☭40』41』─1─三船殉難事件。ソ連(ロシア)の非人道的戦争犯罪。日本は遭難したロシア・タンカー「ナホトカ号」を救助した。1945年8月21日~No.78No.79No.80No.81No.81 @  

 旧題名、「ホロコーストに関して、天皇A級戦犯に幇助罪が成立するのか?」第3代目
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 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。 ↗ 
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 国内での戦場は、沖縄だけではなかった。
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 共産主義ほど、血に飢えた凶悪なイデオロギーはなかった。
 ファシズムやナチズムは、戦争犯罪として周辺諸国を侵略し、非人道的犯罪を自国と占領地で行った。
 共産主義は、暴力的共産主義革命を世界中に輸出し、共産主義化した国で死と暴力の恐怖支配を行い、不当逮捕、拷問、人民裁判で大虐殺を実行した。
 イタリア・ファシズムとドイツ・ナチズムは数百万人を殺したが、ロシアと中国共産党共産主義は数千万人を虐殺した。
 非人道的犯罪としては五十歩百歩で、残虐な犯罪者としても同じ穴の狢(むじな)である。 
 ムッソリーニヒトラースターリン毛沢東は、同罪である。
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 反戦平和市民団体は、正しい戦争を認めず、如何なる理由があろうとも全ての戦争に反対している。
 非暴力無抵抗で、武器を捨てて降伏すべきであると。
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 何故?
 日本人共産主義者は、目の前で起きていたソ連軍による日本人避難民への残虐行為を無視したのか。
 反天皇反日的日本人は、日本を裏切って敵の味方をしていたのか。
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 ソ連共産主義者・ロシア人は、国際法を無視し、国家の信義を踏みにじり、日本領を侵略し、日本人を虐殺した。
 そして、日本人女性がロシア人兵士に強姦され、中には虐殺された。
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 スターリン「日本の言い分を聞いてやればいい。いったん占領して武装解除してしまえば何とでもできる」
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 ソ連は、国際法を無視して日本領北方領土や北海道を強奪する為に軍隊を派遣した。
 隠れマルクス主義者は、敗戦革命として、日本を反宗教無神論社会主義国家にする為に天皇制度を打倒しようとしていた。
 彼らが目指す人民国家とは、国境に閉ざされた国家ではなかった。
 日本が理想国家になる為なら、北方領土はもちろん北海道や対馬ソ連に占領されるのもやむを得ないと考えていた。
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 樋口季一郎「日本の歴史家は、あの戦争の負け戦ばかりを伝えている。しかし、中には占守島の戦いのような勝ち戦もあっらし、だからこそ今の日本や形が守られている。負け戦を語る事も大事だが、その一方で、重要な勝ち戦があった事について、しっかりと語り継いでほしい」
 某兵士「戦争に対する怨みはある。ただ、私達は日本人としての誇りを持って戦い、自分達の国を守った自負もある」 
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 日本の本当の敵は、ロシア・ソ連であった。
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 アントーノフ総参謀長は、ワシレフスキー元帥に、8月23日迄に北海道侵攻作戦の準備を完了させる様に厳命した。
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 日本人軍国主義者は、無報酬で命の危険を承知で残虐なロシア赤軍からロシア人難民児童800人を救出し、シベリヤから太平洋を横断してバルト海沿岸まで送り届けた。
 日本軍部は、ロシア赤軍によって虐殺される危険のあるロシア人の政治難民と戦争難民を救出して日本に受け入れた。
 軍国日本は、難民を受け入れた国家の責任として、本人が希望する国や地域に無事に送り届けた。
 其れは。後の、ナチス・ドイツの迫害から逃げて来たユダヤ人難民保護同様に人種や民族及び宗教などでの差別を一切せず、「おもてなし」の精神で、無報酬で行われた。
 ロシア人兵士は、その返礼として感謝の言葉の代わりに日本人避難民(大半が女や子供達)を大量虐殺した。
 ロシアは、日本人軍国主義者は根絶させるべき凶悪犯罪である断定し、ロシア人兵士による日本人虐殺問題は北方領土問題同様にすでに解決していると主張している。
 尖閣諸島問題を抱える中国共産党政府と竹島問題を抱える韓国は、同じ反日国家として、ロシアの主張を支持している。
 古代から日本は、日本天皇の御稜威・大御心を慮り、独自の判断で、諸外国の難民を無条件で受け入れ保護してきた。
 だが。そうした人道的貢献に対する感謝の言葉がないどころか、仇として返される事がほとんどであった。
 例外なのが、トルコとポーランドだけである。
 最も酷いのが、ロシアであった。
 そして、世界は軍国日本が犠牲を払って行った「人道的貢献」を一切認めず、日本人軍国主義者の「人助け」を否定している。
 靖国神社問題は、そこにある。
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 ロシアは、対日戦争の終結日を8月15日ではなく9月2日と定めている。
 9月2日に、対日戦勝記念行事を盛大に祝う。
 そして、北方領土問題は解決済みとして、旧日本領南樺太及び千島列島同様に北方領土は自国領だと宣言している。
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 日本国内には、歴史的事実を十分に知りながら、反日国家のロシア、中国共産党政府、韓国の主張を支持する反天皇反日的日本人が存在する。
 反天皇反日的日本人は、同じ日本人の生命財産や諸権利よりも反日国家のロシア、中国共産党政府、韓国の国民の権利を優先している。
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 反日国家であるソ連及びロシア、中国共産党政府、韓国及び北朝鮮の諸国に共通する点は、日本の権利を否定するように国際法を守らず、自国の国益に都合が良く日本に不利になるようにねじ曲げる事である。
 靖国神社を否定する彼らに、友情を期待する事は無意味である。
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 日本軍の北方での攻防戦は正しい戦争であり、正義は日本軍にあった。
 戦死した日本将兵は、靖国神社の祭神として祀られている。
