🔯55」─2・B─オランダ領バリ島デンパサール集団自決事件(1906年)とカミカゼ特攻の共通点。~No.196No.197No.198 @ 

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 オランダ総督府は、バリ島を植民地支配したが、バリ人の集団自決に恐怖して原住民を懐柔するべくバリ島の伝統・文化・宗教・習俗を保存する政策を敷いた。
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 全滅覚悟で戦う民族は、伝統・文化・歴史・宗教・言語・習慣を後世に残す事ができる。
 命大事で戦争を嫌い平和を求める民族は、祖先から受け継いで来た全てを捨て去り、そして最後には民族そのものを失い消え去る。
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 2023年12月21日 YAHOO!JAPANニュース デイリー新潮「「南国の楽園・バリ島」で起きた悲劇――島民たちが取った「予想外の行動」とは バリ島侵攻・ バリ島のサンセットと観光客
 アジア屈指のリゾート地として、日本でも高い人気を誇るバリ島。しかしその「南国の楽園」で、数百人規模ともいわれる集団自決事件が起きたことを知っている人は、そう多くはないだろう。
 【写真を見る】バリ島で1000人以上が一斉に―― 知られざるバリの悲劇
 戦後の国際政治学をリードした高坂正堯氏(1934~1996年)も、バリ島の集団自決事件を知ったとき、大きなショックを受けたという。高坂氏の「幻の名講演」を初めて書籍化した新刊『歴史としての二十世紀』(新潮選書)から、一部を再編集して紹介する。
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 皆さんには、すでにバリ島に行かれた方や、いつか行ってみたいという人もいるかもしれません。旅案内も兼ねて、この若者にも人気の観光地についてすこし話します。
 それは1906年のことでした。バリ島はインドネシア、昔の「蘭領東インド」と呼ばれた地域の一部でしたが、日露戦争が起こる前までは完全な植民地統治下にはなく、現地の王様に限定された実権があるという奇妙な政治的状況が続いていました。そして、1904~06年にかけて、オランダは完全植民地化しました。
 スペイン、オランダ、イギリスと覇権国家は移り変わり、征服されずにいる土地もかなり限られてきたのですが、当時もヨーロッパ帝国主義に勢いがあったことは間違いなく、その最後の犠牲になったのがバリ島でした。
 難破船の荷物は誰のものか
 さて、オランダがバリ島を完全に植民地化するきっかけになったのが難破問題です。あの付近は大小様々な島々がひしめき暗礁も多く、熟練した航海士がいても、船がよく難破するのですが、バリ島古来の慣習によると、難破船の荷物はそれが打ち上げられた海岸の住民の持ち物ということになっていました。
 ところが、当時のヨーロッパの海洋法、つまり、当時の国際法の常識はこれと異なっていました。たとえば、誰も注目しなかったので、今は思い出す人もいませんが、日本がイギリスと最初に締結した通商条約に「難破船の荷物はイギリスに帰属する」という条項があります。全体で7条か、8条しかない二国間の取り決めですが、難破船の積み荷がどちらに所属するか明確な記述があることは、当時、これが国際問題だったことがわかります。
 私はこのことを昔から知っていたわけではなく、去年末、バリでこの紛争について調べて、初めて難破船の所有物の帰属問題について知ったわけです。その後、再び、日英通商条約を読む機会があり、条文に当たって、「なるほど、こういうことだったのか」と当時の国際情勢を確認することになったわけです。
 歴史的背景を知らずに無味乾燥な条約を読んでも、頭には入っていきません。大事な内容かどうかわかるのは、読む人次第です。たまたまバリ島に行くことがなかったら、日英通商条約の最初の方に難破船の持ち物問題があったことも思い出せなかったでしょう。
 島民たちが取った異様な行動
 「〈いい人〉の政治家が戦争を起こすことがある」「ロシアに大国をやめろと強制することはできない」――戦争の時代に逆戻りした今、現実主義の視点から「二度の世界大戦」と「冷戦」を振り返る必要がある。世界恐慌共産主義、大衆の台頭、文明の衝突……国際政治学者の「幻の名講演」を初の書籍化【解題・細谷雄一】 『歴史としての二十世紀』(新潮選書)
 さて、バリ島でオランダに対する紛争が起きて、結果、オランダはバリ島を締め上げて支配を広げます。その過程で戦争も起こりますが、戦争より大きなインパクトを与えたのは、1906年に起こった集団自殺事件です。それは、今もバリ島の中心地で、空港もあるデンパサールで起きました。
