🔯58」─2─イギリス人が日本民族と違うのはヘイスティングスの戦いが原因である。1066年。~No.212No.213 

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 4万年前の旧石器時代から続いたイギリスの分かれ道は、大陸勢力・異人種異民族の侵略で占領されたかどうかである。
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 イギリスはノルマン人征服(ノルマンコンクエスト)の結果、先住民独自の言語、法律、習慣、建築などが変化した。
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 日本民族は、数万年前の旧石器時代縄文時代から今日まで生き残れたのは、中国や朝鮮そしてロシアなどの大陸勢力・異人種異民族の侵略から日本を守る為に、命を犠牲にして自衛戦争をおこなって守ってきたからである。
 これが、歴史の教訓であった。
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 日本経済新聞
 4万年前から6世紀まで こんなに変わった英国人の顔
 NIKKEI STYLE
 2019年5月24日 15:53
 ナショナルジオグラフィック日本版
 ホワイトホークウーマン、5600年前 小柄でやせた女性で、25歳に達する前に出産が原因で死亡したとみられている(骨盤のあたりに胎児の骨が見つかった)。ブリテン島の新石器時代初期の埋葬地跡であるホワイトホークエンクロージャーで1933年に発掘された。最新のDNA解析により、ここに埋葬されていた人々は、後にブリテン島にやって来たビーカー人と比較して、一般的に肌も瞳の色も濃かったことが示唆された。彼らは、約4400年前にビーカー人に取って代わられた(COURTESY ROYAL PAVILION & MUSEUMS, BRIGHTON & HOVE)
 2018年、褐色の肌に青い瞳をもった1万年前のイギリス人「チェダーマン」の顔が復元されると、ブレグジット移民問題で揺れる英国で、真の「先住民」はどんな人々だったのかという論争に火が付いた。そして、2019年、新たに7人のブリテン島の「先住民」の顔が公開された。イングランド南部の海岸で発見された頭骨を基に、法医学の技術を使って復元したものだ。
 この地域が、考えられていたよりも複雑な歴史をもつことを物語っている。7人の顔は、19年1月26日から英国ブライトン博物館・美術館に展示されている。
 博物館のコレクション管理責任者リチャード・ル・ソー氏の説明によると、7人のうち5人は、サセックス州南東部の町ブライトン周辺で発掘された紛れもない地元民であるという。現代に一番近い人物は1500年前の男性で、死亡時の年齢は40代と考えられている。この男性は、ローマ人によるブリタニアの支配が終わり、大陸からゲルマン人が侵入した6世紀のアングロ・サクソン時代に生きていた。ちなみに「イングランド」という名称は、アングロという言葉に由来したものだ。
 残る2人は4万年前の人物で、ネアンデルタール人女性と、初期の現生人類の男性だ。実は、欧州のほかの地域で発見された頭骨を使って復元したものだ。約4万年前のイングランド南部・ブライトンには、ネアンデルタール人と現生人類がともに生きていたことが分かっている。
 大陸と陸続きだった時期も
 14カ月かけて古代のイギリス人の顔を復元したのは、考古学者で彫刻家のオスカー・ニルソン氏だ。ほかに、1200年前のペルーの貴婦人や9000年前のギリシャに住んでいた10代少女の顔の復元を手がけたこともある。ニルソン氏はまず頭骨をスキャンし、3Dプリンターで正確な立体模型をプリントする。それに、その人物の出身地、性別、死亡時の推定年齢といった情報から、骨の構造や肉の厚みを決め、手で肉付けていく。
