🐉16』17』─1─延吉捕虜収容所と発疹チフス。~No.33No.34No.35No.36 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 中国の地中から掘り起こされる数万十数万の白骨が、中国共産党が言うような日本軍に殺された中国人なのか、中国人に殺された日本人なのか判別できない。
 が、世界も日本も、白骨は中国共産党の主張を鵜呑みにして中国人犠牲者と認めた。
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 現代の日本史から、敗戦後の満州北樺太・千島列島が削除されている。
 現代の日本人は、地獄の沖縄戦を気にするが、満州北樺太・千島列島を逃げ回って九死の一生を得た人々の事を気に掛けない。
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 延吉捕虜収容所は、第二次世界大戦後の数年間、現在の中華人民共和国吉林省延辺朝鮮族自治州の州都・延吉にあった日本人の捕虜を収容した捕虜収容所である。満州東部や朝鮮半島から多くの日本人捕虜が集められ、その後、ソビエト連邦へ送られた。1946年4月のソ連軍の撤退後は東北民主連軍(後に中国人民解放軍へ発展)が管理した。
 概要
 延吉には日本の敗戦後、ソ連軍の手によって第1収容所(俗称28収容所・元関東軍28部隊の駐屯地)や第2収容所(俗称646収容所・元第646部隊駐屯地、現在は中国人民解放軍の駐屯地)、第3病院(元間島陸軍病院。後に中国人民解放軍二二三医院となり現在は「部隊医院」)が開かれ、日本人捕虜の集結地となった。

 捕虜の犠牲と集団埋葬地
 延吉捕虜収容所では、1945年の秋から46年の春にかけて、飢餓や非衛生的な環境、胸部疾患、発疹チフス等の伝染病で多くの日本人が死亡した。
 死亡者は1946年4月12日、合同慰霊祭を行った際に6876名、1948年6月までに8900名余りとされる。
 早蕨庸夫『延吉捕虜収容所』では、第三病院の死亡者(1945年9月~1946年4月末日)は1900名~2200名、646収容所の死亡者(1945年9月~1946年5月17日)は約3000名、28収容所(同時期)の死亡者数は2000名~3000名(推定)としている。
 遺体は収容所附近に仮埋葬されていたが、春が近づき雪が解け、犬に荒らされるようになったため、1946年3月から4月にかけてソ連軍の命令で、第三病院裏や、646収容所前(将校・憲兵・特務機関員ら)、28収容所(主に下士官・一般兵)の裏山にあわせて1万名の遺体を埋める壕や穴が掘られた。

 延吉捕虜収容所および多くの日本人捕虜が犠牲になった史実は、地元では知られておらず、延辺の歴史書の中から日本人捕虜の犠牲に関する記述を見つけることはできない。延吉では、捕虜収容所のほかに、フルハト河の河原、旧延吉神社裏、偕行社、ドイツ教会に隣接した場所などにも多くの遺体が埋葬された。 引揚援護庁は、引揚げが完了する前の1947年ごろ、延吉における日本人死亡者数を暫定で1万8000人余りと公表している。

 河南収容所(元・延吉監獄)に収容された満蒙開拓青少年義勇軍
 延吉では捕虜収容所の他に、延吉監獄(現・延辺芸術劇場)にも元間島省の高官や民間の有力者、満蒙開拓青少年義勇軍の少年ら日本人が収容され、劣悪な環境のもとで、多くの人々が命を落とした。
 また、溥儀夫人・婉容(満州国皇后)も1946年6月20日、延吉監獄で死亡したといわれる。遺骸は「延吉市南山」あるいは「北山」に葬られたといわれるが確かな場所は不明。

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