・ ・ ・
関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
中国共産党〝暗黒残虐史〟
中国共産党は、人類史のかでも断トツの血に飢えた殺人集団である。
・ ・ ・
歴史が理解できない現代日本人。
現代の日本人は、昔の日本人に比べて民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力が乏しい為に現実に起きていた事実が理解できない。
・ ・ ・
2021年6月26日21:56 産経新聞「中国、党創建100年で最終準備統治の歴史 中国共産党は創建100周年の記念日となる7月1日を目前に控え、祝賀行事を準備。厳戒態勢が敷かれた=26日、北京(ロイター)
中国共産党は26日、創建100周年の記念日となる7月1日を目前に控え、祝賀行事の最終準備を北京市内で進めた。天安門広場を中心に統治の歴史を誇示するモニュメントが出現する一方、予行演習は非公開で市中心部の道路が封鎖され、厳戒態勢が敷かれた。
天安門広場では大きな党のシンボルマークを背にぎっしりと観覧席が並べられ、祝賀行事の盛大さをうかがわせた。
天安門前を通る長安街沿いにも、革命を戦った兵士や党が創建された「1921年」を表現した展示物が置かれ、午前中は写真を撮る市民の姿が多く見られた。
午後になると、広場周辺の広い範囲が通行止めとなった。街中には保安要員が目立った。習近平指導部は国威発揚の祝賀行事に向け、入念に準備。22日には、2008年の北京五輪のメインスタジアム「鳥の巣」の上空で大がかりな花火を打ち上げた。(共同)」
・ ・ ・
6月27日05:00 MicrosoftNews 読売新聞「[中国共産党100年]きしむ大国<1>チベット族「死ぬ自由もない」…監視カメラの死角で礼拝
甘粛省のチベット族居住地域にある学校で、「普通話を話そう」と漢字で書かれた横断幕(6月上旬)© 読売新聞 甘粛省のチベット族居住地域にある学校で、「普通話を話そう」と漢字で書かれた横断幕(6月上旬)
■習政権、少数民族の同化加速
中国共産党は7月、創設100年の節目を迎える。一党支配のもとで米国の覇権に挑むまでになった強権国家は、国内外で様々な摩擦やひずみを生んでいる。きしむ大国の今を報告する。
首都北京から西に約1700キロ・メートル離れた甘粛省のチベット族居住地域。山あいのチベット仏教寺院で、チベット族の女性13人が、電球の光が届かない暗い一角を見つめ、涙ぐみながら一心に手を合わせていた。
女性らの視線の先にあるのは、公安当局が所持することすら禁じている、チベット仏教最高指導者ダライ・ラマ14世の肖像写真だ。この一角は当局が天井の四隅に設置した監視カメラのちょうど死角になる位置なのだという。
えんじ色の法衣を着た50代の男性僧侶が監視カメラを気にしながら、胸に手を当てて小声で言った。
「危険なのは承知している。それでも信仰は守り抜きたい。ダライ・ラマは心の中にいるのだから」
チベット仏教寺院は2014年時点で全国3600か所。人口約630万人のチベット族の間では、活仏としてのダライ・ラマへの信仰は今なおあつい。共産党にとって、これほど敬愛を集めるシンボルは、国の分離・独立につながるリスクにほかならない。ダライ・ラマは「分裂主義者」と決めつけられ、信仰の抑圧が進んできた。
党の指導を信仰に優先させる「宗教の中国化」を掲げる習近平(シージンピン)政権下で、チベット族居住地域の街頭や寺院には「監視カメラが増え、締め付けは厳しさを増した」(チベット族男性)という。当局者が住居を捜索し、ダライ・ラマの写真を隠し持つ人を見つけ、見せしめで処罰するケースも多い。
この集落近くでは、コンクリートの壁に「中華民族の共同体意識を強固にしよう」と習国家主席の政治スローガンが大書されていた。チベット族が通う民族学校の校門には「普通話(標準中国語)を話そう」と呼びかける横断幕があった。
チベット自治区ラサで大規模暴動が起きた08年以降、「母語(チベット語)が主、普通話が従」だった言語教育は「普通話が主」に改められた。ウイグル語を母語とし、イスラム教を信仰するウイグル族も含め、少数民族を「中華民族」の名の下で多数派の漢族に同化させる動きが進む。
「私たちには死ぬ自由もない」と嘆くチベット族女性もいた。チベット族居住地域で数年前まで、強権統治への抗議として焼身自殺が相次いだが、少数民族政策の成果を強調する当局はそれも許さない。ハイテクを駆使した監視が進む今では、「自殺しようとガソリンを買ったら、すぐに把握される」という。
共産党政権は少数民族の「自治」を掲げ、憲法は「信仰の自由」をうたう。だが、分裂を何よりも許さない一党支配下で、それらは有名無実化するばかりだ。〈7面に続く〉
◆ダライ・ラマ14世=1935年、中国青海省で生まれ、故13世の生まれ変わりとして4歳で即位した。チベット族が中国軍と衝突した59年のチベット動乱をきっかけにインドへ逃れ、ダラムサラに亡命政権を樹立。非暴力による平和解決を求め続け、89年にノーベル平和賞を受賞した。」
・ ・ ・