🐉7」─2─太平天国の乱の死者は2,000万人超。~No.21No.22 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 当時の日本の総人口は、約3,000万人であった。
 日本(天保暦) 1851年
 嘉永3年11月29日 - 嘉永4年12月9日
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 2021年12月19日 MicrosoftNews プレジデントオンライン「「死者2000万人超は人類史上最大」いまの中国にも残る"太平天国"という未解決問題【2020年BEST5】
 © PRESIDENT Online ※写真はイメージです
 2020年(1~12月)、プレジデントオンラインで反響の大きかった記事ベスト5をお届けします。教養部門の第2位は——。(初公開日:2020年12月19日)2000万人超の死者を出した「太平天国の乱」とは何だったのか。国際基督教大学の菊池秀明教授は「太平天国に現れた問題点は、急速に大国化へ向かう今の中国でも未解決のままくすぶり続けている。権力集中、不寛容さは香港や台湾にも深刻な影響を与えている」という――。
 ※本稿は、菊池秀明『太平天国』(岩波新書)の一部を再編集したものです。
 太平天国の乱とは何だったのか
 14年にわたる太平天国の内戦は1864年に終わった。戦場となった地域とくに江南三省(江蘇、安徽、浙江)の被害は大きく、江蘇だけで死者は2000万人を超えた。読書人たちは流亡の苦しみに遭い、死んだ男女を「忠義」を尽くした者や「烈女」として顕彰した。死者の記憶は儒教を中心とする伝統文化の再興という形をとって伝えられた。
 清朝は南京占領後も太平天国の生き残りに対する捜索と弾圧を続けた。捻軍などの反乱勢力と合流して抵抗を続けた者はやがて敗北した。楊輔清は上海からマカオへ脱出し、10年間潜伏した後に捕らえられた。また逃亡先の香港で李世賢の軍を支援しようとして捕まった者、苦力(クーリー)となってキューバへ移住した者のエピソードもある。
 太平天国に献策したことが発覚して清朝の追及を受けた王韜は、逃亡先の香港でキリスト教儒教の接点を追い求めた。南京を訪問して太平天国の近代化改革を提案した容閎は、曽国藩の招きを受けて李鴻章と兵器工場の設立に尽力した。
 太平天国に共鳴したイギリス人のリンドレーは、帰国後に太平天国に関する著書を出版した。彼はイギリスが太平天国に対して取った態度はどうかと問いかけ、「私はイギリス人であることが恥ずかしくて顔が赤らむ」と述べている。そして植民地を擁した帝国の多くが没落した歴史を振り返り、今こそイギリスは「非侵略(Non-aggression)」の政策を取るべきだと訴えた。
 日本の伊藤博文も晩年、イギリス人の記者に対して「あなたたちイギリス人が、中国との交渉で犯した一番の誤りは、清朝を助けて太平天国を鎮圧したことだ」と語ったという。
 洪秀全が創設した上帝教は、太平天国の滅亡と共に中国社会からその姿を消した。それは一つの宗教が信徒の内面的な実践に充分な時間を割かずに政治運動化した結果だった。また読書人の太平天国に対する反感はキリスト教への拒否反応となって残り、反キリスト教事件がくり返し発生した。
 20世紀に入ると、香港の中国人キリスト教社会から「第二の洪秀全」を自任する孫文が登場し、太平天国を反満革命として評価する動きが始まる。ただし辛亥革命によって太平天国の評価が一気に変わった訳ではなく、1930年代になっても江南では太平天国に対する否定的評価が残った。
 現代中国に通じる「他者への不寛容さ」
 太平天国がその掲げた理想にもかかわらず、矛盾と混乱に満ちた運動であった。これは新著『太平天国』(岩波新書)で詳述した通りである。
