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2022年9月25日 MicrosoftNews 東洋経済オンライン「ソ連の崩壊と社会主義の破壊は想定外だった ペレストロイカを実体験したロシア人教授の回想
福田 恵介
© 東洋経済オンライン 2006年、テレビに出演したゴルバチョフ氏。彼のペレストロイカは世界に多大な影響を与えたが、当時の国民は何を考えていたか(写真・ Bloomberg)
2022年8月、ソ連共産党ので最後の最高指導者だったミハイル・ゴルバチョフ氏が息を引き取った。ソ連、社会主義陣営の崩壊を招いた反面、冷戦の終結、核軍縮を進め「よりよい社会」をつくろうとした政治指導者だった。朝鮮半島問題専門家として世界的に著名な韓国・国民大学のアンドレイ・ランコフ教授は、ゴルバチョフ時代のペレストロイカを実体験した人物だ。ソ連崩壊から30年。ゴルバチョフ死去という節目を迎え、ランコフ教授に当時の状況や自身の体験を聞いた。
――ゴルバチョフが書記長になった1985年、当時のソ連で「ペレストロイカ」(変革)、「グラスノスチ」(情報公開)、「ウスカレーニエ」(社会経済発展の加速化)など彼が打ち出した方針についてどのように考え、またどのような印象を持たれましたか。
ゴルバチョフは、自分が統治する国家と社会を、歪曲した目線で見ていました。例えば、「住民たちは社会主義経済や共産党を中心とする政治体制を永遠に支持するだろう」と考えていました。さらには、経済問題を過小評価していました。
ただ、当時のソ連では、自国の状況を客観的に把握している人はほとんどいなかったのです。ゴルバチョフの錯覚と誤った判断は、当時のエリート知識人階層の多数が信じていたことと同じでした。より厳密に申し上げると、彼らはゴルバチョフと同じ時代の人々です。1930年代に生まれ、1950年代に学校に通った人たちの多くが持っていた錯覚と判断ミスです。
ゴルバチョフが犯した最も重大なミス、それは政治改革を行えば経済問題も簡単に解決できると考えたことです。まさにそのために、民主を意味する「ペレストロイカ」と「グラスノスチ」が強調され、経済成長の鈍化を克服することを意味した「ウスカレーニエ」は最初からあまり強調されず、また時間が経つほど脇に追いやられてしまいました。
「政治改革を行えば経済もよくなる」
――中国の鄧小平が行った「改革・開放」とは逆のベクトルでゴルバチョフが改革を行おうとしたということでしょうか。
鄧小平時代の中国は、共産党を中心にする一党独裁体制を維持しながら、経済の市場化を図ることで経済的奇跡を成し遂げました。反面、ゴルバチョフ時代のソ連は、経済をほとんど無視して、政治部門で民主化を行ったのです。その結果、致命的な経済危機と連邦国家の解体を招いた――。これまで何回も繰り返された陳腐な話ですが、基本的に事実です。
ゴルバチョフは国を民主化する考えがありました。一方で、自由民主主義を導入するつもりは彼にはなかった。ゴルバチョフの目的は、改革を始めた初期の段階で、ある程度の言論の自由や討論の自由がある一党制の国家づくり。彼はこのような国へと改革すれば、民衆の声を聞くしかない共産党幹部たちが非常に厳しい経済問題を簡単に解決できると錯覚したのです。
もちろん、ゴルバチョフが始めた部分的な政治改革は、彼の統制から外れて、自発的に拡大し始めました。より厳密に言えば、政治改革への動きを統制する方法はありました。だがその方法は、流血をともなう武力的鎮圧だけです。ゴルバチョフのような人には、このような暴力的な鎮圧をする考えはありませんでした。
――個人的にはどのように考えられましたか。
私は当時、ゴルバチョフが主張した方針を歓迎しました。1985~1986年当時、ゴルバチョフが掲げた政治路線を歓迎しなかった人は、ソ連内でほとんどいなかったと言っても過言ではありません。それは、当時のソ連社会で変化を求める要求が、本当に強かったためです。
当時の雰囲気を象徴する歌があります。「変化を望む」というタイトルです。当時の非合法なロックバンド「キノー」のボーカルだったヴィクトル・ツォイ(1962~1990年)が1987年につくった歌です。そこには「変化! 私たちの心は変化を要求する! われわれの目も変化を求める! 私たちの笑い、涙、脈拍の中での変化! 私たちは変化を待っている!」と歌い上げました。