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 日本人共産主義者は、日本を共産主義化し天皇制度を廃絶する為に北方領土はもとより北海道がソ連領になる事を歓迎していた。
 さらに。あわよくば、アメリカ軍が日本に進駐する前に、ソ連軍が日本を占領する事を期待していた。
 彼の宿願は、天皇制度から日本を解放し、ソ連中国共産党政権下のような人民の楽園を築く事であった。
 つまり。共産党一党独裁による暴力と死の恐怖体制を成立させ、反対勢力を一人残らず一掃(虐殺)する事であった。
 ソ連軍が日本を侵略し、北海道を占領するには、日本人協力者の手引きがなければ不可能であり、ソ連軍が北海道進攻作戦を準備していたという事は日本人協力者がいた事を意味する。
 ソ連協力者である反天皇反日的日本人や反日朝鮮人は、戦後の混乱に乗じ各地で騒乱、暴動そして殺人事件を引き起こしていた。
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 少人数の日本軍は、日本人避難民が祖国日本に生きて辿り着けるように、雲霞のような大軍で攻撃してくるソ連軍に無駄な抵抗を続けていた。
 日本軍はよく戦っていた。
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 8月21日 大本営は、大陸命第1383号で、自衛を含む全ての戦闘行為を停止す様に命じた。
 第91師団とソ連上陸部隊の間で、休戦協定が結ばれた。
 被害数、日本軍守備隊約600人、ソ連軍約3,000人。
 ソ連側の報告。日本軍守備隊の死傷者1,018人、ソ連上陸部隊の死傷者1,567人。
 全滅を覚悟した日本軍守備隊の奮闘により、北海道はソ連領になる事なく守られた。
 各島の日本軍守備隊は、天皇の停戦命令を無視して、侵略して来るソ連軍から在留邦人の命を守る為に抵抗を続けていた。
 東京の陸軍中央は、現地軍に対して「停戦」し、侵攻して来るソ連軍に抵抗するなと命じた。
 ウラジオストックアメリカ海軍武官は、ワシントンに、「ソ連は北海道と南樺太へ軍を上陸させる事を計画している」と報告した。
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 トルーマンは、南樺太と千島列島の占領を認めたが、軍当局の要請に従って千島列島に空軍・海軍の基地を設けたいと伝えた。
 スターリンは、協定違反であるとして拒否し、北海道北部の軍事占領を要求した。
 トルーマンは、日本の分割支配案を拒否し、北海道はアメリカ軍が占領すると通知した。そして、スターリンの日本占領に参加させよとの要求を断った。
 スターリンは、ラジオ放送で南樺太と千島列島のソ連領に編入を宣言し、ソ連軍に大連と旅順の占領を厳命した。
 自由と民主主義を世界に広げたいと思う理想主義者は、監視を強化する警察国家を世界に蔓延させようとするソ連共産主義勢力を撲滅しようとして、「ソ連脅威論」を唱えた。
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 日本が分割されなかったのは、蒋介石のお陰ではない。
 それどころか、戦勝国の一員として九州と沖縄の監理を要求していた。
 日本は、中国に感謝する必要はないし、昭和天皇を殺そうとした中国共産党に恩義を感じる必要なない。
 左翼・左派のマルクス主義者日本人は、この事実を知りながら、日本は侵略戦争を行った凶悪犯罪である以上、中国人が許してくれるまで土下座をして謝り続ける責任があると訴えている。
 彼等は、キリスト教徒日本人同様に全ての事を知っている。
 ソ連軍は、ルーズベルトとの日本分割案に従って、北海道を含む東半分を領土としようとした。
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 8月22日 スターリンは、日本軍の思わぬ抵抗でアメリカ軍の日本進駐より先に北海道に到達できないと判断して、北海道上陸作戦の中止を下命した。
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 日本領樺太・千島列島・北方領土には、日本人が約38万人が生活していた。
 その内に、日本国籍を持っていた朝鮮人4万3,000人が含まれていたが、その多くが高賃金を求めて自由意志で移り住んだために正確な人数は不明である。
 ソ連は、アメリカとの間で交わした日本人引き上げ協定にしたがい、引き上げ対象を日本人だけに限定し朝鮮人は労働者として帰国を求めなかった。
 戦時徴用で連れられて来た朝鮮人達は日本人に化けて帰国したが、自由意志で渡って来た朝鮮人は帰る場所がない為に留まった。
 樺太に留まった朝鮮人達は、ソ連の扱いが酷く帰国を希望したが、ソ連と韓国との国交がなく帰国は認められなかった。
 韓国とソ連が国交を樹立した事で帰国の道が開け、在サハリン朝鮮人韓国籍を取得し、帰国する者と朝鮮系ロシア人として残る者とに分かれた。
 北朝鮮は、韓国人となった朝鮮人を帰国させることに猛反対し、帰国させるのであれば共産主義による洗脳教育と北朝鮮への帰国を求めた。
 日本社会党や親ソ派は、在サハリン韓国人は北朝鮮の国民であるとして、韓国への帰国に猛反対した。
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 三船殉難事件。ソ連軍潜水艦は、戦時国際法を無視し、樺太を出港して日本に向かった引揚船三隻(小笠原丸、第二新興丸、泰東丸)を攻撃した。
 引き揚げ者の大半が、日本人婦女子であった。
 現代に於いて。韓国は、強制連行した朝鮮人南樺太に置き去りにしたと日本を非難している。
 1、特設砲艦第二新興丸(乗員・引揚者約3,400名)は大破し、犠牲者は死者229名に行方不明者を含めると400名以上であった。
 2、海底ケーブル敷設船小笠原丸(乗員・引揚者約700名)は撃沈され、犠牲者は638名であった。
 小笠原丸は、1911年に、座礁したロシア船籍の客船リャザン号からロシア人乗船客を助けた事があった。
 ソ連・ロシア人は、自分が不利になるとわかるや受けた恩に対して感謝の言葉を述べないし、自分の利益にならなければ受けた恩義はなかったものとして報いようとはしない。
 それが、大陸的生き方である。
 受けた恩義は不利を承知で命を犠牲にしても報いようとする、島国日本人とは正反対の生き方である。
 故に、日本人とロシア人は江戸の昔から理解する事がなかった。
 3、貨物船泰東丸(乗員・引揚者約780名)は、戦時国際法に従って白旗を掲げたが砲撃されて沈没し、犠牲者は667名であった。
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 ソ連軍は、ハルピンに侵攻して占領した。
 ソ連軍の戦闘部隊はロシア人を含めた囚人部隊であった為に、ロシア人兵士達は到る処で強姦や略奪そして殺害を繰り返していた。
 スターリンは、トルーマンの8月18日付け返答に対し、戦勝国の権利である北海道割譲が拒否された事について怒りを込めた回答を送った。
 アメリカとの関係悪化を避ける為に、表向きは北海道北部の領有を断念した様に見せたが、その裏でアメリカが気を許せば何時でも北海道侵攻できる様に準備を命じた。
 ソ連が、北海道領有を頑に主張したのは、国内の労働不足を補う為に日本人を労働者として強制連行しようとしたからと言われている。