 洪秀全は「神はただ一つであり、偶像崇拝は誤りだ」というキリスト教のメッセージから、中国の歴代皇帝は上帝ヤハウエを冒涜する偶像崇拝者であり、清朝を打倒して「いにしえの中国」を回復すべきだという主張を導き出した。
 そして太平天国は上帝の庇護のもと、これを信仰する「中国人」の大家族を創り出そうと試みた。また彼らは公有制の実現をうたい、人々は「天父の飯を食う」ことで生活の保障と死後の救済が与えられると説いた。
 だが太平天国は、満洲人や漢人清朝官僚、兵士とその家族を「妖魔」と見なして排撃した。彼らは太平天国の言う「中国人」の範疇には入らなかったのである。
 太平天国の「われわれ」意識はヨーロッパとの出会いのなかで発見されたものであったが、同時に客家など辺境の下層移民がもっていた「自分たちこそは正統なる漢人の末裔である」という屈折した自己認識に裏打ちされていた。また彼らが「大同」世界の実現のために実行した政策は強圧的なもので、江南の都市など他地域に住む人々の習慣や考え方に対する包容力を欠いていた。
 こうした不寛容さは元をたどればユダヤキリスト教思想の影響にたどりつく。抑圧された民の異議申し立ては、しばしば自分たちがかかえた苦難の大きさゆえにエスノセントリズム(自民族中心主義)に陥り、他者の苦悩に対する理解を欠いてしまうからである。
 また宣教師の活動を含むヨーロッパの近代が「文明」を自任し、それと異なる他者を「野蛮」とみなして攻撃する側面をもっていたことも影響した。「唯一の神を信じるか」という問いは、それを受け容れない他者に対する暴力を後押ししたのである。
 分権か、権力の独占か
 さて太平天国は皇帝の称号を否定し、洪秀全と彼を支える5人の王からなる共同統治体制をしいた。軍師として政治・軍事の権限を任された楊秀清と、主として宗教的な権威として君臨した洪秀全のあいだには一種の分業体制が生まれた。
 それは秦の統一以前の封建制度を模範とした太平天国復古主義が生んだ結果であり、皇帝による専制支配が続いた中国に変化をもたらす可能性をもっていた。占領地の経営のために実施した郷官制度も中央集権的な統治の弊害を改め、新興の地域リーダーに地方行政への参加を促す分権的な側面をもっていた。
 だが太平天国の分権統治には大きな矛盾があった。洪秀全に与えられた「真主」という称号は天上、地上の双方に君臨する救世主を意味し、中国のみならず外国に対しても臣従を求める唯一の君主だった。そこには権限を明確に区別し、分散させるという発想が欠けていた。
 また洪秀全の臣下で「弟」だったはずの楊秀清は、シャーマンとして天父下凡を行うと洪秀全の「父」として絶対的な権限をふるった。彼の恣意的な権力行使に対する不満が高まると、楊秀清は「万歳」の称号を要求して洪秀全の宗教的な権威を侵犯した。
 逆上した洪秀全は楊秀清の殺害を命じて天京事変が発生し、石達開の離脱によって建国当初の5人の王はすべていなくなった。その後諸王による統治は復活したが、洪秀全は独占した権力を手放さず、かえって中央政府の求心力の低下と諸王の自立傾向を生んだ。
 この結果をどのように考えればよいのだろうか。
 下層移民の異議申し立てから始まった太平天国は、同じ境遇にある人々に希望を与えたが、自分たちと異なる相手を受け入れ、これを包摂していく寛容さを欠いていた。この排他性は満洲人など清朝関係者を太平天国の掲げる「上帝の大家族」に包摂できなかっただけでなく、偶像破壊に反発した読書人や豊かな江南に住む漢族住民を遠ざけ、太平天国が新王朝として彼らの支持を広げるチャンスを失わせた。
 くり返し現れる排除の論理
 また太平天国のかかえた不寛容さは、その後の中国で進められた西欧諸国および日本の侵略に対する抵抗運動へと受けつがれた。中国だけではない。ヨーロッパとの出会いをきっかけに始まったアジア近代の歴史は、しばしばその内部に復古主義的な傾向をもち、列強の植民地化が深まるほど抵抗は激しく非妥協的なものとなった。