興味深いことは、当時のソ連では変化を望む人々が絶対多数でしたが、その彼らが希望する望ましい政治路線については大きな違いがありました。当時、ソ連社会が今後進むべき方向性については少なくはない葛藤がありました。とはいえ、従来の体制を変える必要があるということは、ソ連国民の絶対多数が共有していました。そのため、その第1段階としてゴルバチョフの改革を強く支持したのです。
具体性がなかったペレストロイカ
とはいえ、ゴルバチョフの主張や政治にはあまり具体性がありませんでした。それでも、逆説的ですが、具体性がなかったからこそ彼の政治路線が高い支持を得ることにもなったのです。未来についてまったく違う考えを持っている人がたくさんいても、ゴルバチョフに対しては希望を感じていたのです。
――実際にペレストロイカがソ連の中で進み、実際の生活の中で大きく変化したこと、あるいはまったく変化しなかったことはありますか。
当時の私は、率直に言えば、今で言う「勝ち組」集団に属していました。1985年に北朝鮮の金日成総合大学での留学を終えてソ連に戻った時、すでにソ連社会の雰囲気が大きく変わったことに気づきました。私のような人々、すなわち名門大学で政治学や社会科学を専攻し、この問題に対して関心があった学生たちは、政治的な討論はたまにしていましたが、それでも秘密警察への恐怖がありました。
また、当然に言葉づかいに神経をとがらせなければならない。私も当時のほとんどのソ連人のように、小学生の時から家で「言葉に気をつけろ」といった教育を受けました。ゴルバチョフ就任後には公の場で比較的簡単にできるようになりました。そしてまもなく、メディアでも政治的問題が取り上げられるようになりました。
アカデミックな分野でも、学者たちの研究の自由も急速に拡大しました。公開的な討論・議論ができないような、いわばタブー視されていたテーマでさえ、ゴルバチョフ以降は自由に討論できるようになりました。当然、私のような研究者たちは興奮し、とてもいい気分を味わいました。
一方で、私は当時、今後のソ連(ロシア)は「完璧な自由民主主義国家にはなれない」とも考えていたのです。実は、私は「今後のロシアは強い民族主義傾向を持つ権威主義体制が登場する可能性が高い」とみていました。人は、自分の予測能力を過大評価する傾向があります。とはいえ、私は当時「ロシアでは近いうちに民族主義の性格が強い権威主義政権が登場するだろう」という主旨の論文をいくつか執筆しました。
――今のロシアの姿を端的に表現された予測でしたね。その予測を現時点でどう振り返りますか。
2000年代初頭には「自分の予測は過度に悲観主義的で、誤った予測だった」と思い始めました。2000年代初頭のロシアは民主体制を持つ中進国になっているという雰囲気でした。しかしこれは錯覚でした。現在のプーチン政権がこの数年間に実施してきた政策をみれば、30年前の私の予測は正確なものだったと考えます。
――いわゆる「負け組」の人たちはどんな体験をし、ペレストロイカをどう考えたのでしょうか。
当時の大多数はまったく「勝ち組」ではありませんでした。1990年代に当時のレニングラード(サンクトペテルブルク)国立大学の助教授としての給料では、当時のソ連で2、3日しか生活できなかった。当時は副業をたくさんやってしのぎました。実際に、私が副業で稼いだ金額は、公式の給料より数十倍多かったのです。主に通訳と翻訳でしたが、他の副業もたくさんやりました。そんな副業ができる人も、実は少数でした。
1990年代半ばに出始めたソ連復活論
――1980年代末に向かうにつれ、ソ連社会では深刻な物不足を経験しましたね。
1989~1990年ごろに経済状況がひどく厳しくなり、もともと商品数が多くなかった店では本当に店内が空っぽになってしまうこともありました。1990年代初頭、エリツィン政権下で副首相を務めたエゴール・ガイダルが始めた「急激な市場経済化導入」という改革以降、店に品物が現れはじめましたが、その値段は庶民が想像することすらできないほど高額でした。
そんな経済状況で最も打撃を受けた人たちは、国家からのお金で生きていた人たちです。たとえば学校の教員や下級公務員、大学教授、軍需工業の技術者や労働者たちは、一夜にして物乞いのような生活を送らざるをえなくなりました。
