🛳18」─1・C─アルバニア決議。中国共産党政府は国連から台湾を追い出した。1971年。~No.112No.113No.114 

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 日本は、日中国交正常化の為に中国共産党の「中国は一つ」を受け入れて台湾を切り捨てた。
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 米議員が法案提出 アルバニア決議、台湾代表権「取り扱っていない」
 2021年 4/20(火) 16:09配信
 中央社フォーカス台湾
 米議員が法案提出 アルバニア決議、台湾代表権「取り扱っていない」
 (ワシントン、台北中央社)米超党派の複数の下院議員が19日、台湾への支持を示す法案を提出した。法案提出に加わった民主党のジェリー・コノリー下院議員は法案について、「米国の重要なパートナーである台湾との結束をより確実にするもの」だとの考えを報道資料で示した。
 法案では1971年に採択された国連総会2758号決議(アルバニア決議)について、「中国の唯一の正統な代表は中華人民共和国」とされたことに言及しつつ、国連やその関連機関における台湾や台湾の人々の代表権については「取り扱っていない」と指摘した。
 また、決議では台湾と中国の関係に関わる立場について示されていない上、台湾の主権に関する記述もないと強調。続けて「米国は、台湾の人々の同意なしにその地位を変えようとするいかなる動きにも反対する」と訴えた。
 法案は下院の専門の委員会が審議する。成立には上下両院で可決された後、バイデン大統領が署名する必要がある。
 これについて外交部(外務省)の欧江安報道官は20日、謝意を表明。今後の発展に注意を払っていくとし、米議会や行政機関と密接に連絡を取り、関係深化に努めていくとの姿勢を示した。(徐薇婷、葉素萍/編集:楊千慧)」
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 第4章 国際連合における活動とその他の国際協力
 第1節 国連第26回総会における政治問題
 第26回国連総会は,1971年9月21日から開会され,102の議題について審議を重ね,153の決議を採決して12月22日閉会した。同総会期間中10月25日中国代表権に関する決議2758が採択され,その結果中華人民共和国中華民国に代つて国連の活動に参加することとなつた。なお,朝鮮問題については,一般委員会の勧告にもとづき審議が第27回総会迄延期された。また今次総会では,ブータン,バハレーン,カタール(以上9月21日),オマーン(10月7日),アラブ首長国連邦(12月9日)の国連加盟が決定され,この結果加盟国の総数は132ヵ国となつた。
 1. 中国代表権問題
 本問題は1949年に中華人民共和国が成立してから20年余にわたつて争われてきたものであるが,第25回総会(1970年)でアルバニア決議案に対する賛成票が反対票を上回つて以来,中華人民共和国を国連に迎え入れたいという気運が盛り上り,この点に関しては加盟国の間にコンセンサスに近いものが生れるにいたつた。そこで第26回総会では中華人民共和国の国連参加に際し中華民国を国連より追放すべきか否かに争点が絞られたのであつた。
 まず,7月中旬にアルバニア等は「中華人民共和国政府の代表権回復,中華民国政府追放」を趣旨とするアルバニア決議案(共同提案国23ヵ国)を早々と事務局に提出したが,これに対して米国等は,9月にいたり,中華人民共和国の国連参加を認め,安保理常任理事国の席をこれに与えると同時に,中華民国議席も認めるといういわゆる二重代表制決議案(共同提案国19ヵ国)および中華民国の追放は憲章18条に従い重要問題であり,3分の2の多数によつて決めるべきであるとする追放反対重要問題決議案(共同提案国22ヵ国)を提出した。わが国はすでに8月に木村外務大臣臨時代理より中華人民共和国の国連参加は阻まないが,中華民国議席追放は反対であるとの基本方針を発表していたが,9月22日にいたり,佐藤総理より二重代表制決議案および追放反対重要問題決議案を共同提案する旨発表した。
 総会が始まると,議題採択等をめぐり一般委員会や本会議等で中華民国追放支持派と反対派の間で激しい論議が展開された後,注目のうちに10月18日より本件の本格審議が開始された。ここでは73ヵ国の多数が一般討論に参加したが,わが国の愛知首席代表も,わが方決議案は複雑かつ微妙な問題を漸進的に解決せんとする経過的な性格のものである等,わが国の立場を説明する発言を行なつた。
 表決は25日に行なわれた。この日の審議は午後3時から深夜の11時30分まで食事抜きでぶつ続けに行なわれた。その中で追放反対重要問題決議案は8票差で先議権を獲得したものの,決議案自体は賛成55,反対59,棄権15,欠席2で否決され,これに続いてアルバニア決議案は賛成76,反対35,棄権17,欠席3で採択された。この結果,二重代表制決議案は表決に付さないこととなつた。また,アルバニア決議案の表決に先立ち,中華民国代表は,これ以上総会の審議に参加しないことを宣言し,総会議場より退場した。こうして20年来続いた国連における中国代表権問題は劇的な幕切れとなったのであつた。