 だが、この抵抗の歴史においても、異質な他者に対する排斥の論理はくり返し現れた。外国勢力に対してだけでなく、国内においても「敵」を創り出し、これを攻撃することで「われわれ」の結束を強化したのである。
 中国の場合はこれに階級闘争の理論が結びつき、毛沢東によって「一つの階級が他の階級をひっくり返す」革命の暴力が肯定された。それが中華人民共和国の建国後、反右派闘争や文化大革命などの政治運動で「革命の敵」とみなされた人々に対する迫害を生み出したことはよく知られている。
 いっぽう太平天国の王制や地域支配に見られる分権的な傾向は、郡県制の中央集権的な統治がかかえる構造的な問題を改める可能性を含んでいた。だがその実態は混乱していた。洪秀全と5人の王たちは身分のうえでは同じであったが、厳密に等級づけられており、権限にも大きな差があった。郷官に与えられた権限も小さく、中央から派遣される軍や上級将校の命令と地域社会の板挟みになることが多かった。
 「権力を分散させれば破滅をもたらす」太平天国の教訓
 そして何よりも問題だったのは、様々な王位や官職がもつ権限が曖昧で、複数の権威や組織のあいだで常に激しい競争原理が働いていたことだった。
 その最たるものは「万歳」の称号と救世主の権威をめぐる洪秀全と楊秀清の争いであり、他の王たちも庇護を求める人々の声に応えるために競合した。公有制が充分に機能せず、中央政府の求心力が低下するほど、諸王の地方における勢力拡大は進み、中央以上の富と兵力を蓄積する者も現れた。そして洪秀全とその側近によるコントロールのきかない諸王に対する不信と抑圧は、政権そのものの崩壊を招いたのである。
 その結果、後世の人々は太平天国が失敗した原因を内部分裂に求めた。そして「中国は常に強大な権力によって統一されていなければならない。少しでも権力を分散させれば破滅をもたらす」という、中国の歴史においてくり返し唱えられてきた教訓を読み取ろうとした。
 実際には清末に李鴻章をはじめとする地方長官の権限が拡大し、20世紀に入ると省を単位とした連邦政府構想である「聯省自治」論が模索された。だがいっぽうでそれを「軍閥割拠」あるいは外国勢力と結託する「分裂主義」と批判する傾向も強まった。そして蒋介石の国民党であれ、中国共産党であれ、強大な権力を握って異論を許さない「党国体制」が生まれていくことになる。
 太平天国に現れた問題点は未解決のままだ
 急速に大国化へ向かう現在の中国を見るとき、太平天国に現れた中国社会の問題点は、なお未解決のまま残っていることがわかる。自分と異なる他者を排斥してしまう不寛容さと、権力を分割してその暴走を抑える安定的な制度の欠如は、中国国内だけでなく、台湾や香港、少数民族をはじめとする周辺地域に深刻な影響を与えている。
 あるいは「それが今も昔も変わらない中国の姿なのだ」と醒めた見方をすることも可能だろう。もはや中国に「民主化」を期待できないのであれば、外圧で抑え込む以外に方法はないと考えるのもやむを得ないことかもしれない。
 だがそれは中国が多様な相手の存在を認め、権力の一極集中を是正することにはつながらないだろう。西欧世界や日本にとって普遍的な価値も、中国にとっては近代社会の「排除」の論理がもたらした「屈辱」の歴史を想起させるものであり、今なお中国が引きずる被害者としてのトラウマから解き放ってくれるものではないからだ。
 「中華の復興」を掲げて強国化の道をつき進む中国に、我々は粘り強く冷静に向き合うしかない。そのために中国社会がもっていた異なる可能性を発見し、検証していくことが求められていると言えよう。

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 太平天国の乱は、1851年に清で起こった大規模な反乱。洪秀全を天王とし、キリスト教の信仰を紐帯とした組織太平天国によって起きた。長髪賊の乱ともいわれる。