権威主義国家であれ民主主義国家であれ、彼らは似たような生活をしたはずです。当然、彼らにとっての経済崩壊は、それまで禁書とされていた書籍が自由に販売されるようになったことより、はるかに重要なニュースでした。
そのような彼らも、当初はゴルバチョフの政策を歓迎しました。ところが1990年代になって強く失望したのです。1990年代半ばには、1980年代には共産主義を嫌っていたロシアの庶民の多くは、ソ連の復活を夢見るようになります。
先ほど私を「勝ち組」と言いましたが、これは純粋に運がよかったためです。体制移行の最初の段階で、ソ連国民の大多数は負け組になりました。ただ、1990年代末になり、体制移行の過渡期が終わるころには、1990年代半ばまで貧しく厳しい生活を送った人たちの生活が急速に改善しました。これはある程度、ゴルバチョフのおかげで可能になった市場化がもたらした結果でした。
しかし、ほとんどのロシア人は絶対にそう思いませんでした。彼らの常識では「ゴルバチョフのせいで経済危機が生じ、プーチン大統領はその経済危機を克服した人」となっていますから。
――厳しい変化に直面した人がいた反面、ゴルバチョフ時代でも変わらなかったことは何でしょうか。
答えにくい質問ですね。なぜなら、革命が起こったとしても、変わらないものが多い。日常生活がそうです。革命が起こったとしても多くの人たちの日常が大きく変わるということはありません。学校に行ったり、職場に行く。そうした生活です。
例えば、1930年代の帝国時代の日本と1940年代末のGHQ(連合国軍総司令部)時代の日本を比較してみましょう。人々は変わらず学校や職場に行きます。学校では国史のような科目が消えて、国家神道も消え、軍国主義の雰囲気も消えました。しかし、基本的な日常生活は同じようなものではなかったでしょうか。
ソ連とロシアで変わらなかったもの
ソ連とロシアで変わらなかったものとしては、権威主義的な政治文化を挙げることができます。ゴルバチョフ時代もその後も、昔の政治文化、すなわち権威主義的な政治文化は多く残っていました。これはロシア大衆の政治文化ですが、昔も今も似ています。プーチン政権の登場、プーチン政権の保守化(権威主義の加速化・深度)は、ロシア大衆の政治文化を如実に示しています。
それだけではなく、ソ連の支配階級、すなわち特権階級の構成もほとんど変わらなかった。2022年現在のロシアを統治する人たちは、依然として共産主義時代の幹部出身者やその子どもたちが大多数を占めています。
――ソ連崩壊前後、ゴルバチョフを監禁した共産党保守派によるクーデター、指導者としてのエリツィンの登場、そしてソ連崩壊へと至る過程を当時、どうご覧になっていましたか。
1980年代初頭から、私のような政治に関心がある学生たち、すなわち反共産主義民主化運動の学生の間では、ソ連の非ロシア系民族の中で民族主義が高まっていることを知っていました。そして当時の私が考えていたことは、今になってみると実に根拠のない素朴な考えだったのですが、当時は私の考えと同じような人が多くいました。
いずれにせよ、すでに1980年代初頭からソ連解体の兆しが見え始めました。私はゴルバチョフが登場した1980年代半ばから、連邦構成共和国の多数が近いうちに独立すると思っていましたが、これは1980年代末には確信しました。
私はゴルバチョフについて、大多数のソ連人のようにもともと希望を感じていました。しかし、エリツィンについては、最初から批判的な考えがありました。エリツィンは権力への野心も強く、機会主義的性格が強い人に見えました。
政治家なら誰でも権力に対する野心・機会主義はあります。それでも、エリツィンは最初からこのような傾向がとても強くうかがえました。それだけではなく、エリツィンの時代は不正腐敗がとても横行して、高級幹部などごく少数の人たちが国家財産を不法に盗みました。私はこのような「盗みとあまり変わらない民営化」を必要悪であり避けられない悪だとも思いましたが、これには強い不満を感じました。
