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2020年10月号 Voice「歴史論争 渡辺惣樹
日本人の知らない米中関係の闇
ルーズベルトとアヘン
19世紀初めの米国は、英国に追随する弱小国であった。それでも、1812年には、ナポレオン戦争への対応に忙しい米国の隙を狙って英国領カナダを侵略した(第二次独立戦争)。しかし、たちまち反撃されホワイトハウスを焼かれた(1814年8月24日)。当時の米国の人口は800万人(同年)ほどであり、英国に勝てる陸軍を持つ国力はなかった。幸いナポレオン戦争の処理にかかり切りの英国との間で休戦(ガン条約)がなり、国家破壊を免れた。
この時の米英の戦いの影響は極東にも及んでいた。第二次独立戦争が始まると、支那唯一の開港都市広東で圧倒的な海軍力を持つ英国が米国商船の入港を妨害した。当時の対清貿易は英国商人が独占していたかの印象があるが、広東では彼らの陰で米国商人も活動していた。
米国商社は、皇帝の勅許を受けた清国貿易商人(広東十三行)に好かれていた。軍事力の後ろ盾のない米国商人は、英国商人に比べて振る舞いが『丁寧』だったからである。横柄な英国商人に辟易していた広東十三行の中でもっとも力のあった伍秉鑑(ごへいかん)は、英国の妨害で商売ができなくなった米国商人に同情した。彼は、米パーキンス商会(ボストン)のジョン・パーキンス・クッシングにアヘンビジネスをやらせてみることにした。資金と船を用意して、トルコ産アヘンの輸入代行を始めさせた。清国の商売である以上、英国海軍も邪魔できなかった。トルコのアヘン生産量はおよそ年15万ポンド(約6万8,000kg)だったが、パーキンス商会はその3分の1から半分を買い上げた。
これが米国商会のアヘン貿易への本格参入の始まりだった。米国商人の扱い量は、インド産アヘンを独占的に扱う英東インド会社に比べて10分の1ほどだったが、十分な利益があった。清国からボストンに戻る船は茶や陶器を満載していたが、その買い付け資金はアヘンの売り上げ利益だった。
英東インド会社は、インド産アヘンを独占していたが、1834年には独占貿易権を失った。米国商社は、インド産アヘンにも進出。その一つがパーキンス商会の後継企業であるラッセル商会だった。同商会の共同経営者の一人がフランクリン・デラノ・ルーズベルト(FDR)の母方の祖父ウォーレン・デラノ・ジュニアだった。FDRが訪れたこともない中国を徹底的に擁護する外交を繰り広げたのは祖父の上海でのアヘンビジネスの成功にノスタルジックな感謝の念があったからだ。
ケリー元国務長官とアヘン
ヒラリー・クリントンの後任の国務長官ジョン・ケリーの母方の祖先であるフォーブス家も、アヘン取引で財を成した。母方の祖先に当たるジョン・フォーブスが先に書いたジョン・クッシングの後任だったのである。ジョン・フォーブスの広東赴任期間は1830年から36年までの7年間と短かったが、クッシング同様に、伍秉鑑に気に入られた。ボストンに戻ると、投資銀行JMフォーブスを立ち上げた。原資の50万ドル(現在価値約1.3億ドル)は、伍からの融資だった。ジョンの従兄は牧師(同名のジョン)であったが、その子フランシスは上海に渡り、ラッセル商会の共同経営者となった。彼もアヘン取引で財を成した。彼の曾孫がジョン・ケリー元国務長官である。
2013年12月、ジョー・バイデン副大統領は北京にいた。表向きは、尖閣諸島をも含むエリアを勝手に『東シナ海防空識別圏』とした中国軍への抗議の訪中だった。バイデンは息子のハンターを帯同していた。ハンターは父が厳しい交渉をしている(はずの)時間に、自身の経営する投資銀行への中国マネー導入を画策した。
バイデン一行が帰国すると、投資会社ボハイ(渤海)・ハーベスト社の設立が発表された。中国銀行が15億ドルを出資しその資金運用をハンターら経営陣に任せるのである。経営陣の一人にクリス・ハインツがいた。当時国務長官であったジョン・ケリーの娘婿である。中国は二人の米国要人の息子に十分なコミッションが入るスキームを構築した。
現在のトランプ政権の対中外交は厳しい。しかし、19世紀初頭から培(つちか)われ、爾来(じらい)、綿々とつながる裏の(民主党)人脈はワシントンのどこかに潜(ひそ)んでいる。この闇の勢力がいかなる悪さをすることになるのか誰もわからない。」
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現代の日本人は、昔の日本人に比べて歴史力・文化力・宗教力は乏しく、当然の事ながら国際認識力や情報分析力も拙い。
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