 その街の市場の前の広場で、白むくの衣装の王族がオランダ軍の駐屯地の100メートル手前まで行進し、乗っていた輿から降りた王を僧侶が剣で刺して殺し、それを発端に参列者たちも多くが自殺しました。それが嫌だった人は、オランダ軍に丸腰で突撃をして小銃や大砲の弾に当たって死ぬという出来事が起こったのです。
 デンパサールから15キロほど北東方向にあるクルンクンでも、ゲリラ戦が繰り広げられますが、こちらも集団自殺で抵抗が終わりました。これらは西欧諸国による植民地主義的な軍事侵攻でも最後期の出来事でしたが、もたらされた悲劇はそれまでと変わりませんでした。その後、しばらくして各地の民族主義者たちが立ち上がり、多くの犠牲者を出しながら、植民地主義はアジアやアフリカから後退していくことになります。
 この事件はオランダだけでなく世界に大きな衝撃を与えました。キリスト教を信仰しているヨーロッパ人にとって自殺は忌避すべき行為です。それが集団自殺というさらに異様な事態に直面して、その裏になにか理由があると彼らは考えたわけです。そして、それまでの東インド統治の強権的な植民地支配をここで行うと大変なことになるのではないかと危惧し、オランダ総督府は、バリ島にだけは現地習俗、文化、宗教を極力保存する政策を敷くことにします。
 その結果、「南国の楽園」とまではいかないにしても、バリ島は伝統的な風習と昔らしい雰囲気を残した場所として生き残ることができました。多くの専門家が指摘する通り、集団自殺事件は島古来の社会システムを守る防衛的役割を果たしました。
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 以上のように、高坂氏の新刊『歴史としての二十世紀』には、西欧文明とそれ以外の文明が遭遇した時に起きた、いくつもの激しい争いが描かれている。もちろん日本も例外ではない。薩英戦争から日露戦争、そして2度にわたる世界大戦を戦うなかで、多くの悲劇があった。
 そして現在も、なお世界各地で国家や民族の衝突が繰り返されている。あらためて前世紀に行われた戦争と和解の歴史を振り返ることが必要とされているのかもしれない。
 ※本記事は、『歴史としての二十世紀』(新潮選書)に基づいて構成したものです。
 デイリー新潮編集部
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 デンパサール (インドネシア語:Kota Denpasar) は、インドネシアのバリ州の都市であり、「北(デン)の市場(パサール)」という意味である。旧名はバドゥン。バリ島の南部に位置し、バリ州の州都。小スンダ列島の中心地でもある。1958年にバリ州が設置された当初はシンガラジャが州都であったが、1960年に州都となった。デンパサール市 (Kotamadya Denpasar) は第二級地方自治体 (Daerah Tingkat II) であり、県 (Kabupaten) と同等である。ビーチリゾート地として知られるサヌールも含まれるが、普通デンパサールと言えばププタン広場周辺を指す。郊外のングラ・ライ国際空港からはタクシーで約40分程度かかる。
 歴史
 植民地時代
 デンパサールはバドゥン王国の首都だった。
 1906年、オランダのバリ侵攻によって王宮は破壊・略奪された。中央広場の像はププタン(王や貴族を含む何千人ものバリ人が、オランダ軍に降参するよりも自決を選んだ事)の記憶を残している。
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 バドゥン王国のププタン(1906年
 ププタン(puputan)とは、古来あるバリの風習で、王朝が戦闘で敗北すると自決を選び、多くの王族、貴族が殉死をすること。バリ語で「終焉」を意味する。
 特に、 バリ戦争(1846年 - 1849年)、ロンボク戦争(1894年)、バリ侵攻(1906年)、バリ侵攻 (1908年)など19世紀末から20世紀初頭にかけてのオランダ海上帝国東インド軍によるバリ島侵攻時に、王国のいくつかが、王(ラジャ)を先頭に美しく着飾り、親族や家臣らが行列を作って自決覚悟でオランダ軍に向かって「死の行進」をして銃弾に倒れていった集団自決行動を指す。
 さらには、インドネシア独立戦争の過程で、グスティ・ングラライ将軍率いる部隊がオランダ軍と熾烈に戦い全員玉砕した行為などをいい、反植民地、独立のシンボルとして語られている。