 太平天国軍の性格
 太平天国軍は流賊的ではあったが、集団の性格は通常の流賊とは大きく異なっていた。匪賊を吸収しても軍内の規律は厳正で高いモラルを有していた。少なくとも南京建都まではその傾向が強かった。
 たとえば略奪行為そのものは言うまでもなく、勝手に民家に侵入することすら禁止され、「右足を民家に入れた者は右足を切る」といった厳罰主義でもって規律維持に当たったといわれる。一方で清朝軍の方が賊軍じみた不正略奪行為を行なっていたという。
 また志気の高さも太平天国軍の特徴である。当時鎮圧に当たった欽差大臣サイシャンガ(賽尚阿)や両広総督徐広縉のいずれもが、従来の匪賊たちと異なったものとして太平天国を捉え、その成員間の結束の強固なこと、死を恐れないことを上奏している。

 太平天国と日本
 太平天国のことは、清国の商船及び朝鮮から対馬藩を通じて幕末の日本に伝えられた。当初、太平天国キリスト教が土着化して発生した反乱とは見られておらず、明朝の後裔が起こした再興運動だと日本人は思っていたとみられている。つまり満州族支配に反抗する漢民族という図式の民族紛争と捉えていたことになる。これは「滅満興漢」というスローガンが強調されたこと、 辮髪を落としていたことが原因である。清朝では「頭を留めるものは髪を留めず、髪を留めるものは頭を留めず」といわれるように、辮髪の有無がその支配を受容したか否かの基準となっていたためである。また農民など低階層が乱の主体であったという認識も希薄であった。この事は1854年前後に太平天国の乱をモデルにしたとみられる中国大陸を舞台とした明朝復興物語が講談・小説の形式で複数出版されている事からも分かる。
 しかし、『満清紀事』・『粤匪大略』といった書物が日本にもたらされると知識人層の太平天国に対し、好意的な評価は一変した。洪秀全が明朝の後裔ではないこと、キリスト教を信仰していることが伝わったためである。特に前者は朱子学的な大義名分論と正統論の点で嫌悪感を与え、後者は島原の乱を想起させ、幕末の世論に影響を与えた。太平天国への嫌悪感は、実際に乱を見聞した人々にも継承されていた。
 1859年にはイギリス領事(後の公使)オールコックから江戸幕府に対して、軍用馬の3千頭をイギリス軍へ売却してくれる様に要請があった。幕府も国内の軍事的需要を理由に当初は躊躇したものの、英仏両軍に1千頭ずつ売却する事に応じて翌年夏までに実施された(この前後の日本の輸出品の中には主力品である生糸や茶の他にイギリス・フランス軍のために用いられたと思われる雑穀や油などの生活必需品の輸出記録が目立っている)。更に太平天国の末期にあたる1862年6月2日(文久2年5月5日)、幕府の御用船千歳丸というイギリスから買い取った船が上海に到着した。
 交易が表面上の理由であったが、清朝の情報収集が本当の任務だった。江戸幕府は、清朝の動乱や欧米列強のアジアでのあり方に深い関心を寄せていた。乗船していたのは、各藩の俊秀が中心で薩摩藩五代友厚長州藩高杉晋作らがいた。乗船していた藩士の日記には太平天国について「惟邪教を以て愚民を惑溺し」、「乱暴狼藉をなすのみ」という表現がならぶ。
 また、日本国内においては海防の充実と国内改革による民心の安定化を求める論議が急速に高まる一因となった。早くも吉田松陰が「(奈良時代の)天平勝宝年間に唐の安史の乱に際して当時の朝廷が大宰府に非常態勢を布いて以来」の危機である事を著書の『清国咸豊乱記』で指摘している。こうした主張は薩摩藩の湯藤龍棟や古河藩の鷹見泉石らも同様の意見を相次いで唱えた。
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 儒教は、マルクス主義共産主義同様に反宗教無神論で、中華天子の権威と儒教体制を脅かす恐れのある宗教を過激な革命勢力として弾圧し、信仰を優先して儒教の正義・道徳・礼節を認めず拒否する宗教信者を大虐殺した。
