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関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
人類史は戦争の歴世で平和の歴史ではない。
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世界文明は、奴隷制度を認めていた。
古代ギリシャ哲学は、民主主義を称え、奴隷制度を擁護した。
奴隷擁護論は、近代欧州まで正当として受け継がれた。
アリストテレス「理をもってはいないが、それを解するくらいにはそれに関与している人間は自然によって奴隷である」(『政治学』)
「自然によって或る人々は自由人であり、或る人々は奴隷であるということ、そして後者にとって奴隷であることが有益なことでもあり、正しいことでもあるということは明らかである」
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田中美知太郎「王政も寡頭政も民主政も、最後は誰が決定を下すかのちがいしかない。一人で決断する王政、経験と知力に優れた少数が決定する寡頭政、経験や知力の差には関係なく多数が決定をする民主政。その結果がどう出るかは、別の問題だ」
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紀元前2500年 クレタ文明。
紀元前1680年 ヒッタイト文明。
紀元前1600年 ミケーネ文明
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紀元前508年 クレイステネスは、僭主になる危険のある政治家を匿名で追放できるように、陶片追放(オストラシズム)制度を定めた。
ギリシャ民主主義は、政敵である政治家を密告・誣告で告発する匿名性が悪用される事で衰退して崩壊した。
匿名は相手が見えないだけに疑心暗鬼となり、人間不信を助長させ、人間社会を破壊する。
匿名は、危険な異質を排除して生きてきた大脳の進化を否定する事であり、大脳の退化をもたらす。
匿名には、良心も倫理もなく、知性も理性もなく、集団でまとまろうという集団知もない。
あるのは、愉快犯としての自己満足という自己欺瞞、白痴、集合痴で、非生産性である。
匿名には、未来は存在しない。
匿名は、共同体としての集団主義を破壊し、一人自立して立つという個人主義も無縁である。
匿名が生み出すのは、デマゴギーのみで、真実ではない。
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人類の歴史は戦争の歴史であり、戦争を省いたら人類の歴史は存在しない。
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ギリシャの民主政は、中産階級が作った。
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ギリシャの諸王家は、ギリシャ神話の神々の子孫である。
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紀元前499年〜紀元前449年 三度にわたるギリシア・ペルシア戦争。アケメネス朝ペルシア帝国のギリシア遠征。
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紀元前460年 ペリクレスは、民主派の指導者として政権を掌握した。
指導者の条件、①知力・識見、②説得の能力=雄弁術、③金銭の誘惑に負けない強さ、④愛国心。
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古代ギリシャで、アテネの人口10万人として40万人の奴隷がいたと言われている。
スパルタでは、市民に対して10倍の奴隷がいた為に、奴隷の叛乱に備えて軍事国家となった。
古代ギリシャに於いて、奴隷になるのはバルバロイ(異邦人)が多かった。
バルバロイは、外国人であって、特定の人種・民族を指すものではなかった。
各地のポリス(都市国家)や神殿で祭りがあると、バルバロイは集まってヘレーネス(ギリシャ人)と武芸や芸能の特技を披露し競争(アゴーン)した。
黒人やユダヤ人などが奴隷にされたのは、エジプトであって、ギリシャ世界ではなかった。
自由民・ヘレーネスと奴隷・バルバロイの間を分けるのは、民族的優越や生まれながらの定めはなく、戦いに弱く負けたからに過ぎない。
勝った強者は、弱い相手を殺すも、奴隷として生かすも自由であった。
負けた者は、王侯貴族でも一夜にして奴隷にされ、奴隷商人によって各地の奴隷市で売られた。
奴隷となれば、機織りや洗濯洗いなどの労働を死ぬまで続けた。
古代ギリシャに於いては、額に汗して働く事に偏見はなく、思索と労働は共に貴ばれた。
アリストテレスは、奴隷制正当化論を展開し、奴隷は必要悪として肯定した。
今日、弱者を滅ぼして奴隷を獲得した強者でも、明日は自分よりも強者に攻められて敗者となれば奴隷とされる運命であった。
古代ギリシャでは、強者として奴隷を所有するか、弱者として奴隷になるか、その定めは平等に与えられていた。
自由は、思索ができる市民に与えられ、理性がない奴隷には認められていなかった。
奴隷は、人権のない魂ある道具であった。
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紀元前430年 アテネ市内の人口が急増して過密化するや、居住環境は悪化し、不衛生となるや疫病が発生した。
エチオピアで発生した疫病は、人の移動と共にエジプトを経てアテネに広がってきた。
紀元前429年 アテネの疫病。人口の3分の1が死亡して、国力を衰退させた。
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ギリシャの古典的民主主義において、国民としての諸権利を持ち、選挙に参加できるのは、国家を守る為に武器を持って戦い敵を殺す戦士だけであった。
古典的民主主義は国家があってこそ存在する以上、国民は古典的民主主義を守る為に取って戦場に赴いた。
