🐉22」─1・C─関東軍とモンゴル人中将の凌陞事件。内モンゴルの暗黒史。~No.81No.82 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本の軍部・陸軍・関東軍は、北の脅威であるロシア、ソ連、国際的共産主義勢力による日本侵略とアジア侵略を食い止めるべく、内モンゴル満州・中国・朝鮮に親日派知日派による傀儡政権を樹立し防共軍事同盟を成立させ、中央アジアやアラブに至るイスラムとの防共廻廊を築き、更にポーランドを巻き込んで万里の防波堤を目指していた。
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 ソ連コミンテルンは、中国共産党を動かし、昭和天皇と皇族を惨殺すべく付け狙っていた日本人の共産主義者無政府主義者テロリストを支援していた。
 昭和天皇を暗殺して日本を混乱させ、共産主義による反天皇反民族の人民革命戦争を起こし、大虐殺の中で日本を共産主義国に大改造しようと陰謀を企んでいた。
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 対ロシア戦略は江戸時代後期からであり、対ソ連共産主義戦略は明治時代後期からであり、それは積極的自衛戦争の為の軍備増強であった。
 が、戦時国際法は、軍国日本の大陸侵攻戦略は平和に対する犯罪、領土拡大目的の戦争犯罪として否定している。
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 2024年10月14日 YAHOO!JAPANニュース デイリー新潮「満州国の真実 元日本人通訳が見たモンゴル人中将の“数奇な運命”…「骨の髄まで反共の人」
 ガルマエフ・ウルジン(See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons)
 関東軍日本陸軍満州駐留部隊)の主導により、1932年3月に中華民国からの独立と建国を宣言した満州国清朝愛新覚羅溥儀を執政(のちに皇帝)に据え、1945年8月のソ連参戦で崩壊する経緯は、さまざまな文章や映像などでおなじみのものだろう。そこに存在したモンゴル系軍人たち、たとえばソ連軍への投降を選び反乱を起こしたジョンジュルジャブはその名をよく知られている。
 【写真で見る】世界的指揮者や有名司会者も…実は多い「満州国生まれの有名人」
 一方で、この反乱を止めようとしたモンゴル系軍人もいた。一族の存亡をかけてモンゴルをさまよい、満州国と出会った少数民族の指導者、ガルマエフ・ウルジンである。司馬遼太郎氏がかつて「この数奇なモンゴル人」と綴ったウルジンは、ある日本人と固い信頼関係を築いていたという。2010年、ノンフィクションライターの駒村吉重氏がウルジンの通訳官だった人物を訪ねた――。
 (全2回の第1回:「新潮45」2010年12月号「歴史の闇に葬られた満州国のモンゴル人将軍」をもとに再構成しました。文中の年代表記等は執筆当時のものです。文中一部敬称略)
 ***
 数奇なモンゴル人
 曲がりくねった細い路地を挟み、小さな畑地や素朴な門構えの民家が並ぶ里山である。
 「加茂駅(JR関西本線)からタクシーで高田まで、村の入り口に理ハツ店があり、其処を右に入り100メートル程の処で左に入って、石垣の家です」
 と、平成12年の10月に送られてきたはがきにはある。50年以上も昔、ある人物の通訳官を長年勤めた岡本俊雄さんという方が、奈良県境にほど近いこの京都の里に、高齢ながら健在であることを知って、幾度か手紙の往来を重ねていた。
 ある人物とは、中国大陸に突如出現しわずか十数年で消えていった満州国の中将だったブリャート・モンゴル族、名をガルマエフ・ウルジンという。