しかし、時間が経つにつれて、私のエリツィンへの評価は改善しました。エリツィンは、権力への野心・機会主義的な傾向が強かったものの、それでも彼はロシアの歴史では前例のない統治者でした。エリツィンは自分に向けられた激しい非難も許し、言論の自由と政治民主主義をさほど弾圧しませんでした。
むろん、1996年のロシア大統領選挙は、時の政権が露骨に介入した選挙でした。これはプーチン時代に入ってますます深刻化する、悪い伝統の始まりとも言えます。それでもエリツィンは、ロシアの政治文化の基準では民主主義をよく守った人とみなさざるをえません。おそらく、エリツィンは民主主義を本当に信じていたのでしょう。
――1991年8月のクーデター当時はどうでしたか。
クーデター発生は突然でした。当日早朝、レニングラード国立大学の教授からの電話でクーデター発生を知りました。それを聞いた私はまず怖くなり、私が望んでいた世界が崩れるのではないか、と思ったことを覚えています。
私はその後、民主化運動団体の事務所を訪ねました。クーデター勢力と戦う気持ちがあったためです。私のような気持ちを持った人は、圧倒的に大都市に住む若い知識人たちでした。庶民はますます厳しくなる一方の経済状況があり、そのためゴルバチョフの政策には強い不満がありました。そのため、彼らはクーデターを支持しないまでも反対することはありませんでした。多くの人たちは、クーデターに中立的な態度、または非常に消極的な支持といったものでした。
大都市の意向が国家の方針を決める
とはいえ、ソ連のような国で決定的なことは何だと思いますか。それは、首都モスクワと第2の都市レニングラードがどう考えるか、ということです。モスクワ、レニングラードの両都市では民主化を熱心に支持する人々が依然として多かった。もちろん、私もその中の1人でした。
1991年8月19日の夕方まで、私は恐怖感に包まれ、ゴルバチョフにより始まった崩れそうな改革を守るために戦おう――。そう考えていました。今でもその日のことをよく覚えています。
しかし、時間が経つにつれて、クーデター主導者たちの無能さと愚かさを目の当たりにしました。さらには、クーデター勢力を支持する人がほとんどいないこともわかりました。1991年8月19日夕刻、午後7時ごろだったでしょうか、その頃にはクーデター勢力が敗北すると感じました。彼らが「クーデターをどう行うべきか」さえ知らないままにやってしまったということがわかったためです。
翌1991年8月20日、私は民主化運動をする人々と一緒にいました。その日、「クーデターはまもなく失敗する」という気持ちがどんどん強くなりました。そして、失敗に終わったことを確認します。
ここで重要だったのは、当時の共産党幹部をはじめとする旧エリート階層の態度でした。私は民主化運動を少し経験し、また副業のおかげで共産党や国の幹部たちと知り合う機会が多かった。そのため、1989年に入ってから、彼らのペレストロイカに対する態度が変わり始めたのをよく観察できたのです。
彼らはもともとペレストロイカによる体制崩壊を恐れていました。しかし1989年末になると、彼らのそうした恐れが弱まったのです。彼らはペレストロイカ、とくに市場化政策をある程度歓迎し始めました。
今振り返ってみると、彼らが態度を変えた理由がすぐにわかります。逆説的なことですが、ソ連体制が崩壊した時、最も大きな利益を得た人たちは共産党幹部や国営企業経営者、KGB(国家保安委員会、現在のロシア連邦保安庁、FSB)職員と一般警察でした。彼らはソ連時代にも特権階層でしたが、ソ連時代には彼らでさえもある程度管理・監視もされ、行動にも制限がありました。
ところがソ連崩壊以降、彼らは自分たちの特権をうまく維持しただけでなく、その特権を拡大させました。とくに彼らは、もともと経営していた国家所有の財産を自分のものにしてしまいました。こんにちのロシアを動かしている人たちの3分の2程度が、旧共産党幹部やソ連時代の特権階層出身者です。
私のような知識人の多数も勝ち組にはなるのですが、国の財産を盗んだ幹部とKGBの連中は、われわれよりはるかに大きな勝利を収めた、勝ち組中の勝ち組になります。
ゴルバチョフは民族の裏切り者か
――ソ連崩壊から30年。ゴルバチョフが亡くなりました。この30年間、ペレストロイカをはじめゴルバチョフに対する評価にはどのような変化がありましたか。