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 日本人左翼・左派マルクス主義者の念願であった、日本を共産主義化して天皇制度を崩壊させるという夢は潰えた。
 彼等は、ソ連軍を人民の解放軍として日本に進駐させ、ロシア革命の様な暴力的共産主義革命を断行する予定であった。
 そして。昭和天皇とその家族を、ロシア皇帝一家同様に人民裁判にかけて処分する計画であった。
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 東京の陸軍中央は、占守島守備隊に即時抵抗を中止し、ソ連軍を通過させる様に厳命した。
 大本営は、侵攻するソ連軍や進駐して来る中国共産党軍に抵抗するなという命令を、関東軍朝鮮軍にも発した。
 東京の中央官公庁には、隠れマルクス主義車の革新官僚が存在していた。
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 占守島における日ソ両軍現地停戦協定。
 ソ連軍は、大敗を喫して、3,000人以上の被害を出した。
 全滅を覚悟した日本軍守備隊の奮闘により、北海道はソ連領になる事を免れた。
 ソ連軍は、日本陸軍の激しい抵抗に遭い、ノモンハンの悪夢が甦り、恐日病にかかっり日本への進撃速度が遅くなった。
 日本は、日本陸軍の激しい抵抗の御蔭で分裂国家にならずにすんだ。
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 スターリンが議長を務めるソ連国家防衛委員会(GKO)は、日本領有であてにしていた日本人労働者確保ができなくなった為に、極秘指令として、日本軍兵士捕虜をシベリアに強制連行する様に極東のソ連軍軍事評議会に命じた。
 命令9898号「50万の日本人捕虜を受け入れ、抑留、労働使役をかす」
 生き残って捕虜となった60万人以上の日本軍兵士と民間人は、ソ連軍に逆らった戦争犯罪者としてシベリヤの強制重労働収容所に連行され、リンチ的な奴隷的重労働が課せられて6万人以上が死亡した。
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 日本人左翼・左派のマルクス主義者は、心許したソ連と中国の同士が行っていた事は全て知っていた。
 国際社会は、戦勝国ソ連が行っている事を薄々知っていたが、鉄のカーテンの向こう側は解らないとして目を背けた。
 ソ連共産主義陣営が行った残虐行為は、ナチス・ドイツが行ったホロコーストと何ら変わらなかった。
 マルクス主義者は、無宗教反神論ゆえに、シベリアにあった日本人墓地を全て破壊し、地上に現れた日本人遺体を粉々に砕いて捨てた。
 日本を守る為に戦って戦死した日本軍兵士は、例外なく、靖国神社の祭神として祀られた。
 靖国神社は、戦争美化する宗教施設として廃棄する事を求められている。
 ソ連軍は、日本軍の反撃を警戒しつつ北海道に向けて進軍を続けた為に、予想以上の時間を浪費した。
 日本人共産主義者は、ソ連軍の進行の遅さに苛立った。
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 アメリカ政府とアメリカ軍は、千島列島問題の重要性に初めて気付き、真剣な討議に入った。
 バーンズ国務長官は、モスクワのハリマン大使に、ソ連が一般命令第一号の規約に従って中国の日本軍が蒋介石のみに降伏させる事を忠実に実行するかどうかの確認と、国民党を中国の正統政府と認める共同宣言を出す様に提案する事を指示した。
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 スターリンは、アメリカに北海道北半分への侵攻・占領・進駐・管理(ゆくゆくはソ連領に組み込む)を拒否された為に、その見返りとして日本人捕虜約60万人を労働力して使役するべく9898号捕虜移送命令を発した。
 アメリカは、日本人捕虜のシベリア強制連行がジュネーブ条約に反する捕虜虐待の戦争犯罪行為でる事を理解していたが、北海道を日本領に留める事と引き換えであるとして黙認した。
 日本人捕虜は、日本の国土を守る為に見捨てられた。
 それ故に、国際司法機関と国際人権団体は、シベリア抑留を戦争犯罪とは見なさず、ソ連の強制連行を非人道的行為と非難しなかった。
 スターリン日露戦争に於けるロシア軍の敗北は国民に苦しい記憶を残した。その敗北は我が国の不名誉となった。我が国民は日本を撃破しその恥を拭う日が来る事を信じ、その日の来るのを待っていた」
 ソ連軍のロシア人兵士は、支配地域で日本人避難民30万人以上を虐殺し、奪える金品は奪った。
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 8月24日 ソ連軍は、豊原を攻撃して樺太庁を占領した。
 8月25日 ソ連軍は、大泊に上陸して南樺太全土を占領した。
 樺太・千島列島の日本軍守備隊は、ソ連の攻撃から民間人29万3,000人を避難させるべく戦ったが、ロシア人兵士によって4,000人以上が虐殺された。
 佐渡開拓団跡地虐殺事件。ロシア人兵士と中国人暴徒とは、佐渡開拓団跡地に逃げてきた複数の開拓団員約2,500人を襲撃した。
 日本人避難民は殺害或いは集団自決で、1,400人以上が死亡した。
 死亡したのは、老人や女子供達であった。
 それが、大陸に於ける戦争であった。
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 8月下旬 敦化日満パルプ事件。ソ連軍は、製紙工場を占領し、ロシア人兵士達は社宅に監禁した日本人女性達を強姦した。
 女子供約110人が死亡した。死因は、青酸カリによる集団自決、発疹チフスによる病死。
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 満州開拓団員約27万人が、逃避行中にロシア人兵士や中国人暴徒に襲撃され、虐殺、集団自決、餓死、病死、事故死などで8万人以上が死亡した。
 その大半が、女や子供達である。
 現代日本では、犠牲者は侵略の片棒を担いだ戦争犯罪者である以上、ロシア人兵士や中国人暴徒に虐殺されたのは仕方がないと見捨てている日本人がいる。
 もし恨むのであれば、虐殺したロシア人兵士や中国人暴徒でなく、満州開拓に送り込んだ昭和天皇と軍部及ぶ軍国主義者であると。
 満州には開拓団員を含めて155万人の日本人民間人が生活し、その内24万人以上が死亡している。
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 9月5日 ソ連軍は、北海道侵攻を断念して、日本領北方領土を不法に武力占領した。
 日本で暴力的共産主義革命を起こし、日本を共産主義国家に改造する為の革命戦士を作るべく、約60万人の日本人兵士捕虜をシベリヤに強制連行した。
 洗脳する為に、栄養価の乏しい食糧で奴隷的重労働を強要し、6万人以上を虐殺した。
 そして、日本人墓地を破壊し、日本人の遺骨を粉々に砕いた。
 其の行為は、正常にして真面な人間とは思えない陰険で異常な蛮行であった。
 一部の洗脳された日本人は、日本に帰国するや天皇制打倒の為に活動を開始した。
 在日朝鮮人は、天皇制度を廃絶する為に、日本共産党の日本共産化計画に協力した。
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 ソ連は、日本で共産主義革命を起こす為に洗脳教育を行っていた。