 ようやく見つけたお宅の縁側に靴を脱ぐと、まず、奥の間の鴨居に掲げられた額入りの白黒写真2枚が目に入った。1枚は軍服姿の上半身。もう1枚は草原で馬上手綱を取る姿。ソ連侵攻前に岡本さんが自宅に送っていたもので、現存するウルジンの数少ない写真だった。写真の真下のいすに米寿を超えたばかりの岡本さんが深く腰を降ろしていた。
 「チタに住むご家族でさえ、戦争の混乱で一切の写真をなくされて、これを(焼き増しして)贈りましたら、たいそう喜ばれまして」
 司馬遼太郎は「この数奇なモンゴル人」と
 それほどに、この人物に関する遺留品はじめ、記述などのたぐいは少ない。ただ、歴史に葬られたそのモンゴル人将軍の影は、岡本さんが卒業した大阪外国語学校蒙古語部の後輩にあたる司馬遼太郎氏の『草原の記』(新潮文庫)のなかに、かすかにだが留められている。
 話は昭和10年代の内モンゴル平原に及ぶ。建国への理想と失意が交錯する満州国の末期。言いがたいその気配を描写する素材として、司馬氏は、岡本さんが戦後にウルジンを偲んで認(したた)め、親しい友人らにだけ配った回顧録『一人の「ブリャートモンゴル人」と日本青年の出合い』をひもとく。
 『草原の記』から引くと、ロシア革命後に中国領に入ったウルジンは、のち満州国軍中将になり興安軍官学校長まで任される要人となるが、終戦の年に「ソ連軍にとらえられ、食を絶って自死したという」。波乱の人生を歩んだウルジンを、「この数奇なモンゴル人」と司馬氏は言葉少なに語っている。
 確かに、ウルジンの生涯には、想像を絶する時代の荒波が幾度も寄せている。辛亥革命を皮切りに、ロシア革命、モンゴルの共産化、満州国の出現。そのたび、モンゴル少数部族を率いる彼は、一族の存亡を賭けた岐路に立つ。かのノモンハン戦では、国境をへだてて同族のモンゴル人と壮絶な戦闘を繰り広げるに到るが、しかし満州国は数年後、あっけなく滅びた。
 小学校教諭から職業軍人
 その足どりから匂ってくるのは、満州国を舞台に活躍した多くの軍人、政治家、政商たちにつきまとうきな臭さではなく、どうにもならない行き詰まった時代の風だった。
 ――ウルジンとはいかなる人物で、なにを思い満州国に没入していったのか。
 現在もロシア連邦ブリャート共和国に存命の長女、サンディトマの簡単な覚え書きから拾うと、ウルジンは1889年にロシア領のシベリア・チタ市のボージル地区に生まれている。
 一帯は、古くからブリャート・モンゴル族が暮らす土地だ。ブリャート・モンゴル族とは、もともと森林地帯で狩猟やトナカイの遊牧を営んでいたシベリアの少数部族である。外モンゴルの大勢を占めるハルハ族に対しマイノリティーではあるが、ロシア文化圏にあって西洋の風を常にうけ、モンゴル平原において進歩的立場の指導者を輩出してきた。
 父親は、ロシア人の下で働く雇われ牧人だったという。わずかな金をしたため、かなり無理をしてウルジンを中学校に通わせた。
 卒業後のウルジンは、少なくとも6年以上は小学校教諭をして、いきさつは不明だがチタの陸軍士官学校に進み、帝政ロシア職業軍人になった。騎兵少尉であったという。
 1917年(大正6年)、世界中を揺るがしたロシア十月革命が起きると、革命の火は、ウルジンが暮らす静かなバイカル湖畔の街へも延焼する。折しも、そのころ外モンゴルは独 立闘争に揺れていた。
 ソ連赤軍から逃れ見渡す限りの草の原へ
 「辿れば、転機はロシア革命でしょうな」
 話が満州とウルジンの接点に及ぶと岡本さんはそう切り出した。
 「セミョーノフと一緒に闘いはった。ソ連赤軍と」
 革命勢力から逃れてきた白軍コサックの実力者アタマン・セミョーノフ中将のことである。ソ連を仮想敵国とする日本の特務機関の支援を受けて、赤軍に対し最後まで徹底抗戦を貫いた男だった。のちにモスクワ軍事法廷で、対ソ反乱罪などで絞首刑になるセミョーノフの軍がチタに入ったことで、一帯に帝政復活を望む白軍徒党が集まり、勢いブリャートの民族主義者も先鋭化していった。