 最近の古代ヨーロッパ人のゲノム解析により、肌、頭髪、瞳の色はある程度正確に推測できるようになった。例えば、7人の1人である5600年前の「ホワイトホークウーマン」が属していた新石器時代の人々は、1万年前のチェダーマンなどよりも肌の色が薄く、瞳の色が濃い。一方、後にユーラシア大陸からやって来た4400年前の「ディッチリングロードマン」は、肌と瞳の色がもっと薄かった。彼は、その頃に大陸からブリテン島に押し寄せ始めたビーカー人と呼ばれる農民の集団に属していた。
 英国は現在、欧州連合離脱交渉の最終段階に入ろうとしている。この展示をきっかけに、ブライトンの先住民やユーラシア大陸との文化的つながりについて対話が生まれることを、ル・ソー氏は期待している。
 「私たちがどれだけ大陸と強く結びついてきたか、各時代における民族の大移動がどれだけ私たちの歴史に影響を与えてきたかを伝えられればと思っています」。ル・ソー氏はまた、ブリテン島がユーラシア大陸と過去数度にわたって陸続きだったことがあり、わずか8000年前にもつながっていたと付け加えた。
 それぞれ個性的だった
 今回の展示の興味深い点は、科学によって彼らの人生が明らかにされたことだと、ニルソン氏は言う。「これまで数多くの頭骨を扱ってきましたが、7人はどれも個性的でした。完成した顔から、それぞれの人生が見えたのです」
 特にホワイトホークウーマンには、ただならぬ事情があったことがうかがえる。この女性は5000年以上前に、現在のイングランドウェールズとの境あたりで生まれ、その後ある時点でサセックスへ向かって東へ数百キロ移動し、新石器時代の墓地に幸運のお守りとともに埋葬されたことが分かった。
 骨盤のあたりに胎児の骨があったことから、女性は出産時に死んだと思われる。顔を復元するという芸術的作業に取り組む際、ニルソン氏はこの科学的洞察を生かすようにした。
 「少しばかり好奇心を抱いていて、未来のことを考えているような表情にしようと思いました。この女性は、出産が原因で亡くなったと思われますが、その直前の彼女の姿を想像して顔を復元しました」
 ディッチリングロードマン、4400年前 1921年の道路拡張工事で発見された。この道路の名がディッチリングロードだった。男性は、紀元前2400年頃にユーラシア大陸からブリテン島へ大量に押し寄せた農民集団の第一波に属していた。彼らは広口で独特な形をしたビーカー式土器を作っていたことから、ビーカー人と呼ばれている。男性の骨を調べたところ、成長期に何度か栄養不足に陥っており、それが彼の成長を少しばかり妨げたとみられている。死亡時の年齢は25~35歳で、その足もとにはビーカー式土器が、口のそばにはカタツムリの殻が数個置かれていた(COURTESY ROYAL PAVILION & MUSEUMS, BRIGHTON & HOVE)
 2300年前の男性「スロンクヒルマン」の制作も「苦労した」とニルソン氏は語る。骨の構造から、鉄器時代の20代男性で、「おそらくハンサムな部類に入っていた」と想像できるが、この手の顔はマネキンのようになりがちだという。また、目の上の額が大きく張り出していて、残酷そうな顔つきに見えただろうともいう。「笑みを浮かべさせようとすると、どうしても不気味になってしまいます」
 1500年前の「スタッフォードロードマン」の顔も迷った点があるという。彼はアングロ・サクソン時代の男性で、顔にできたひどい腫れものが原因で死んだとされている。死亡時、腫れものは膨れ上がっていたはずだが、ニルソン氏はその部分をあえて目立たせないことにしたという。
 「ある程度の尊厳を持たせ、博物館の来館者に、彼とのつながりを感じてもらいたかったのです」
 次ページでは、このスタッフォードロードマンや、4万年前の同時期の現生人類とネアンデルタール人の顔も紹介する。
 4万年前:ネアンデルタール人の女性 この女性はヨーロッパの別の場所で発見されたものだが、イングランド南部で出土した遺物から、ブライトンでは約4万年前にネアンデルタール人と現生人類が共存していたと考えられている。最後の氷河期の間、ユーラシア大陸ブリテン諸島を行き来するのは簡単だった(COURTESY ROYAL PAVILION & MUSEUMS, BRIGHTON & HOVE)
