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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本人の集団自決は、満州・南樺太と沖縄では違う。
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戦陣訓の「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず」は、人権・人道・人命を無視し戦時国際法を守らない中国軍やソ連軍・国際的共産主義勢力との戦争を想定して発せられた教訓であって、国際赤十字社やキリスト教会が活動するアメリカ軍やイギリス軍との戦争ではない。
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2025年 8月22日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「戦後の満州で起きた集団自決、ソ連兵は「女を出せ」と要求… 命がけで本土に戻った女性へのむごすぎる「処分作戦」とは
『満洲国現勢 康徳2年版』より「日満婦女會發會式」/国立国会図書館蔵
■祖国を目指すも、ソ連軍の兵士が「女を出せ」と要求し…
昭和20年(1945年)8月15日、日本は「ポツダム宣言」を受諾し、「第二次世界大戦」の敗戦国となりました。しかし「ポツダム宣言」には「軍隊は完全に武装を解除せられたるのち各自の家庭に復帰」と謳われていても、戦時中に満州(中国東北部)に移住していた一般人の処遇についてはひとことも触れていないのです。元「開拓民」は自力で、なんとか日本にたどり着くしかありませんでした。
昭和8年(1933年)の「満州国」建国以来、当地を支配していた関東軍(かんとんぐん)は入植者を募集しており、農村の貧しい家庭出身者を中心とした男女が現地入りを果たしました。
満州国は「五族協和(日本人、漢民族、朝鮮人、蒙古人、満州人が協力し合う)」理想社会という触れ込みでしたが、実際は一部の日本人による専制支配が横行し、戦時中に痛めつけられた現地人たちによる報復が、戦敗国の棄民となった満州移民たちに襲いかかったのです。日本の敗戦によって、かつての「開拓民」は、戦時中に意識的・無意識的に迫害してきた現地の人々から公然と「侵略者」としてみなされるようになりました。
ドラマでは軍人が横柄に振る舞う姿が描かれがちですが、満州では日本人女性の一部も傲慢な態度を現地の人々に対して取り、暴力を振るうケースさえありました。昭和15年(1940年)、早稲田大学の学生だった久保田国久さんは、将校の人員が足りないといわれる中、将校となる訓練を受けて満州に入ったそうです。
久保田さんの主な任務は、中国人のフリをしての現地調査でした。ある時、貧しい中国人の扮装の久保田さんが二等車に乗り込もうとしたのを見た看護婦の日本人女性が、「ニーブシン(=你不行/お前はダメだ)」といって、彼の額を跡が残るほどの勢いで蹴り飛ばしたそうです。ほかにも市場の中国人物売りに扮していたときの久保田さんは、忙しくしているときを狙った日本人女性たちが「スイカ十銭」と書いてある値札を無視し、「一銭か二銭」しか置かずに商品を持ち去る姿も目撃しています。
まぁ、こんなことは日常茶飯だったはず。敗戦で関東軍が逃走し、誰からも満州で守ってもらえなくなった日本人移民たちが苦労するのは目に見えていました。ソ連軍の侵攻も悩ましい事態でしたが、「生きて捕囚の辱めを受けず(=捕虜になるくらいなら死ね)」と教えた日本陸軍の「戦陣訓(せんじんくん)」もあって、多くの移民たちが生きることを諦め、自害を遂げていきました。
しかし福島県に生まれ、「大陸の花嫁」として満州に向かった根津マツさんによると、開拓団に潔い自決を説いた10人ばかりの関東軍は、まだ結婚していない若い娘や、子どもがいない既婚女性たちを連れて「逃げていった」そうです。