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 中華人民共和国中国共産党政府)は、欧米諸国の植民地支配から独立した中小国を味方に付けて多数派を形成して、台湾に同情する諸国を抑え込み、多数決で台湾を国連から追放した。
 それは、農村から都市を包囲して攻撃する毛沢東の戦略に通じる。
 中国の伝統戦略とは、合従連衡と内部離間である。
 中国共産党にとって、戦争の覚悟がない現代日本は赤子のように敵ではない。
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 日本の親中派とは、親中国共産党派であって親台湾派ではない。
 親中国共産党派は、多数派で、主流であった。
 親台湾派は、少数派で、非主流であった。
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 親中国共産党派は、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者で、左翼・左派・ネットサハ、反米派・反安保派・反米軍基地、護憲派、反自衛隊派、反戦平和団体、反天皇反日的日本人達であった。
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 現代日本には、親中国共産党派=親中国派・媚中派=新朝貢派が存在し、高学歴の知的エリートと進歩的インテリに多い。
 現代日本人権派は、中国共産党が行う非人道的ジェノサイドや弾圧に反対しないし抗議もしない。
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 ウィキペディア
 アルバニア決議は、1971年10月25日に採択された第26回国際連合総会2758号決議(英語: 2758 XXVI. Restoration of the lawful rights of the People's Republic of China in the United Nations. 「国際連合における中華人民共和国の合法的権利の回復」)を指す。長年にわたる国連における「中国代表権問題」にかかわる内容であり、日本においては、共同提案国23ヵ国のうち特に中華人民共和国の友好国であったアルバニア人民共和国の名をとって「アルバニア決議」と通称される。アルバニアが関係する決議は他にもあるが、一般的には本決議を指す。
 これにより、中華民国(台湾)は国連安保理常任理事国の座を失い、中華人民共和国が国連安保理常任理事国と見なされた。ただし、国連憲章の記載は未だに、中華民国が国連安保理常任理事国であるため、同じく記載されているソビエト連邦の地位を継承したロシア連邦(旧構成国のうちのロシア・ソビエト連邦社会主義共和国)の例と同様に中華民国がもつ安保理常任理事国の権限を中華人民共和国が継承したと解釈されている。「蔣介石の代表を国連から追放する」と掲げた本決議に抗議する形で、中華民国国際連合を脱退した。
 決議の内容
 {国連総会は、国連憲章の原則を思い起こし、中華人民共和国の合法的権利を回復させることが、国連憲章を守り、かつ国連組織を憲章に従って活動させるためにも不可欠であることを考慮し、中華人民共和国政府の代表が国連における中国の唯一の合法的な代表であり、中華人民共和国が国連安全保障理事会の5つの常任理事国の1つであることを承認する中華人民共和国のすべての権利を樹立して、その政府の代表が国連における中国の唯一の合法的な代表であることを承認し、蔣介石の代表を、彼らが国連とすべての関連組織において不法に占領する場所からただちに追放することを決定する
 — 国連総会決議2758(外部リンク欄参照)}
 経緯
 中国大陸を統治していた中華民国(蔣介石率いる中国国民党)は、第二次世界大戦後に戦勝国として国連安保理常任理事国に選ばれたが、その後毛沢東率いる中国共産党との国共内戦に敗北する形で、台湾に事実上の亡命政権を樹立した。
 中国大陸を実効支配し、中華人民共和国の建国宣言を行った中国共産党と、台湾を中華民国として実効支配した中国国民党は、国共内戦後長らく対立関係のまま、それぞれ内政問題等に忙殺される形で、条約や協定のない実質的停戦状態に至り、分断状態が固定化した。中国大陸(本土)を実効支配する中華人民共和国と、台湾に遷都したものの国連安保理常任理事国である中華民国は、それぞれ着目点によって一方が優勢・他方が劣勢にあったが、双方とも自政府が中国唯一の正統政府であるとの立場を崩さなかった。
