🎄52」─3・A─ドイツ軍エリート将校がヒトラーを利用した本音。~No.175 

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 2023年1月15日 YAHOO!JAPANニュース クーリエ・ジャポン第二次世界大戦中のドイツ軍将校の盗聴記録が示す「ヒトラーを利用したエリートの本音」
 1939年のドイツ国防軍の勝利パレードの際に撮影された写真。ヒトラーの周りを各軍の総司令官が取り囲んでいる Photo : ullstein bild / ullstein bild / Getty Images
 第二次世界大戦中、イギリスの諜報機関は、捕虜となったドイツ軍将校らの会話を録音していた。その盗聴記録からは、軍幹部らの新たな側面が浮かび上がってきたという。この記録を読み解いたイスラエル歴史学者に、イスラエル紙「ハアレツ」が詳細を聞いた。
 【画像で見る】第二次世界大戦中に英軍捕虜となったドイツ軍高官が滞在した豪邸
 イギリス軍捕虜となった、ドイツ人将校の会話記録
──まずは自己紹介をしていただけませんか。
 私の名前はアヴナー・ガーショニーです。ヘブライ・リアリ・スクールというイスラエルの小中学校で歴史教師として働きながら、ハイファ大学の博士課程で研究しています。私の博士論文のテーマは、第二次世界大戦の最後の1年半におけるドイツ国防軍の9人のトップ将校の物語です。修士論文は別のテーマで書きましたが、もともと同軍に興味があり、30代でドイツ語を学びました。
 この将校たちについて調べていくと、彼らに関する研究には不明点が多いことがわかりました。彼らがどう戦ったのかなどのドライな部分は明らかでも、本当はどんな人物だったのかは、まったく見えてきませんでした。
 そしてその後、宝物のような資料を見つけたのです。当時、イギリスの諜報機関が、捕虜になったドイツ兵と将校の会話を何年にもわたって録音し、すべて書き起こしていました。捕虜となった将校たちはロンドンの邸宅、トレント・パーク・ハウスに集められて生活していたのですが、そこには盗聴器が張り巡らされていました。
──その資料をどうやって手に入れたのでしょうか。
 この資料は1996年まで最高機密として扱われ、アクセスできませんでした。これを最初に見つけたのは、ドイツ人歴史学者のズンケ・ナイツェルです。彼はこのテーマに関する本を出版し、そのなかに資料の場所や探し方を記しました。私は論文を書き始めてから奨学金を得て、ロンドンのクイーン・メアリー大学の研究員になりました。5ヵ月間の滞在中、毎日資料が保管されている英国立公文書館に通って写真を撮ったのです。それを読んで、主題や名前ごとに分類しました。
──この記録が長い間、埋もれていたのは不思議ですね。
 ナイツェルは、この記録についてとてもよく理解していました。でも、その業績は学術界だけにとどまっていました。また、資料がカタログ化されておらず、非常に使いにくかったという点も留意すべきです。ただ、これに関するドイツ語や英語のドキュメンタリーが作られています。でも、この資料についてほとんど知られていないのは残念です。
 たとえば、ナチス・ドイツの国家元帥までつとめたヘルマン・ゲーリングの伝記を書くには、これらの資料を利用しない手はないと思います。戦争中に捕虜となった将校たちの声なのですから。
 捕虜となったドイツ軍のトップ将校たち
──邸宅にはドイツ人高官は何人くらいいたのでしょうか。
 捕虜となった将校は84人ほどおり、大佐クラスの将校もいました。戦争末期には、最高階級である陸軍元帥までもそこに送られました。
──将校たちの間では、どんな話がなされたのでしょうか。
 あらゆることについてです。おいしい食事や、戦闘の経験について、あるいは、さまざまな種類の陰謀や戦闘などについてです。イギリスは将校たちにラジオも聞かせたので、彼らは戦争の経過も追えていました。たとえばイタリアの陥落などの重要な出来事は、すべてリアルタイムで彼らに共有されました。
──イギリス軍は、捕虜を外で起きている出来事から切り離さないと決めていたようですね。
 この決断は実を結びました。1944年6月、ノルマンディーへの侵攻が始まると、次々と将兵たちが捕虜となり、トレント・パーク・ハウスに連れてこられました。戦争の初期に捕らえられて情報に飢えていた捕虜たちは、新たにやってきた者たちから情報を得ようとしたのです。しかし、それはイギリスのための仕事のようなものでした。