1989年に入って、ゴルバチョフに対するソ連国民の態度は急速に悪化し始めました。これは外国ではそれほど知られていない事実だと思います。そして1990年代半ばから、ロシア国民の絶対多数はゴルバチョフをとても嫌いました。
彼らにとってゴルバチョフとは経済危機を招いた人であり、ソ連を破壊した人でした。彼がCIA(アメリカ中央情報局)に取り込まれたスパイだという話を信じてしまう人もいました。今でも少なくありません。2000年代に入り、ロシアは厳しい体制移行の過渡期を無事に終え、経済危機を克服しました。それでも、ゴルバチョフに対する国民の敵対感はさらに強まりました。
かつてのソ連国民にとってゴルバチョフとは、「超強大国だったソビエト社会主義共和国連邦を破壊した民族の裏切り者」となったのです。しかも、ゴルバチョフの政策のおかげで莫大な国家財産を盗んで大金持ちになった元共産党幹部や元KGB職員たちも彼を強く嫌いました。社会主義の復活をまったく望まず、今後も豪華な生活を送りたい彼らでしたが、一方で超強大国ソ連に郷愁を感じてもいました。
これまでの30年間で学んだ教訓はたくさんありますが、最も重要な教訓は、ゴルバチョフを好きであろうともなかろうとも、ロシアの国民のエリートたちでさえも、実は政治的な自由や民主主義にはあまり関心がないのだ、ということです。これは本当につらい事実です。
ロシアの大多数の人たちは個人の自由、すなわち読みたい本を読んで、見たい映画を見て、お金があれば海外旅行にも行けるといった自由を高く評価します。ところが、言論の自由や政治参加の自由を高く評価しません。
率直に言えば、私は当初からこうなるだろうという可能性を予想していましたが、それでも実際の結果は、私のそんな予想よりも深刻でした。政治参加の自由や言論の自由に対する国民やエリートの無関心さはとても深刻です。私はこれに、強いショックを受けました。
――ペレストロイカの時代を直接体験されたロシア人として、ゴルバチョフ個人に対して今、どのような評価をされますか。
私は当初からゴルバチョフ書記長を高く評価しました。国民が嫌がったり無視したりするゴルバチョフは、知識人の一部では人気が高い。時間が経てば経つほどに、一部の知識人にはゴルバチョフ人気が高まっているという感じさえ受けます。しかし、彼を高く評価する人は、これもまた大都市のエリート知識人層の中では多数かもしれませんが、ロシア全体ではごく少数なのです。
ゴルバチョフの情熱「よりよい社会を」
1990年代になって、経済政策のため、あるいはゴルバチョフの指導スタイルがもたらした状況に私は失望していました。それだけでなく、ゴルバチョフという人は、それほど有能な政治家ではありませんでした。彼には民衆を助けたい、国をよい方向に導きたいという意思はありました。しかし彼は、素朴な人であり、世界をきちんと理解できない人でもありました。それゆえに、ゴルバチョフは望ましい変化をもたらせない人だと私は考えました。
© 東洋経済オンライン アンドレイ・ランコフ/1963年、旧ソ連・レニングラード(現サンクトペテルブルク)生まれ。レニングラード国立大学を卒業後、同大学の博士課程を修了。金日成総合大学に留学した経験もある。母校やオーストラリア国立大学などで教鞭をとった後、現職。著書に、『平壌の我慢強い庶民たち』『スターリンから金日成へ』『民衆の北朝鮮』『北朝鮮の核心』など邦訳も多数(写真:ランコフ氏提供)
ゴルバチョフは社会主義を破壊する考えはなかったし、ソ連を解体する考えもありませんでした。この2つの史実はゴルバチョフの政策によって発生してしまいましたが、ゴルバチョフが計画したものではなかったわけです。
ゴルバチョフが計画を立案できる人ではなかったことは確実です。それにもかかわらず、ゴルバチョフが持っていたより自由な社会にしよう、より明るい社会にしよう、より人間らしい社会にしようという希望と情熱は、彼が犯したミスや政策的な誤りよりは、はるかに重要なものだったと言えるでしょう。
だからこそ、この10~15年間、ゴルバチョフに対する私の評価は大きくよくなりました。彼が犯したミスや過ちを今でも覚えていますが、それよりもそうした彼が偉大だった部分を以前よりよく思い返しています。」
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