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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
ソ連・ロシア人共産主義者や中国人暴徒・朝鮮人犯罪者は、逃げ惑う数十万人の日本人逃避者(女性や子供)を虐殺した。
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日本の滅亡の危機は、江戸時代後期から存在していた。
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日本陸軍の大義は積極的自衛戦争であり、大東亜共栄圏建設やアジア解放は二次的な名分にすぎなかった。
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2023年8月18日 YAHOO!JAPANニュース 読売新聞オンライン「ソ連が北海道占領を断念した一因か、終戦3日後から「占守島の戦い」…遺族が慰霊碑寄贈
陸自第7師団の史料館に移設された戦車第11連隊の慰霊碑。「将兵眠る」と刻まれている(千歳市で)
終戦直後の1945年8月18日に千島列島最北東端で起きた「占守島(しゅむしゅとう)の戦い」で死没した戦車第11連隊の池田末男連隊長らの慰霊碑が、遺族から陸上自衛隊第7師団(北海道千歳市)に寄贈された。古里の愛知県豊橋市に設置されていたが、遺族の意向を受け、戦車部隊を主力とする機甲師団がある第7師団の史料館に移設された。
占守島では終戦から3日後にソ連軍が上陸、進軍してきた。武装解除を進めていた戦車第11連隊は急きょ、砲や機銃を組み立てて、砲弾も積み直して応戦。8月18~21日の4日間で、死傷者は日本が約1000人、ソ連は約1500人に上った。この激戦はソ連が参戦当初に望んでいた北海道の分断・占領を断念した一因ともされている。
慰霊碑は高さ約60センチ、幅約1メートルの硬石製。表面に「将兵眠る」、裏面に「戦車第十一聯(れん)隊将兵は(中略)士気ますます壮健なり(中略)直ちに敵に突入する 祖国の弥栄(いやさか)を祈る」と連隊最後の打電文が刻まれている。池田連隊長の長男の誠さんが管理していたが、2020年に他界。孫の杣谷少菜子さん(55)(東京都)が「自衛隊の教育に使ってほしい」と申し出た。
遺族からは慰霊碑のほか、78年前の夏に連隊が撮った占守島の写真15枚など計約300点が贈られた。第7師団は占守島の戦いを重要な歴史として語り継いでおり、慰霊碑を史料館の中庭に設置。18日には同じ「十一」という名前を冠して「士魂」をモットーに掲げる同師団第11普通科連隊の隊員らが慰霊祭を行う予定だ。
史料館は事前に申し込めば無料で見学できる。花田義将館長(49)は「来館者らに長く語り継いでいきたい」と話している。見学に関する問い合わせは同師団(0123・23・5131)。
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2019年1月27日 YAHOO!JAPANニュース 読売新聞「今につながる日本史
「スターリンの野望」北海道占領を阻止した男
「 殿しんがり 」とは、退却する軍の最後尾で敵の追撃を阻む部隊を指す(岩波国語辞典)。勢いに乗る敵の前に立ちはだかり、味方が難を逃れるまで時間を稼ぐという危険極まりない役目で、古来、抜きん出た勇者たちが任に当たったとされる。終戦時、中立条約を破ってソ連軍が近づきつつあった北海道周辺にも、そんな将兵たちがいた。
領土交渉のカギ「第二次大戦の結果」とは
プーチン大統領との会談に臨む安倍首相(1月22日、モスクワで)
北方領土をめぐる日本とロシアの交渉から目が離せない日々が続いている。安倍首相とプーチン大統領の首脳会談は1月22日の会談で通算25回にのぼり、早ければ6月に大筋合意を目指すというが、領土交渉の先行きは厳しいとの指摘も多い。
ロシア側はここにきて強硬な姿勢を示している。ラブロフ外相は平和条約締結の前提のひとつに「日本が第二次世界大戦の結果を受け入れること」をあげた。旧ソ連が北方4島を獲得し、領土であることをまず認めよ、ということだろう。
だが、ソ連の最高指導者だったヨシフ・スターリン(1878~1953)が最初に目指した「第二次世界大戦の結果」は、北方4島ではなく、北海道の北半分だった。南樺太と千島列島でソ連軍と対峙たいじした第5方面軍司令官、樋口季一郎(1888~1970)中将の決断がなければ、スターリンの北海道占領の野望は実現していた可能性が高い。
「断乎反撃、撃滅すべし」樋口司令官の決断