 「ブリャートはもともと熱心なラマ教徒が多かったですからな、そりゃ共産主義とは相いれませんわ。激しい戦いだったらしいですわ」
 とは、岡本さんがのちにウルジンから聞いた話だ。
 ブリャートの指導者として見いだされたウルジンは、セミョーノフ軍とともに戦いにのめり込んで行く。が、圧倒的な戦力差に、とうとうシベリアの地を捨て、一族を率いてシニヘイと呼ばれる現在の中国領・内モンゴル自治区の北の草原に逃れることになる。そこは北辺の小都市ハイラルから40キロばかりの地点。見渡す限りの草の原である。
 日本の特務を帯びたある情報将校との出会い
 戦後、岡本さんは、敬愛したウルジンの過去を独自にたどった。その調べによると、シニヘイに逃れたブリャート一族は、中国国民党と幾度も話し合いを重ね、3年後には正式に居住を許可されたらしい。
 シベリアを去って間もなく、1924(大正13)年に、再びブリャートを震撼させるニュースがシニヘイの村に舞い込んだ。
 そこより西側の草原に住むモンゴルの民が、世界で2番目の社会主義国家となるモンゴル人民共和国を打ち立てたのだ。事実上ソ連の衛星国であり、大陸進出の足場固めを急ぐ日本に対する防波堤としての役割は明白だった。さらに8年の後の1932(昭和7)年になると、今度は日本の対ソ防波堤として満州国が出現する。
 ブリャートが右往左往する国境地帯の地図はめまぐるしく変わった。
 満州国軍誌「鐵心」康徳5年2月号(昭和13年)に寄せた、現存するウルジンによる数少ない記述によると、満州国成立前夜のこんな不透明な情勢下で、彼は日本の特務を帯びたある情報将校と知り合う。その出会いが、後の人生を決定づけるのである。
 「テラダ」と名乗った日本人
 昭和2(1927)年の秋だというから、彼らがシニヘイに居住許可をもらい受けたころだろう。ハイラル白系ロシア人宅に招かれていたウルジンを、セミョーノフに仲介されたひとりの日本人が訪ねてくる。研究調査のため、ブリャート族をひとり紹介してほしいと頼み込んでいた30代後半の男の容姿は、
 「支那服を纏ふておられ、體躯堂々、それに非常に顔が綺麗で、支那人か日本人か判らない程であつた」
 「テラダ」と名乗った日本人は、モンゴル語を学ぶ留学生として、ハイラルの地に入っていた。
 「そうですな。寺田さんはモンゴル語も使われましたが、ウルジンさんとの会話は全部ロシア語だったですよ。私の通訳はまったく必要なかったですね」
 岡本さんはそう記憶している。
 出会ってからのウルジンはハイラルに用ができると、必ず寺田の自宅を訪ね「色々親切にお世話になっていた」(ウルジン記)。しかし、寺田は数カ月後に突然ハイラルを後にしてしまう。遠方のシニヘイから偶然ハイラルに出かけてきていたウルジンは、駅に寺田を見送った。記述はこう続く。
 「帰国とは知らせず、間もなくハイラルに戻ってくるから、そのときは一緒に仕事をやろうと言って堅く握手して別れた切り」
 再会の約束を寺田が果たすのは5年後の秋、昭和7(1932)年である。
 満州国に傾いていく人生
 寺田は再会当時、ハイラル特務機関の中枢を任され、ウルジンはシニヘイの族長となっていた。時局もまた大きく転回を始めた。前年に奉天で勃発した満州事変の戦火が拡大し、この春には満州建国宣言がなされていたのだ。
 ふたりは、ハイラルの目抜き通りに古くからある日本人商店のなかで、「時の過ぐるのも知らずに語り明かし、ホロンバイルの将来について意見をたたかはした」(ウルジン記)。
 ウルジンの人生が満州国に一気に傾いていくさまが見えるようである。