 4万年前:初期の現生人類 この人骨もヨーロッパの別の場所で見つかったもの。ホモサピエンスの作った道具から、ネアンデルタール人が絶滅しようとしていた時期に現生人類もブライトンに住み着いていたことがわかっている。ネアンデルタール人と現生人類が、4000年間ヨーロッパで共存していた可能性を示す研究もある(COURTESY ROYAL PAVILION & MUSEUMS, BRIGHTON & HOVE)
 スロンクヒルマン、2300年前 死亡時の年齢は20代後半だが、死因は謎だ。1968年の高速道路建設中に発見された。活動的で屈強、健康な青年だったとみられる。備蓄用の穴の底に、体をやや折り曲げた状態で埋葬されていた。鉄器時代の典型的な埋葬法だが、奇妙なのは、男性の骨の下に軟体動物が分厚く敷き詰められていたこと。スロンクヒルマンの食事にシーフードは含まれていなかったはずなのに(COURTESY ROYAL PAVILION & MUSEUMS, BRIGHTON & HOVE)
 1700年前:パッチャムウーマン ブリテン島が古代ローマ支配下にあった時代に生きていた女性で、1936年に溝を掘っていた労働者が発見した。かなり深い穴を掘って埋められていたようだが、ひょっとするとそこは犯罪の現場だったかもしれない。女性の後頭部には釘が深く突き刺さり、膝のあたりにも釘が数本散乱していた。すぐそばに男性の人骨も見つかっており、ふたりは互いに足を向けて横たわっていた。女性の脊椎や関節にはストレスや病気の痕が見られ、生前は絶えず体の痛みに悩まされていたと思われる。死亡時の推定年齢は25~35歳(COURTESY ROYAL PAVILION & MUSEUMS, BRIGHTON & HOVE)
 1500年前:スタッフォードロードマン 1985年に建設現場で発見された。男性は、ローマ人が去った後に押し寄せたサクソン人の第一波とともにブリテン島へ渡り、西暦500年頃にやりと刀と一緒に埋葬された。死亡時の年齢は45歳以上。当時としては長生きで、活動的な生活を送っていた。脊椎、肩、腰に関節炎の痕が見つかったほか、歯には巨大な腫れものができていた。おそらく、男性は膿瘍による激痛に苦しめられ、その感染症が脳に広がって命を落としたと思われる(COURTESY ROYAL PAVILION & MUSEUMS, BRIGHTON & HOVE)
(文 KRISTIN ROMEY、訳 ルーバー荒井ハンナ、日経ナショナル ジオグラフィック社)
 [ナショナル ジオグラフィック 2019年1月30日付記事を再構成]
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 REUTERS
 世界のこぼれ話
 2016年10月17日4:26 午後7年前更新
 英国でヘイスティングスの戦いを再現、950周年で熱気ひとしお
 ロイター編集, ロイター
 10月15日、英国史の一大転換点となったヘイスティングスの戦いから950年を迎えたのを記念し、同国の都市バトルで、当時の戦いを再現するイベントが行われた(2016年 ロイター/Neil Hall )
 [バトル(英国) 15日 ロイター] - 英国史の一大転換点となったヘイスティングスの戦いから950年を迎えたのを記念し、同国の都市バトルで15日、当時の戦いを再現するイベントが行われた。
 戦いは1066年、征服王の別名で知られるノルマンディー公ウィリアムとアングロサクソン側の王ハロルド2世の間で行われ、ウィリアムの勝利によりノルマン人征服(ノルマンコンクエスト)が始まった。この結果、英国の言語、法律、習慣、建築などが変化することとなった。
