☭22」─1・A─ヤルタ密約は北海道東部をソ連領と認めた。看護婦集団自決事件。日本領南樺太真岡郵便電信局自決事件。日本領占守島攻防戦。1945年6月~No.68No.69No.70 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2015年5月19日 ロシア外相セルゲイ・ラブロフ北方領土第二次世界大戦の結果、戦勝国ソ連の領土となった」
 ソ連軍は、軍国日本との約束を破り、日本人の誠意を踏みにじり、逃げ惑う日本人難民(女子供)を大虐殺して北方領土・千島列島・南樺太を日本から強奪した。
 ロシアは、日本に対して、女性や子供の大虐殺を正当行為であったと押し付けた。
 もし、ロシアの主張を認めれば北海道はロシア領となる。
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 ロシア人は、女性や子供を平気で虐殺す恐ろしい人間である。
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 ロシアは、親日でも知日でもなく反日として、日本と友好に話し合う意思はない。
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 日本軍国主義の胎動。
 狂信的民族主義者は、ロシアの侵略から祖国日本を守る為に、軍国主義者となって海外で戦える強力な軍隊をつり、軍国への道へと暴走した。
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 軍国主義国家日本は、ロシアの侵略から祖国日本を守る為に、天皇を中心とした強力な中央集権体制を築いた。
 近代的天皇制度は、ロシアの侵略から日本を守る為の武装した制度であった。
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 軍国日本は、ロシアの侵略に対する積極的自衛戦争を戦っていた。
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 中立国アメリカは、軍国日本と戦うファシスト中国とソ連に軍事物資支援を続けた。
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 1944年12月14日 モスクワで。ハリマン駐ソアメリカ大使は、スターリン満州と日本領の南樺太・千島列島・北方領土の利権を与える約束をした。
 翌日に、極東密約を文書化した。
 国務省は、12月28日にルーズベルトに提出する勧告書をまとめた。
 「北方四島は歴史にも住民の居住実態からも北海道の一部とみなし、ソ連に引き渡す範囲から除くべき」
 ソ連のスパイである国務省特殊政治問題局長アルジャー・ヒスは、北方領土ソ連に与える為に国務省報告書をルーズベルトに渡らないように握りつぶした。
 アルジャー・ヒスを操っていたのは、ソ連赤軍参謀第4部のボリス・バザロフであった。
 ワシントンには、政府高官として数多くのソ連スパイが暗躍し、日本や中国を共産主義化するべく中国共産党を助けていた。
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 1945年6月26日 ソ連は、北海道占領計画を策定し、あわよくば東北の一角までも手に入れようと考えていた。
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 6月27日 ソ連軍最高司令部は、満州及び日本領南樺太・千島列島・北方領土・北海道への領土拡大の為の侵略計画である「対日戦略基本構想」を決定した。
 第一期作戦は、満州占領と南樺太侵攻及び千島列島上陸作戦の準備。
 第二期作戦は、北海道侵略を目指して南樺太及び千島列島・北方領土を占領する。
 必要な部隊を、急いで欧州から極東に輸送する事。
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 スターリンは、昭和天皇と軍国日本が戦争を止めるべく停戦交渉を望んでいる事を知っていたが、トルーマンチャーチルに打ち明けなかった。