 その手先が、日本共産党であり、中国共産党であった。
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 ソ連崩壊後の新生ロシアは、国際法を無視して、日本領土北方領土の不法占領を続けている。
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 ロシア人は、人間ではなく弱い動物に襲い掛かる獰猛な動物の如く、満州樺太で逃げ惑う日本人女性を襲撃し強姦して、子供と共に虐殺した。
 虐殺した人数は、10万人以上といわれているが、正確な人数は不明であるが多くこそあれ少なくはない。
 ロシア人は、性欲に荒れ狂う生き物であり、血に餓えた獣であった。
 人が生まれながらに持っているはずの良心、成長しながら身に付けるはずの道徳、そうした心はなかった。
 逃げ惑う日本の女性や子供は、ロシア人に虐殺された。
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 1946年2月 英外務省、露の北方領土領有の根拠「ヤルタ密約」に疑念、外交公電で全在外公館に警告。
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 2016年12月5日 07:03 産経ニュース「【ヤルタ密約秘話】英外務省、露の北方領土領有の根拠「ヤルタ密約」に疑念 「ルーズベルト米大統領が越権署名」 外交公電で全在外公館に警告
 【ロンドン=岡部伸】ロシアがソ連時代から北方領土領有を主張する最有力根拠としてきた「ヤルタ密約」(ヤルタ協定のうち極東密約)の有効性について、ルーズベルト米大統領が権限を越えて署名し米議会で批准されていないことを引き合いに、英政府が大戦終了後の1946年2月に疑念を示していたことが英国立公文書館所蔵の英外交電報で明らかになった。=3面に「露の四島占拠根拠なし」
 電報は、米英ソ3カ国が同11日にヤルタ密約を公表する2日前の9日、英外務省から全世界の在外英公館54カ所に「緊急かつ極秘」に一斉に送られた。
 電報の冒頭には「ソ連スターリン首相、ルーズベルト米大統領チャーチル英首相が45年2月11日にクリミア会議(ヤルタ会談)でソ連の対日参戦条件について極秘に合意した密約内容の文書が含まれる」と記され、米英ソ3政府が合意から1年後にあたる46年2月11日に、それぞれの議会で合意文書を発表するとしていた。 
 「ソ連樺太、千島列島の占拠は日本が敗戦するという文脈の中で取り扱われるべきだ」とした上で、「ルーズベルト大統領が権限を越えて署名したことや、米上院の批准もない状況下での有効性について米国内で論議が起こるかもしれない」として、「(英国は)その議論に巻き込まれないよう注意すべきだ」と警告している。
 ソ連はヤルタ密約を根拠に当時有効だった日ソ中立条約を破棄し、満州中国東北部)や北方四島に侵攻し占領。後継国家のロシアも北方領土の領有権を主張してきた。
 一方、米国では53年に就任した共和党アイゼンハワー大統領が年頭教書演説で、「あらゆる秘密協定を破棄する」と宣言して問題が表面化。56年には、アイゼンハワー政権が「ヤルタ協定ルーズベルト個人の文書であり、米政府の公式文書でなく無効」との国務省声明を発表し、ソ連の領土占有に法的根拠がないとの立場を鮮明にした。
 一方、当事国の一つである英国は立場を明らかにしてこなかったが、チャーチル首相が41年8月、ルーズベルト大統領と領土不拡大の原則をうたう大西洋憲章に署名している。今回の電報を通じ、密約が大西洋憲章に反するとの英政府の46年当時からの認識が示された形だ。
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 ■ヤルタ密約 1945(昭和20)年2月4日から11日まで、クリミア半島ヤルタで米国のルーズベルト大統領、英国のチャーチル首相、ソ連スターリン首相による連合国3カ国首脳会談が開かれた。ルーズベルト大統領はソ連による千島列島と南樺太の領有権を認めることを条件に、スターリン首相に日ソ中立条約を破棄しての対日参戦を促した。会談では、ドイツ降伏後2カ月または3カ月でソ連が対日参戦することが秘密協定としてまとめられた。また、国際連合創設を協議し、ドイツと中・東欧での米ソの利害を調整することで大戦後の国際秩序を規定。東西冷戦幕開けのきっかけにもなった。
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 12月5日07:10 産経ニュース「【ヤルタ密約秘話】「当初から有効性に疑問 英国の立場を示す」 京都大学名誉教授 中西輝政
 京都大学名誉教授・中西輝政氏(恵守乾撮影)
 ヤルタ密約を結んだ3カ国の一つである英国は冷戦時代、フランスとともにソ連との正面衝突を回避するため、ヤルタ協定に対する立場を鮮明にしてこなかった。終戦から約半年後の46年2月、「密約」公表直前に英外務省が全在外公館にあてた公電は、内閣の了解を経た英国の公式な立場を示すものだ。公電は領土移転の署名をしたルーズベルト大統領が米国の大統領権限を越えていることや、米議会の批准もない状況下での有効性について疑念を示しており、英政府が当初からヤルタ密約の法的な有効性に疑問を抱いていたことがうかがえる。公電で疑問を呈した通り、数年後にアイゼンハワー政権が「密約」を無効とした米国と同様に英国が有効性を事実上否定していたことがわかり、北方4島の主権を主張するロシア側は一層法的根拠を失うことになるだろう。」
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 1951年 アメリカ議会は、ルーズベルトが個人的にスターリンと取り交わした「ヤルタ極東密約」の批准を国家として正式に否決した。
 日本領北方領土を、主権国日本の諒解もなく、アメリカ議会の承認も得ず、戦争の勝利という目的だけでソ連に割譲する事は認められないと決議した。
 ソ連軍の北方領土占領は、犯罪行為とされ,正当性はない。
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 ロシアは、ロシア人戦争孤児を助けても、恩を仇で返し、日本人避難民を虐殺して日本領北方領土を強奪した。
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 ロシア人は、合法的、非合法的に関係なく手に入れた土地は決して手放す事はない。
 国際法に基づいた2国間条約を踏みにじり武力で強奪した日本領北方領土を、平和的に、全島を日本に返還する意志はない。
 ロシアの領土拡大は、武力を用いた侵略戦争によるものであった。
 江戸時代中期以降、日本はロシアに侵略される危機に直面していた。
 日本の近代化は、ロシアの侵略から祖国を守る為であった。
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 ロシア人による、日本人避難民大虐殺、シベリヤ抑留者大虐殺、日本領北方領土強奪、昭和天皇処刑要求。
 ロシアには、日本的な配慮も善意も思い遣りも心尽くしも真心も一切通用しない。
 日本とロシアの間には、心は通じない。
 ロシアは、軍国主義者がロシア人戦争孤児を無報酬で救い出したのに、一言の感謝の言葉がないどころか、命がけで助けた軍国主義者を口汚く罵って恥じない。
