にはしなかった。
 中国経済の発展は、全ての事に優先され、少数民族の生命財産の保護どころか民族存続さえも無価値として無視した。
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 2008年3月 チベット人は、行動を起こさず中国共産党民族浄化政策に従っては民族は死滅し宗教や文化は消滅するとの危機感から、北京オリンピック開催を利用して世界にアピールするべく、ラサでデモ行進を行った。
 中国共産党政府は、北京オリンピック開催を国際的地位を上げる為に利用すべく、開催に抗議するチベット人らを弾圧した。
 武装警察や人民解放軍は、武力で、ラサや山西省青海省などでのチベット人暴動を武力鎮圧し、数千人のチベット人を虐殺した。
 中国共産党政府は、チベット人暴徒数十人が死亡したとの嘘を発表した。
 世界中のチベット人は、虐殺的鎮圧に抗議して行動を起こした。
 日本政府は、中国貿易に悪影響が出る事を恐れ、内政不干渉の原則を盾にしてチベット人独立運動に冷淡であった。
 親中国派日本人は、チベット人の悲痛な声より、中国共産党政府の公式発表を無条件で受け入れた。 
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 世界第二位の経済力を持つ中国共産党政府は、中国支持を拡大する為に各国に大金をばらまいている。
 2012年5月 イギリス首相デービッド・キャメロンは、中国共産党政府の警告を無視して、入国したダライ・ラマ14世と会談した。
 中国共産党政府は、中国が不快と思う人物とあった事に対する抗議として、中国人要人の訪英を全て中止した。
 両国関係は悪化し、対中貿易に支障をきたして、イギリス経済界は悲鳴を上げた。
 イギリス政府は、1年をかけて中国共産党政府との関係修復を行った。
 ウィリアム・ヘイグ外相「チベットの問題は慎重に扱うべきだという事を重々承知している。中国の懸念に敬意を払いながら適切に対応する」
 イギリスは、経済の為に、チベットより中国共産党政府を選んだ。
 2014年5月 ノルウェー政府は、ダライ・ラマ14世の入国を認めたが、政府高官は中国共産党政府の顔色を伺って面会を拒否した。
 9月上旬 南アフリカ政府は、中国共産党政府からの経済投資を拡大する為に、ダライ・ラマ14世を「招かれざる客」として入国ビザの発給を拒否した。
 エルナ・ソルベルグ首相「中国政府が会うなと言ったわけではない。ただ私達は、もし彼と会えばもっと長く『冷凍庫』に入れたままになる事を知っている」
 中国との経済関係を深め貿易量を増やし大金を稼ぎたいと希望する国々は、中国共産党政府が不快に思う人物を入国させないか、入国させても政府高官や経済人は面会を拒絶した。
 人間社会はもとより国際関係においても、一文にならない信義や恩義よりも一銭でも多い取引する事をする方を選ぶ。
 誰しも、人間としての信念としてババを引いて貧困に苦しむよりも、悪魔と組んで世界の大金を手に入れて幸せに過ごしたいと考える。
 チベットは追い詰められ、世界各地で多くの友人を失い始めている。
 だが。その非情で無慈悲な現実こそが、人類史、世界史の実態である。
 中国共産党政府は、「戦わずして勝つ」という『孫子』の戦略で相手を追い詰めて亡ぼす。
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 中国共産党政府には、自然保護や環境保全という考えはなく、他人が生きようと死のうと一切興味がなかった為に、大量の核廃棄物をチベット高原に捨てている。



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