 トルーマンアメリカ軍は、昭和天皇と軍国日本が降伏を望んでいる事を、外交暗号電報を傍受し解読して知っていた。
 スターリントルーマンは、昭和天皇と軍国日本の降伏を受け入れて戦争を終わらせる気はなかった。
 スターリンは、日本領である南樺太・千島列島・北方領土・北海道をソ連領にする事を望んでいた。
 そして、日本で暴力的共産主義革命を再演し、昭和天皇を処刑し、天皇制度を廃絶し、反共産主義者を一掃する事を命じた。
 共産主義ソ連・ロシア人は、自由・民主主義のアメリカやイギリスに比べれば血に飢えていた。
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 7月28日 ソ連軍総司令官は、極東の各方面軍に対して、日本侵略の二段階作戦を正式に通達した。
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 8月 大本営は、関東軍ソ連軍との戦力差を勘案して、祖国日本をソ連軍の侵略から死守する事を最優先戦略とした。
 関東軍は、主力部隊を満朝国境の山岳地帯に配置転換を急いだ。 
 ソ連軍に部隊移動を悟られない為に、満ソ国境付近の陣地に新編師団を配置し、満蒙開拓団の南方への退去命令を出さなかった。
 満州開拓団は、「祖国日本をソ連共産主義軍の侵略から守る」という祖国防衛戦略から見捨てられた。
 各陣地に配置された守備隊の兵士の大半が急いで徴兵された兵士で、部隊の装備も十分ではなく、戦闘能力がないのは分かっていた。
 関東軍は、弱兵部隊に陣地の死守を命じた。
 8月7日 スターリンは、原爆投下で軍国日本が降伏すると領土拡大ができなるとして、速やかに参戦して少しでも多く日本領土を強奪するように命じた。
 ソ連軍総司令部は、同日午後、極東の全部隊に対して「8月9日朝の作戦行動開始」を下達した。
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 8月9日午前零時 ソ連軍第一期作戦。ソ連軍150万人。
 ソ連軍は、国際法を無視し有効期限のある日ソ中立条約を破って、3方向から満州国に一斉侵攻した。
 反日派のロシア人兵士、中国人、朝鮮人は、逃げ惑う日本人難民を虐殺し、日本人女性を強姦して殺害した。
 満州の大地は、逃げ惑う日本人避難民の血で染まった。
 惨殺された日本人は、女も子供も身ぐるみ剥がされ放置された。
 日本人の遺体は埋葬される事なく、オオカミや野犬のエサとなった。
 敗戦国の人間は憐れであるが、誰からも同情される事はない。
 ただ、朽ち果て白骨となり、土に埋もれるまで放置された。
 日本人の遺体を懇ろに葬る者は、誰もいない。
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 ソ連は、国際法を踏みにじり、一方的に日ソ中立条約を破って日本を攻撃した。
 ロシア人兵士は、満州樺太で日本人女性を強姦し、日本人女性や子供を大量に虐殺した。
 ロシアの論理は、勝利した者が勝ちであり、敗者は悪として全てを失い、勝者は正義として全てを奪う権利がある、という事である。
 日本の国土も、日本人の命さえも女子供に関係なく、当然の権利として強奪した。
 国際社会は、ソ連及びロシアの勝者は敗者から全てを奪い尽くすという「権利の主張」を黙認した。
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 8月9日 各陣地の日本軍守備隊は、援軍の期待も生還の望みもなく、貧弱な装備で運河の如く押し寄せてくるソ連軍を防ぐ為によく戦い、そして玉砕した。
 残留していた関東軍諸部隊は、全滅を覚悟して、日本人避難民を一人でも逃がし、助ける為に、降伏して捕虜になる事を「恥」として踏みとどまって奮戦し全滅した。
 大杉𥶡治少将(第一方面軍第5軍副参謀長)「満州国という広大な地域に散在する同胞を保護する事は至難な業でありますが、だからといって同胞の保護に任じない軍など、いったいなんの存在理由がありましょう。無用の長物以外のなにものでもない。少なくとも我々第五軍は牡丹江市10万居留民の保護に死力を尽くすべきでしょう。今や勝ち負けよりも、たとい全滅しても数日間この陣地を守り抜き、牡丹江の同胞を避難疎開させなくてはなりません」