 中華人民共和国が国連に中華民国の追放を最初に提起したのは1949年11月18日で、以後「中国代表権問題」と呼ばれ、長らく提議されては否決され続けてきた。中ソ対立が鮮明となった1950年代後半以降も1964年第18回国連総会、1968年第5回国連緊急特別総会、1970年第25回国連総会においてもアルバニアなどから類似の提案がなされたが、いずれも否決されている。提起された中華民国の追放については、1961年の第16回国連総会以降、国連憲章18条に示される「重要事項」に指定する「重要問題決議案」が別途共同提出されており(必要な賛成票を過半数から2⁄3とすることが狙い)、これが可決され続けていたことで阻止されていた。
 転機となったのは、アメリカ合衆国ベトナム戦争において泥沼化し、北ベトナムベトナム民主共和国)との停戦交渉を進める中で、中華人民共和国の協力が必要となったためである。アメリカ合衆国中華人民共和国の協力を得るため、国連安保理常任理事国の継承は合意したが、中華民国の国連追放までは考えていなかった。しかし1970年時点でアルバニア決議案は賛成51、反対49、棄権25、欠席2と過半数を占めたのに対し、重要問題決議案は賛成66、反対52、棄権7、欠席2という状況で、逆転の形勢は明白であった。
 1971年7月中旬、アルバニアアルジェリアルーマニアなどの共同提案国23ヵ国が「中華人民共和国政府の代表権回復、中華民国政府追放」を趣旨とするアルバニア決議案を、国際連合事務局に提出した。その後、中華人民共和国側は、「中華民国」の国連追放ではなく、「蔣介石の代表」の国連追放と文面を改め、当時友好国であったアルバニアを経由し「国府追放・北京招請」決議案 (A/L.630) を1971年9月25日に第26回国連総会に提出した。アメリカは、中華民国側に安保理常任理事国のみ辞退し、国連議席を守るいわゆる「二重代表制決議案 (A/L.633)」を国連に提出。
 総会では、議題採択等をめぐり一般委員会や本会議等で中華民国追放支持派と反対派の間で激しい論議が展開された。 表決に先立ち、中華民国代表は“これ以上総会の審議に参加しない”旨宣言し、総会議場から退場した。 10月18日から73ヵ国の多数が一般討論に参加する本格審議が開始され、10月25日にアルバニア決議案 (A/L.630) が賛成76、反対35、棄権17、欠席3で通過[8]。このアルバニア決議案通過を受け、二重代表制決議案は表決に付されず。後に中華民国は、国連(及び加盟する各専門機関)からも脱退を宣言した。
 日本の動き
 1971年8月、佐藤内閣は「中華人民共和国の国連加盟には賛成するが、中華民国議席追放には反対する」とした基本方針を発表。9月22日、内閣総理大臣佐藤栄作は「二重代表制決議案」および「追放反対重要問題決議案」を共同提案する方針を示した。
 このため、国際連合総会では「重要問題決議案(アルバニア決議が別途提出されていたため、反重要問題決議案、追放反対重要問題決議案、逆重要問題決議案とも)」「二重代表制決議案(複合二重代表制決議案)」の共同提案国に連名した。
 日本国政府が支持した「重要問題決議案」は、指定された決議案は3分の2の賛成が必要(国連憲章第18条2項)であるが、総会において「重要問題決議案」は、賛成55、反対59、棄権15、欠席2で否決された。また、アルバニア決議案が採決、採択されたために「二重代表制決議案」は表決にすら付されなかった。
 総会の結果を受け、日本社会党を始めとした左派政党およびマスコミは、外交上の敗北と佐藤首相を厳しく非難するなど、内政に影響を与えた。一方、直後の国会答弁において、佐藤首相は「政府は、国連の決定を尊重し、中華人民共和国の国連参加を歓迎するものであります。政府のとった処置は国連で否決されましたが、結果的に見て、わが国の長期的な国益に沿うものであることを確信するものであります」、外務大臣福田赳夫も「この決議案には敗れました、しかし、敗れたりといえども、私は、わが日本国は国際社会において信義を守り通した、また、筋を通し抜いた、このことにつきましては、国民各位にぜひとも誇りを持っていただきたいのだということを申し上げまして、お答えといたします。」とそれぞれ述べている。
 アルバニア決議案採決後の1971年11月、東京都知事美濃部亮吉を介して自民党幹事長の書簡を周恩来に渡すが、周総理は中華人民共和国政府として、書簡の正式な受け取りを拒否する外交折衝も発生し、佐藤政権下での中華人民共和国との外交関係構築は困難を極めた。
 1972年1月、佐藤首相は施政方針演説において、日華平和条約締結後の中華民国政府との密接な関係を肯定しつつ、国際関係の現実に立脚し、今後中華人民共和国政府との関係正常化のため政府間の議論が急務と述べ、中国との国交正常化を目指す意向を示し、周恩来への親書を託した密使を香港に派遣して北京訪問の希望も伝えた。
 1972年2月アメリカがニクソン大統領の中国訪問を行うと、4月に三木武夫が中国を訪問し、周恩来と会談。新たに就任した田中角栄首相は、7月の総会で中華人民共和国との平和条約締結を目標とする「日中国交正常化」を掲げ、党内意見調整のために中国問題調査会を日中国交正常化協議会に拡大した。