 同じ儒教国家であった朝鮮でも、宗主国中国の真似をして宗教弾圧を繰り返していた。
 革命宗教として弾圧されたのは、インド発祥の仏教、西洋由来のキリスト教、中東発祥のイスラム教である。
 宗教弾圧は、現代の中国共産党支配下でも繰り返されている。
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 日本のキリシタン弾圧は、中国や朝鮮が行っていた宗教弾圧とは違っていた。
 日本がキリスト教を禁教としてキリシタン弾圧を行ったのは、中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人が日本人奴隷交易で金儲けしていたからである。
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 世界史の窓
 世界史用語解説 授業と学習のヒントappendix list
 太平天国太平天国の乱
 洪秀全が中心となって起こした1851年から1864年にわたる近代中国の大農民反乱。南京を都に太平天国という独立国家を樹立したが、郷勇などの漢人勢力、外国軍の介入によって滅ぼされた。
 洪秀全
 太平天国
 アヘン戦争後の清朝社会の矛盾が深まる中、キリスト教信仰をもとにした拝上帝会を組織した洪秀全が、1850年秋、広西省の金田村を拠点に蜂起し、1851年1月に「太平天国」の国号で独立国家を樹立した。1853年3月には南京を占領して天京と改称し首都とした。
 天京 1853年3月、太平天国の乱で南京を制圧した洪秀全は、その地を天京(てんけい)と改称して、首都とした。1864年に太平天国の乱が鎮圧されるまでその首都であった。太平天国では洪秀全は天王という最高位につき、そのもとに東王=楊秀清、西王=蕭朝貴、南王=馮雲山、北王=韋昌輝を置いて各方面を守らせた。翼王=石達開は天王を補佐した。
 太平天国の主張
 「太平天国」は、「滅満興漢」を掲げる反清朝民族主義の運動であると共に、「天朝田畝制度」などで平等社会の実現などをめざし、満州族の支配、外国貿易の開始による物価騰貴などに苦しむ農民・貧民の心を捉え、大勢力に成長した。また太平天国内では、アヘンの吸引は禁止され、満州人の習俗である辮髪は否定され、封建的な纏足の風習などもやめることが奨励された。
 滅満興漢 満州人の政権である清朝を滅ぼし、漢民族の国家を復興させようという意味の太平天国が掲げたスローガン。
長髪族 太平天国では満州人の習俗に対する反発から辮髪が禁止され、男性は髪を短く、断髪にしていた。そのため、清朝側は彼らを長髪族と呼んだ。当時は侮蔑的な長髪族という呼称のほうが一般的であって、彼らが自称した太平天国というのが歴史的な呼称として一般化したのは1930年代であったという。
 戦線の拡大
 太平天国軍はさらに北上し、浙江省江蘇省を占領、一部は貴州、四川まで侵入した。北伐軍は一時北京近傍にまで迫り、北京はパニックに陥ったが、太平軍の補給線がのびたため北京攻略は出来ず、かえって全滅した。また西征軍は石達開に率いられ、曽国藩の湘軍を何度も破り善戦したが、決定的勝利は得られなかった。
 太平天国の内紛
 しかし、都の天京では、太平天国の指導者間で内紛が生じた。東王の楊秀清はしばしば上帝が乗り移ったとして、洪秀全を上回る権力を得ようとし、それに反発した西王の蕭朝貴がクーデターで楊秀清とその勢力の2万人以上を虐殺するという惨劇が起こった。今度は西王が横暴を極め、洪秀全が西王の殺害を命じるなど、指導者間の対立が繰り返され、多くの血が流れて天国の内部は戦々恐々となった。洪秀全は王宮で女官に囲まれてすごして次第に統治力を失い、若い李秀成などが軍事面で活躍し台頭した。しかし、洪秀全にかつてのような求心力がなくなり、翼王石達開も離脱し、太平天国軍は急速に衰退していった。