 再現イベントは毎年実施されているが、主催者によると今年は特に関心が高かったという。弓矢や剣、槍などで「武装」した中世愛好家数千人が参加した戦い再現のほか、鷹狩り、中世音楽などのパフォーマンスも繰り広げられた。
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 世界史の窓
 ヘースティングスの戦い
 1066年、ノルマンディー公ウィリアムがイングランドを征服した戦い。
 1066年、ノルマンディー公ウィリアムの軍がイングランド王国に上陸、サセックス州のヘースティングスで、アングロ=サクソン人の貴族でイングランド王を自称していたハロルドの軍を破り、イングランドを征服した。この「ノルマン=コンクェスト(ノルマン征服)」でイギリス(イングランド)にノルマン朝が成立した。→イギリス(1)
 ノルマンディー公ウィリアムを迎え撃ったのは、イングランド王ハロルド2世を称していたが、有力貴族ゴドウィン家の出であるが正統性に乏しく、苦戦を強いられた。また当時、イングランドの北方にはノルウェー王ハーラル3世が侵入しており、ハロルドは南北両面で戦わなければならなかった。まず北部のヨーク近郊でノルウェー軍を討ち、すぐさま南下してヘースティングスに布陣し、ノルマン軍を迎え撃った。しかし、ハロルド軍が歩兵主体であったのに対し、ノルマン軍は騎兵を中心としており、戦闘はノルマン軍優勢のとなって、ハロルドは敗死して終わった。
 参考 バイユー=タペストリ
 ヘースティングスの戦いを描いたバイユータペストリーには鮮やかな戦闘場面が描かれている。次はその一部分。左側にノルマンディ公ウィリアムの率いるノルマン騎兵、右側にイングランドの歩兵が描かれており、戦死した兵士の姿も見られる。
 バイユータペストリ
 バイユータペストリに描かれたヘースティングスの戦い
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 2023年6月4日 YAHOO!JAPANニュース ナショナル ジオグラフィック日本版「たった1日でイングランドを永久に変えてしまった「ヘースティングズの戦い」とは
 その後の政治、建築物、言語に大きな影響を与えた11世紀のノルマン征服
1066年、ノルウェー軍との戦いを終えたばかりのイングランド国王ハロルドは、疲弊した兵士を引き連れて今度はノルマン軍と戦うはめになった。(ILLUSTRATION LOOK AND LEARN / BRIDGEMAN IMAGES)
 1つの出来事が1つの国のアイデンティティを丸ごと変えてしまうなど、めったにあることではない。それも1日で。しかしそれが起きたのが、1066年の「ヘースティングズの戦い」だった。この血みどろの戦いによって、アングロ・サクソン人イングランドはノルマン人の手にわたり、イングランドの法律、教会、建造物は大変貌を遂げる。英語までもが、後々フランス語やラテン語の影響を強く受けることになる。
 ギャラリー:4万年で「イギリス人」の顔はこんなに変わっていた 写真7点
 背景
 当時、英仏海峡を隔てたイングランドノルマンディー公国の間には様々な深いつながりがあった。ノルマンディーにはバイキングが定住し、フランス王国から実質的に独立してこの地方を支配していた。一方イングランドでは、5世紀にローマ帝国の支配が終わって以来、アングロ・サクソン人の王朝が続いていた。両国の貴族の多くは血縁関係で結ばれ、司祭や貴族、商人たちは英仏海峡を頻繁に行き来していた。
 事の発端
 懺悔王と呼ばれたイングランドエドワード国王が1066年の初めに死去すると、子どものいなかったエドワードはいとこのノルマンディー公ウィリアム(ギヨーム2世)に王位を譲るつもりだったと、ノルマン人が主張し出した。
 しかし、王位継承権を主張する人物がもう一人いた。アングロ・サクソン系のデンマーク貴族で、有能な司令官としてエドワードの右腕になっていたハロルド・ゴドウィンソンだ。ハロルドは、エドワードの義兄でもあった。
