🔯46」─1─日本人歴史家が〈世界史の起点は「13世紀」にあり〉と発表した。1942年。~No.163 

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 2023年3月18日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「忘れられた歴史家・上原専禄が、戦後まもなく構想していた「新しい世界史」とは?
 なぜ日本人が、ヨーロッパの歴史を学ばなければならないのだろう? 「世界史」の授業に苦しめられた多くの人が抱いた疑問ではないだろうか。明治以来の歴史家たちも同じだった。日本人にとって「西洋史学」はどんな意味を持つのか――。
 【写真】上原専禄、こんな姿でした
 その問いとの格闘の歴史を、黎明期の歴史家たちの生き方と著作からたどったのが、『日本の西洋史学 先駆者たちの肖像』(土肥恒之著、講談社学術文庫)だ。大塚久雄羽仁五郎堀米庸三といった大家の名が並ぶこの本の中で、特に大きな存在感を見せるのが、上原専禄(うえはらせんろく)である。いったい、どんな歴史家なのか――。
 〈世界史の起点〉は「13世紀」にあり!
 上原専禄。60歳ころ
 〈現在の歴史研究者のなかで、上原専禄(1899-1975)の業績を知るものはどれだけいるだろうか。名前を知るものさえ恐らく少数派、あるいはひと握りではないだろうか。上原は1945年の敗戦前はドイツ中世史研究において大きな業績を残したが、戦後間もなく始めた世界史研究は今でもその意味を失っていないように思う。〉(『日本の西洋史学 先駆者たちの肖像』p249)
 一橋大学名誉教授の土肥恒之氏がこのように書く通り、上原の名は現在、一般の書店でもほとんど見かけることはなくなっている。しかしその仕事と歴史観は、現在も注目に値するという。
 「特に上原が1960年代に提唱した、13世紀を〈世界史の起点〉とする、という考えは当時にして画期的であり、現在も見直されて良いと思います。13世紀のモンゴルによる世界征服を世界の一体化の始まりとする見方は、現在、かなり知られていますが、上原はモンゴルだけでなく、十字軍など西からの動きにも着目していました」(土肥氏)
 かつては、15・16世紀のいわゆる「大航海時代」が「世界史の始まり」とされていた。しかし、それは「ヨーロッパ中心史観」であるとして、13世紀のチンギス・ハンに始まる「モンゴル時代」を「世界史の誕生」とする歴史観は、1990年代以降、岡田英弘氏や杉山正明氏の著作で、広く知られるようになっている。しかしそれ以前に上原は、東西から起こった動きとして、この時代を「世界史の起点」と見ていた、というのだ。
 モンゴルの世界征服という「東からの動き」に対し、「十字軍戦争」というイスラム教徒に対する「西からの動き」を、上原は「ローマ教皇による世界政策」とも呼んでいる。モンゴルの征服は、日本、朝鮮、ヴェトナムやロシアだけでなく、イスラム世界にとっても「野蛮人の侵入」と思われたかもしれないが、ローマ・カトリックにとっては共同戦線を張ることの可能な「新しい東方の勢力」だとする見方があった。
 具体的には、2度にわたり十字軍を率い、モンゴルに使者を派遣したフランスのルイ9世(在位1226-70)、そしてモンゴルに宣教師カルピニを派遣して書簡を手渡したローマ教皇インノケンティウス4世(在位1242-54)にとっては、中東から北アフリカまでを支配していたイスラム勢力を挟みこむ東西連立戦線の形成が現実的な外交課題だった。
 こうしたなかで、三つの世界(ヨーロッパ、アフリカ、アジア)が一つに結び付けられていく可能性が生まれた。そして、東は日本から西はイングランドまで、北はバルト海から南は北アフリカまで、対立と抗争が展開する共通の場としての「ユーラフロアジアの世界」が13世紀に形成された――というのが、上原の見方だった。
 「そして、現代世界の問題は、13世紀まで遡って初めてその起源をつかむことができる、と述べているのですが、これは戦前からドイツ中世史で業績をあげた上原だからこそ出来た仕事だと思います」(土肥氏)
 研究者も瞠目する日本人学者の登場!
