🎄51」─2─第2次大戦、ドイツ軍の対ソ敗北は「ロジスティクス」が原因だった。~No.171 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2022年10月14日 YAHOO!JAPANニュース Merkmal「第2次大戦 ドイツ軍の対ソ敗北は「ロジスティクス」が原因だった? ヨーロッパ戦争史からその変容を読み解く
 略奪の歴史が消滅した理由
 ドイツのティーガーI(画像:U.S. Army Armor & Cavalry Collection)
 この小論では、イスラエルの歴史家マーチン・ファン・クレフェルトの主著『増補新版 補給戦――ヴァレンシュタインからパットンまでのロジスティクスの歴史』の内容を手掛かりとして、中世以降のヨーロッパ戦争史における軍事ロジスティクスの変容について考えてみたい。
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 中世ヨーロッパ世界の戦争では、基本的に侵攻した地域を「略奪」することによってのみ軍隊は維持され得た。だが、略奪を基礎とする中世の軍事ロジスティクスのあり方は、フランス革命以後、19世紀ヨーロッパの「新たな戦争」を賄うには問題が多過ぎた。
 その結果、この時期には組織管理上の変化が見られたが、その最も重要なものが、ロジスティクスという業務が正式に軍隊の中に組み込まれたことであり、こうした変化をイギリスの歴史家マイケル・ハワードは「管理革命」と表現した(マイケル・ハワード著、奥村房夫、奥村大作共訳『ヨーロッパ史における戦争』中公文庫、2010年)。
 この時期、現地調達を徹底することによって戦いの規模と範囲を劇的に変えたナポレオン・ボナパルトの戦争でさえ、ロジスティクスをめぐる問題がその戦略を規定していたのである。
 その後、こうした略奪の歴史が1914年の第1次世界大戦を契機として消滅したのは、戦争が突如として人道的なものに変化したからではない。クレフェルトによれば、戦場での物資の消費量が膨大になった結果、もはや軍隊はその所要を
 「現地調達あるいは徴発することが不可能になった」
 からである。
 「略奪戦争」の時代
 『ヨーロッパ史における戦争』(画像:中央公論新社
 『補給戦』の第1章「16~17世紀の略奪戦争」では、ヨーロッパ諸国の軍隊が1560年頃から1715年までの間にその規模を数倍も増大させた事実、そして、当時の戦争においては河川の利用方法を熟知した側が勝利した事実が述べられている。思えば、この時代以前のロジスティクス・システムでは、敵国領土で行動する軍隊を維持することなどほぼ不可能だった。
 より正確に言えば、そもそもその必要がなかったのである。古くから軍隊は、必要な物資を「略奪」することでロジスティクスをめぐる問題の解決を図ったものである。組織的な略奪は例外的なものではなく、むしろ日常的な行為だった。
 しかしながら、17世紀初頭までにはもはやこうしたやり方が機能し得なくなってきたのであるが、その理由の一端が、軍隊の規模拡大である。当時の軍隊はロジスティクスの線(ライン)にほとんど影響を受けなかった一方、その戦略的機動性は、河川の流れによって厳しく制約されていた。これは、河川の渡河が困難だったことを意味するわけではなく、補給物資を陸上で運搬するよりも水路を用いる方がはるかに容易であった事実を示している。
 また、当時の軍隊の特徴として、第一に、糧食を得るために常に移動し続けることが絶対条件であり、第二に、進軍の方向を決定する際には策源地、つまりロジスティクスのための基地との接触の維持をあまり考える必要がなかったことが挙げられる。第3に、河川を巧みに利用するためには、当然、その水路を可能な限り支配することが必須とされたが、17世紀の「三十年戦争」で活躍したスウェーデングスタフ・アドルフ(在位1611~32年)の戦い方は、まさにこれを実証したのである。
 ロジスティクスか戦略か
 ここで重要な事実は、この時代の戦争ではロジスティクスへの考慮が戦略より優先されていた点である。
 補給物資をうまく調達する司令官になればなるほど水路に依存した。例えば、オランダ独立戦争(八十年戦争)で活躍したオランダのマウリッツ・ファン・ナッサウ「オラニエ公」(在位1544~1584年)ほど水路の利点をうまく利用し得た人物はいない。だが、いったん河川を外れるとマウリッツは勝利できなかった。
 前述したグスタフ・アドルフでさえ、その軍隊の動きを決定していたのは彼の戦略的思考ではなく、実は糧食や秣(まぐさ)だった。
 ルイ14世と「軍事倉庫制度」
 『戦いの世界史――一万年の軍人たち』(画像:原書房
 こうした状況が多少なりとも変化したのが、17世紀後半から18世紀初頭フランスの「太陽王ルイ14世(在位1643~1715年)の時代である。そこではル・テリエとルーヴォアというフランス人親子によって初めて「軍事倉庫制度」が確立され、これが、その後の戦争の様相に決定的な影響を及ぼすことになる。