 日本は、ロシアと、人として分かり合えないと諦め、人として信じ合えないと絶望するしかない。
 日本とロシアの付き合いとは、その程度の低レベルでしかない。
 つまり、助け甲斐のない相手、感謝の言葉を当てにしてはならない相手、という事である。
 ロシアは、ロシア人戦争孤児を助けた軍国主義者に勝利した対日戦勝利70周年記念を盛大に行おうとしている。
 反天皇反日的日本人は、軍国主義者がロシア人戦争孤児を自己犠牲として助けた事実を知りながら、軍国主義者の人道貢献を歴史に闇に葬り、ロシアの対日戦勝利70周年記念を共に祝おうとしている。
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 日本の説明は、国際社会では一切通用しない。
 国際社会で、誰も本気で日本の説明を聞こうとはしない。
 昭和天皇の戦争責任問題。捕虜虐待問題、戦争犯罪問題、従軍慰安婦問題、南京事件問題、靖国神社問題、歴史認識問題、歴史教科書問題、その他。
 日本を非難し、追い詰め貶める、反日国際世論は終わる事がない。
 更に、反天皇反日的日本人の日本を貶める国内世論も尽きない。
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 恩を仇で返すロシア人に、人間らしい感情、良心、善意を期待してはならない。
   ・   ・   ・   
 軍国主義者は、天皇制度と祖国を守る為ならば戦争も辞さなかった。
 国際社会は、日本の軍事行動を犯罪として完全否定した。
   ・   ・   ・   
 東京裁判は、日本の全ての行動を戦争犯罪として断罪し、積極的自衛戦争侵略戦争として完全に否定した。
 ロシア人は、昭和天皇の処刑を強く要求していた。
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 1997年 ロシアのタンカー「ナホトカ号」は、日本海の時化で遭難し、日本はロシア人船員を救助した。
 船体から流れ出した重油が日本沿岸を汚した。
 ロシア人達は、早々に帰国した。
 日本人ボランティア達は、全国から駆けつけて沿岸にこびりついた重油を引き取った。
 ロシア人とは、昔から、謝りもしないし、反省もしないし、賠償金も払わない、むしろ相手を激しく非難して罪を擦り付け責任を取る事がない。
 日本人とロシア人は、幾ら親しく話し合っても、決して分かり合う事はない。
 平気で嘘を付いて騙す。
 約束を平然と破る。
 信用できない。
 それが、ロシア人である。
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 2008年 プーチン「核を保有しない国は、主権国の名に値しない」
 ロシアは、核を持たない日本を一人前の国とは認めず、如何なる要求をしようとも本気で取り合う気はなかった。
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 2015年12月号 歴史街道ソ連潜水艦が襲った、女性、子供、老人満載の疎開船3隻の悲劇  相原秀起
 日ソ中立条約を破り、樺太の国境線からソ連軍が本格的な侵攻を開始したのは8月11日であった。
 一方、ウラジオストクから2隻の潜水艦が出撃、任務は『8月23日午後8時より敵軍艦の掃討と、敵軍艦出現の報告』であった。しかし潜水艦は22日未明より、緊急疎開船3隻を容赦なく襲う。
 3隻の緊急疎開船とソ連潜水艦
 昭和20年(1945)8月15日の終戦を迎えても、日本領南樺太の占領を目論見むソ連軍は進撃を止めず、日本軍守備隊との間で戦闘が続いていた。日ソ中立条約を破り、北緯50度の日ソ国境からソ連が本格的な侵攻を始めたのは同11日。9日から攻撃を始めた満州の戦況を2日間確認してから、戦車を戦闘に南下を始めた。ソ連軍が上陸した西海岸の炭鉱地帯の塔路(とうろ)や恵須取(えすとる)の周辺では、逃げ切れないと悲観して一家心中を図ったり、豊原(ユジノサハリンスク)までの鉄道が通じる東海岸の内路(ないろ)までの避難の途中、歩けない幼児や老人を捨てたり、谷底に突き落となど数々の悲劇が起きた。
 樺太庁は、米軍上陸時に備えてひそかに策定していた住民疎開計画を転用し、児童や女性、高齢者の北海道への緊急疎開を13日から始めた。日本軍守備隊が頑強に抵抗して時間を稼ぐ間に、多くの邦人が避難。北海道稚内(わっかない)の対岸に位置し、南樺太の玄関口だった大泊(おおどまり、コルサコフ)を目指した。同港は疎開船を待つ避難民であふれた。20日になってソ連軍は、西海岸の真岡(ホルムスク)に上陸。さらに大泊へ侵攻してくる可能性が強かった。
 このため、疎開船となった逓信省海底線敷設船『小笠原丸』(1,397トン)は予定を前倒し、20日午後11時45分、鈴なりの避難民約1,500人を乗せて大泊港を出港した。その中には後に昭和の大横綱大鵬(たいほう)となる納谷幸喜ときょうだい、母キヨが乗り込んでいた。幸喜は5歳だった。一家は小樽まで乗船する予定だったが、キヨの船酔いがひどく稚内で下船。この偶然が大鵬の運命を変えた。
 海軍の特設砲艦『第二新興丸』(2,500トン)も翌21日午前9時、約3,600人を乗せて大泊港の桟橋を離岸。その2時間後に東洋海運所有の『泰東丸』(880トン)も780人が乗り込み、同港を離れた。
 一方、ソ連共産党書記長のスターリン終戦翌日の16日、米大統領トルーマンに対して、ヤルタ会談での合意事項に加え、『留萌(るもい)──釧路以北の北海道北部をソ連軍への降伏地域に含めるように』と要求。仮に認められれば、北海道全域の占領も窺う構えだった。
 ヨーロッパの戦後処理をめぐり、米ソ対立は次第に鮮明となり、ソ連にとっては対米戦略上、極東の橋頭堡となりうる北海道の軍事、政治的な価値は図り知れなかった。
 ソ連軍は北海道占領の第一歩となる留萌上陸作戦を、同24日未明に予定していた。作戦支援のため、同19日正午前、ウラジオストクソ連太平洋艦隊潜水艦部隊に所属する潜水艦L12とL19に緊急の出撃命令が下された。ともに『レニネッツ級』と呼ばれた当時の主力潜水艦で、排水量1,124トン(浮上時)、魚雷発射菅6門を装備していた。同艦隊には78隻の潜水艦があったが、L12は千島列島や北海道周辺で偵察の実績があり、L19は魚雷発射訓練で部隊一の成績を上げていた。『最優秀』とされたL12のツェルガンツェフ、L19のコノニェンコの両艦長の胸には、歴史的な北海道上陸作戦の先陣を切る高揚感が漲(みなぎ)っていたろう。両艦は19日午後7時10分、基地の岸壁を離れた。
 筆者が入手したソ連太平洋艦隊の機密文書によると、指令は次のようなものだった。
 『8月23日午後8時(日本時間)までは、留萌港北方の航路と港を偵察、午後8時からは敵軍艦の掃討と、敵軍艦出現の報告』
 つまり上陸作戦前日の23日午後8時以降は、日本の軍艦を見つけ次第攻撃せよ、という内容だった。ソ連軍は日本軍が抵抗を続ける樺太への逆上陸作戦も恐れていた。
 女性、子供、老人に情け容赦なく
 2隻は21日午後2時半ごろ留萌沖に到達し、海中に潜(ひそ)んだ。L12は留萌港周辺や灯台の偵察を行い、ウラジオの艦隊本部に報告した。L19も22日午前2時すぎ、『敵(日本)は偵察態勢にはなく、機雷も見当たらない』と無線連絡を入れた。同時刻、小笠原丸など疎開船3船が小樽を目指して留萌沖を通過しつつあった。