 「太陽は夕陽となって沈んでいくが、また明日には朝日となって昇り始める。日本もこのたびは恐らく沈んでいくだろう。だが必ずや日本は朝陽となって再び輝き昇るであろう。君達の死が、祖国日本の再生の礎となる事を信じて、諸君、明日は死んでくれ。皆、頼んだぞ」
 「勝利の望みなき戦いで命を落とせし数多くの兵士達よ、その家族達よ、祖国を恨むな。満州に渡り苦難を強いられた数多くの民達よ、祖国を恨むな。祖国を許せ、大いなる愛を持って祖国を許せ。上官の言葉は天皇陛下のお言葉であると『軍人勅諭』にあったはずだ。ならば俺は今、どうしても一言いわねばならぬ。恐れ多くも天皇陛下のお許しを得ていないが、天皇陛下のお言葉だと思って聞け! 兵達よ、謝って済む事ではないが、私は心から君達に謝りたい。済まなかった。誠に済まなかった。済まなかった」
 大杉少将は、天皇から授かった軍旗を奉焼して、ピストルで自決した。
 万歳突撃隊に志願した40名の兵士は、翌10日に軍司令部が脱出する時間を稼ぐ為に、亡き大杉少将との約束を果たすべく戦車を主力としたソ連軍の大軍に向かって突撃して全滅した。
 関東軍は、祖国防衛の基本戦略として移動したのであって、戦わずに逃げたわけではなかった。
 各陣地を守っていた関東軍守備隊は、同胞を逃がす為に、多勢に無勢で守り切れない事を十分分かっていたが、全滅するまでよく戦っていた。
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 靖国神社は、ロシアの侵略から日本と天皇を守る守護神であった。
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 ロシアに次の敵は、ソ連共産主義勢力であった。
 軍国日本は、天皇制度を守る為に共産主義とも戦った。
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 8月10日 極東ソ連軍総司令部は、満州侵攻が一部で日本軍の残存部隊に激しい抵抗を受けているが全体として予定通り進んでいる事から、南樺太侵攻部隊に対して日本領南樺太への侵略を命じた。
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 8月11日 ソ連南樺太攻略部隊は、第一期作戦として、国境を超え南樺太に侵攻したが古屯を守備する日本軍の予想以上の抵抗を受けて前進が阻まれた。
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 8月12日 麻山虐殺事件。ソ連軍と中国人暴徒は、東安省を避難中の哈達河(はたほ)開拓団を襲撃した。
 日本人避難民達は虐殺や集団自決で、400人以上が死亡した。
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 8月13日 綏芬河(すいふんか)近くで、関東軍の一部は進撃してきたソ連軍機甲部隊と激戦を交わしていた。
 第124師団の一部は、牡丹江に避難してきた日本人居留民約2万人を南に逃がす為に絶望的な戦闘を続けていた。
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 8月14日 日本政府は、本土に於ける食糧及び医薬品と住宅の不足が深刻な状況にあるとして、海外の「居留民はでき得る限り定着の方針を執る」事を決定した。
 外務省は、在外公館宛てに、国内には食糧と住宅の不足が深刻で300万人以上を受け入れる事は不可能であるとの極秘暗号電報を打った。
 海外の日本人は、この時、日本国家から見捨てられた。
 いざとなった時、国家は、軍部以上に国民を助けない。
 アメリカやイギリスは、この暗号電報を傍受し解読していた。
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 8月15日 昭和天皇は、全軍に対して戦闘停止と全ての日本軍将兵に武器を置き降伏するように命じた。
 日本は、戦闘を停止し、武装を放棄し、降伏を受け容れたこの日を終戦日と定めた。
 ソ連は、日本領土を強奪する為に9月2日を終戦日と定め、進撃を続行し、各地で日本軍を攻撃して、日本軍将兵や女子供の日本人避難民を虐殺した。