そんな関東軍の命令でも遵守しようとした開拓団では、全員が焼身自殺したケースも……。根津マツさんが属する開拓団では、指導者格の男性が理性的で、なんとか死を免れたといいます。しかしその後、二人の子連れの未亡人だった根津さんは開拓団の他のメンバーから取り残されることになり、とある中国人男性に金で買われ、彼の妻になる道しか選べなくなりました。
昭和17年(1942年)4月に渡満していた栃木県出身の古田土キイさんも敗戦後、集団自決を免れた一人でした。しかし、古田土さんが生き残った「北学田開拓団」の人々と汽車で脱出しようとしていると、侵攻してきたソ連軍の兵士から「女を出せ」と、汽車を動かす見返りを要求されたのです。
古田土さんたち一行には、満州で芸者をしていた女性たち15名が混じっており、ソ連軍の兵士たちの犠牲となったのは、すべて(元)芸者だったそうです。当時は現在以上に「水商売」と「堅気」の女性が区別され、前者は差別されていました。芸者たちは犠牲となるしかなかったのでしょう。
ほかにもソ連軍から暴行を受けるなど、目をそむけたくなるような経験をした女性たちも大勢いました。しかし死ぬ思いで中国大陸から博多港まで戻ってきた、彼女たち「大陸の花嫁」たちを迎えたのは、当時の厚生省による残酷なお達しでした。
狂犬病の可能性がないかの尋問には仕方ない部分があるにせよ、「日本民族の防衛」の観点から「異民族のタネ」や「外国の性病」を宿している可能性がある女性は入港地で処分しろという“作戦”を承った現地の医師たちが「何か心配なことはありませんか」などと親切を装いながら、現地でのあれこれを聞き取りしたそうです。そして、不幸にして該当してしまった女性は「二日市保養所」に送られ、堕胎手術を受けさせられたのでした。
関東軍とマスコミが作り上げた「大陸の花嫁」という、実態のない夢を見させられた女性たちが支払った代償はあまりに大きかったのです(以上、陳野守正『「満州」に送られた女たち――大陸の花嫁』梨の木舎から)。
堀江宏樹
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8月22日 YAHOO!JAPANニュース HTB北海道ニュース「水中映像に攻撃の痕も 引き揚げ船が旧ソ連軍潜水艦の攻撃を受け1708人が犠牲「三船遭難事件」慰霊式 留萌
ことしは戦後80年です。当時の樺太から引き揚げ中に旧ソ連の潜水艦から攻撃を受け3隻被害に遭った「三船遭難事件」。22日、留萌市で慰霊式が行われました。
水中ドローンが撮影した80年前に、沈んだ船の姿。魚雷があたったとみられる穴もあいています。
1945年、8月22日、留萌沖で引き揚げ船3隻が旧ソ連軍の攻撃を受けました。犠牲となった1708人に祈りをささげる慰霊式が留萌市で行われました。
沈没したのは小笠原丸など3隻。慰霊式には小笠原丸に乗っていた人の遺族も参加しました。
■樺太引揚三船遭難遺族会 永谷操さん:「やっぱり若い人たちに平和を訴えていきながら、この三船事件を無くさないように必ず後世に伝えていくことが今の目的」
そして、80年の時を経て、小笠原丸の姿を留萌市の建設会社の水中ドローンによる撮影で初めて確認されました。攻撃の傷跡がいまも残っていました。
■白鳥建設工業 堀松誠 代表取締役社長:「この映像を私も初めて見た時にちょっとぐっとくるものがあるというか、悲惨な状況というものが感じられました」
撮影に成功した建設会社の代表は、小笠原丸の映像を今後、遺族にも見せられるようにしていきたいと話しています。
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8月13日 YAHOO!JAPANニュース「「子を殺すか、売るか」という非情な選択を迫られ… 満州で「大陸の花嫁」となった女性たちの“終わらない戦争”
堀江宏樹
■「大陸の花嫁」が語った残酷すぎる実態
昭和7年(1932年)、関東軍は中国東北部にあたる満州を軍事制圧し、そこに清朝最後の皇帝・溥儀を形だけのトップに据えた「満州国」を打ち立てました。溥儀の弟にあたる溥傑は、明治天皇の生母・中山慶子の姪にあたる嵯峨浩と結婚していました。こういう事実もあって、満州と日本は海を隔ててつながった大日本帝国の一部という“幻想”が当時の日本人を支配していたのです。実際、満州移民の男性たちの妻となるべく、当地に渡った「大陸の花嫁」の多くには、外国に移民するという意識は希薄でした。