 実際には寺田は、ウルジンと別れてから2度ほど国際運輸会社の社員「松石高」の名を使うなどして、ホロンバイル(内モンゴル自治区北東部、フルン、ブイル両湖あたりの草原)に潜入していた。ブリャート以外のモンゴル系種族や小軍閥の動向をうかがっていたらしい。建国間もない当時、辺境のホロンバイルにはまだ関東軍兵力を配備できずにいた。ウルジンはブリャート騎兵部隊を率い、ホロンバイルで勃発する幾つかの小軍閥の反乱を鎮めるなど、寺田の任務を助けていった。
 「骨の髄まで反共の人ですな」と岡本さんが言うウルジンが、新国家にどんな夢を見たかは知る由もないが、現実問題として、ブリャートの行き場は八方塞がりになっていた。「五族協和」をうたう新国家に、生きる場所をこじ開けるよりなかったのだろう。「満州人」として死ぬ覚悟を、ウルジンは、すでにこのときにしていたのかも知れない。
 「あたかもジンギス汗」
 ウルジンが己の人生とブリャートの将来を賭けることになる寺田は、大陸での対露対蒙工作に深く関わった軍人である。
 寺田利光は、明治22(1889)年東京の生まれで、父親も陸軍軍人。陸軍中央幼年学校出の陸軍士官学校22期生である。砲兵少尉として任官し、陸軍砲工学校に進んでいる。一方で、幼年学校時代から学んでいたロシア語の才は誰もが認めるところだったらしく、大正14(1925)年には、新たに軍委託学生として東京外国語学校(現東京外大)に入学し、専修科蒙古部でモンゴル語の勉強に励んでいる。さらに卒業直後の昭和2年6月には、10カ月間の予定で内モンゴルに私費留学を果たす。ウルジンと初めて出会ったのはこのときだ。
 寺田の名は、大正7年のシベリア出兵を契機にして「特務機関」の名が日本陸軍史上に初めて登場して間もなく、すでにその陣容のなかに見ることができる。
 初編成時は、ウラジオストックハバロフスク、ハルピンなど9機関。反革命分子が多いウスリー・コサックの指導を任務とするハバロフスク機関(機関長・五味為吉大佐)に、投入されている。以降彼は、白系の戦線を追うようにシベリア・内モンゴル地域を転々として、やがて満州にまで白系人脈を抱え込んでいく。ウルジンもそのひとりである。
 建国後に、興安北分省警備軍顧問に就いた寺田は、昭和12(1937)年7月16日にハイラルで病死している。陸軍砲兵大佐だった。
 しかし、彼は死後、情報戦を巧みに戦った軍人の功績としてはおよそ似つかわしくない奇妙な足跡をホロンバイルに残した。その死を嘆き、ホロンバイル一帯のモンゴル人と白系ロシア人が申し合わせ、ハイラル公園に寺田の銅像を建てたのだ。建設費用はまったくの民意でまかなわれたという。
 実にやさしい目をしてらした
 寺田利邦さんは、寺田の三男である。東京都府中市の自宅に、家族にあてた手紙が残されていたが、膨大な手記などはさる事故のため喪失し、ウルジンに関する手がかりもすでになくなっていた。
 利邦さん自身も2人の兄に続き陸士に学んだが、任官前に満州航空士官学校で終戦を迎えている。数えで5つのときに別れた父・利光の記憶はほとんどない。ただ、利邦さんは一度だけウルジンに会ったことがあった。
 寺田がまだホロンバイルに健在だった昭和10年ごろだ。ウルジンは公務で東京に入り、帝国ホテルで日本に残る寺田の子供たちに会って手みやげを渡している。利邦さんは、その土産をいまも大切に保管していた。モンゴル民族伝統の携帯用はしとナイフ、美しい織り柄の財布。財布のなかには、帝政ロシアのものと思われるきれいな紙幣などが数枚、時を止めたように丁寧に収まっていた。
 「立派な体格でしたね。堂々としていて、ちっとも威圧的じゃなくて、実にやさしい目をしてらしてね、子供ながらああ立派な方だなって思いましたね。チョコレートをもらったのが本当にうれしくて」
 少年の目に映ったウルジン像である。
