💥28」─1─スーダン内戦と大虐殺。日本の南スーダンにおけるPKO任務。~No.107No.108No.109 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 2017年9月13日 産経ニュース「【中東見聞録】大量殺戮、子供は戦闘員…「失敗国家」南スーダンの独立は性急すぎた
 2016年9月、米ワシントンで、南スーダン問題に関する記者会見に臨むジョージ・クルーニーさん(AP)
 ささやかな自慢なのだが、米ハリウッド俳優のジョージ・クルーニーさん(56)に危ういところを助けてもらったことがある。南スーダンで2011年1月、スーダンからの分離独立を決める住民投票を取材したときのことだ。
 クルーニーさんはアフリカ支援に熱心なことで知られ、このときは南スーダン独立に向けた運動に取り組んでいた。このため、南スーダンの首都であるジュバで開かれた祝賀イベントに、ケリー米上院議員(当時)ら各国要人と並んでゲストとして出席していたのだ。
 独立実現に向けた国際世論の喚起に役割を果たした「広告塔」のコメントをもらおうと、クルーニーさんをつかまえた。が、そこに殺到してきた欧米メディアの記者たちに押され、私はバランスを崩してしまった。地面は前夜の雨でぬかるんでいた。
 泥だらけになることを覚悟した私の肩に、クルーニーさんのたくましい腕が回った。「アー・ユー・オーケー?」。私を支えながらこう言ったクルーニーさんは優しく、にこやかで上機嫌だった。
 祝賀会場のあちこちでは、住民投票の実施を祝う市民が踊りの輪を作っていた。北部のスーダン中央政府との長年の内戦を終結させ、独立を迎えつつあった当時の南スーダンは表面上、希望に満ちていた。事実、そのような論調で報じるメディアが大半だったと思う。
   ◇   
 あれから6年以上が経った今、南スーダンは「失敗国家」と言っていい状態にある。
 13年末に、最大民族ディンカ人のキール大統領派と、ディンカ人による支配に反発する勢力との武力衝突が発生して以降、各地で戦闘が続く。国連推計によれば、人口の約3分の1に当たる400万人が住む場所を失い、難民あるいは国内避難民となった。
 現地で医療支援などを行う赤十字国際委員会(ICRC)によると、ICRCが治療にあたった戦傷者数は、今年前半だけで昨年1年間を上回っている。
 国連平和維持活動(PKO)でジュバに派遣されていた日本の自衛隊部隊は、今年5月までに撤収を完了した。
   ◇   
 「われわれの治療を受けても、すぐに戦闘に戻っていってしまう兵士が多い」
 今月までの約4カ月間、ICRC外科チームの一員として現地に派遣された朝倉裕貴看護師は、こう語る。「『命を助ける』という思いに変わりはありません。でも、ジレンマは感じる」とも。
 朝倉看護師の言葉には、南スーダンが独立当初から抱えてきた問題が凝縮されているといえるだろう。
 アラブ系イスラム教徒中心の北部と、黒人系キリスト教徒中心の南部が争ったスーダン内戦(1983〜2005年)で、南部のスーダン人民解放軍(SPLA)は、非正規の民兵を含めると数十万人の戦闘員を擁したといわれる。
 独立後の南スーダン政府は、インフラ整備などに大量の資金を必要とする一方で、軍を適正規模に再編しつつ、兵士らの“復員”を進めなくてはならなかった。平和構築の分野でいわれる「武装解除・動員解除・社会復帰(DDR)」である。
 しかし、兵士の多くは、少年のころから戦闘に従事してきた者ばかりだ。戦争以外の生き方を知らないと言ってもいい。
 ジュバでクルーニーさんらが参加した祝賀イベントの会場のすぐそばに、粗末な掘っ立て小屋が並ぶスラムがあった。そこで知り合ったSPLA兵士の一人は、2005年の内戦終結に伴って前線からジュバに戻ったものの、別の仕事に就くこともなく、軍からの手当を頼りに昼から酒を飲んでいた。目が据わっていて、室内にはライフル銃が置いてあった。「必要があれば誰とでも戦う」という言葉に誇張はないと感じた。
 職業訓練も不十分なまま除隊になった場合、こうした兵士たちは、社会や政権にとって大きなリスクとなる。政府は大量の兵士を抱え続けなくてはならないのだ。