 とはいえ、その主張には問題が一つあった。エドワードの死から遡ること2年前の1064年に、ハロルドの船がノルマンディーで難破し、ハロルドはウィリアムに捕らえられるという事件が起こっていた。ノルマン人の記録によれば、ハロルドはウィリアムに王位を譲ることを誓い、無事イングランドに送り返されたという。そのため、イングランドの正式な王はウィリアムに決まりだと、ノルマン人は信じていた。
 しかしエドワードの死後、ハロルドはアングロ・サクソンの賢人会議に承認されてハロルド2世としてイングランド国王の座についてしまった。ウィリアムは激しく憤り、すぐにイングランド侵攻と王位奪取の計画を練り始めた。そして400隻の船を用意し、弓兵や騎兵を含む7000人を招集した。ウィリアムの軍は悪天候のため数週間足止めを食った後に、イングランドに向かって出発した。
 2方向から迫る敵
 迎え撃つハロルドも、戦闘用の斧を持った3000人のエリート兵士に加え、領主たちから提供されたパートタイムの兵士4000人を集めた。
 しかし、ウィリアムの軍が英仏海峡を横断中に、ハロルドには別の脅威が迫っていた。実弟で政敵だったトスティグが、ノルウェー国王のハーラル3世と手を組んでイングランド北部に侵攻したのだ。ハロルドは急遽軍を引き連れてヨークに向かい、トスティグらと対決した。
 激しい戦闘の末、ノルウェー軍を打ち負かしたハロルドは、すぐに回れ右をすると、ウィリアムと戦うため南へ向かった。
 ヘースティングズの戦い
 1066年9月28日、ウィリアムはイングランド南東部の海に面した町ペベンシーに上陸した。そして町を掌握すると、次にヘースティングズに向かった。
 ウィリアム上陸の知らせは、南下していたハロルドにも伝えられた。10月13日、ハロルドの疲弊した軍隊はヘースティングズに到着すると、センラックの丘に防護壁を築いた。翌朝早く、ハロルドが軍を整える間もなくウィリアムは歩兵と騎兵による攻撃を仕掛けた。
 イングランド軍に矢の雨を降らせ、騎兵隊が丘を駆け上がったが、強固な防護壁はなかなか崩れなかった。そこでウィリアムは、敵を欺くため撤退を装うよう命令を出した。ハロルドの兵士らがその後を追うと、思惑通り防護壁が崩れた。
 その結果イングランド軍は大量の死者を出し、ハロルドも片目を弓で射られて命を落とした。王の死が伝わると、残っていたイングランド兵はほとんどが逃げ出し、その日の終わりにはノルマン人が戦場を制していた。
 ヘースティングズの戦いの後、ウィリアムはほとんど抵抗に遭うことなく、1066年のクリスマスの日、ウェストミンスター寺院イングランド国王ウィリアム1世として即位した。イングランドでのアングロ・サクソンの歴史はこうして幕を閉じ、ノルマン人による完全な支配が始まった。
 今も色濃く残る影響
 ウィリアムの勝利により、イングランドとノルマンディーは統一され、その後4人のノルマン王が88年にわたってイングランドを統治した。やがて、ノルマン人の影響はイングランドのいたるところにおよんでいった。
 ウィリアム1世は、イングランド封建制度をもたらした。聖職者、領主、男爵など自分に最も近い支援者や信頼できる顧問に土地を与え、引き換えに軍事支援を受けた。世界初の土地台帳(ドゥームズデイ・ブック)が、その計画の規模の大きさを物語っている。
 イングランドの貴族はノルマン人の貴族に取って代わられ、イングランド貴族にはわずか5%の富しか残されなかった。今でも英国では、ノルマン人を祖先に持つ地主が多い。こうして少数のノルマン人が富と権力を掌握し、中央集権型の政治体制が整えられた。
 地方でも、要職に任命されたのはほぼすべてフランス語を話すノルマン人だった。その結果英語が公用語でなくなり、14世紀のエドワード3世の時代になるまで表舞台ではほんど使われなくなった。法廷で再び英語が使われるようになったのは、17世紀に入ってからだった。この間に公用語とされたフランス語とラテン語が英語に大量に流入し、今も「judge(裁判官)」「jury(陪審)」「evidence(証拠)」などといった単語にその名残を留めている。