 上原専禄は、1899年、京都市西陣の商家に生まれた。8歳の時に愛媛県松山市の伯父の養子となり、松山中学を経て、1915年、東京高等商業学校(のちの東京商科大学一橋大学)に入学し、歴史学への道を進む。そして1923年9月、関東大震災の混乱の中を出港した船に乗ってウィーン大学に留学するが、ここでドイツ中世経済史の大家、アルフォンス・ドープシュ教授に学んだ史料批判、あくまで原史料にこだわる姿勢が、その後の日本の西洋史学のレベルを大きく引き上げる。
 〈専門家として立つためには一次史料に基づく研究が出来なければならない。(中略)言い換えると、中世の社会と文化をめぐる問題、議論はいかにも魅力的ではあったが、史料を云々出来る段階にはなかったのである。翻訳・翻案の段階を抜けだせない、つまり一次史料を扱うのではなく大家の著作の「糟粕を嘗める」後ろめたさは、戦前はもとより戦後にあっても長く西洋史家に付き纏った。〉(『日本の西洋史学』p.134)
 戦前日本のこのような研究状況にあって、1942年、東京商科大学教授となっていた上原が刊行した『独逸中世史研究』は、同学の研究者たちを驚嘆させるものだった。日本人でありながら、ドイツの学界と同じ水準で史料を読みこみ、分析していたのである。
 〈とりわけ「原史料への沈潜」という上原の姿勢に対して驚嘆の言葉が寄せられた。そのことは歴史学の常道である。だが久保正幡の書評が指摘するように、当時の我が国の西洋史学徒にとっては、原史料の研究は「なほきはめて難路であり険路である」。この踏破は「わが西洋史学界に人多しといへども、教授を俟つてはじめてなされ得る業」という外ない。〉(『日本の西洋史学』p148)
 ヨーロッパの学者の「追随」や「受け売り」ではない「主体的な学問」が、ようやく日本に現れたのだ。
 戦争の影と世界史教科書
 東京商科大学(現・一橋大学)の兼松講堂。昭和12年撮影
 しかし、そんな歴史家も、世界大戦という時代の激動とは無縁ではいられなかった。
 1942年に上原が発表した「世界史的考察の新課題」というエッセイ風の論文には、編集部によって「大東亜戦争の世界史的意義」というキャッチコピーが付けられた。この中で上原は、「大東亜共栄圏の確立こそ国民の悲願であり、世界新秩序の樹立こそ国民の念願となつてゐるのである。」「ヨーロッパ中心の世界史的考察の有つ偏狭さは是非ともわれわれ自らの手によつて是正しなければならぬ。」と述べている。
 「私は、上原を時代に対して超然とした存在とイメージしていたので、この文章を初めて読んだ時には驚きました。しかし、これは上原ひとりの問題ではなく、歴史家はいつも、その時代の空気の影響下にあるのです。私が上原専禄という歴史家に本格的に関心を持ち、日本の史学史として本書をまとめようと思ったのは、この時からでした」(土肥氏)
 戦後の上原は、東京商科大学の学長を務めた後、新制・一橋大学でも社会学部の初代学部長をつとめるなどリーダーシップを発揮。大学改革や教育問題、日米安保問題にも積極的に発言し、論壇に重きをなした。また、みずから中心となって高校世界史の教科書を編集・執筆し、その成果は『日本国民の世界史』(岩波書店、1960年)として刊行されている。
 しかし、1960年には定年を待たずに一橋大学を退官し、「名誉教授」の称号も辞退した。その後は「世界史と日本史を統一的にどうつかむか」という課題に取り組んでいたが、1969年に妻を亡くした頃からは、以前より強い関心を抱いていた日蓮に深く傾倒し、長女とともにほとんど隠遁生活を送った。
 1975年10月、上原は京都でひっそりと病没したが、その死は誰にも知らされず、3年8ヵ月後、朝日新聞にようやく訃報が載った。社会面のトップで「他界していた上原専禄さん」という6段抜き見出しのついた記事にはこう書かれている。
 〈日蓮の研究。夫人の墓参り。心臓の悪かった弘江さんの看病に日を送る。近所との付き合いもせず、父と娘はひっそりと暮らしていた。「文化人がきらいになった」とよくつぶやいていた、という。〉(朝日新聞1979年6月16日付)
 学術文庫&選書メチエ編集部
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 日本大百科全書(ニッポニカ) 「上原専禄」の意味・わかりやすい解説
 上原専禄 うえはらせんろく (1899―1975)
 昭和期の歴史学者。京都に生れる。東京高等商業学校(のちの東京商科大学、現、一橋大学)卒業後、1922年(大正11)から2年間ウィーン大学に留学し、中世史研究の大家であるドープシュに学ぶ。帰国後、高岡高商を経て1928年(昭和3)東京商科大学に勤めた。ドープシュの学風は歴史的経過の多様性に目を開き、歴史を総合的にみる。上原もこの視座を受け継ぎ、実証と批判的総合の歴史学を実践した。『独逸中世史研究』(1942年)、『独逸中世の社会と経済』(1949年)がその成果である。戦後、1946年から1949年、学長を務め、一橋大学への改組に功績があった。退任後、国民文化会議、国民教育研究所などで指導者として働き、平和運動歴史教育運動に貢献した。『世界史像の新形成』(1955年)、『世界史における現代のアジア』(1956年)などは、グローバルな現代世界をみる新しい歴史の視座を提起している。最晩年は京都南郊に隠栖した。エッセイに『クレタの壺』(1975年)がある。
 [堀越孝一
 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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 百科事典マイペディア 「上原専禄」の意味・わかりやすい解説
 上原専禄【うえはらせんろく】
 歴史学者,思想家。京都に生まれる。東京商科大学(現,一橋大学)卒。1923年−1926年ウィーン大学で厳密な史料批判に基づいた中世史研究を学ぶ。1939年東京商科大教授,1946年一橋大学長となる(1949年まで)。第2次大戦の経験を重く受け止め,歴史教育歴史学の根本的反省と主体性の確立を訴え,日教組が創設した国民教育研究所などに深くかかわる一方,アジア・アフリカ問題に関心を向けていった。しかし安保闘争後の革新政党労働組合・知識人のあり方に疑問と失望を抱いてからは全ての公職を辞し,幼少時から親しんでいた日蓮の研究に没頭。妻の死(1969年)後は,死者との共闘を通した新しい世界史認識を追究するようになった。《上原専禄著作集》全28巻がある。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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