 ロシア人は、日本人を軍国主義者と決めつけて虐殺していた。
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 8月16日 ソ連樺太攻略部隊は、第二期作戦として塔路に上陸し、南樺太第二の都市である恵須取(えすとる)を攻撃し占領したが、日本軍の猛反撃でそれ以上の進撃が出来なくなってしまった。
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 8月17日明け方 南樺太恵須取町太平地区の太平炭鉱病院の看護婦集団自決事件。
 ソ連軍は、日本領土の南樺太と千島列島及び北方領土への侵略する為に全滅しても惜しくない囚人部隊を送り込んだ。
 犯罪者集団である囚人部隊は、各地で日本人を虐殺や強姦を行い、掠奪と放火を繰り返した。
 白旗を上げて降伏交渉におとずれた日本人を、問答無用に虐殺した。
 看護婦23名は、ソ連軍の攻撃から逃れ、ソ連軍兵士に捕まれば強姦され殺される危険がある為に、睡眠薬を大量に飲んで自殺を図った。
 高橋フミ婦長(33)「申し訳ないけれども、ここで最後の時としましょう」
 青酸カリ出なかった為に、死亡したのは6名であった。
 札幌護国神社内に犠牲となった看護婦6名の慰霊碑があるが、神道方式の神社での慰霊に反対する日本人がいる。
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 午後11時頃 ソ連軍8,000人以上は、日本領千島列島北東端の占守島(しゅむしゅとう)北端の竹田浜に、艦砲射撃の援護の下で不法上陸した。
 ソ連軍千島列島攻略部隊、陸軍8,800人、海軍の艦艇54隻と歩兵一個大隊。
 日本陸軍第91師団約2万3,000人で、占守島守備隊は約8,500人。
 第5方面軍司令官樋口季一郎中将は、陸軍きってのソ連通で、ロシア兵の残虐さを知るだけに、日本国土を守るべく全軍に反撃し侵略軍を撃退するように命じた。
 「宿敵ソ連軍、我に向かって立つ。怒髪天を衝く。断乎反撃に転じ、上陸軍を粉砕せよ」
 占守島守備隊の歩兵第73旅団と戦車第11連隊(連隊長池田末男)は、出撃した。
 池田末男「我々は大詔(たいしょう)を奉じ家郷(かきょう)に帰る日を胸にひたすら終戦業務に努めてきた。しかし、ことここに到った。もはや降魔(ごうま)の剣を振るうほかない」
 ソ連軍は、予想しなかった日本軍の猛反撃で甚大な被害を出して苦戦した。
 第91師団は、占守島と幌莚島の民間人をロシア軍兵士の虐殺から救うべく避難計画を立案し実行した。
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 8月18日 大本営は、全軍に対して戦闘中止を命じた。
 午前2時15分 ソ連軍(8,800人)は、日本領北部千島列島を占領する為に、最北端の占守島に上陸作戦を開始した。
 極東ソ連参謀総長イワノーフは、日本軍が目の前に投降し武装解除するまでは、いかなる休戦協定も応じてはならないと厳命した。
 前線部隊は、白旗を掲げた日本軍の使者を射殺した。
 日本軍占守島守備隊(8,500人)は、上陸してくる連合軍に降伏する為に準備をしていた所を攻撃された。
 幌筵(パラムシル)の第91師団(約1万5,000人)司令部は、攻撃された以上は防衛的軍事行動として、国籍不明の上陸部隊を撃退する様に守備隊に命じ、支援部隊を占守島に急派した。
 北方を守る陸軍第5方面軍の樋口司令官は、第91師団に対して北海道占領の為に南下してくるソ連軍を阻止するように命じた。
 日本人共産主義者は、日本を共産主義化して天皇制度を廃止する為に、昭和天皇の停戦命令を無視する軍部の暴走を非難した。
 ソ連の上陸部隊は、まともな準備時間も与えられず急遽編成された攻撃部隊でまとまりがなかった為に、奇襲上陸にはならず、最初から苦戦を強いられた。
 日本軍守備隊は、圧倒的な兵力でソ連上陸部隊を圧倒していた。
 各島にいた日本人島民は、日本軍守備隊の指示に従って本土の方に避難した。
 この迅速な処置で、千島列島でソ連軍兵士に強姦され殺害された日本人女性は一人もいなかった。