 ***
 ソ連赤軍と戦い、一族を率いて北の草原に逃れたウルジン。運命の扉を次に開いたのは大陸での対露対蒙工作に深く関わった軍人・寺田だった。第2回【満州国の真実 モンゴル人中将は謎多き「凌陞事件」でなぜ処罰されなかったのか【元日本人通訳の証言】】では、ウルジンと寺田の深い絆や、最後まで中将としての務めを捨てられなかった姿、その後の「名誉回復」までをお伝えする。
 駒村吉重(こまむら・きちえ)
 1968年長野県生まれ。地方新聞記者、建設現場作業員などいくつかの職を経て、1997年から1年半モンゴルに滞在。帰国後から取材・執筆活動に入る。月刊誌《新潮45》に作品を寄稿。2003年『ダッカに帰る日』(集英社)で第1回開高健ノンフィクション賞優秀賞を受賞。
 デイリー新潮編集部
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10月14日 YAHOO!JAPANニュース デイリー新潮「満州国の真実 モンゴル人中将は謎多き「凌陞事件」でなぜ処罰されなかったのか【元日本人通訳の証言】
 第1回【満州国の真実 元日本人通訳が見たモンゴル人中将の“数奇な運命”…「骨の髄まで反共の人」】からのつづき
 関東軍日本陸軍満州駐留部隊)の主導により、1932年3月に中華民国からの独立と建国を宣言した満州国清朝の「ラストエンペラー愛新覚羅溥儀を執政(のちに皇帝)に据えた満州国は、1945年8月のソ連参戦で崩壊した。この際にモンゴル系軍人の反乱が起ったことは旧知の通りだが、阻止を試みたモンゴル系軍人もいる。少数民族の指導者としてモンゴルをさまよい、ある日本人との固い絆に導かれて満州国と出会ったガルマエフ・ウルジンだ。...
 関東軍日本陸軍満州駐留部隊)の主導により、1932年3月に中華民国からの独立と建国を宣言した満州国清朝の「ラストエンペラー愛新覚羅溥儀を執政(のちに皇帝)に据えた満州国は、1945年8月のソ連参戦で崩壊した。この際にモンゴル系軍人の反乱が起ったことは旧知の通りだが、阻止を試みたモンゴル系軍人もいる。少数民族の指導者としてモンゴルをさまよい、ある日本人との固い絆に導かれて満州国と出会ったガルマエフ・ウルジンだ。ノンフィクションライターの駒村吉重氏がその生涯を追ったルポ第2回では、謎多き「凌陞事件」やウルジンの最期を追う。
 (全2回の第2回:「新潮45」2010年12月号「歴史の闇に葬られた満州国のモンゴル人将軍」をもとに再構成しました。文中の年代表記等は執筆当時のものです。文中一部敬称略)
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 【写真で見る】世界的指揮者や有名司会者も…実は多い「満州国生まれの有名人」
 必ず蒙古人の立場に立って考えなさい
 ウルジンがハイラルで寺田(利光、陸軍の軍人)と再会を果たしたころ、日本国内では「混みあいますから満州へ」という政府キャンペーンのキャッチフレーズが巷に踊っていた。
 「日本じゃ働き口がなくて、失業者があふれてた。ああ、もうこんな狭い日本ではやっていかれんと思ったわけです」(ウルジンの通訳官を長年勤めた岡本俊雄さん)
 父親から贈られた日本刀を手に昭和10年3月に、岡本さんは日本を後にしている。同じ月、大阪外国語学校蒙古語部を卒業したばかりだった。向かう先は、建国間もない満州国北西部のホロンバイル草原。満州の行政区分では興安北分省となる。
 満鉄の急行列車がハルピンを発ってから8時間もすると、興安嶺の稜線が見え出す。山麓を突っ切ると、そこはどこまでも続く草の原、ホロンバイルである。草原を走ること2時間ほどで、人口5万ほどの中心市街地・ハイラルに着く。
 満州建国の翌年、ここにモンゴル人部隊を中心とする興安北分省警備軍が設立される。軍の体裁を早急に整備すべく、幹部育成や兵の教育が急ぎ進められていた。その中心となったのは寺田とウルジンだった。
 そこに警備軍付の蒙古語通訳としてやってきた岡本青年は、赴任早々寺田にこう言い渡される。ここではどんな問題も必ず蒙古人の立場に立って考え、解決していきなさい。