樋口季一郎中将(樋口隆一さん提供)
1945年(昭和20年)8月9日未明、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して満州に侵攻する。11日には南樺太でもソ連軍が日本領への攻撃を始めた。スターリンはこの半年前に開かれたヤルタ会談でフランクリン・ルーズベルト米大統領(1882~1945)、チャーチル英首相(1874~1965)と秘密協定を結び、日本に参戦する見返りとして南樺太とすべての千島列島を得る了承を得ていた。
14日、日本はポツダム宣言の受諾を決め、15日に終戦の詔書が出される。第5方面軍司令官だった樋口は16日、心を平静にし、軽挙妄動を慎んで規律を乱さぬよう訓示している。大本営は同じ日、全部隊に「やむを得ない自衛行動を除き、戦闘を中止せよ。18日午後4時までに徹底するように」との命令を出した。
千島列島・占守島守備隊の幹部と記念撮影する樋口中将(樋口隆一さん提供)
ところが、南樺太のソ連軍は戦いをやめず、さらに18日には千島列島でも占領作戦を開始する。千島列島北端の占守島しゅむしゅとうに上陸し、戦車の砲門を外すなどして武装解除を進めていた日本軍を攻撃したのだ。
大本営の命令に従えば、18日の午後4時には完全に戦闘をやめなければならない。だが、それまでの自衛戦争は許されていた。樋口は大本営にはお伺いを立てず、独断で島を守っていた第91師団の堤不夾貴ふさき師団長に「断乎反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし」と命じた。
占守島の戦車隊を視察する樋口中将(樋口隆一さん提供)
樋口の『遺稿集』には、「すでに終戦の詔書が下り、私(樋口)には完全なる統帥権が無かった。しかし、自衛権の発動に関し堤師団長に要求したところ、彼等は勇敢にこの自衛戦闘を闘った」との記述がある。濃霧で上陸に手間取っていたソ連軍を、砲火を波打ち際に集中してたたく作戦が奏功して、ソ連軍は大損害を被った。
だが、日本軍が戦闘停止期限の午後4時に攻撃の手を緩めたことで、ソ連軍は形勢を挽回する。現地の日本軍は18日午後4時でソ連側も戦いをやめると思っていたが、大本営は戦闘停止について連合国軍と何ら合意しておらず、停戦期限は「命令を出してから2日もあれば全部隊に伝わるだろう」というだけのものだった。
双方の記録では、日本軍が600~1000人、ソ連軍が1567~3000人の死傷者を出す激戦が続いた。日本軍は終始優勢を保つが、最後は停戦協定によって武装解除に応じる。降伏した日本兵は全員、シベリアに抑留され、多くの人が命を落とした。樋口は「勝者が敗者に武装解除されたのは何とも残念」と無念の思いを吐露している。
北海道をめぐる米ソの駆け引き
ソ連は1940年(昭和15年)の日ソ中立条約の締結交渉で、すでに樺太と千島列島を「回復すべき失地」と主張していたという(中山隆志『一九四五年夏 最後の日ソ戦』)。だが、8月15日の時点でヤルタ協定で得た領土の占領は終わっていなかった。
スターリンは是が非でも、日本が降伏文書に署名する前に占領を終え、既成事実にしたかった。18日、マッカーサー連合国軍最高司令官(1880~1964)は日本の要請を受けてソ連軍に戦闘中止を求めるが、スターリンの命令を受けていたソ連軍は要請を無視した。樋口はスターリンの野望を見抜き、独断で自衛戦争を指示したのだろう。
旧ソ連の北海道占領計画をスクープした読売新聞夕刊(1990年12月25日付)
樋口の懸念はそれだけではなかった。大本営の戦闘停止命令が届いた17日、樋口は別の理由から自衛戦争を決意している。
「私自身はソ連が更に進んで北海道本島を進攻することがないかと言う問題に当面した。私としては相当長期にこの問題に悩んでおり、一個の腹案を持った。即すなわち、ソ連の行動如何によっては自衛戦闘が必要になろうということだ」(『遺稿集』)。
この懸念は当たっていた。ロシアに残されている当時の公文書によると、スターリンは対日参戦直前に「サハリン(樺太)南部、クリル(千島)列島の解放だけでなく、北海道の北半分を占領せよ」と命じていた(1990年12月25日 読売新聞夕刊)。樋口が北海道防衛の自衛戦争を決意した前日の16日には、トルーマン米大統領(1884~1972)に書簡を送り、留萌―釧路以北の北海道を占領させろと要求した。トルーマンはこの要求を拒否するが、その後も南樺太にいた第八十七歩兵軍団に北海道上陸のための船舶の用意を指示している。
樋口とB29…終戦前から米軍と連携か