 田中内閣は日中国交正常化を掲げる一方、中華民国を切り捨てないとする小坂案も受け入れ、同年9月8日の日中国交正常化基本方針において「中華民国との深い関係にかんがみ、従来の関係が継続されるよう十分配慮のうえ交渉すべきである」の一文を盛り込む。9月17日、田中内閣は激しい抗議デモが発生する台湾へ、田中首相の親書を携えた特使を派遣している。
 アルバニア決議案採決は日本外交の転換点となった。同年9月25日から内閣総理大臣田中角栄中華人民共和国を訪問し、9月29日に日中共同声明が出され、中華民国との国交を断絶することになった。中華民国側も同日対日断交宣言を出して応じた。
 アメリカの動き
 この決議においてアメリカは、中華民国の国連議席を守る「二重代表制決議案 (A/L.633)」を国連に提出、また「重要問題決議案」の共同提案国にも名を連ねた。しかし決議直前の1971年7月にヘンリー・キッシンジャーは極秘で北京を訪問し、周恩来と会談しニクソン大統領訪中を話し合っていた。
 翌1972年2月に共和党ニクソン大統領が中国を訪問すると、「上海コミュニケ」と呼ばれる共同声明を発し、米中関係は劇的に改善した。1973年5月、米中両国は正式な国交を樹立するための努力の一環として、北京とワシントンD.C.に米中連絡事務所を設立した。1973年から1978年の間にデヴィッド・K・E・ブルース、ジョージ・H・W・ブッシュ、トーマス・S・ゲイツ、レナード・ウッドコックが事務所の特命全権公使として任命された。共和党ジェラルド・フォード大統領が1975年に訪中し、アメリカの対中関係正常化の意思を再確認し、1978年12月15日に民主党ジミー・カーター大統領は1979年1月に国交樹立することを決定した。
 詳細は「米中関係」を参照
 欧州の動き
 当時は東西冷戦下であったものの、東西問わず殆どのヨーロッパ諸国はアルバニア決議に賛成した。棄権したのは反共主義的なフランコ体制下のスペインとギリシャ軍事政権とルクセンブルク大公国のみである。アルバニア決議採択後、スペインのフランコ政権は1973年、ギリシャ軍事政権とルクセンブルクは1972年に中華人民共和国と国交を樹立した。
 ポルトガル反共主義的なエスタド・ノヴォ体制であり、カーネーション革命まで中華民国と国交を保ったにも関わらず、一二・三事件での関係冷却化から賛成に回った。中華人民共和国とも中華民国とも国交を持たなかった西ドイツはアルバニア決議後に国連に加盟することになるが、1972年に中華人民共和国と国交を樹立した。
 中華民国(台湾)への影響
 中華人民共和国は、「一つの中国」をスローガンとして掲げ、同決議を根拠に諸外国へ中華民国(台湾)との国交断絶を迫った。経済発展を続ける中華民国との国交継続を願う諸国は多かったが、「中華民国と国交断絶しない場合は、中華人民共和国から国交断絶する」などの外交選択やそれに伴う経済的不利益、さらには国連での拒否権発動をちらつかせるなど有形無形の外交圧力を加えたため、中華民国は国際社会でほぼ孤立することとなった。
 その後の中華人民共和国
 中華人民共和国の外交関係一覧図。緑色で塗られた諸国は中華人民共和国と国交を有し、赤色で塗られた諸国とは国交を有していない。黄土色で塗られた地域は係争地。
同決議により、中華人民共和国は国連安保理常任理事国となり、中華人民共和国の加盟を支持していた当時の国際連合事務総長であるウ・タントは電報で中華人民共和国国際連合安全保障理事会へ速やかに出席するよう要請して代表団を歓迎した。なお、国連安保理常任理事国としての拒否権は、実際の行使は米ソ英仏に比べれば中華人民共和国は慎重であった(実際の行使は2012年時点で8度。1972年のバングラデシュの国連加盟問題と1973年の第四次中東戦争の停戦決議、1997年のグアテマラへの軍事監視要員派遣決議、1999年のマケドニア共和国へのPKO活動延長決議、2007年1月のミャンマーへの政治犯釈放要求決議、2008年7月のジンバブエ制裁決議、2011年10月のシリア非難決議、2012年2月のシリア非難決議)。ただし、国連事務総長選挙ではアルバニア決議で協力した第三世界の候補者を支持して1971年国連事務総長選挙、1976年国連事務総長選挙、1981年国連事務総長選挙などで記録的な拒否権を連発(特にクルト・ヴァルトハイムに対するもの)したことはあった。
 中華人民共和国は、「台湾は自国の不可分の領土であり外国の介入は内政干渉だ」とする姿勢を崩さない。また中華民国(“二つの中国”)ではなく「台湾」としての独立宣言(一中一台:一つの中国、一つの台湾)を警戒し反国家分裂法の制定を行った。台湾独立宣言があった際には、同法を根拠に国内問題として処理する(武力行使を否定せず、台湾侵攻を示唆)としている。
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