🗽7」─6・B─50億羽もいたリョコウバトがたった100年で滅ぶ。1914年。~No.27 ③ 

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 2022年7月23日 MicrosoftNews ORICON NEWS「50億羽もいたハトがたった100年で滅んだ「恐るべき理由」
 Photo:Adobe Stock
 TVやネットで動物の絶滅に関するニュースを目にすると、「守ってあげたい」と本能的に感じる人は多いだろう。実際、自然保護の現場では、動物の絶滅を防ごうとさまざまな取り組みが行われている。
 しかし、絶滅種を人間の技術で蘇らせたり、絶滅しそうな動物を保護して繁殖させたりするのは、本当に「正しい」行為なのだろうか? そんな問いに正面から切り込んだのが、米国のジャーナリスト、M・R・オコナー氏の著書『絶滅できない動物たち』だ。
本書は、「絶滅を防ぐことは『善』なのか?」という倫理的な問題に焦点を当てた異色のノンフィクションで、Twitterでもたびたび話題を呼んでいる。本稿では、本書より一部を抜粋・編集して、50億羽もいたリョコウバトがたった100年で滅ぶに至った、人間の「恐るべき行為」を紹介する。(構成/根本隼)
 詩人がアメリカで目撃した驚きの光景とは?
 スコットランドの詩人アレクサンダー・ウィルソンは、1794年にアメリカに移住すると、「羽が生えた種族」と彼が呼んでいた生きものの虜になった。ウィルソンの鳥への愛情は、とどまるところを知らなかった。
 新しい鳥を見つけるべく、ウィルソンはカヌー、ウマ、徒歩で何千マイルも旅した。ある年、ケンタッキー州シェルビーヴィル近くを通過したときに、彼は驚くべき光景を目撃した。リョコウバトの大群だ。
 彼の目算では、その数や20億羽以上だ。胸が赤い鳥の群れは、彼の上を通過するのに何時間もかかった。ウィルソンはこれを、アメリカに移住してから目撃したなかで最も驚いた出来事だったと書いている。
 リョコウバトの重みで木が裂けた
 しかし、リョコウバトの大群は初期の入植者にとって恐怖でしかなかった。「膨大な数のハトが飛んでいた。誇張ではなく、ハトの群れで太陽が隠れて空が暗くなった」という1750年代の探検者の発言が残っている。
 大群で大空を埋めつくす以上に恐ろしいリョコウバトの行動は、群れが巣づくりするために森に降りてくることだった。リョコウバトは1本の木に50個の巣をつくり、何千エーカーもの面積が、リョコウバトの巣をいくつも抱いた木ばかりになる。
 記録に残っている最大の巣づくりは1871年ウィスコンシン州中央部で発生した。このときはリョコウバトの群れが約3.5平方キロメートルの空を覆った。推定1億3600羽のリョコウバトの重みでオークの木が裂け、倒れた。
 食料や娯楽として撃ちおとされたリョコウバト
 1871年の巣づくりの一件は、確かに滅亡の前ぶれだった。ただし人間の滅亡ではない。10万人もの人間がウィスコンシン州にやってきて、食料として、また娯楽としてリョコウバトを殺したのだ。
 死傷したリョコウバトの数は膨大で、死骸が地面に散乱し、孵化したばかりのひなは巣で飢えて衰弱した。30万体ほどの死骸が樽でアメリカ東部に輸送された。東部では市場に大量に出まわり、安値で売りさばかれた。
 プロの「巣どり屋」は、巣があると電報で連絡を受けると現場に行って120万羽を捕獲した。数えきれないほどのリョコウバトが銃で撃ちおとされた。弾薬を扱う商人は、ハンターを相手に火薬3トン、散弾16トンを売った。
 1914年、最後の生き残りも死んだ
 「その殺しかたは壮絶で言葉を失う」とは、ある目撃者の発言だ。19世紀末には、リョコウバトが巣づくりしようと木に止まるたびに捕獲され、しまいには、もう二度と群れが大きくならないことは誰の目にも明らかだった。
 1899年には、ウィスコンシン州にいた最後のリョコウバトが撃たれた。1914年には、リョコウバト最後の生き残りである雌がオハイオ州シンシナティ動物園で死んだ。剥製師のR・W・シューフェルトが、「マーサ」という名のこの雌の検死を行った。
 「いずれ、世界全体の鳥類相が事実上絶滅する日が来る」とシューフェルトは検死後に述べた。「まさにそのような事態になっている。それもたいていの人が思っているよりずっと速いペースで」
 (本稿は、『絶滅できない動物たち』より一部を抜粋・編集したものです)
 M・R・オコナー,大下英津子」
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 日本大百科全書(ニッポニカ)「リョコウバト」の解説
 リョコウバト りょこうばと / 旅行鳩
 passenger pigeon
 [学] Ectopistes migratorius
