🔯59」─1─16世紀のイギリスは大インフレで王国崩壊寸前の様相を呈していた。~No.214 

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 2023年2月2日 YAHOO!JAPANニュース クーリエ・ジャポン「16世紀の「大インフレ時代」の経験から現代の私たちが学べること
 世界中で進行するインフレ Picture by Image Source via Getty Images
 足元で世界中を襲っているインフレ。イギリスでは物価上昇率が40年ぶりに10%を超えるなど、歴史的な水準にまで上昇した。では、過去にインフレが発生した時代の教訓から、私たちは何を学ぶことができるのだろうか。
 【画像】日本にも波及する世界的なインフレ
 インフレ高騰した16世紀はどんな時代だったか
 ヘンリー8世の時代、イングランドは崩壊寸前の様相を呈していた。かつてなく物乞いが増え、隙あらば他人の喉をかっ切るような連中ばかりだったという。誰もが貨幣価値の低下を疑い、その懸念は的中していた。貨幣に負けずモラルも低下していた。
 ヘンリーの治世の半ば頃にケント州で行われたある悪名高い葬儀では「酒池肉林の乱痴気騒ぎとなった」と報告されており、「140人の男たち全員が女性をはべらせていた」という。何かおかしいという感覚はヨーロッパ全域で共有され、1590年代までに財政危機、社会不安、そして戦争に見舞われたのである。
 社会混乱の元凶は、まったくの予想外かつ馴染みのなかったインフレの高騰だった。少なくとも1500年代に至るまでの300年間、西ヨーロッパは同時代の日本をジンバブエと同等にみなしていた。
 1500年のイギリスでは、消費者が直面する標準的な「商品バスケット(主に食品だが、衣類や照明なども含む)」の価格は、1275年と比較してそう高くはなかったと、歴史学者のグレゴリー・クラークとイングランド銀行の調査員による論文で指摘されている。
 インフレ率3%は危機的レベル
 ところが1500年以降、状況は一変する。かつては考えられなかったような持続的な物価上昇に歯止めがかからなくなった。50年も経たないうちに、イギリス全土で平均物価が倍増した。程なくしてイタリアの物価が年5%上昇するようになったと、ボストンカレッジのポール・シュメルツィングの調査が伝えている。フランスとオランダでは、16世紀末までにインフレ率が4%に達した。
 ロシアでは、1530年代からインフレ傾向が高まり始めた。世界的なインフレ率は1590年代にピークを迎え、年率3%近くに達した。3%は危機的な数字に聞こえないかもしれない。
 だが念頭に置いておくべきは、資本主義以前の世界では、名目所得の増加は基本的にゼロだったという点だ。つまり、ほぼあらゆるレベルのインフレが、貧困を助長したのである。
 しかもこの時代のインフレはかなり長期にわたって続いた。19世紀初頭のナポレオン戦争が引き起こした猛烈なインフレや、1970年代のインフレよりも長く続いた。
 他国と比べて一段とひどいインフレに見舞われた国もあった。たとえばスコットランドのインフレはイングランドよりもずっとひどいことが多かった。オランダのインフレは最悪だったかもしれない。
 今日と同様、1500年代の専門家たちもインフレ要因をめぐって持論を戦わせた。1560年代から1570年代にかけてのフランスほど、この議論が白熱した場所はない。ジャン・シェルイエ・ド・マレストロワは、アメリカの元財務長官ラリー・サマーズの役割を演じ、物価上昇圧力の高まりは過剰な支出の結果だと主張した。
 ジャン・ボダンは、現代の経済学者ポール・クルーグマンのように、世界経済システムに対する予期せぬショックが原因であると主張した。両経済学者はともに相手の立場を攻撃する冊子を書き著した。歴史家のあいだでもいまだに意見は割れている。
 今日のサマーズとクルーグマンもそうだが、マレストロワとボダン双方に一理あった。過剰な需要が要因の一つだったのは確かだ。黒死病の収束後、人口は急速に増加し、その多くが都市に移り住んだ。その結果、食料需要が増加する一方で、生産側の農家の数は減少したのだ。さらに君主の中には、通貨を操作して経済を活性化させる者もいた。
 解明が難しいインフレの原因
 1540年代にヘンリー8世が実施した「大悪改鋳」は、1つの金貨を溶かして価値の低い金属を加え、2つの「金色の」硬貨に作り替える政策だった。この方法でヘンリー8世は、数年にわたりGDPの約2%に相当する硬貨を無から作り出した。そして余分に生み出された金を、戦争と宮殿につぎ込んだ。
 その結果、名目上の需要が高まり、商人は値上げに走った。貨幣価値を引き下げたのは、ヘンリー8世とその後継者のエドワード6世だけではない。
 スコットランドは1538年に同様の政策に踏み切り、1560年にはその動きに拍車をかけた。現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルクに当たる南ローランド地方では、1521年から1644年にかけて12回にわたって銀貨が改鋳された。だが、マレストロワがどう主張しようと、貨幣価値の低下だけでは大インフレを説明することはできない。
 その理由の一つは、貨幣改鋳がとくに目新しい戦略ではなかったためだ。フランスは1285年から1490年にかけて銀貨の改鋳を123回実施したとされるが、その間インフレは起きていない。