樋口の孫で、祖父の記録を収集・研究している明治学院大学名誉教授の樋口隆一さんは、「南樺太と千島列島を短期間で占領し、前線基地として北海道になだれ込む計画だったのではないか。スターリンが欲しかったのは不凍港の釧路。記録では北半分とされているが、あわよくば北海道全島を占領しようとしたのだろう」とみている。
隆一さんによると、ソ連が対日参戦する前の1945年7月には阿南惟幾あなみこれちか陸相(1887~1945)が突然札幌を訪れ、樋口と話し込んでいる。17日には米軍のB29が千歳空港に飛来したが、樋口はまったく驚かず、飛来を知っていた様子だったという。米軍機飛来はソ連の北海道侵攻計画に対する警告という見方もある。樋口が大本営を通じて、米軍と連携していたのかも知れない。
北海道本島断念…腹いせで?4島占領
第5方面軍の抵抗で、スターリンの北海道占領計画は出足からつまずき、狂いが生じた。ソ連軍の作戦行動命令書では、占守島は1日で占領するはずだったが、現地で停戦協定が結ばれて日本軍が武装解除したのは23日。ソ連軍はさらに千島列島を南下するが、北千島南端の得撫ウルップ島の占領完了は31日だった。9月2日に日本は降伏文書に署名し、国際法上でも終戦が確定する。樋口が率いる第5方面軍の抵抗がなければ、ソ連軍は北海道になだれ込んでいた可能性が高い。
北海道占領を断念したスターリンは8月28日、南樺太の部隊を択捉えとろふ島に向かわせ、国後くなしり島、色丹しこたん島、歯舞はぼまい諸島を次々に占領した。「本来は北海道に送り込む部隊を、仕方なく腹いせのように北方4島に送ったのではないか」と隆一さんはいう。占守島のような抵抗もなく、ソ連軍は北方4島を無血占領した。スターリンは9月3日に出したソ連国民への布告で、「日本に不法に侵略されたサハリン(樺太)とクリル諸島(千島列島)を解放した」と宣言した。
米国を動かした「もうひとりのスギハラ」
晩年の樋口季一郎(樋口隆一さん提供)
樋口に野望を挫かれたスターリンは、連合国軍に対して樋口を戦犯として引き渡すように申し入れたが、マッカーサーはこれを拒否した。米軍とのパイプもあったのだろうが、背景にはユダヤ人団体が引き渡しに反対して圧力をかけたといわれている。
樋口はハルビン陸軍特務機関長を務めていた1938年(昭和13年)、ナチスに追われてソ満国境のオトポール(現ザバイカリスク)に逃げ込んできたユダヤ系ドイツ人に食料や燃料を配給し、日本政府と軍部を説き伏せて、満州国の通過を認めさせていた。
ドイツは日本に抗議し、関東軍司令部は樋口を呼び出して査問するが、樋口は参謀長だった東条英機(1884~1948)に「参謀長、ヒトラーのお先棒を担いで弱いものいじめすることは正しいと思われますか」と問いかけた。東条も樋口を不問に付し、「当然なる人道上の配慮によって行った」とドイツの抗議を一蹴したという。
この逸話から、樋口は近年「もうひとりの杉原千畝ちうね(1900~86)」と呼ばれることもある。隆一さんは「祖父は合理的に物事を考える人だった。ユダヤ系ドイツ人を救ったのは、杉原のように外交官としての信念というよりも、筋が通らないことが嫌いだったからだろう」と話す。
ならば、天国から見る今の北方領土交渉はさぞ心配だろう。武力で北方4島から追い出され、故郷を奪われたまま亡くなった旧島民も多い。終戦後に最果ての占守島を守り、シベリアに送られて日本に戻れなかった兵士もいる。樋口とともにあの世から領土交渉を見つめる人々も、それぞれの「第二次世界大戦の結果」を受け入れているとは思えない。
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2019年1月28日放送の深層NEWSに出演した樋口隆一さん(写真左から3人目)は、「(ソ連軍の侵攻は)明らかに国際法違反。日露戦争の復讐ふくしゅう戦だった」と指摘し、ロシア側が第二次世界大戦の結果を受け入れるよう求めるのは「国際法違反ということを蒸し返させないためではないか」と指摘した。近代日本政治史に詳しい慶応大教授の片山杜秀さん(同2人目)は「(不法占拠された)結果を受け入れるのはあまりにも不条理。千島列島全体が日本領だと主張して妥協点を探るような交渉をしてもいいくらいだ。あわてて(返還交渉の)結論を出すべきではない」と話した。
※公開後に書籍化にあたり再取材している。樋口季一郎の写真は、隆一さんにご提供いただいた。
主要参考文献
早坂隆『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』(2010、文春新書)
井澗裕『占守島・1945年8月』(2011、『境界研究』)
袴田茂樹『領土問題―日本側の幻想に警告』(2019、『公研』1月号)
