🔯63」─2・B─第一次世界大戦でイギリス貴族たちを襲った「ノブレス・オブリージュ」の悲劇。~No.235 

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 欧州貴族と日本の華族は違う。
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 2023年2月17日 YAHOO!JAPANニュース デイリー新潮「「戦死率は一般兵卒の2倍以上」――世界大戦で貴族たちを襲った「ノブレス・オブリージュ」の悲劇
 負傷したイギリス軍兵士(出典:The Library of Congress, Public domain, via Wikimedia Commons)
 戦争になれば、金持ちや権力者は安全地帯から高みの見物、最前線に立たされるのは庶民出身の一兵卒ばかり……現代ではそのようなイメージがあるが、かつては必ずしもそうではなかった。
 【この記事の写真を見る】地面に転がった兵士たち、見張りをする兵士も 【第一次世界大戦ソンムの戦い(1916年)】
 たとえばイギリスでは、軍務は「高貴なるものの責務(ノブレス・オブリージュ)」という考え方が根づいており、第1次世界大戦の際には、貴族たちが率先して最前線に赴き、その死亡率は一般兵卒の2倍以上だったという。
 歴史家の君塚直隆さんの新著『貴族とは何か――ノブレス・オブリージュの光と影』(新潮選書)から、第1次世界大戦でイギリス貴族たちが味わった悲劇を紹介する。
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 イギリスで貴族たちのたそがれを決定づけたのが、ヨーロッパ大陸と同様に第1次世界大戦(1914~18年)であった。この大戦は19世紀までヨーロッパで主に見られていたような、貴族らを中心にした戦争とはまったく様相を異にしていた。端的に言ってしまえば、それまでの戦争は貴族出身者が多くを占める陸海軍の将校と義勇兵とが直接的に戦闘に加わるものであり、短期的な戦闘の後にこれまた貴族が大半を占める外交官によって講和が結ばれるという性質のものであった。
 ところがナポレオン戦争以後の100年間で殺戮兵器の殺傷力は急激に上昇し、貴族や一部の国民だけでは兵力として足りない状況となっていた。「総力戦(total war)」の時代の到来である。イギリスでも開戦とともに「高貴なるものの責務(Noblesse oblige)」を信じて、貴族やその子弟が大勢戦場へと駆けつけたが、彼らを待ち受けていたのはナポレオン時代の騎士道ではなく、瞬時に何十人も殺せる機関銃であり、性能が大幅に上昇していた砲弾の嵐であった。
 大戦が始まった1914年のわずか4ヵ月のあいだに、爵位貴族が6人、准男爵が16人、貴族の子弟が95人、准男爵の子弟が82人も命を落としていた。それは戦場に赴いた地主貴族階級男子の実に18.95%に相当する数字であった。
 4年に及んだ戦争はさらに多くの貴族たちの命を奪った。もちろん兵役を終えて無事に帰還した貴族たちもいた。しかし貴族やその子弟ともなると士官学校の出身者も多数いたため、従軍時に就くのは年齢等に応じて陸軍中佐以下の将校クラスであり、前線で自ら隊を率いて突撃する場合が多かったので、その死亡率は高かった。
 1914年には一般兵卒の死亡率が17人に1人(5.8%)であったのに対し、貴族出身の将校の死亡率は7人に1人(14%)という割合となった。4年にわたる戦争で、イギリスはなんとか勝利は手にしたが、貴族とその子弟は5人に1人が命を失った(全体の平均では戦死者は8人に1人の割合であった)。イギリス貴族たちはまさに自らの命と引き換えに「高貴なるものの責務」を果たしたのである。
 さらに究極の責務を果たした彼らを待ち受けていたのは、相続税の洗礼であった。爵位貴族家の当主や後継者が相次いで戦死したとき、100万ポンド以上の価値を有する土地財産を持っている場合には、いまや40%にも膨れ上がっていた莫大な相続税を支払わなければならなかった。さらに土地そのものに対する課税も上昇しており、戦場から無事に帰還できたとしても、貴族たちはそれまでのような広大な土地を保有できなくなっていた。