 同じ日本軍は、沖縄などで住民を見殺しにし、足手まといになる民間人避難民に集団自決を強要したとされている。
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 総司令官のワシレフスキー元帥は、北部千島列島侵攻の大義名分を得る為の手段とするべく、急いで上陸部隊への増援を出す意思は乏しかった。
 大本営は、終戦準備を進めている最中での戦闘で驚き、第5方面軍に即時停戦を命ずると共に、マニラのマッカーサー司令部に停戦成立後の攻撃である事を通報した。
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 正午 第5方面軍は、大本営の命令に従って、防衛戦に勝利しかけている第91師団に軍事行動を禁止する命令を出した。
 第91師団は、休戦する使者を出したが、ソ連軍に射撃され引き返して不調に終わった。
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 沢田八衛大尉は、幌莚島に集めた女性従業員約400人らを22隻に分乗させ北海道に向けて、柏原港を出港した。
 高射砲部隊は、港内を空爆しているソ連軍機から避難船団を守った。
 避難船団は、5日後に無事に根室港に到着した。
 日本女性の操を命を捨てて守った彼女らは、大和ナデシコの鏡として靖国神社に祀られた。
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 左翼・左派のマルクス主義者は、ソ連軍・共産主義兵士の蛮行を完全無視するどころか当然の権利であるとして、むしろ共産主義に抵抗した日本軍兵士らを祭神として祀る靖国神社を完全否定している。
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 日本人共産主義者は、同じ日本人とは思えないほど日本人的な感情・情緒を捨てた、目の前で日本人の女性や子供が虐殺されても平然としている冷血漢で、共産主義大義の為ならば如何なる犠牲も惜しまない恐ろしい人間であった。
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 トルーマンは、スターリンの16日修正提案に対する返事を送り、ヤルタ合意に従って全島列島の領有に同意したが、北海道北半分の割譲と東京の分割占領を拒否した。そして、北海道はアメリカ軍が単独占領すると通知した。
 アメリカは、ヤルタ会談で、ソ連軍を対日戦に参戦させる為に日本領である南樺太と全千島列島をソ連領に編入する事を承認していた。
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 日本が分割されなかったのは、蒋介石のお陰ではない。それどころか。中国は、戦勝国の一員としての権利から九州と沖縄の監理を要求していた。
 スターリンは、中国での共産主義革命は時期尚早と判断し、ソ連軍支配地域以外の日本軍に対しては蒋介石の国民党軍に引き渡すように命じた。
 アメリカの反共産主義者は、ソ連軍と中国共産党が手を組み、日本軍の武器弾薬を山分けする事を警戒した。
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 アメリカ軍は、将来の対ソ戦略から、千島列島で航空機が着陸できる島の使用権を要求していた。
 米ソの冷戦は、極東アジアでも始まり、解体した日本の占領で激しいやり取りが行われていた。
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 8月19日 モスクワのハリマン大使は、ソ連中国共産党が協力関係を強化しているのではないかと疑っていた。
 極東軍司令官ワシレフスキー元帥は、ソ連領ジャリコーワに、関東軍総参謀長の秦彦三郎、参謀の瀬島龍三、通訳の宮川船夫を呼び出し即刻降伏を命じた。 
 関東軍は、武装を解除し、小銃一丁から毒ガスに至るまで全ての兵器をソ連軍に引き渡した。
 後日、ソ連軍は毒ガス兵器を含む旧日本軍の兵器全てを中国共産党に譲渡した。
 中国共産党軍は、日本製毒ガス兵器を地中に埋めた。