中山隆志『1945年夏 最後の日ソ線』(2001、中公文庫)
樋口隆一『陸軍中将樋口季一郎の遺訓 ユダヤ難民と北海道を救った将軍』(2020、勉誠出版)
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プロフィル
丸山 淳一( まるやま・じゅんいち )
読売新聞東京本社経済部、論説委員、経済部長などを経て、熊本県民テレビ報道局長から読売新聞編集委員・BS日テレ「深層NEWS」キャスターに。経済部では金融、通商、自動車業界などを担当。東日本大震災と熊本地震で災害報道の最前線も経験した。1962年5月生まれ。小学5年生で大河ドラマ「国盗り物語」で高橋英樹さん演じる織田信長を見て大好きになり、城や寺社、古戦場巡りや歴史書を読みあさり続けている。
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2023年8月18日 YAHOO!JAPANニュース ニューズウィーク日本版「安倍政権でさえ忘れる日本...我々は歴史から学べないのか
<忘れられたニュースを問う石戸諭氏のコラムの最終回。安倍元首相死去から1年の区切りでも、メディアは山上容疑者の動向などを追うばかり。賛否が分かれた憲政史上最長の政権を検証する動きはあまりにも乏しい>
賛否の分かれた政権だからこそ振り返るべき TORU HANAIーREUTERS
安倍晋三元首相が亡くなってから7月で1年を迎えた。この間、私にとっての驚きは1年の節目が安倍政権とは何だったかという議論よりも、手製の銃で安倍氏を撃った――現段階では厳密に言えば「撃ったとされる」だが――山上徹也被告の近況や、山上被告の母親が入信している旧統一教会の話題がメディア上での主要なトピックになったことだった。
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それ以外ではせいぜい自民党の最大派閥で保守色の強い旧安倍派を今後、誰が束ねるのかが話題になっていたぐらいだろう。今の日本社会において亡くなってしまうということは、存在そのものが過去になってしまうという現実をまざまざと見せつけられた。
安倍氏は日本の憲政史上、最も長く権力の座に就いた政治家だ。それも正統かつ民主的な選挙を重ねて選ばれてきた。その功罪の議論が盛り上がらず、過去になっていくのは忍びないものがある。
■政策的にリベラルな面もあった
生前に長時間インタビューを重ねて出版された安倍氏の回顧録は順調に増版し、ベストセラーになってはいる。だが、それを基にして「アベノミクスの功罪」「集団的自衛権の解釈変更の是非」にまで議論を発展させている論客は限られるし、マスメディアが適切に議題を設定できているとは言い難い。
私個人の見解で言えば、安倍氏がアベノミクスで進めた金融緩和は労働市場にも好影響を与え、明らかに良い効果があった。デフレ脱却という面から見れば、欧米ならリベラル、左派政党が主張するスタンダードな政策だ。むしろ旧民主党政権がこの方向に舵を切れなかったことが、同政権や下野した旧民主党系勢力への幻滅を生んだ一因になっていると考えている。
だが、税率が5%から8%、10%になった消費増税は金融緩和というアクセルと同時に景気のブレーキを踏むようなものだったし、効果的な財政出動も十分とは言い難かった。ここは野党が突くべき論点なのに、一部を除き相変わらず漠然とした「アベノミクスか否か」ということばかり議論している。
安倍政権という「歴史」を問う姿勢が必要
また、集団的自衛権を認めるのならば、真正面から改憲を問うのが筋だったのではないかと思う。東日本大震災からの復興、新型コロナ禍での政治......。安倍氏に問えることはもっとあったし、安倍氏自身も語りたいことがたくさんあっただろう。
野田佳彦元首相が追悼演説で語ったように「安倍晋三とはいったい、何者であったのか。あなたがこの国に遺したものは何だったのか」を問うことは今でも必要だ。長期政権から教訓を引き出し、学ぶという意味でも。そして政治家に限らず、人間は暴力によって命を奪われてはいけない。この点を忘れないためにも、私も安倍政権という歴史を問うていきたいと思う。
当コラムはこれが最終回である。インターネット時代のニュースは常に更新の波にさらされる。だが、本当に必要なのは波に流されず、じっと考える時間だった。それを理解してくれた読者――と支えてくれた編集部――への御礼で締めたい。ご愛読ありがとうございました。また、どこかで。
石戸諭(ノンフィクションライター)
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