 1910年から22年にかけては、大戦後の土地価格の高騰とも相まって、イギリスでは大量の土地取引が見られている。それは一説には国土の半分近くにも及ぶ所有者の交代をもたらし、イギリス史上でノルマン征服(1066~71年)や修道院解散(1536~39年)にも匹敵する事態であったといわれる。地主貴族はもはやイギリスにおける百万長者の代名詞ではなくなってしまった。19世紀半ば(1809~79年)までは、百万長者に占める地主貴族の割合は実に88%にのぼっていたが、20世紀前半(1880~1914年)までにその数字は33%にまで減少してしまっていた。
 さらに土地を買い増やそうなどという地主階級は姿を消し、売るべき土地がない貴族は家宝を売って糊口をしのぐ有様となった。先祖代々受け継がれてきた金銀の食器はもとより、ラファエロルーベンスなどの名画も次々とオークションで売られていった。さらに1920年代までには、かつては栄華を誇った貴族たちが所有するロンドンの屋敷も売られ、取り壊されていった。不動産に莫大な税金がかけられていったため、土地を売った貴族たちは海外の金融・証券市場への投資に転じ、地主貴族がますます減少し、証券・金融貴族が主流派を占めていく。
 不当な特権と財産を有し、豪奢で享楽的な生活を送る怠け者たち――このような負のイメージは貴族の一面を切り取ったものに過ぎない。古代ギリシャから現代イギリスまで、古今東西の貴族の歴史を丁寧にたどり、いかに貴族階級が形成され、彼らがどのような社会的役割を担い、なぜ多くの国で衰退していったのかを解き明かす 『貴族とは何か―ノブレス・オブリージュの光と影―』
 第1次世界大戦が決定打となり、イギリスでも「貴族政治(aristocracy)」は「大衆民主政治(mass democracy)」へと大きく変容を遂げていった。1918年には男子普通選挙権(21歳以上)と女子選挙権(30歳以上)とが国政選挙において実現し、さらに1928年からは男女普通選挙権の時代に突入していった。中央では庶民院に占める地主貴族階級出身者の数が激減し、地方ではそれまで政府の裁量によって在地貴族が任命されることの多かった州統監が、州議会によって選出されるように変わった。州議会議員の構成にしても、地主貴族ではなく、実業界出身の中産階級が大半を占める状況へと変化していたのである。
 ※君塚直隆『貴族とは何か――ノブレス・オブリージュの光と影』(新潮選書)から一部を再編集。
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 2023年1月26日 産経新聞「日本人研究者を感激させた「イギリスの名門貴族」ならではの「細やかな心遣い」
 チャールズ国王
 英国王室(ロイヤル・ファミリー)を頂点とするイギリスの貴族。写真はチャールズ国王(皇太子時代)(他の写真を見る)
 「ノブレス・オブリージュ」という言葉を聞いたことがあるだろうか。直訳すれば「高貴なるものの責務」、つまり高い地位にある人は、それに見合うだけの社会貢献をすべきであるという意味である。
 イギリスの王室や貴族の研究で知られる歴史学者・君塚直隆さんは、30年ほど前にオクスフォード大学に留学した際、ある名門貴族の御曹司が見せた細やかな心遣いに、「これぞ本物のノブレス・オブリージュだ」と感激したことがあったという。
 君塚さんの新刊『貴族とは何か――ノブレス・オブリージュの光と影』(新潮選書)の「あとがき」から一部を再編集してお届けしよう。
 不当な特権と財産を有し、豪奢で享楽的な生活を送る怠け者たち――このような負のイメージは貴族の一面を切り取ったものに過ぎない。古代ギリシャから現代イギリスまで、古今東西の貴族の歴史を丁寧にたどり、いかに貴族階級が形成され、彼らがどのような社会的役割を担い、なぜ多くの国で衰退していったのかを解き明かす
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 そもそも著者が学部生時代にイギリス史を専攻し、さらには大学院へ進学して研究者の道を歩み始めた最初の関心事は、まさに「イギリス貴族」であった。特に世界中で姿を消しているにもかかわらず、イギリスにのみ「貴族院」が存続する理由とは何なのだろうか。このような関心から、イギリスに留学した際には、実際の貴族院の審議もぜひ見学したいと考えていた。