 現代に至るも、日本軍が製造した毒ガス兵器についての責任は日本にあり、その処理責任も日本にあるとされた。
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 樺太ソ連軍は、国際法を無視して、日本に向かって進撃する為に降伏の軍使を射殺した。
 ソ連軍は、南樺太の真岡に上陸して、引き揚げ船に乗ろうとしていた日本人避難民達に向かって発砲して死傷者を出した。
 南樺太の日本軍守備隊は、降伏の準備を始めていたが、危害を加えられている日本人避難民を保護するべくソ連軍の大軍に対して反撃を開始した。
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 大本営は、第5方面軍司令部に対し、全ての戦闘行動を停止して、ソ連軍との休戦交渉に入る事を命じた。
 真岡の日本軍守備隊は、ソ連の大軍に町を占領され、これ以上の抵抗は日本人避難民に被害を出すだけであると判断して停戦交渉の使者を出した。
 ソ連軍は、敗北者に国際法は通用しないとし、白旗を掲げた日本軍の使者を射殺して、逃げ惑う日本人避難民に襲いかかった。
 ソ連軍・共産主義兵士は、中国軍兵士同様に、敵対する者すべてを偉大なる共産主義革命の敵であると宣言し、各地で日本人避難民を見付けるや強姦と殺戮と略奪を繰り返していた。
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 一部のエリート高級将校は、極秘作戦として、日本帝国の再建の為に多くの軍民を満州に在留させる事と、ソ連軍の進撃を阻止せず朝鮮海峡まで進出させる事を、指示した。
 徹底抗戦派は、資本主義のアメリカと共産主義ソ連はしょせん水と油である以上、何時かは雌雄を決して戦う運命にあると分析していた。
 日本は、今はアメリカを中心とした連合軍に敗北しても、次なる大戦ではソ連に組みして復讐戦を仕掛け、勝利を得るとの戦略を練った。
 その為に、アメリカの進駐を最小限に食い止め、ソ連の勢力圏を日本の近くまで拡大させるか、可能な限り日本領土をソ連領にする必要があると判断した。
 革新官僚大政翼賛会マルクス主義派知識人は、反米軍事同盟の証しとして、天皇と皇室を満州に移しソ連の保護下に置く計画を練っていた。彼等の目的は、日本をソ連軍の支配下に置き、日本を共産主義化する事であった。
 反米英の徹底抗戦派や革新官僚大政翼賛会内の隠れマルクス主義者は、アメリカ軍の占領に対抗する為に、ソ連軍を日本近海に進駐させようとしていた。
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 札幌の第5方面軍が、南樺太の全部隊に降伏を命じたのは、8月26日であった。
 もし。8月15日に全ての日本軍が無条件降伏して武装解除したら、ソ連軍は北海道はおろか東北の一部まで軍事占領した事であろう。
 そして、それらの地域は共産主義による死と恐怖に支配され、数十万人が反共産主義分子として虐殺された事であろう。
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 ロシア人兵士は、樺太で約10万人を虐殺した。
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 8月22日正午 関東軍は、ソ連軍と終戦調印を終え、全軍に戦闘中止を命じた。
 同日午後3時頃 ソ連軍機3機は、南樺太豊原市に飛来してた。
 ソ連機は、駅前で日本への帰還を待つ大勢の日本人帰還者を攻撃して、爆弾を投下し、機銃掃射を加え数百人を殺傷した。
 南樺太の日本軍は島内4ヵ所で、上陸してきたソ連軍に停戦交渉を行いべく軍使を派遣した。
 ソ連軍は、南樺太を手に入れる為に軍使全員を射殺し、日本軍は徹底抗戦の為に停戦交渉を拒否したと言う理由で日本領南樺太へ侵攻した。 
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 真岡郵便電信局集団自決事件。
 ソ連軍は、第三期作戦として、日本領南樺太を北海道侵攻の基地にするべく、樺太南部の真岡に上陸した。
 停戦交渉に赴いた日本人将兵は、ソ連兵から「武器を置け」と指示されて戦意がない事を示す為に従うが、全員射殺された。