 L12が『敵輸送船』の航海灯を発見したのは22日午前3時59分。小笠原丸(避難民の約半数は稚内で下船、702人が乗船)で、航海灯の点灯は米軍の指示だった。
 発見からわずか3分後、艦長のツェルガンツェフは魚雷攻撃を命じた。本来の『攻撃開始時刻』より1日以上も前で、しかも小笠原丸輸送船ではなく緊急疎開船だった。放たれた6本の魚雷のうち、一本が船腹に突き刺さった。1分半後、小笠原丸は留萌管内増毛町別苅沖で沈没した。浮上したL12は助けを求める人々に情け容赦ない機銃掃射でこたえ、641人が死んだ。
 L12の攻撃に触発されるように、同日午前5時半ごろ、L19が第二新興丸を魚雷攻撃、一本が機関室隣の船倉に命中した。甲板には片腕を吹き飛ばされた男性や手足を失った子ども、顔半分が無残になくなり、血の海の中で息絶えた若い女性もいた。L19は浮上し、艦載砲でとどめを刺そうとした。第二新興丸は船首と船尾に計二門の12センチ旋回砲と14丁の機銃を装備しており、激しく交戦が始まった。L19は海中に消え、第二新興丸はよろめくように留萌港にたどり着いた。死者・行方不明者約400人。
 L19は約5時間後、今度は泰東丸を襲撃した。泰東丸の乗務員は白旗代わりに白いシーツを必死に振ったが、浮上したL19は容赦なく艦載砲を浴びせて撃沈。667人が犠牲となった。コノニェンコは22日午後10時半、艦隊本部に『輸送船(泰東丸)撃沈。一隻(第二新興丸)が損傷を負い、留萌港へ』と報告した。
 同じ22日、北海道北部占領の要求を米大統領トルーマンに拒否されたスターリンは、同作戦の中止を決定。樺太占守島の日本軍守備隊の抵抗で作戦の準備が遅れたことも影響したとみられる。この時点で、2隻とは別にL11、L18の2隻の潜水艦が、それぞれ60人の海兵隊員と大砲を載せてウラジオから留萌へ向かっていた。2隻は上陸部隊本体に先立ち、留萌周辺に上陸してゲリラ戦を展開、日本軍を混乱させる目的だった。北海道上陸作戦は、実施の一歩手前まで進められていた。仮に作戦が行われていれば、北海道は沖縄のような凄惨な地上戦の舞台となり、日本が朝鮮半島のような『分断国家』となる恐れも十分にあった。3船の悲劇はさらなる大きな悲劇の序章となったかもしれない。
 同艦隊本部は作戦の中止を受けて、22日午後11時58分、北海道や樺太沖に展開する各潜水艦に、『日本の輸送船を沈めないように』と命令したが、小笠原丸と泰東丸はすでに撃沈され、第二新興丸も大破し、死者・行方不明者計1,708人という歴史に残る悲惨な事件は一部始終を終えていた。
 歪められ、誇張された『英雄』
 L19は樺太アニワ湾への転戦を命じられ、留萌沖を離れて北上するが、23日午後の北海道礼文島沖からの連絡を最後に消息を絶った。宗谷海峡で沈没したとみられる。同海峡に敷設した日本軍の機雷に触れて沈没したとも、低気圧の暴風によって転覆した説などがあるが、真相はいまも不明のままだ。
 ウラジオの太平洋艦隊本部前には、同時代の潜水艦C56が潜水艦博物館として一般公開され、艦隊の歴代艦艇や艦長らの写真が展示されている。この中にL19艦長コノニェンコ少佐と長女ガリーナの写真があった。留萌に出撃する1ヶ月前の1945年7月撮影。L19は第二次世界大戦ソ連太平洋艦隊が失った唯一の大型艦艇で、いまでも少佐は日本軍との戦闘で戦死した『英雄』である。
 L21は、8月27日まで留萌沖に潜み、その後、ウラジオへ帰投した。太平洋艦隊のユマシェフ司令官らがL21を出迎え、『戦果』をたたえた。潜水艦博物館には、L21が帰港した際の写真もあった。ツェルガンツェフは誇らしげに笑み、武勲の勲章とスターリン最高司令官の表彰状が授与された。
 2隻が出撃したウラジオのウリッス湾基地は、数年前までロシア太平洋艦隊潜水艦部隊が使用し、埠頭にはL19の艦橋を模した慰霊碑が建てられていた。碑の裏には『日本の軍国主義者と戦った英雄へ』と刻まれていた。同湾資料室に保管されていたコノニェンコの経歴には『帝国主義日本との戦争で、L19は北海道留萌沖で戦闘態勢を取り、敵の軍事機械と兵士、乗務員を乗せた8,000トンの輸送船を撃沈、1万8,000トンの別の輸送船を大破させた』とあった。長い冷戦の過程で、英雄化が進み、事実が歪められ、誇張されていた。
 筆者は2004年に3船遭難事件を現地で取材した際、ロシア太平洋艦隊に取材を申し込んだが許されなかった。事件の真相を追った筆者の北海道新聞の連載記事は、ロシア語訳されて、ウラジオの地元紙ウラジオストク新聞に全文掲載されたが、同艦隊の反応はなかった。いまさら『英雄』の真実を突きつけられても当惑するしかなかったのどろう。
 3船遭難事件はもちろん、50万人以上の日本の将兵をシベリアに連行し、多数の犠牲者を出したシベリア抑留、千島列島や北方領土の歴史的な経緯を知るロシア人はいまも非常に少ない。日本とロシアの間には歴史認識の深い断層が横たわっている」
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 三船殉難事件は、第二次世界大戦末期(日本の降伏文書への調印予告、および軍隊への停戦命令布告後)の1945年(昭和20年)8月22日、北海道留萌沖の海上樺太からの婦女子を主体とする引揚者を乗せた日本の引揚船3隻(小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸)がソ連軍の潜水艦(L12号・?19号)からの攻撃を受け、小笠原丸と泰東丸が沈没して1,708名以上が犠牲となった事件を指す。三船遭難事件とも呼ばれる。
 樺太からの引揚げ
 詳細は「樺太の戦い (1945年)」を参照
 1945年(昭和20年)8月15日に、大日本帝国政府はポツダム宣言を受諾し、降伏文書への調印意思を連合国へ通達、翌日には各軍への停戦命令の布告及び武装解除を行った。これに対応しイギリス軍やアメリカ軍は即座に戦闘行為を停止したが、8月9日に対日参戦したソ連軍はこれを無視し、当時大日本帝国領だった樺太に侵攻した。
 ソ連軍の攻撃から避難させるため、大津敏男樺太庁長官は長官命令で婦女子や老人を優先的に本土に送還させるため大泊港の小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸に分乗させ本土に引き揚げさせようとした。
 小笠原丸沈没
 1945年(昭和20年)8月20日、引揚船の1隻である逓信省の海底ケーブル敷設船小笠原丸が引揚者1,500名ほどを乗せて大泊から稚内に渡った。日本に到着した事や機雷の危険がある事から下船するよう勧めがあったが、列車の混雑などを理由に約600名の乗客と約100名の船員・軍人を乗せて小樽に向った。その途中の8月22日午前4時20分頃、増毛沖の海上で国籍不明の潜水艦の雷撃により撃沈された。乗員乗客638名が死亡し、生存者は61名だった。
 第二号新興丸大破
 続いて午前5時13分頃、大泊からの引揚者約3,400名を乗せ小樽へ向っていた特設砲艦第二号新興丸(2,700トン)が留萌沖北西33キロの海上で、国籍不明の潜水艦からの魚雷を右舷船倉に受け縦約5m・横約10mの穴が開いた。さらにこの直後に浮上した2隻の潜水艦により銃撃を受けたため、やむなくこれに応戦した。同艦は1941年(昭和16年)に海軍に徴用され特設砲艦として宗谷海峡付近で機雷敷設の任務に就いていた艦であるため、12センチ砲2門と25mm対空機銃の装備があった。戦闘後1隻の潜水艦が潜航した後に大量の重油が浮き上がったのが目撃されており、ある程度の損害を受けたものと思われた。