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 本項では、1906年のオランダのバリ島侵攻について述べる。この戦争でバリ島南部のバドゥン国とタバナン国は壊滅し、クルンクン王国の弱体化を招いた。オランダ軍による6度目のバリ島侵攻であった。
 経緯
 詳細は「バリ戦争」および「ロンボク戦争」を参照
 オランダ海上帝国は1846年から1849年にかけてのバリ戦争でジュンブラナ国、ブレレン国を獲得し、また1894年のロンボク戦争でロンボク国とカランガスム王国を獲得し、オランダ領東インド領土に編成することに成功した。
 しかし、バリ島南部のバドゥン国とタバナン国はいまだ独立状態を保っていた。オランダ帝国は両国にオランダ領東インドへの編入を交渉したが、こうした交渉はオランダによる軍事侵攻の口実であった。
 1846年のバリ戦争の口実と同じ口実で、オランダ側はバリ島の王に、島の周囲の暗礁に乗り上げた難破船の略奪に関して国際法違反であると主張し、バリ側は難破によって所有権は移転することは伝統的な習慣のタワン・カラン(tawan karang)であると反論した。
 1904年5月27日、中国のスクーナー船スリ・クマラ号がサヌール海岸沖の暗礁に乗り上げ、バリ人によって略奪された。オランダは賠償を請求し、バドゥン国王はこれを拒否、タバナン国とクルンクン王国の王がこれを支持した。
 タバナン国王とオランダはすでに1904年に、ヒンドゥー教の習慣で寡婦が夫(主人)の遺体とともに焼身自殺するサティーの実施をめぐってオランダがこの習慣をやめるよう要請したところ、国王がこれを拒絶したため、オランダは不快に感じていたという経緯があった。
 1906年6月、オランダはバリ島南部の沿岸の封鎖を開始し、最後通牒をバリに伝えた。

 デンパサール
 オランダ軍がデンパサールに進軍したときは、ドレス・パレードのようであった。宮殿に到着すると、そこでは儀式puriによる香が焚かれて、太鼓を打つ音が聞こえた。オランダ軍の到着以前、宮殿では静かな葬儀儀礼がなされている最中で、ラージャ(君主)が4人の担ぎ手によって輿に担がれて進行していた。ラージャは白い伝統衣装、大量の宝石、儀式的な剣(クリス)を着用しており、また王の臣下たち、僧侶、護衛隊、王妃や皇太子らも同様の衣装を着用していた。これらは死のための儀式であった。
 ラージャの体を覆っているバリ人
 葬儀儀礼がオランダ軍より100歩ほど進んだところで、列は停止し、ラージャは神輿から降りて、僧侶に促すと、僧侶は剣をラージャの胸に突き刺し、同時に参列者たちもみな自殺したり、互いに刺しあって集団自決を行った。これはププタンとよばれる風習で、「死との戦い」を意味するものであった。女性たちは身につけていた宝石や金のアクセサリーを外すとからかうようにオランダ軍に投げつけた。
 オランダ軍砲兵
 オランダ軍は小銃と大砲による攻撃を開始、宮殿から飛び出ると、死体の山が高く積み上げられていった。儀式では数百人、または1000人以上が参列していたといわれ、これらはオランダ軍の砲撃で殺害された。
 別のププタンの記録では、オランダ軍は最初に宮殿の外で伝統的な短剣や槍や盾で武装したバリ人の群衆に攻撃を開始し、生存者が集団自決を行ったといわれる。オランダ軍兵士は遺体から宝石など価値のあるものを剥ぎ取り、宮殿の廃墟から略奪をし、こうしてデンパサールの宮殿は破壊された。
 同日午後、同様の事件がペメクテン(Pemecutan)宮殿の近くでも発生し、オランダ軍は宮殿の支配層が集団自決をしたあと、財宝などの略奪を行った。これらのププタンは「バドゥン・ププタン」とよばれ、その後外国勢力への抵抗の例として賞賛され、宮殿跡地のデンパサールの中央通りに巨大なブロンズ製の記念碑が建設された。

 影響
 オランダによるバリ島侵略はメディアにとりあげられ、バリ南部侵攻における血なまぐさい行為が欧米へ伝えられた。オランダ側が口実とした、バリ島の王国側の罪に対するオランダ側の懲罰行為の過剰な過酷さが指摘された。結果として、慈悲深く責任ある植民地大国としてのオランダ像は深刻な影響を受けることとなった。
 ジャワ島、スマトラ島、東部の島におけるオランダの植民地政策は批判され修正を余儀なくされ、オランダ道徳政策(英語版)が新たに発表されるにいたった。その結果、バリにおけるオランダ人はバリ伝統文化の保護者となり、彼らはバリに近代化をもたらすとともにバリの伝統を保持することになっていった。バリ伝統文化保全の努力は、バリを「古典文化が生きた博物館」と宣伝され、1914年にはバリは観光地としてオープンされた。
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