 清朝の諸外国の対応
 清朝正規軍(八旗と緑営)には太平軍を鎮圧する力が無く、曽国藩が湘勇(湘軍)という義勇軍を組織し、専ら太平軍との戦闘に当たった。また欧米諸外国は、太平天国キリスト教を標榜していたこともあってはじめ好意的であり、使節を派遣することもあったが、戦闘では中立を保っていた。上海では居留地を防衛する目的から、その防備を口実として租界化を進めた。
 外国の姿勢の転換と太平天国の敗北
 しかし、1856年に始まったアロー戦争で、清朝政府を屈服させたイギリス・フランスは1860年に北京条約を締結した列強は、清朝を利用して中国での利権拡大を目指し、民族主義的な太平天国を危険視しするようになり、その弾圧に協力するようになる。
 アメリカ人のウォードやイギリス人ゴードンの指導した常勝軍と、左宗棠の湘軍(湘勇)や李鴻章の淮軍(淮勇)(ともに曽国藩の部下)という郷勇の軍事力が共同して太平天国軍を攻撃、1864年6月1日、洪秀全は病死して、同1864年7月19日、天京が陥落、太平天国の乱は鎮圧された。
 太平天国の意義
 太平天国の乱は長期にわたっただけでなく、中国の南半分を勢力下に収め、また捻軍やミャオ族の反乱のように同調した反乱が起こり、地域的に広範囲に及んだこともかつてないことであった。反乱内部には未熟な部分があり、結局は鎮圧されたが、清朝専制政治と封建的な社会が植民地化の危機にさらされているとき、それに代わる新たな権力と社会を求める民衆のエネルギーが爆発したことは確かであり、現代中国では革命的な民族独立運動の第一歩として高く評価されている。
 1851年
 1851年1月5月、洪秀全は金田村で「天王」に即位し、「太平天国」を国号とする独立国家を宣言した。洪秀全が金田村で蜂起したのは1850年秋であるが、「太平天国の乱」はこの1851年からとされる。約10年前の1840年にアヘン戦争が起こり、中国はまさに激動の19世紀後半に入っていくこととなった。時に清朝は道光帝の時代、またこの年、ロンドンではヴィクトリア女王のもとで第1回ロンドン万国博覧会が開催され、イギリスの覇権を誇っていた。日本は嘉永4年、ペリー来航の2年前であった。
 女性の科挙の実施
 洪秀全自身が科挙に不合格であったことが、自ら科挙を主催しようとして太平天国を樹立したとも言われている。実際、太平天国でも科挙が実施された。そして最も特徴的なことが、1853年に女性の科挙(女科)が行われたことである。これは中国の歴史上、空前絶後のことである。これにより一位(状元という)に傅善祥、二位(榜眼)に鐘秀英、三位(探花)に林麗花という女性が合格した。しかし彼女たちに与えられた仕事は、東王府の秘書とか、王府で「宴を賜り、寝室に侍らされた」という。そのため父母は深く悔やみ、翌年からは女科には一人も応募者がなかった。」
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 中国の宗教とは、他人を蹴落としても、社会がどうなっても、今・現在における自分だけの金儲け、自分だけの成功を求める個人的私的現世利益・現世利得宗教で、絶対神に世界・国家・人類・他人・隣人を意識して癒しと救済、奇跡、恩寵、恵みを感謝して祈る普遍宗教・啓示宗教ではなかった。
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 人類の宗教史では、一神教は不寛容宗教・排他的宗教とされ、教団が定めた絶対真理を否定し神性を脅かす異端者を許さず拷問の末に生きたまま焼き殺し、世界を自分の宗教で統一する為に他の神仏を信仰する異教を悪魔教として虐殺を繰り返し根絶やしにしてきた。
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