 さまざまなことが語られました。ドイツ爆撃の代償や、破壊された家屋について、住むところがないから我慢している家族などについてです。また、ドイツで何が食べられて何が食べられないか、誰がゲシュタポの監視下に置かれているか、などという話もありました。
──それは貴重な情報ですね。閉鎖的な独裁国家のドイツにおいて、何が起きているのか、内側からの視点です。
 非常に重要な資料となりました。というのも、イギリスは、どうすればドイツが崩壊するのか、ずっと突き止めようとしていたのです。そして、ここから本国戦線の士気が低いこと、状況が厳しいこと、政府が腐敗していることを理解しました。
 ドイツのトップエリートたちの選民思想
──捕虜となった将校たちは、良い環境で過ごしたのですね。
 当時の英首相チャーチルも、彼らが甘やかされていると怒っていたようです。しかし、彼らが邸宅に連れてこられたのは「接待」のようなものです。自分と同じような人たちと一緒にいて、ちやほやされたことで警戒心が薄れたのでしょう。彼らは非常に多くを語りました。牢屋にいるわけでもなく、立派な屋敷で同じような境遇の人たちに囲まれているわけですからね。結局のところ、そこにいたのはドイツのエリート集団でしょう。
──ドイツのトップエリートですね。
 まさにそうです。なかには貴族の称号を持つ人もたくさんいました。彼らは第一次世界大戦中からすでに将校だったベテランの軍人たちです。人生で多くのことを見聞きし、体験してきた人たちであり、ナチスに洗脳されるような人々ではありません。
──ドイツ国防軍ナチスイデオロギーに完全に同調していたわけではないということでしょうか。
 理念のレベルではそうです。しかし、軍には1800万から2000万人の兵士がいました。普通の若い兵士たちは明らかに敬虔なナチスの支持者で、そのプロパガンダに完全に染まっていました。一方、将校たちは、一般大衆には馴染みのない、別の歴史的側面を見せていました。
──それはどんなものですか。
 将校たちの世界観は帝国主義的で、君主制を支持しています。彼らは、民主主義や議会などにはまったく興味がありませんでした。ナチスの野心は、神聖ローマ帝国や第二帝国(1871~1919)の思想と実はあまり変わりません。ヒトラーは東方への拡大、ドイツを超大国の地位に押し上げるという野望を持っており、その体制は将校たちも好都合だったのです。問題は、ヒトラーが失敗し始めたときから起こるようになりました。
根強かった反ユダヤ主義
──ヒトラーを問題視していなかったということは、そのイデオロギーも全面的に受け入れていたのでしょうか。
 彼らは皆、反ユダヤ主義者で、そのプロパガンダを全面的に信じていました。反ナチスの姿勢をとった国防軍大将のヴィルヘルム・フォン・トーマ元帥でさえも、次のように述べていました。
 「いいか、1人や2人のユダヤ人はいいとして、問題は彼らが集団でやってくることだ」
 別の会話では、ある将校が「ユダヤ人を政治に関わらせたくない」と言うと、もう一人がこう言いました「じゃあ、どこにおけばいいんだ、通信分野か。それはもっとも危険だ。ユダヤ人はあらゆる場所に入り込んで、どんな人をも掌握するのが得意なんだ。あいつらはすべての井戸に毒を盛っている」
──戦争犯罪についても話題になっていたのでしょうか。
 そうですね。会話からは、現場で何が起こっていたかを充分に理解していたとが読み取れます。ユダヤ人の抹殺、東部の住民の殺害、ロシア兵捕虜の組織的殺害について、彼らは公然と話していました。
──それらの事実を知っていたとは、彼らが戦後に主張したこととは裏腹ですね。
 彼らは間違いなくすべてを知っていました。なかにはそのいくつかに責任を持つような将校もいました。また、仲間に誘われてユダヤ人の処刑を見に行ったときのことを回想する将校の会話もありました。「いつもは午前中に射殺するんだが、君が来るなら昼頃にしよう」と言われたそうです。
 他にも「殺人」を監督していた将校がいるのですが、彼は、連れてこられた子どもがどうやって首の後ろを撃たれたかという様子について語っています。この部分の書き起こしに関しては、話し手が「非常に興奮している」ように聞こえたと、写植師が注意書きをしていました。そのような記載は他にはあまりみられません。(続く)
 Ayelett Shani
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