 「そんな方ですから、寺田さんは心からウルジンさんを信頼されていましてな。ま、互いに肝胆相照らす仲というのですかな」
 満州国軍騎兵上校(大佐)として新国家に迎えられたウルジンは、当時、警備軍参謀長になっていた。長身に100キロ近い体重。「あたかもジンギス汗を連想さす」と岡本回顧録にはある。一方の寺田は警備軍顧問の肩書きだった。
 凌陞事件
 その事件は昭和11(1936)年4月に起こった。興安北分省長だった凌陞(りょうしょう)はじめ北省の主要官僚4人が、ソ連モンゴル人民共和国に内通し満州国から独立を図ろうとした罪で突如、憲兵に逮捕されたのだ。面々は、軍トップにいたウルジンとも多岐に渡り交流があった。
 事件の中心人物とされたモンゴル系ダフール族出身の凌陞は、父・貴福の代から続くホロンバイル一の名家の出だ。満州国皇帝溥儀の妹と凌陞の息子の婚約がほぼ成立しかけていたときである。
 逮捕された4人はすぐに新京に移送され、関東憲兵隊司令官の東条英機少将の決裁で間もなく銃殺となった。事件にからみ多数のモンゴル系官吏が役職を追われた。
 ホロンバイルに騒然とした空気が流れ、岡本さんが詰める司令部はじめ官公庁では、日本人への「面縦腹背」(岡本回顧録)の態度が鮮明になっていった。
 凌陞が本当に独立を企てたか、ことの真相はいまだに闇の中だが、意のままにならない省長交代の機をうかがっていた関東軍の謀略説も根強い。新京で開かれた省長会議の席で凌陞は、満州国政府の土地政策に対しかなり率直な意見を述べている。会議を終えてハイラルに戻ったとき駅ですぐに逮捕された。モンゴル系実力者への捜索は凌陞の自白という理由でウルジンにも及んだ。
 ウルジンさんもこれで終わりかと
 「凌陞さんいうのはな、寺田さんがもっとも信頼していたモンゴル人のひとりだったわけです。事件は関東軍中央の判断でハイラルの特務機関は関係しておらなかったと思いますが、いまだはっきりは分かりません。もうウルジンさんもこれで終わりかと、そんな出来事でしたわ」
 凌陞一派の粛清には、いまもって岡本さんも首をひねる不明な点が多く残されている。凌陞逮捕後、戒厳令下のハイラルで、寺田は通訳官の岡本さんを呼び、険しい顔で指示を出した。
 日本憲兵がウルジン将軍宅に身柄拘束に向かうかもしれないので、君は常に将軍の身辺を警護し、夜は将軍宅に泊まりなさい。もし、なにかあればすぐに私に電話連絡するように。これは寺田自身にとっても危険な行動だった。
 このころ、病身の寺田の右半身の自由はほとんどなく、敬礼も左手であったらしい。
 岡本さんは、昼は警備軍司令部でウルジンと仕事をし、夜はウルジンの公館で就寝する生活に入り、固唾を飲んで関東軍の出方を待った。
 死ぬことはいつでもできる
 ウルジンという軍人は、始終静かでめったに感情を表面に出す人間ではなかったらしい。危機迫る凌陞事件の渦中でも、通訳官に見せる顔は、
 「取り乱すことなくいつもと変わらない生活ぶりだった」(岡本さん)
 のち悲惨な結果に終わったノモンハンの第2次戦闘でもこんな場面があった。
 第23師団の小松原道太郎中将の指揮下に入ったウルジンの興安北分省警備軍部隊はソ連軍を一時撃退した後、激戦のバルシャガ高地の窪地に司令所を構えたが、前面に出すぎ圧倒的な敵軍のなかに孤立する。司令所には日蒙混成で30人ほどの将兵がいた。
 とうとう日本人顧問がウルジンに、
 「全員自決するより仕方があるまい。覚悟されたい」
 と渋い表情で詰め寄ったが、ウルジンはまるで応じなかった。落ち着き払ったまま通訳官の岡本さんにこう伝えさせた。
 死ぬことはいつでもできる。なにか方法があるだろう――と。
 「私は、このときほどウルジンさんを頼もしく思ったことはなかったですな」