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美・恋愛・豊穣の神・アフロディテ(エロスの母。菜園の守護神・ビーナス)の神殿に仕える巫女達は、愛の神事として売春を行っていた。
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紀元前469年頃(〜 紀元前399年4月27日) ソクラテス。悪妻、クサンティッペ。
ソクラテスは、「この裁判は受け容れ難いが、その判決を受け容れなければ、法治国家は成り立たない」として、脱獄の勧めを断って毒を飲んで死んだ。
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アテネなど古代ギリシャは、国民参加の直接民主制を採用していた。
扇動政治家や民衆扇動家らは、ポリス市民を愚民化するべく弁舌爽やかに演説して「時々の空気」を作り出し、洗脳して誘導した。
ポリス市民は、現実にありえない理想を追い求めるという作られた「その場の雰囲気」に酔い痴れて衆愚政治に陥って滅びた。
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古代ギリシャに於いて、原初の民主主義が生まれたのは紙が広く普及していなかった為である。
指導者や哲学者は、町の広場に立って聴衆の前で自分の意見を主張し、多くの賛同者を得る必要があった。
古代ギリシャのデモクラシーでは、物を作る事は喜ばしい社会では最も汚れた行為で市民権のない奴隷の仕事であり、市民権のある者はもの作りをせず一日中お茶を飲み哲学や科学など諸学問について激論を交わす事である。
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ギリシャの民主政治は、国軍民主政であった。
政治参加としての投票権は、国家と政府に忠誠を誓い、武器を持って対外戦争と防衛戦争を行う国民だけである。
民主主義における諸権利は、国防の義務を果たす国民のみに与えられ、義務を拒否する人間には認められなかった。
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ギリシャの民主主義は、僭主や独裁者を防止する為にオストラシズム(秘密投票によ陶片追放=貝殻追放)と言う制度を採用していた。
民衆は、有能で優秀であっても人間性に悪癖がある者を追放し、民衆の意見に従うだけの大人しい無能無策な者を残した。
他の都市国家やギリシャ以外の他国との戦争がなければ、オストラシズムは理想的な制度であった。
マケドニアのアレキサンダー3世(大王)が、ギリシャに侵略してきた時、ギリシャの民主主義は有能な政治家や軍人といった指導者を追放して弱体していた為に征服された。
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ツキディデス「人間の行動は、プライドと貪欲と恐怖によって支配されている」
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トゥキュディデスの罠。アテネ対スパルタ。
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2017年3月11日号 週刊現代「ブックレビュー 3
黄金時代が終わり、民主政は衆愚政に堕ちた。現在のポピュリズムと古代文明の崩壊が重なる。 出口治明
『ギリシア人の物語Ⅱ 民主政の成熟と崩壊』 筆者 塩野七生
……
古代ギリシアの民主政の成熟と崩壊を描いた塩野七生の新作が刊行された。我々は本書から何を読み取れるだろうか。
アテネは偉大な指導者ペリクレスに率いられて約30年の黄金時代を謳歌する。幸運にもスパルタ王、ペルシア王は良識の人であった。BC448年、ペルシアと講和。446年スパルタと講和。438年にはパルテノン神殿が完成している。しかし、431年ペルポネソス戦役が始まり暗い影が忍び寄る。429年ペリクレスが死んだ年にソフォクレスのオイディプス王が上演されたのは象徴的であった。
ペリクレスの死後、扇動者が登場し民主政は衆愚政に堕ちていく。泥沼と化した戦争は残酷になりギリシア世界全体から良識が消えていく。告発され政治生命を絶たれた司令官ツキディデスとなる。青年政治家アルキビアデスが登場し、戦局の打開を図るべくシチリア遠征を訴える。アテネの総力を挙げて成人男性2人のうちの1人弱が出征したシチリア遠征軍はシラクサで壊滅する(413年)。その後坂道を転げ落ちるように失態を重ねてアテネは404年、スパルタに全面降伏してアテネの民主政はペリクレスの死からわずか25年後に終わりを告げる。
筆者は述べる。政体がどう変わろうと今日に至るまで人類は指導者を必要としない政体を発明していない、と。リーダーに恵まれるか否かが大きな分水嶺となる。また、ギリシア一の人口を抱えたアテネは食料を黒海地方に依存していた。最終局面で食の供給路をスパルタに絶たれたことが致命傷になった。しかし、より根本的な敗因は別のところにある。と筆者は指摘する。人間にとっての最大の敵は自分自身であり、アテネ人は自分たち自身に敗れたのである、と。そうであれば、我々一人ひとりが歴史をよく学び、良識あるいは中庸に身に付けることが肝要なのではないか」
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*アレクサンダー大王とヘレニズム
ペルシャ語では、アレクサンダー大王は「イスカンダル」と呼ぶ。
アレクサンダー大王の軍団は、16本の光を放つ太陽をデザインした「ヴェルギナの太陽」の旗を翻し、ペルシャ遠征に旅立った。
紀元前323年 マケドニアのアレクサンダー大王は、東方遠征に出発した。
ペルシャ帝国を滅ぼしインドまで征服したが、同時にパレスチナ地方や地中海地方にハンセン病を広めた。
東西の交易路が整うや、ハンセン病は世界中に広がっていった。
アレクサンダー大王は、マラリアに感染し、滞在先のバビロンで32歳の若さで死亡した。
エジプトやインドの天然痘が、後のシルクロードによって中国にそして日本へと伝わって行った。
天然痘大流行が発生した日本で、聖武天皇は745年に天然痘、旱魃、飢饉を鎮静させる為に奈良の大仏制作を始めた。
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