 ソ連軍は、真岡を攻撃した。
 ロシア人兵士達は、抵抗する兵士や逃げ惑う一般市民を虐殺し、日本人女性を強姦して殺した。
 南樺太真岡郵便電信局事件。真岡郵便局の電話交換手9名の日本人女性は、日本人島民が避難する為に残留し、ソ連軍が接近した所で青酸カリを飲んで集団自決した。
 同局ではたにも自決者がいて、総計19人に達した。
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 集団自決の犠牲は、沖縄だけではなかった。
 だが。現代日本では、南の悲劇をとりあげても、北の悲惨な集団自決を誰も気をとめようとはしない。
 切り捨てた現代の日本人は、薄情である。
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 ロシア人兵士に捕まった女性は例外なく強姦され、中には抵抗して殺害された。
 強姦されるままに身を任せた女性のみが助かって帰国できたが、戦後の混乱した中での出来事で「やむを得ない」事といえた。
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 A級戦犯東条英機が発表した戦陣訓「生きて虜囚の辱めを受けず」は、ロシア人兵士や中国人・朝鮮人に対しては正しかった。
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 戦前日本が信じた「俘虜は恥」とは、降伏した人の人権が踏みにじられ、敗北者の命の尊厳が無視される事を知っていたからといえる。
 共産主義者による同様な悲劇は、ソ連軍に占領地された日本やドイツなどで起きていた。
 だが、戦後日本は、命こそ大事として、自決は愚かな野蛮行為と否定している。
 つまり、強姦され、何をされようとも、命を大事にして生き抜くべきであると。
 日本の共産主義者や平和主義者は、天皇と国家を守ろうとした1,000人以上の民族主義者を戦争犯罪人として告発し、共産主義者ユダヤ人と協力して全ての反共産主義者を公職から追放した。
 都市部の革新勢力は、天皇を擁護する反共産主義発言を好戦的であるとして弾圧し、皇室崇拝の根強い農村を迷信を信ずる頑迷な天皇教徒と軽蔑した。
 彼らは、他国の共産主義者同様に、ソ連から活動資金を与えられ、事細かな指示を受けていた。
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 2015年11月8日 産経ニュース「【満州化物語(10)】娘の首に刀を…「ごめんね、母さんもすぐに逝くからね」 ソ連軍に蹂躙された「葛根廟事件」
 今夏、葛根廟事件の現場を再訪した大島満吉さん(田上龍一氏撮影)
 世界遺産にふさわしい
 日本人として決して忘れてはならない歴史の事実がある。例えば、先の大戦ソ連(当時)がわが国に対してやったことだ。
 昭和20(1945)年8月9日、日ソ中立条約を一方的に破棄して旧満州、千島・樺太へと侵攻してきたソ連軍は、日本の民間人に対して殺戮(さつりく)、略奪、レイプの非道極まりない行為を容赦なく繰り返した。
 領土的野心を剥(む)きだしにしたソ連軍は8月15日以降もひとり戦闘行為を止めない。ポツダム宣言に背き約60万人の日本人をシベリアへ連れ去り、酷寒の地でろくな食事も与えず、重労働を強制し、約6万人を死に至らしめた。人権への配慮などかけらもない所業。「世界遺産」として、人類の記憶にとどめておくのに、これほどふさわしいものはないではないか。
 それだけではない。8月22日、樺太から北海道への避難民を満載した小笠原丸など3隻が留萌沖で国籍を秘した潜水艦の攻撃を受け、約1700人が犠牲になった。ほとんどが女性や子供、お年寄り。日本の船は民間船であることを明示していた。魚雷攻撃で冷たい海に投げ出され、波間に漂う人たちを、あざ笑うかのように機銃掃射でとどめを刺したのである。
 何度も死を覚悟
 満州の北西部を貫く大興安嶺の山脈と広大な草原。満州国時代、モンゴル(蒙古)人が多いこの地域に、興安総省が設けられ、総省公署(役所)が置かれたのが、「興安街(こうあんがい)」(現中国・内モンゴル自治区ウランホト)であった。