 鳥綱ハト目ハト科の鳥。絶滅種。ワタリバトともいう。カナダ南部からアメリカ南部諸州までの広葉樹林に大群をつくってすみ、不規則な移動をしていた。19世紀初めにオハイオ川上流で集団繁殖していたある群れが約22億羽と推定されたほど群集性が強く、群れが木に止まると、その重みで太い枝が次々に折れたという。しかし、急速な森林の伐採によりすみかを失い、また食用として乱獲されたため急激に減り、1867年に初めてニューヨーク州で狩猟禁止が決まり、その後各州もしだいにそれに倣ったが効果なく、最後に残った五大湖地方の群れも1885年以降急に小さくなり、1894年を最後に営巣しなくなった。多数で集まっていないと食欲も繁殖欲も弱くなる性質も災いしたらしい。飼育下での繁殖もあまり成功せず、初代大統領ワシントンの夫人の名をとった最後の1羽「マーサ」も、1914年9月1日に死んだ。尾が長く全長約43センチメートル。上面は紫色の金属光沢がある青灰色、下面は赤褐色。広葉樹の堅果のほか各種の木の実を食べていた。集団で樹上に巣をつくり、雌雄で抱卵育雛(いくすう)した。飼育下での産卵は1個であったが、野生の巣では雛(ひな)2羽が普通であったという。
 [竹下信雄]
 リョコウバト〔標本画〕
 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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 ピクシブ百科事典
 リョコウバト りょこうばと
 北アメリカ大陸東岸に棲息していたハト目ハト科の渡り鳥。乱獲によって20世紀初頭に絶滅するまで、鳥類史上最も多くの数がいたと言われている。
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 目次[非表示]
1 形態と生態
2 絶滅
3 関連タグ
 形態と生態
 全長40センチ程で、頭部と上面は青灰色、下面はバラ色、くちばしは黒、脚は赤色。羽と尾は尖っていて長かった。
 その名の通り渡りを行う鳩で、夏はニューヨークから五大湖周辺にかけて繁殖し、冬は主にメキシコ湾岸で越冬した。移動速度は時速約96キロにも及んだという。
 巨大な群れをつくるのが特徴で、1810年ケンタッキー州の営巣地で推定22億3000万羽以上が確認された記録もある。止まり木にした木の枝が重みで折れることもあったといい、止まり木の下には糞が雪のように積もっていたという。
鳥類の博物画家ジョン・ジェームズ・オーデュボンは1838年の日記に、頭上を通過中の本種の群れがまるで空を覆い尽くすかのように3日間途切れることなく飛び続けたと記録している。18世紀には北アメリカ全土で約50億羽が棲息したと推定される。
 この繁栄とは裏腹に、繁殖力は極めて弱く、小さな集団では繁殖できず、年に1度の繁殖期に1個だけしか産卵しなかった。このため彼らを獲物としていたネイティブアメリカン達も、繁殖期には猟を控えるなどして、自然に対する配慮を守っていた。
 絶滅
 しかしヨーロッパ人が北米大陸に定住するようになると、リョコウバトの運命の歯車は大きく回りだした。彼らの開拓のよって生息場所である森林などが激減し、植物食であった本種は畑の作物を荒らすようになったので害鳥扱いされて駆除されるようになったのである。
 やがて19世紀に人口増加や大陸横断鉄道が開通されたことにより、美味であった肉を食用や豚の飼料に、羽毛を羽根布団として、高値で売買されるようになったため、専門のハンターが出現して、無制限な乱獲が行われるようになった(当時は大量に殺した後、回収できなかった死骸を処理させるために豚を連れて行った程)。
 1850年を境に個体数は激減し、保護を訴える者も現れたが、それでもまだ莫大な数がおり相手にされず、かろうじて残っていた個体群もどんどん乱獲されていった。
1890年代に入るとその姿はほとんど見られなくなり、ようやく保護も試みられた。だがこの頃になってようやく前述した繁殖能力の弱さが明かされ、現在ほど養殖の技術が発達していない当時ではいったん大きく減った個体数を回復することは困難で、すでに手遅れであった。
 1899年にハンターに撃ち落とされたものを最後に野生絶滅し、1914年9月1日午後1時にオハイオ州シンシナティ動物園で飼育されていた雌「マーサ」が老衰のため死亡し、絶滅してしまった。
 現在ではスミソニアン博物館にあるマーサの剥製など、僅かな標本が残るのみである。
 あまりにも愚かしいエピソードとして有名な鳥だが、このリョコウバトの絶滅が後に鳥獣保護法などに繋がっていったとされる。
 ちなみに近縁種とされるオビオバトやナゲキバトは今も元気に生きている。
 関連タグ
 絶滅動物 鳥類 ハト目
 ハト科 リョコウバト(けものフレンズ)