 だが1500年代になると、多くの国が銀貨の改鋳頻度を減らしたにもかかわらず、どの国も一様にインフレに見舞われた。スペインは1497年から1686年まで一度も改鋳を実施していない。
 そのため歴史家のなかには、ボダンの見解に追随して、需要サイドの説明だけでは不充分だと主張する者もいる。加えて彼らは、大西洋の向こう側で起きていた、ヨーロッパ経済に猛烈な供給ショックを与えた原因にも注目している。
 1545年頃、ボリビアで広大な銀鉱脈が発見された。この巨万の富を生む新産業の中心地ポトシは、ロンドン、ナポリ、パリ、ベニスに次いで、キリスト教圏で5番目に人口の多い都市となった。1500年から1525年までにヨーロッパに到着した銀はわずか10トンに過ぎなかった。
 それが1575年を迎えるまでに、輸入量は173トンに達した。その大半が流入したスペインでは、当初ひときわ高いインフレ率を示したが、やがてその傾向はヨーロッパ全域に、遠くはロシアにまで広がりを見せた。
 インフレが招いた“魔女狩り
 今日のインフレ高騰が始まってからまだ1年ほどしか経っていないが、すでに社会的、政治的に深刻な影響が生じている。実質賃金の低下で消費者心理は底をつき、現職政治家の人気は低迷、生活費の上昇に対する抗議が急速に広がっている。
 だが、それも16世紀のインフレが及ぼした影響に比べれば、まだ序の口である。1500年代の初めには週給7ペンスというそれなりに高いレベルを保っていた平均的な実質賃金は、その後、下落に下落を重ねた。
 その結果、19世紀後半に至るまで人々の購買力は回復しなかった。生活水準が大幅に低下した影響は、物乞いの増加や葬式における乱痴気騒ぎだけに留まらなかった。ヨーロッパ全域で、社会と政治が極度に不安定になったのである。
 現在ジョージ・メイソン大学で教鞭を執るジャック・ゴールドストーンは、1986年に発表した論文で、1550年から1650年にかけて「広範囲で国々の崩壊が起きた」理由について問いかけている。フランスでは1572年に「サンバルテルミの虐殺」が起こり、カトリック教徒がプロテスタント教徒を虐殺、数千人の死者が出た。
 1590年代には、オーストリアフィンランドハンガリーウクライナで反乱が起きた。ロシアでは「動乱時代」と呼ばれる無法時代が、1598年から15年間続いた。1618年には三十年戦争が勃発、最終局面を迎えた1649年にはイギリスでチャールズ1世が処刑された。
 1500年代の最初の25年間は、毎年、世界人口の10万人に6人が紛争で命を落としていた。それが1620年代から1640年代では、10万人に60人ほどに増加した。魔女裁判にかけられ処刑された人の数も急増した。
 こうした社会混乱の責任の一端を担っていたのが不幸なエリート層だ。貴族は収入を固定支払(地代など)に頼っていたため、単純に値上げができる商人以上に大インフレの影響を強く受けた可能性がある。
 北フランスとベルギーでは、1560年代および1570年代に不平等が緩和され、中所得者層には便益をもたらしたが、裕福な地主層の財政を圧迫した。そのため経済闘争に不慣れな貴族層は、改革を訴える運動を起こした。
 国家を襲った混乱
 さらに重要な点は、政府が痛手を被ったことだ。数世紀にわたるゼロまたは低インフレは、国家財政の構造に影響を及ぼした。それまで君主は、土地を99年という長期にわたり固定賃料で貸し出すことが多かった。関税も名目価格に抑えられていた。
 だが、ひとたびインフレが起きると、それが問題になる。1570年代半ばから1590年代半ばまで、スペイン政府の税収は現金ベースでは一定に保たれていたが、購買力は低下に向かった。そして、固定費以外の歳出が高騰した。1530年以降の1世紀で、出征した兵士にかかる人件費は5倍に膨れ上がったという。
 こうしてインフレは時とともに国家を弱体化させ、債務危機を招いた。政府はできる限りの策を打ち、歳入の増加を図った。ヘンリー8世は、1544年と1545年に15万ポンド(GDPの2%以上)相当の土地等の国家資産を売却し、1600年代初頭のエリザベス1世の治世にもより小規模の売却が実施された。
 さらに「前例がないほど多数の」爵位が多額の金と引き換えに授与されたと、ゴールドストーンは指摘している。多くの金融機関が金利を引き上げはじめたのと時期を同じくして、借入が爆発的に増加した。1300年代と1400年代には稀だったデフォルト(債務不履行)が多発し、フランス(1558、1624、1648年)、ポルトガル(1560年)、スペイン(1557、1575、1596、1607、1627、1647年)で、海外投資家に対する不払いが起きた。
 やがて大インフレは収束を迎えた。人口の増加が鈍化し、商品やサービスに対する需要が減少した。君主たちは金融政策と財政政策の要領をつかみ、債務不履行や通貨価値の切り下げの頻度が減った。さらにアメリカ大陸からの貴金属の流入も鈍化した。
 とはいえ、この100年の歴史から得られる教訓ははっきりしている。原因が何であれ、インフレを放置した社会は、生活水準の下落以上のものを予期しなければならないのだ。
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