 他にも、強大な帝国を築こうとしたノルマン人は、ローマの影響を受けたロマネスク様式の建築をイングランドにもたらした。この頃建造された数多くの城には、それ以前のイングランドにはほとんど見られなかったなかった丸いアーチや巨大な円柱が登場する。これらの要素は、ノルマン人が権力を維持するためには欠かせなかった。今も残る代表的な建造物には、ダラム大聖堂ウィンチェスター大聖堂コルチェスターにある聖ヨハネ修道院ロチェスター城、ノリッジ城、コルチェスター城、ロンドン塔のホワイトタワーなどがある。
 時代の終わり
 1087年にウィリアム1世が死去すると、王国の分割をめぐって子どもたちの間で対立が起こった。いったんは次男のウィリアム2世が王位を受け継いだものの、1100年に死去した後は、最終的にその弟でウィリアム1世の末息子であるヘンリー1世が全ての権力を掌握し、国は分裂を免れた。
 ヘンリー1世は息子のウィリアム・アデリンを自分の正式な後継者としたが、そのウィリアムも1120年に船の事故で命を落とすと、次は娘のマチルダを後継者にした。しかし、この決定は支持を得られず、1135年のヘンリー1世の死後、その甥でブロワ家のスティーブンが王位を奪って、自らを国王であると宣言した。これにマチルダが抵抗し、国内に混乱が生じた。この時代を、イングランドでは「無政府時代」と呼んでいる。
 結局、1154年に新たなイングランド王室のヘンリー2世が王位につき、イングランドにおけるノルマン人の支配は終わりを告げた。
 文=PATRICIA S. DANIELS/訳=荒井ハンナ
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 日本大百科全書(ニッポニカ) 「ヘースティングズの戦い」の意味・わかりやすい解説
 1066年、ノルマンディー公ウィリアム(ギヨーム2世)がイングランド王ハロルド2世を破ってイギリス征服(ノルマン・コンクェスト)を果たした戦い。ウィリアムは、エドワード懺悔(ざんげ)王との間にできていた王位継承の約束を、王の死後王位を継いだハロルド2世により破られたため、彼を撃つことを決意。同年9月末にイングランドに上陸し、ヘースティングズHastingsに陣を張った。その直前ノルウェー王をスタンフォードで破ったハロルドはただちに兵を返して、同年10月14日ヘースティングズで対決。ノルマン騎兵軍に対してイングランド歩兵軍は善戦したが敗れ、ハロルドも戦死した。
 [富沢霊岸]
 [参照項目] | バイユー・タペストリ
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 世界の歴史まっぷ
 ヘイスティングズの戦い -
 戦争・条約
 公開日 2017-02-15
 最終更新日 2019-07-15
 イギリスフランス共和国
 1066年にイングランドヘイスティングスから若干内陸に入ったバトルの丘でノルマンディー公ギヨーム2世とハロルド2世(イングランド王)との間で戦われた会戦。ギヨーム2世が勝利し、ウィリアム1世としてノルマン朝を開いた。
 ヘイスティングズの戦い
 経過
 発端
 イングランドは1016年、デンマークノルウェー王クヌートによって征服された(クヌート1世(イングランド王))。クヌートの王国はノルウェースウェーデンの一部をも征服したため強大な帝国となった(北海帝国)。
彼の死後、イングランドではエドワード懺悔王が即位してデンマークから自立し、アングロ・サクソンの王統を回復した。しかし、その王権は弱体で、国内には有力な封建諸侯が割拠していた。
 エドワードは、最も有力な諸侯であったウェセックス伯爵ゴドウィンの娘エディスを王妃に迎えて彼の協力を得ていたが、実子がないまま没した。ゴドウィンの子でエディスの兄ハロルドが諸侯に擁立されて王位に就きハロルド2世(イングランド王)となったが、これに対し即座に異議を唱えたのが弟トスティとエドワード懺悔王の従甥でフランス貴族のノルマンディー公ギヨーム2世であった。