 ハト科絶滅種シリーズ 
 ドードー鳥→近年ドードー科からハト科に移行した
 オガサワラカラスバト
 リュウキュウカラスバト
 カンザシバト
 モーリシャスルリバト&レユニオンルリバト&ロドリゲスルリバト
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 ウィキペディア
 リョコウバト
 リョコウバト(旅行鳩、passenger pigeon、学名:Ectopistes migratorius)は、ハト目ハト科リョコウバト属に属する鳥類。絶滅種。北アメリカ大陸東岸に棲息していた。アメリカリョコウバトとも俗称される。
 鳥類史上最も多くの数がいたと言われたが、乱獲によって20世紀初頭に絶滅した。
 形態と生態
 かつてのリョコウバトの生息域。赤色は繁殖地、オレンジ色は越冬地。
 オスの頭部と上面は青灰色、下面はバラ色、くちばしは黒、脚は赤色。羽と尾は尖っていて長かった。メスはオスより色彩が地味で、背中が淡褐色、腹は灰色であった[2]。くちばしから尾までの全長は、40センチメートルほどであった。
 その名の通り渡りを行う鳩で、夏の営巣地はニューヨークから五大湖周辺にかけて、越冬地はメキシコ湾岸が主だった。移動速度は時速約60マイル(約96キロメートル)にも及んだという。巨大な群れをつくるのが特徴で、ウィスコンシン州の営巣地で850平方マイル(約2200平方キロメートル)に1億3600万羽が確認された例もある。1810年ケンタッキー州の営巣地の群れについて、22億3000万羽以上と推計がされた記録もある。止まり木にした木の枝が重みで折れることもあったといい、止まり木の下には雪のように糞が積もっていたという。鳥類の博物画家として有名なジョン・ジェームズ・オーデュボンは、1838年の日記に、頭上を通過中のリョコウバトの群れが、まるで空を覆い尽くすかのように3日間途切れることなく飛び続けたと記録している。18世紀には北アメリカ全土で約50億羽が棲息したと推定される。
 絶滅の経緯
 リョコウバトの肉は非常に美味であったと言われ、都会でも良い値段で売れたため、銃や棒を使用して多くの人々が捕獲を行った。
 北アメリカの先住民たちもリョコウバトの肉を食用にしていたが、先住民たちはハトの繁殖期にはハト狩りを控えるなど、自然に対する配慮を守っており、必要以上にリョコウバトを殺すことはなかった。これに対し、17世紀以降にヨーロッパから北アメリカに入植して急速に勢力を拡大していた白人たちは、そのような配慮を一切持たなかった。これは、同じく白人たちの手で絶滅寸前に追いやられたアメリカバイソンやプロングホーンなど、他の北アメリカ在来の野生動物たちについても同じことが言える。
 とりわけ19世紀に入ると北アメリカにおける白人の人口は急増し、電報などの通信手段が発達すると効率的に狩猟が可能となり、食肉や飼料、また羽根布団の材料になる羽毛の採取を目的とした無制限な乱獲が行われるようになった結果、わずか数十年ほどでリョコウバトの数は激減していった。保護すべきとの声もあったが、それでもまだ莫大な数がおり検討されなかった。その間にもリョコウバトの数は減り続け、密猟が絶えなかった。ヒナまで乱獲される事態まで起こった。
 1878年ミシガン州のパトスキーの森林地域で10億近くのリョコウバトが発見された。その時点でこの数が群れとして存在しているのは奇跡に近かった。しかしながら人々は虐殺を行ったとされている。この事柄は「パトスキーの虐殺」とも呼ばれる事態となった。
 1890年代に入るとその姿はほとんど見られなくなり、ようやく保護も試みられたが、すでに手遅れであった。
 リョコウバトはそのかつての個体数とは裏腹に繁殖力の弱い鳥類であり、小さな集団では繁殖できず、繁殖期は年に1度で、しかも1回の産卵数は1個だけであった。そのため、現在ほど繁殖の技術が発達していない当時では、いったん大きく減った個体数を回復することは困難であった。また、19世紀以降、リョコウバトの本来の生息地であった森林の開発で減少に拍車をかけることとなった。
 1906年にハンターに撃ち落とされたものを最後に、野生の個種は姿を消す。1908年に7羽、1910年8月にはオハイオ州シンシナティ動物園で飼育されていた雌のマーサ(ジョージ・ワシントンの妻マーサから名をとった)のみとなる。マーサは動物園で生まれ、檻の中で一生を過ごした。1914年9月1日午後1時、マーサは老衰のため死亡し、リョコウバトは絶滅した。マーサの標本は現在スミソニアン博物館に収蔵されている。
 これらの標本からDNAを抽出して、リョコウバトを復活させようという動きがある。
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