 だが、それでもなお、当時の戦争の唯一のやり方と呼べるものが、自らの費用でなく、近隣諸国の負担の下で軍隊を維持することであったとしても必ずしも誇張ではない。
 確認するが、基本的に中世ヨーロッパ世界の戦争では、侵攻した地域を略奪することによって軍隊は維持された。「17世紀ヨーロッパの軍隊は、地表を侵食しながら進んでいく『ウジ虫』のような存在だった。後には、飢餓と破壊という足跡が残された」のである(ジョン・キーガン、リチャード・ホームズ、ジョン・ガウ共著、大木毅監訳『戦いの世界史――一万年の軍人たち』原書房、2014年、287ページ)。
 事実、フランスのいわゆる宰相アルマン・ジャン・ドュ・プレシー・リシュリュー(1582~1642年)は、「敵の奮戦よりも物資の欠乏と規律の崩壊によって消滅した軍隊の方が多いと歴史は示している」と的確に述べていた。
 ナポレオンの軍事ロジスティクス
 『補給戦』の第2章「軍事の天才ナポレオンと補給」では、現地調達を徹底し戦争の範囲や規模を劇的に変えたとされるナポレオン・ボナパルトが遂行した一連の戦争でさえ、ロジスティクをめぐる問題が戦略を決定していた事実が述べられている。
 同様に、ナポレオンのロシア遠征1812年)に対抗するロシアの戦争計画も、戦略的考慮よりロジスティクスがその決定要因になっていた事実が記されている。
 他方、略奪を基礎とした中世のロジスティクス・システムは、19世紀の戦争の必要性を賄うには不十分だった。その結果、この世紀には多くの重要な変化が生じたが、それらは組織上の変化であり、技術的な変化だった。前者の変化で最も重要なものは、補給および輸送業務が軍隊に正式に組み込まれたことであり、それまで何世紀にもわたって荷車とその御者が必要に応じて徴用されていたやり方に変化が生じたのである(キーガン、ホームズ、ガウ共著『戦いの世界史』287ページ)。
 繰り返すが、ハワードは、こうした変化を「管理革命」と名付けた。これは、もちろん軍事に関する「技術」の重要性を認める一方、戦争での勝敗を優れて「運用」をめぐる問題として捉える歴史解釈である。事実、第2次世界大戦(1939~1945年)でドイツ軍が用いた「電撃戦」は、既存の軍事技術を使いながら、従来とは異なった軍事力の運用方法と編成で実施されたのである。戦車そのものの性能を比べれば、ドイツ軍が当時保有していた戦車は、フランス軍やイギリス軍と比較して決して優れていたとは言えない。
 また、「組織」のあり方に注目して参謀本部制度や師団制度の発展に代表される組織こそが、戦争の行方を決める重要な要因であるとの議論もある。周知のように、1860~1870年代の「ドイツ統一戦争」でのプロイセン = ドイツの勝利は、ライフル銃、鉄道、電信といった軍事技術の革新に負うところが大きかったが、それ以上に重要な要因は、参謀本部や参謀大学といった組織の下支えがあった事実である。
 実際、ナポレオンの軍事的な勝利の要因としては、
1.軍団制を用いていたため部隊を分散させ現地でのロジスティクスを容易にさせたこと
2.いわゆる「軍用行李(こうり)」がなかったこと
3.徴発担当の常設組織が存在したこと
4.ヨーロッパが以前と比較して人口密集しなっていたこと
5.フランス軍の規模そのものが大きいため敵の要塞(ようさい)包囲のために進軍を停止 する必要がなく、それらを迂回することができたこと
 など、組織の変化、さらには広義の意味での社会の変化が挙げられている。
 プロイセン=ドイツと鉄道の登場
 『補給戦』の第3章「鉄道全盛時代のモルトケ戦略」では、1866年の普墺(ふおう)戦争においては鉄道網がプロイセン軍の戦略的展開の速度を左右しただけではなく、その様相さえも決定した事実が指摘される。それとは対照的に1870~1871年の普仏(ふふつ)戦争では、開戦時とパリ包囲時というふたつの例外を除けば、実は鉄道はそれほど重要な役割を果たし得なかったとクレフェルトは指摘する。
 確かに、普仏戦争プロイセン軍は後方からの補給にそれほど依存していたわけではない。プロイセン軍が用いた弾薬の大部分は当初から携行されており、自己完結していたからである。この戦争にプロイセン軍が勝利した理由は、後方からの弾薬のロジスティクス・システムが機能したからではなく、むしろ個々の作戦での消費量が極めて少なかったからである。
 クレフェルトによれば、普仏戦争が前線部隊と策源地を結ぶ近代的なロジスティクスの線(ライン)を備え、厳格なまでに組織化されたロジスティクス・システムによって支援されていたとの一般的な認識は、「神話」にすぎない。実際、この戦争でのプロイセン軍ロジスティクスは全くの失敗続きだった。
 確かに従来、普仏戦争で鉄道が果たした役割は高く評価されてきた。だがクレフェルトは逆に、実際に鉄道が重要な役割を果たし得たのは当初の兵力展開の際だけであり、その後は、プロイセン軍の勝利がほとんど確定するパリ包囲時までは重要ではなかったと指摘する。