中国東北部にあたる満州は、夏は30度を超える暑さ、冬は極寒の厳しい自然で有名な土地柄なのですが、軍部に買収された新聞・雑誌各社は、「満州には肥沃な大地が広がっており、やる気のある者ならそこで大成功できる」と声を合わせて謳いあげました。
関東軍の理想は、中国大陸を占領していく軍隊の背後を大量の農民たちが付いて回ること。そして軍隊が占領した土地をすぐさま開墾して農地に、そして日本の一部に変えていくことだったのです。
しかし、「五族協和(日本人、漢民族、朝鮮人、蒙古人、満州人が協力し合う)」の理想社会と謳われたはずの満州の現実は、ごく一部の日本人が他民族を迫害する地獄のような社会でした。満州への移民は昭和7年から始まっていましたが、当初は軍隊経験者の男性が大半で、「武装移民団」とさえ呼ばれていたのです。
「開拓団」という触れ込みでしたが、彼らに用意されていた住む家や暮らす村は、満州に暮らしていた人々の土地や建物を剥奪したもの。当然、不満な現地人との流血沙汰は日常茶飯でした。おまけに満州の厳しい気候条件での農作は、開拓団内にいくら農村出身者が多いとはいえ、日本とは事情が違って困難でした。豊かな生活どころか日々の食物にすら困る日々が待っていたのです。
するとすぐに失われていくのがモラルです。戦勝国は、敗戦国の土地と人々を意のままにできるという傲慢で危険な発想が、当時の日本人には浸透していました。
「大陸の花嫁」として満州の村で暮らした根津マツさんによると、「私の部落では満人(=満州に暮らす中国人)が草刈っておいたのをとってきたり、秋になると満人の小麦だの何だの盗んで馬車でもってきたりした人いたの」。
「冬になると(略)蒙古に近いから蒙古人が炭売りに来るの。私の部落ではないけど、金がない人はその蒙古人をいじめて、ひっぱたいたりして帰した」。おそらく、暴力で炭も奪い取ったのでしょう。だから「終戦のとき、その蒙古人たちに押し切りの刃で頭切られて死んだ人もいたわけ」。
ほかにも3人で侵入してきた「満人」の泥棒のうち、一人を撃ち殺した夫妻の家が終戦後に襲われ、一人で家にいた「奥さん」が「殺されて、裸にされて外にころがされていた」という話も……。関東軍の後ろ盾がなくなれば、少数派の日本人など多数派の現地人に敵うわけもありません。そもそも「男たちは根こそぎ動員されて、開拓団は女と子どもばかりになって」いたのですから。
敗戦色が濃厚になってきた時期、根津マツさんたちには「負けたらみな(ソ連軍の捕虜になどならず)自決しろって(関東軍から)毒薬」が渡されていました。しかし、彼女の村には少数ながら病気の十数名の男性が残っており、その中で指導的立場の男性が「早まったことはしないでくれろ」といったので、根津さんたちは服毒しなくて済んだのです。
ところが、日本に帰国するには子どもが邪魔ということで、自分の手で殺すか、「満人」たちに売りとばすか……という非情の選択を迫られるのでした。
根津さんはそのいずれも拒否し、あまりの空腹でビンの口をかじるしかない二人の子どもたちとの帰国を目指したものの、開拓団から見捨てられてしまいました。その後は、生きるために、自身の身を中国人男性に売り渡すしかありません。当時、満州の貧しい農村労働者の中国人の間で、妻とは「買うもの」だったからです。
その後、根津さんは満州の農村で中国人の妻として、暮らし続けました。
それでも根津さんは日本の家族と連絡が取れていたかなり幸福なケースで、昭和58年(1973年)、文化大革命の嵐が吹き荒れる中国から日本に永住帰国することができたのでした。中国人の夫も共に日本に行くことに同意していたそうですが、帰国2ヶ月前に亡くなったそうです(以上、陳野守正『「満州」に送られた女たち――大陸の花嫁』梨の木舎から)。
『興亜大鑑』より「大陸の花嫁たちの合同結婚式」/国立国会図書館蔵
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