 この攻撃によって、第二号新興丸は船体に大きな損害を受けたが機関に異常はなかったため最寄りの留萌港に入港した。船内で確認された遺体は299体。行方不明者も含めると400名近くが犠牲となった。同艦の反撃によって損傷した1隻の潜水艦はその後、宗谷海峡で沈没したと思われる。事件後、第二号新興丸は修理・改装され1966年(昭和41年)まで国内で商船として使用され、その後パナマに売却された。
 泰東丸沈没
 同日午前9時52分、同様に大泊からの引揚者を乗せて小樽へ向っていた貨物船の泰東丸(880トン)が北海道留萌小平町沖西方25キロの海上において、浮上した国籍不明の潜水艦の砲撃を受けた。同船には武装はなかったため戦時国際法に則り白旗を掲げるも、潜水艦はこれを無視し砲撃は続行され沈没、乗員乗客約780名中667名が死亡した。
 1974年(昭和49年)から5回にわたり厚生省が海上自衛隊に依頼して泰東丸の捜索を行ったが、成果は無く捜索は断念された。事件後遺体が漂着した小平町に「泰東丸の捜索をすすめる会」が出来、1981年(昭和56年)に地元の漁船が泰東丸らしい沈船を発見。1982年(昭和57年)と1983年(昭和58年)の社団法人全国樺太連盟の調査で、バッテリー、銃弾、茶碗などの泰東丸のものと思われる遺品が引き上げられた。
 1983年(昭和58年)に、参議院において「泰東丸の捜索と遺骨収集の促進に関する質問主意書」が提出された。これによると「今年の7月から8月にかけて、全国樺太連盟は泰東丸が沈没したとみられる北海道留萌沖で独自の調査を行った。その結果、泰東丸と思われる船体を発見した。船名の確認までには至らなかったが、機銃弾、時計、バッテリーなど数多くの貴重な遺物を陸上に引きあげ、検討したところ泰東丸であることにほぼ間違いないことを裏づけた」として政府に同船の捜索と遺骨収集を求めた。
 これに対し当時の中曽根康弘総理大臣は「泰東丸の捜索に関しては、同船が沈没した海域の沈没船について、1977年(昭和52年)7月に厚生省が防衛庁及び地元関係機関の協力を得て綿密な潜水捜索を実施したが、泰東丸であるとの確認ができなかったという経緯がある。現段階では国の事業として再捜索を行うこと、また、民間団体が自主的に行つた捜索事業に国が資金援助することは困難である」としたうえで「沈没船が泰東丸であるとの確認ができれば、今後、残存遺骨の有無の調査等の対策を検討」すると答弁した。
翌1984年(昭和59年)8月5日から北海道や全国樺太連盟の協力を得て厚生省が再調査を行ったが、遺体は発見されず9月28日に調査を打ち切った。
 国籍秘匿の潜水艦
 上記三船を攻撃した潜水艦について公式には今もって「国籍不明」とされているが、当時樺太にはソ連軍が侵攻していた上、アメリカ海軍やイギリス海軍の潜水艦は日本の降伏宣言を受けて国際法に則り軍事活動を停止し、同海域において軍事活動を行っていなかったために、事件直後からソ連の潜水艦であると推測されていた。戦後、当時のソ連海軍の記録から旧ソ連太平洋艦隊第一潜水艦艦隊所属のL-19とL-12の2隻の潜水艦が留萌沖付近の海上で作戦行動に就いていた事が判明した。国籍を秘した潜水艦は魚雷で沈没した船から海に投げ出された人々に機銃掃射を行いとどめを刺した。
 2007年(平成19年)、樺太の新聞『ソビエツキー・サハリン』の取材でサハリン州公文書館から公開された資料によると、ソ連樺太に続き北海道北部を占領するため狙撃部隊2個師団による留萌への上陸作戦計画を立てていた。
 この作戦の前哨としてL-19潜水艦(コノネンコ艦長)、L-12潜水艦(シェルガンツェフ艦長)の2隻は上陸予定地である留萌付近海上で偵察と護衛の任務に就いていた。この作戦行動において3隻の船を攻撃、2隻を撃沈したと記録されている。作戦後、L-12潜水艦はウラジオストク軍港に帰還したが、L-19潜水艦は礼文島沖での通信を最後に行方不明となった。旧ソ連軍の公式記録では「L-19潜水艦は1945年8月23日、宗谷海峡にて機雷により沈没、乗員は全員戦死」となっている。樺太南方沖の二丈岩付近で沈没したと思われるが、沈没の原因については第二号新興丸と交戦した時の損害とも言われ判然としない。
 戦後、帰還したL-12潜水艦の乗員には勲章が与えられ、行方不明となったL-19潜水艦については無視されてきたが、2005年(平成17年)8月にロシア太平洋艦隊による海底調査が行われ、2007年(平成19年)7月に行われた追悼式典において艦長以下の乗員に勲章が授与された。だが、停戦意思を通達した国の船舶に対しての攻撃や、白旗提示を行った船舶への攻撃を行うなど国際法戦時国際法への明らかな違反行為が行われたこともあり、三船攻撃については外務省の事実確認要請にも関わらず、ロシア政府は公式に認めていなかった。
 小笠原丸殉難碑
 北海道留萌郡小平町鬼鹿海岸には「三船遭難慰霊之碑」が立てられており、同町郷土資料館には泰東丸の遺品が展示されている。
 北海道留萌市の千望台には「樺太引揚三船殉難者慰霊碑」が立てられている。
 北海道増毛郡増毛町の町営墓地には「小笠原丸殉難碑」が建てられている。
 1984年に留萌の木彫家・大野静峰により慰霊の送り火が始められ、のちに市民有志による会が遺志を引き継いで毎年8月には黄金岬で送り火が行われている。
 8月22日には樺太引揚三船遭難遺族会主催の三船遭難慰霊祭等が行われている。
 備考
 事件の犠牲者は1,708名とされているが、引揚げの混乱時であり乗船者名簿等はなく正確な乗船人員は不明。遺体が確認されていない行方不明者も相当数いるため、実際の犠牲者は更に多かった可能性がある。
 防衛省の『戦史叢書』によれば死者・行方不明者は1,658名とされる。
 同じ1945年(昭和20年)8月22日、樺太最南端の西能登呂岬南方海上においても、引揚者輸送のため樺太西岸の本斗から大泊に向けて回航中の大阪商船の貨物船能登呂丸(1,100トン)がソ連の航空機の雷撃により沈没した。ほかに8月16日以降にソ連軍の攻撃を受けた日本船舶としては、8月20日に東春丸が北海道方面で潜水艦の雷撃で沈没、8月24日に大地丸が朝鮮半島沿岸で空襲により沈没している。
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 小笠原丸とは逓信省の海底電纜敷設船で、初の国産敷設船である。1,404トン。東京から小笠原諸島経由でグアムに接続する太平洋横断海底ケーブルの敷設を主目的に建造されたため「小笠原」と名付けられた。終戦の日を過ぎた1945年8月22日いわゆる三船殉難事件で沈没し、600名以上の犠牲者を出した。
 概要
 「沖縄丸」に続く日本で2隻目の海底ケーブル敷設船として計画された。「沖縄丸」がイギリス製だったのに対し、三菱重工業長崎造船所で建造された本船は、初の国産海底ケーブル敷設船となった。竣工は1906年(明治39年)である。
 就役した「小笠原丸」は、「沖縄丸」などとともに海底ケーブルの新規敷設や修理に従事した。1910年(明治43年)6月4日には、長崎県池島付近で遭難したロシア船を救助し、シャム王族一行および乗員100名を救出した。
 太平洋戦争が勃発すると、軍の管理下で、引き続き海底ケーブルの敷設と保守に従事することになった。1945年2月16日には、下田港内でアメリ航空母艦の艦載機の銃撃により損傷したが、沈没は免れた。1945年8月15日の日本のポツダム宣言受諾発表時には、同年6月から始まった北海道と樺太の間のケーブル敷設に従事していた。