 さらに言えば、普仏戦争ロジスティクスの側面に関するクレフェルトの評価は極めて単純である。すなわち、この戦争でのプロイセン軍の戦争計画は、結局のところ、フランスがヨーロッパで最も豊かな農業国家であり、戦争が最も条件の良い時期に開始されたからこそ実現可能になったのである。
 もちろんその一方で、戦争の将来の方向性を示したものが鉄道であり、従来の城壁あるいは城塞ではなかったこともまた事実であろう。
自動車化時代のロジスティクス
 次に、第2次世界大戦におけるドイツ軍のソ連侵攻については多くの研究書が出版されているが、その中でドイツ軍の敗北の要因としてロジスティクスをめぐる問題――例えば距離の長さや道路事情の悪さ――を挙げていないものは1冊もないであろう。
 しかしながら、この史上最大の陸上作戦についてロジスティクスという観点から詳細な学術研究を行った歴史家はいまだにいない、とクレフェルトは指摘する。『補給戦』の第5章「自動車時代とヒトラーの失敗」でクレフェルトは、この問題を正面から論じている。
 1941年の「バルバロッサ」作戦、さらには第2次世界大戦東部戦線のドイツとソ連の戦いを考える時、どうしてもロジスティクスをめぐる問題は避けて通ることができない。ロジスティクスの観点から「バルバロッサ」作戦や独ソ戦全般を考えれば、これが兵站支援限界を超えた、さらには「成功の局限点」を超えた、無謀としか表現し得ない作戦であったことは否定できない。
 「バルバロッサ」作戦は、一見華やかな「電撃戦」の表層に目を奪われることなく、その負の側面、とりわけあまり注目されることのないロジスティクスをめぐる側面にも十分に留意するよう人々に警告しているようにも思われる。
 自動車化が進展したこの時代の戦争においても、鉄道の果たした役割は依然として大きなものだった。よく考えてみれば、必ずしも鉄道が「電撃戦」を支え得る柔軟性を備えた手段ではないことは第1次世界大戦、さらにさかのぼれば普仏戦争の事例でも明らかだった。
 だが鉄道を全く無視し、全ての資源を自動車化に集中したとしても、当時のドイツ軍が自動車輸送だけでソ連との戦いを遂行できたとは到底思えない。
 事実、自動車化によりドイツ軍は、「同質性の欠如」に悩まされることになる。すなわち、機動力を備えた自動車化部隊と、いまだに徒歩の歩兵部隊の混在である。そして独ソ戦における作戦は、ある時代の技術的手段――自動車――で実施し、ロジスティクスは別の時代の技術的手段――鉄道――で行おうとしたことが失敗の原因だった。
 「バルバロッサ」作戦においては、しばしば指摘されるソ連国内のぬかるみと同様、鉄道線(ライン)の稼働率の低さにも原因があった。そして、鉄道輸送の危機は凍結の始まるはるか前から生じていたため、ドイツ軍のモスクワ侵攻の失敗を、冬の訪れの時期やその寒さに求めることには注意を要する。
 おわりに
 『増補新版 補給戦――ヴァレンシュタインからパットンまでのロジスティクスの歴史』(画像:中央公論新社
 興味深いことに、『補給戦』の第5章の最後でクレフェルトは、ロジスティクスをめぐる術(アート)とは、戦争の術(アート)のごく一部を構成する要素に過ぎず、また、戦争そのものも人間社会の政治的関係が織りなす多くの様相の一部にすぎない、とプロイセン = ドイツの戦略思想家カール・フォン・クラウゼヴィッツをほうふつとさせる戦争観を示している。
 クレフェルトによれば、対ソ戦の敗北はロジスティクスをめぐる術(アート)以外の要素が主たる原因であり、その中には、
1.多くの問題を抱えた戦略
2.不安定な指揮系統
3.少ない資源の不必要なまでの分散
 などが挙げられる。
 だが、この点について私(石津朋之、歴史学者)はやや異なった見解を有している。すなわち、確かにロジスティクスが唯一かつ最大の要因――この側面を過度に強調することで、ドイツ軍は戦闘そのものには敗れていなかったとの不可思議な「神話」につながる――ではないものの、その他の要因との相乗効果によってヨーロッパ東部戦線でドイツ軍は敗北したとする方が真実に近いのである。ここでは、「総力戦」が意味するところを強調しておきたい。
 結局のところ、東部戦線でドイツ軍が実施した数々の作戦に必要な物資の量は、同国軍が支え得るものをはるかに超えていたのである。ここにも、ロジスティクスを軽視したドイツ軍のあしき伝統の一端が垣間見える。
 アドルフ・ヒトラーは東部戦線のドイツ軍を三つの異なった攻撃軸に分散することなく、モスクワ侵攻だけに集中すべきであったとの議論もあるが、ロジスティクスの観点からすれば、こうした方策は不可能である。利用可能な道路と鉄道があまりにも少なかったからである。
 『補給戦』でクレフェルトは、戦争という仕事の90%はロジスティクスである旨を強調しているが、この言葉はあながち誇張ではないのである。
 石津朋之(歴史学者)」
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増補新版-補給戦-ヴァレンシュタインからパットンまでのロジスティクスの歴史 (単行本)