 著者がイギリス留学中に在籍したオクスフォード大学セント・アントニーズ・コレッジは、当時、一代男爵に叙せられたばかりのドイツ出身の世界的に高名な社会学者が学寮長(Warden)に就いていた。
 君塚直隆
 イギリスの王室や貴族の研究で知られる歴史学者・君塚直隆さん(他の写真を見る)
 新入生歓迎のレセプションでも「貴族院について研究しているのでぜひ見学したい」旨を学寮長に伝えていた。紹介状なしに普通に見学できる庶民院とは異なり、貴族院の見学には、貴族自身からの紹介による「チケット」が必要であった。学寮長は「チケットをとってあげよう」と言ってくれたものの、その後、何度もお願いしていたのに「梨の礫(つぶて)」が続いた。
 年が明けてしばらく経った後の夕食会で著者は学寮長の目の前の席に着いた。すると、なんとコレッジの院生たちがツアーを組んで貴族院見学に行くというではないか。ところが予約の締め切りはすでに過ぎており、それ以上の追加はできないという。コレッジの掲示板を見逃していた著者にも責任はあるが、それまで再三再四にわたって見学の許可をお願いしてきた著者に何かひと言あってもいいだろう。それにもかかわらず学寮長は「もう遅すぎる(It’s too late)」とにべもない態度であった。
 「もうにわかの一代貴族なんかには頼まない! 高貴なるものの責務がわかっている世襲の貴族にお願いする!」と、著者は思わず激高して隣の友人に言ってしまったほどであった。
 翌日、著者はすぐにある人物に手紙を送った。相手のお名前はシェルバーン伯爵。当時の第8代ランズダウン侯爵の嗣子で、伯爵名は同家の長子に与えられる儀礼上の称号である。
 その頃著者は博士論文執筆のためにイギリス中の文書館や図書館を廻り、一次史料(本人自筆の史料)の渉猟に明け暮れていた。そのようななかで、当時まだ子孫のお屋敷に保管されていた文書もいくつかあり、そのうちのひとつが博士論文の主人公のひとりとなる第3代ランズダウン侯爵の文書であった。
 ボーウッド・ハウス(Bowood House)
 オクスフォードからも比較的近くにあるボーウッド・ハウス。ランズダウン侯爵家は、学術研究の公共的価値を深く理解し、それに貢献することを自らの義務としていた(他の写真を見る)
 著者は冬休みを利用して、オクスフォードからも比較的近くにあるボーウッド・ハウスというランズダウン侯爵家のお屋敷に伺って、文書を調査させていただいた。ランズダウン侯爵家は、学術研究の公共的価値を深く理解し、それに貢献することを自らの義務としていた。
 そのようなご縁でシェルバーン伯爵(1999年から第9代ランズダウン侯爵になられている)とも仲良くさせていただいていたのだ。その伯爵に手紙をお送りするや、すぐさまお返事が来た。伯爵のイートン校時代の親友(アルスウォーター子爵)が保守党の貴族院幹事長をしているので彼にチケットをとってもらった、というのである。
 この伯爵からのお返事こそ、本物のイギリス貴族の「ノブレス・オブリージュ」だと身をもって深く感じ入ったものである。おかげで留学時代の親友たちと貴族院見学を経験することができ、30年ほど経った今でも懐かしく思い出す。
 不当な特権と財産を有し、豪奢で享楽的な生活を送る怠け者たち――このような負のイメージは貴族の一面を切り取ったものに過ぎない。古代ギリシャから現代イギリスまで、古今東西の貴族の歴史を丁寧にたどり、いかに貴族階級が形成され、彼らがどのような社会的役割を担い、なぜ多くの国で衰退していったのかを解き明かす
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 その後、「貴族」からは少し離れてしまい、その頂点に君臨する「王室」や「王権」の問題に著者の関心は移っていた。しかし、このたび30年来の研究テーマとして「貴族」に立ち戻り、その伝統である「ノブレス・オブリージュ」の精神を解き明かす本書を著すことができたのは幸いであった。
 ※君塚直隆『貴族とは何か――ノブレス・オブリージュの光と影』(新潮選書)から一部を再編集。
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