 1945年(昭和20年)8月15日の終戦稚内港で迎えた小笠原丸は、樺太所在の逓信局長から逓信省関係者の引揚げを要請され、8月17日に稚内を出航し大泊港へ向う。樺太では8月15日以降もソ連軍の侵攻による樺太の戦いが続いており、混乱状態にあった。翌18日、殺到する引揚者のうち老人・子供・女性約1,500人を大泊から稚内に運ぶ。
 8月20日再度大泊へ回航し、同じく約1,500人の引揚者を稚内に運ぶ。8月21日、乗組員86名、警備隊員13名、稚内で下船しなかった引揚者約600人の合計約700人を乗せ小樽港へ向けて出航した。
 小笠原丸殉難碑
 「三船殉難事件」も参照
 1945年8月22日午前4時20分頃、増毛沖5海里にて国籍不明の潜水艦(ソ連側は認めていないがソビエト連邦のL-12またはL-19説が有力)に雷撃されて沈没、更に浮上した潜水艦の銃撃を受けた。一部の乗員が救命ボートで増毛町の海岸にたどり着き救援を求め救助活動が行われるが、ほとんどの乗船者が船と共に海中に没し合計638名(乗組員57名、引揚者581名)が犠牲となった。生存者はわずか62名であった。
 この潜水艦は、その後、引き揚げ船として利用されていた特設砲艦の第二号新興丸に雷撃を加え400名近くを殺傷するが、機関砲と甲板砲で反撃されて損傷、その後樺太留多加郡能登呂村の二丈岩近海で沈没している(アメリカは機雷で沈没と発表)。数時間後にも同海域で引き揚げ船泰東丸が国籍不明の潜水艦により撃沈され600名以上の犠牲者が出ている。
 この一連の攻撃が行われた当時は日本がポツダム宣言を受諾し終戦した後であったが、樺太方面ではソ連軍の進攻が行われており、更に北海道の北半分を占領する計画だったため、その一環の作戦行動であったと推測されるが公式には確認されていない。
 北海道増毛郡増毛町の町営墓地には「小笠原丸殉難碑」が建てられており、毎年8月22日に町民により慰霊祭が行われている。また、北海道留萌郡小平町鬼鹿海岸には小笠原丸・第二号新興丸・泰東丸の犠牲者を悼む「三船遭難慰霊之碑」が建てられている。
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 WEB歴史海道
 三船殉難事件〜忘れてはならない終戦後の悲劇
 今日は何の日 昭和20年8月22日
 小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸。三船殉難事件
 昭和20年(1945)8月22日、すなわち日本が連合国軍に対して降伏を表明した8月15日から一週間後、三船殉難事件が発生しました。日本人としては忘れてはならない事件です。
 この日、北海道留萌沖で、樺太からの引揚者(老幼婦女子中心)を乗せた3隻の引揚船が、ソ連の潜水艦に攻撃され、2隻が沈没し、1,708人以上もの人々が犠牲となりました。8月15日、日本政府はポツダム宣言を受諾し、降伏文書への調印意思を連合国へ伝達、翌日には各軍へ停戦命令の布告と武装解除を行ないました。これを受けて連合国のアメリカ、イギリスは即座に戦闘行為を停止しましたが、それをまったく無視したのが、8月9日に不可侵条約を一方的に破って参戦したソ連です。十数万もの大軍で満洲に雪崩れ込んだ上、武器を持たない一般人相手に殺戮、暴行、略奪の限りを尽くしたことはよく知られます。
 ソ連軍は同時に、北方の樺太、北千島にも攻め込みました。ソ連の狙いは軍事的混乱の中で北海道にまで侵攻し、これを我が物として連合国に認めさせることであったとされます。まさに火事場泥棒的な行為というより他ありません。この状況に日本政府は、樺太の港に船を集め、人々の引揚げを促しました。数万の人々が港に押し寄せる中、大津敏男樺太庁長官の判断で、高齢者・女性・子供を優先することにし、大泊港の小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸の3隻の引揚船に分乗させ樺太を脱出、北海道を目指します。
まず小笠原丸(1,400t)には約1,500人が乗船し、大泊から稚内に到達しました。そこで約半数が下船し、約700人を乗せて小樽に向かう途中、8月22日の午前4時20分頃、増毛沖の海上で国籍不明の潜水艦の魚雷攻撃を受けて、撃沈されます。乗員乗客638名が死亡、生存者は僅か62名でした。なお浮上した潜水艦は、無抵抗の人々に銃撃を加えています。
 続いて午前5時13分頃、大泊から約3,600人を乗せて小樽に向かっていた第二号新興丸(2,700t)が、留萌北西沖に差し掛かったところ、突然に魚雷攻撃を受けました。同船は回避を試みますが、右舷に一発命中します。その直後、二隻の潜水艦が浮上し、銃撃を加えてきました。しかし第二号新興丸は単なる輸送船ではなく、12cm単装砲2門、25mm機銃を連装4基、単装6基を備えた特設砲艦でした。攻撃を加えてくる潜水艦に対し、民間人の協力を得て反撃します。第二号新興丸の攻撃により、潜水艦一隻が被弾し、潜航したものの大量の油が海面に浮いたといわれます。反撃と、通報によって飛来した日本軍の水上偵察機の掩護もあって、潜水艦はそれ以上の攻撃はせず、第二号新興丸は留萌港にたどり着くことができました。 しかし、第二号新興丸の犠牲者数は死者・行方不明者は400余人とされ、遺体が確認できただけで298人であったともいわれます。
 そして午前9時52分頃、約780人を乗せて大泊から小樽に向かっていた泰東丸(880t)が、留萌小平町沖西方25Kmの海上で、浮上した潜水艦の砲撃を受けました。 一発被弾すると、泰東丸の船員たちは白いシーツを掲げ、潜水艦から見えるように大きく振ります。「降伏」を意味する白旗でした。ところが潜水艦は、これを全く無視して砲撃を続けました。武装していない貨物船の泰東丸は、なす術もなく標的とされます。 やがて泰東丸は10数発を被弾して、船体が大きく傾き、船内は血まみれの死体や重傷者が折り重なりました。重傷を負っていない者は海に飛び込み、脱出を図ります。やがて泰東丸は左舷を下に海中に没しました。667名が死亡したとされます。
 事態を知った沿岸の漁師たちは「こんなことが許されてたまるか」と、潜水艦の攻撃を受ける恐れがあるにもかかわらず、海に船を出して救助にあたり、遺体を回収して弔いました。これらの事件を引き起こした潜水艦は、公には「国籍不明」とされています。しかし、米英軍が戦闘を停止している中、この海域で作戦活動をしていたのが、ソ連海軍第一潜水艦隊所属のL-19とL-12であったことが、ソ連の記録から判明しています。しかもウラジオストクに帰還したL-12のコノネンコ艦長は、ソ連で英雄扱いを受けました。一方、L-19は行方不明・未帰還となっており、第二号新興丸の攻撃で損傷したことが原因である可能性もあります。停戦意思を通達している国の船舶に対しての一方的な攻撃・撃沈、また白旗提示を行なった船舶への攻撃は、国際法及び戦時国際法に明らかに違反する行為です。しかし、ロシア政府はいまだにこの事実を認めようとはしません。
 終戦後、1,708人もの日本人が一方的に「殺戮」された事実は、まず日本人として記憶に留めるべきことです。そして、これは日本人に落ち度があったからではありません。 犠牲者の方々を悼むとともに、この悲劇からいま日本人が学ぶべきことは多いと感じます。
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