 数時間後に部隊は夕闇をついてトラックに飛び乗り、弾雨のなか全員無事に退却を遂げている。
 将来を語り合った盟友を守る大仕事
 凌陞事件はハイラルに暗い影を落とした。しかしウルジンは生き残った。新京に呼び出されて簡単な取り調べを受けただけで、処刑を免れたのだ。
 「寺田さんの力」と岡本さんは確信している。裏で、寺田が軍中央の強硬派をかろうじておさえたというのだ。
 「びっくりしましたわ。部屋に入ったら、(取り調べは)最高顧問(佐々木到一少将、満州国軍政部最高顧問)ひとりだけですわ。顧問は、いすに掛けさせてから、外蒙との内通の事実はあったのかと、まず聞かれました。ウルジンさんの人生というのは、ずっと共産主義との戦いでしたからな。そんな私がどうして外蒙と通じることができましょう、仏に誓ってありませんときっぱり言わはった。そしたら、そうですかって。それだけで終わったんです」
 半ば拍子抜けしつつも、ふたりの緊張が最高潮に達した取調室での一語一語を岡本さんは忘れることが出来ない。事件後間もなく、寺田は公館で倒れ、そのまま息を吹き返さなかった。関東軍から、ホロンバイルの将来を語り合った盟友を守ることが、寺田最後の大仕事となった。
 今をときめくウルジン将軍
 ウルジンの暮らしぶりは質素で、ハイラルの公館には長男が暮らすだけ。妻やほかの家族は、市街地から40キロ以上離れたシニヘイの集落にゲルを結び、昔ながらの牧畜生活を守り続けた。本人もときおり草原の空気を吸いに帰った。
 たまの日本人来客があれば、まずシニヘイに招き、馬乳酒と日本酒を振る舞い、和やかにブリャート流の歓迎をしたという。
 昭和11年の「月刊満州」(満鉄旅客課発行)に、当時の雑誌記者らしき人物の短い草原旅行記が4ページに渡り掲載されていた。
 モンゴル族伝統のオボ祭を取材した際にシニヘイで一夜を明かした雑記だ。いまでいうどたばた旅行記で、内容にさして見るものはないのだが、一行のために「今をときめくウルジン将軍」自ら軍服の上着を脱いで、ゲルをこしらえたとある。筆者は深夜小用に外に出た際、蒙古犬に激しく吠えられる。
 「ホウホウの態で包(ゲル)に遁込んだ。ローソクの火影をすかして見ると、夢かうつつかウルジン将軍ニコリと微笑している」
 と記しているが、「眼前にいびきをかいて寝ていた大坊主」(同記事)は、案外根っからの温厚な牧人で、時代が許せば軍服などとは無縁だったのかもしれない。
 ウルジンは凌陞事件後も、満州国の中枢を外れることはなかった。頻発するモンゴル人民共和国国境での小競り合いの処理のため司令部と国境地帯を往来し、一方で政治的解決を目指す満州里会議の満州国側代表として、話し合いにも臨んだ。
 仮に満州国と日本への懐疑心を密かに抱いていたとしても、彼はもう「満州人」として引き返せないところまできていたに違いない。
 私には構わなくともよい
 ソ連が怒濤のごとく満州国国境を越えて、ハイラルに迫ったのは昭和20年8月9日早朝だ。興安軍官学校長に就任して間もないウルジンは、校内に非常呼集をかけた。岡本さんの着任から10年目の夏のことである。おりしも、身重だった岡本さんの奥さんはハイラルの病院に入院中だった。戦闘地域に向かう支度に追われながら、ウルジンが右腕である通訳官に出した指示は意外だった。
 「私には構わなくともよい。岡本、お前は奥さんの面倒をみなさいと命令を下された。で、このとき私は任務を解かれて自由になったわけです。おかげで、苦労はしたけど昭和21年の7月に、とうとう家族を全員引き連れこの家に辿りつきました」
 恐らくウルジンは、来るべき満州の末路をはっきり悟ったのだろう。非常呼集を最後に、この2人が再会することはついになかった。