 ギヨーム2世はノルマンディー公国を強国に育て、フィリップ1世(フランス王)の摂政でウェセックス王アルフレッド大王とマーシア王オファの子孫であるフランドル伯ボードゥアン5世の娘マティルダを妻にしてフランス内で不動の地位を確立していた。彼は懺悔王からイギリス王位の継承を約束されたと主張し、アレクサンデル2世(ローマ教皇)からイギリス支配のお墨付きをも取り付けて遠征の準備にかかった。
 ノルウェー軍の侵攻
 ギヨーム2世は8月初めに大艦隊を河口に集めて海峡横断の機を待ったが、逆風のため2ヶ月近くも出発できなかった。ギヨーム2世の侵入に備えて軍を待機させていたハロルド2世は、当初用意させた糧食が尽きたため9月初めに備えを解いた。直後、トスティと手を組んだハーラル3世(ノルウェー王)がイギリスの王位を狙って北から侵入した。ハロルド2世(イングランド王)はノルウェー軍が上陸したヨークまでロンドンからわずか4日間で急行し、油断していたハーラル3世の陣営を急襲し(スタンフォード・ブリッジの戦い)、トスティとハーラル3世を討ち取りノルウェー軍を壊滅させた。
 戦い
 ハーラル3世らが敗死した頃、ギヨーム2世は船団の出港を命じ、約6000の兵力を持ってイングランド南部のヘイスティングズに上陸した。当時のヘイスティングズは岬の先端にあり、ロンドンまでは尾根筋の一本道を進撃する以外に無かった。一方、ハーラル3世を破ったハロルド2世は返す刀で7000の軍と共に南下し、ヘイスティングズのある岬の付け根にあるバトルの丘で陣立てを整えようとした。これを察知したギヨーム2世はイングランド軍の陣形が完成しないうちに合戦に持ち込む以外に勝機は無いと考え、バトルの丘に急行。丘の麓に布陣した。決戦は10月14日朝に始まった。ノルマン軍は短弓やクロスボウを装備した弓兵に援護させながらの騎兵による突撃を繰り返したが、丘上に布陣したイングランド軍は長大な戦斧を装備した重装歩兵による密集陣形でこれに応じ、昼までに戦闘は膠着状態に陥った。
 11世紀末のヨーロッパ地図
 ©世界の歴史まっぷ
 この後に何が起こったかについては諸説あり、ノルマン側の弓兵がハロルド軍の前衛の盾の列の後方に攻撃を集中した結果、イングランド軍の陣形が綻んだとの説や、ギヨーム2世が退却を装ってイングランド軍の前衛を突出させたところで反転攻撃に転じたとの説もある。いずれにせよノルマン軍はイングランド軍の陣形を崩すことに成功し、ハロルド2世は戦闘中に落命した。
 ハロルド2世が討ち取られたとされている地点はイングランド軍側から見て右翼の丘の中腹にあるが、丘のこちら側は勾配が他の部分に較べて緩やかなことから、ノルマン軍がイングランド軍の右翼に攻撃を集中させた為、ハロルド2世も右翼に移動して前線で戦闘に参加して落命したとの見方もある。
 バイユーのタペストリーではハロルド2世は矢で目を射抜かれたことになっているが、これについては「視力を失う」ことが別の何かの象徴なのではないかとの見方もあり、史実がこのようであったと断言出来るわけではないとされる。
 戦後処理
 ギヨーム2世はイングランド南部を平定、12月25日にウィリアム1世イングランド王)として即位し、ノルマン朝を開いた。
 ウィリアム1世は反抗したアングロ・サクソン系貴族の土地を没収して本土から付き従っていた功臣に与え、彼ら諸侯に忠誠を誓わせて強大な王権を樹立した。またロンドンを首都と定め、教会組織も整えた。
 こうしてイギリスには、中世では例外的に王権が強力な独自の封建制が成立することになった。その後、ノルマン人はアングロ・サクソン人に同化し、文化の融合も行われた。言語もアングロ・サクソンの言葉を中心に、ノルマン・フランスそれぞれの要素を融合させ、今日の英語になっていったのである。
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