   ◇   
 その上、南スーダンには、文化や言語の異なる民族が多く暮らしており、その数は小さなものまで含めると数十に上るともいわれる。外部からは同じように見えても、歴史的に対立を繰り返してきた民族も多い。ジュバでは英語や、ジュバ・アラビックと呼ばれるアラビア語方言が広く通用するが、それは、イギリス人やアラブ人の支配を受けたという歴史に加えて、南スーダン人同士の意思疎通に必要だからでもある。
 政府軍の母体であるSPLAもまた、多民族で構成され、必然的に民族間対立を内包してきた。現在、キール大統領に反旗を翻している反政府軍は、SPLAから分裂した勢力に過ぎない。
 「戦いしか知らない兵士」と「他民族への憎しみ」が何かのきっかけで結びつくことで激しい内紛に発展する。それが南スーダンの現実だ。
   ◇   
 こうした事態は、独立前に予想できないものではなかった。
 北部という共通の敵と戦っていたスーダン内戦のころでもSPLAは分裂や内乱を繰り返していた。独立時の南スーダン政府は歳入の9割超を原油収入に依存していたが、各民族は油田地帯の利権をめぐって対立していた。原油採掘関連とわずかな農業以外に産業もないことから、兵士の動員を解除しても受け皿がないことは明白だった。
 米国をはじめとする国際社会の圧力で内戦を終結に導いた意義は大きい。だが、準備不足が明らかだったにもかかわらず、独立を後押しした責任は重い。
 その背景には南スーダンの石油利権を確保する狙いがあったと指摘されるが、私はそこに、アフリカに対する白人特有の後ろめたさや贖罪意識も作用していたと考えている。
 イスラム教徒中心で「テロ支援」の疑いも強いスーダン政府と戦うキリスト教中心の南部という図式も、米欧による南スーダンに対する一方的な支援の要因になったのではないか。ジュバでは、米国などのキリスト教系の慈善団体が多数活動しているのを見たが、内戦期から続いてきたそうした支援が、結果として戦闘を長引かせることにつながったとの指摘もあった。
 南スーダンから帰国したばかりの朝倉看護師は、こうも語る。「衝突はほんのささいなことで起きると感じます。雨季に物流が滞って食料が足りなくなったことがきっかけだったり、兵士同士のいざこざだったり…」
 軍事衝突が拡大した13年末以降、南スーダンではジェノサイド(大量殺戮)や、女性への暴行を含む民族浄化が進行中だ。死者は数万とも数十万ともいわれる。政府軍も反政府勢力も、かつての内戦期と同じように子供を戦闘員として利用し、「戦い方しか知らない兵士たち」が生み出され続けている。
 南スーダン独立は性急に過ぎたのではないか−。11年当時から取材したり南スーダンに関連するニュースに接したりするたびに、こんな思いが拭えない。あのときさわやかな笑顔を浮かべていたジョージ・クルーニーさんは、どう考えているだろう。
(外信部、前中東支局長 大内清)
 ■南スーダン共和国 2011年、住民投票を経てスーダンから分離独立し、193番目の国連加盟国として承認された。アフリカでは54番目の独立国家。2016年の推定人口は約1270万人。最大民族ディンカ人のキール大統領が、ヌエル人のマシャール副大統領を解任したことをきっかけに、13年末から各地で政府軍と反政府勢力との武力衝突が拡大し、内戦状態が続いている。
 ■スーダン内戦 1983年にアラブ系イスラム教徒主導のスーダン中央政府が全土にシャリーアイスラム法)を導入。これに反発したキリスト教徒が多い南部の黒人系民族がスーダン人民解放軍(SPLA)を結成し、内戦に突入した。国連安全保障理事会は2004年、政府とSPLAに和平合意を求める決議を採択。これを受けて05年、南部に自治政府を設立することや、将来的な独立に向けた住民投票を実施することなどを定めた包括和平合意が成立し、内戦は終結した。サハラ砂漠以南では最長・最大規模の内戦とされ、約200万人が死亡したとみられている。」
  

   ・   ・    ・   

民主主義がアフリカ経済を殺す

民主主義がアフリカ経済を殺す