 「いつも一緒でしたね。御神酒徳利(おみきどっくり)のような」とは、昭和10年から2年間、警備軍顧問部のタイピストを勤めた公宅静江さん(茨城県在住)が語る、仲むつまじいモンゴル人将軍と通訳官の様子だ。2メートルもの長身のウルジンと150センチしかない通訳官が肩を並べて歩く姿は、ちょっとしたハイラルの名物だったようだ。
 その様を面白がったウルジンは、「岡本、おまえと俺でふたりで一人前やな」とたびたび言ったらしい。いまも岡本さんは、「えらくやさしい顔で言われる」上官のこの口癖を気に入っている。
 モンゴル系の反乱に呼応せず
 ソ連侵入による動揺はたちまち伝播し、国軍部隊は、銃口を日系軍人に向け出した。崩壊の勢いは止まらなかった。ハイラルはたちまち蹂躙された。
 ウルジンは、モンゴル系部隊の反乱を必死で留めようとしたらしい。岡本さんも、避難途中に会った軍関係者を通じ、ウルジンが説得のため戦線を駆け回っていることを耳にしていた。そして、その説得が焼け石に水であることも。
 絶望的な混乱のなかでもウルジンという人は、よほど不器用なのか、亡き寺田への義理か、最後まで満州国軍中将としての務めを捨てられなかったようだ。モンゴル系の反乱に呼応することなく、万策尽きた8月30日、新京に入城したソ連軍に自首している。
 ウルジンの自首に立ち会ったという証言を探すことはついにできなかった。
 もっとも自首したという最後ですら、最近になってソ連側の記録から明らかになったことである。
 ロシア連邦から届いた1枚の証書
 京の里山の夕刻。昔日を思い起こして疲れはてた病身の岡本さんに、無理を押して最後の質問をしてみた。
 ――『草原の記』にも引用された回顧録のなかの、食を絶って自死したというくだりは、どこで手に入れた情報でしょうか。
 「戦後しばらくは、(ウルジンの)最期は、はっきり分からなかったんですな。ただ、ウルジンさんを知る人たちが引き揚げ後、だれかれとなくそう言い出しましたのやろ」
 その噂は、いかにもウルジンにふさわしい、愚直なまでに誠実な末路だった。実際のところ、彼はソ連軍事法廷の17回の審問の末、2年後の春に日本の特務になったとする罪で死刑宣告を受け、すぐに銃殺されている。1947年3月13日のことである。享年58歳であった。
 あれから50年以上の時が流れ、冷戦の主役であったソ連邦はあっけなく内から崩壊し、追ってモンゴル人民共和国も自ら社会主義を放棄してしまった。現在、ハイラル公園の寺田の銅像は跡形もなく失せ、そこにソ連の戦勝記念塔だけが残っている。生前ついに安住の地を見つけることができなかったウルジンの名誉は、1992年になってロシア連邦によって回復された。
 《新憲法第3条第1項とロシヤ連邦法律により、政治的鎮圧処刑された犠牲者の名誉回復する規定によりガルマエフ・ウルジンの名誉回復を決裁した。
 ロシヤ連邦検察院 検察庁助理
 ゲ・フ・ウエスノスカ
 1992・6月23日》
 といっても、ロシア政変の都合で、こんな内容の証書が1枚、遺族のもとに届いた。それだけのことだった。
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 絶望的な混乱のなかでも、不器用さゆえかそれとも義理か、最後まで満州国軍中将としての務めを捨てられなかったウルジン。第1回【満州国の真実 元日本人通訳が見たモンゴル人中将の“数奇な運命”…「骨の髄まで反共の人」】では、寺田の三男が実際に会ったウルジンの印象を証言している。
 駒村吉重(こまむら・きちえ)
 1968年長野県生まれ。地方新聞記者、建設現場作業員などいくつかの職を経て、1997年から1年半モンゴルに滞在。帰国後から取材・執筆活動に入る。月刊誌《新潮45》に作品を寄稿。2003年『ダッカに帰る日』(集英社)で第1回開高健ノンフィクション賞優秀賞を受賞。
 デイリー新潮編集部
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