 終戦時の在留邦人は約4000人(周辺地域を含む)。8月14日、このうち約1000人の民間人が興安の南東約40キロのラマ寺院、葛根廟(かっこんびょう)近くでソ連軍の戦車十数両に蹂躙(じゅうりん)されて虐殺。あるいは絶望しての自決によって亡くなった。助かったのはわずか百十数人。親を殺された30人あまりは残留孤児となった。「葛根廟事件」である。
 大島満吉(79)はそこで生き地獄を見た。何度「死」を覚悟したか分からない。当時、国民学校(小学校)4年生。両親と兄、弟、妹の6人家族で、興安街から徒歩で南へ向かって避難する途中だった。
 14日正午近く、真夏のギラギラとした陽ざしが照りつけていたのを覚えている。「戦車だっ!」。避難民の隊列の戦闘付近にいた満吉は、後方から叫び声を聞く。くもの子を散らすように逃げ出した避難民の後から、轟音(ごうおん)を響かせて追いかけてくるソ連軍の戦車群が見えた。
 「キャー、逃げろ!」。ドーン、ドカーン…日本人の悲鳴をかき消すように戦車砲が炸裂(さくれつ)する。地鳴りのようなキャタピラの音。ダダダっ…機銃や自動小銃の発射音が鳴り止まない。母らと一緒に近くの壕(ごう=自然にできた大きな亀裂)の中へ飛び込んだ満吉は銃を持った人影を見た。
 「日本兵が助けにきてくれたのかと思ったら、ソ連兵だったのです。私の背中のすぐ後ろで、日本人に向けていきなりダダダっと自動小銃を発射しました。ギャーという悲鳴、ブスブスっと銃弾が体に食い込む音…あっという間に30人ぐらいが殺されました」 
 悲しき最後の晩さん
 終戦間際、満州では南方へ転身していた関東軍の兵力を穴埋めするために、一般の多くの成人男子が「根こそぎ動員」で軍隊に召集されていた。葛根廟事件に遭遇したのはほとんどが、女性や子供、お年寄りである。武器はわずかな成人男子が小銃などを持っていただけ。その“弱者集団”を戦車が虫ケラのように踏みつぶし、砲や自動小銃で撃ち殺したのだ。
 絶望した避難民は、青酸カリをあおったり、互いに短刀を胸に突き刺したり、わが子の首をヒモで絞めて自決する人たちが相次ぐ。壕の中には母親と満吉、6歳の弟と2歳の妹…。覚悟を決めた母親は妹の首にいきなり刀を突き立てた。「ごめんね、母さんもすぐに逝(い)くからね」。鮮血があふれ、妹は声も出さずに死んでいった。泣きながら小さな顔に頬ずりをして、手を合わせた母の姿が忘れられない。
 国民学校の校長先生の子供たちがいた。両親はすでに亡い。ひとつ年上の長女から声を掛けられた。
 「『最後の晩さん』をしましょう、って。荷物の中にあったそうめんや角砂糖を出してきて一緒に食べました。味なんかしなかった。ああこの世の別れなんだ。『死にたくない』って思いましたけれど…」
 満吉の前に十数人の列ができていた。日本刀を持った在郷軍人に刺し殺してもらうのを順番に待っているのだ。 
 そのとき、離ればなれになっていた父親とひとつ上の兄が突然、壕に姿を見せる。「お前たち、生きてたのか! 随分、探したんだぞ。さあ立て、こんなところで死ぬことはない」。父親の大声が響いた。
 だが、母は動こうとしない。「あたしは行けないよ。(娘が死んだ)ここに一緒に残るんだ」。父親は母の体を引きずるようにして無理やり立たせた。「終わったことは仕方がない。さあ逃げるんだっ」。
 生涯消えない記憶 
 大島一家は、葛根廟から新京(現・中国長春)へと逃れ、妹を除く家族5人が奇跡的に助かった。
 だが、極限の状況の中で自分の子を手に掛けねばならなかった母の悲しみ、苦しみは生涯消えることはない。戦後、満吉は9回、現地を再訪したが、生前の母は決してその地を訪れようとはしなかった。
 「最後の晩さん」をともにした校長先生の長女はその後、病死。4人兄弟のうち、ひとりだけが、残留孤児になって来日を果たしている。国民学校270人の児童のうち、実に約200人が亡くなった。
 同じ興安街の住人、同じ国民学校の児童でありながら、1日の遅れ、いやわずか1時間の差が彼らの生死を分けてしまう。
 あまりにも残酷な運命を戦後遅くなって知った人もいる。葛根廟事件は、助かった者にも「重い十字架」を背負わせた。それは次回に書く。
 =敬称略、隔週掲載
(文化部編集委員 喜多由浩)」


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