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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
人種・民族、宗教、文化、言語を理由とした少数派の多数派からの分離独立闘争は、大量の犠牲者を出す悲惨な結果を生み出す事が多い。
問題は、少数派が多数派の上から目線に我慢できるのか、と、多数派が少数派の意固地を受け入れられるのかである。
多数派による少数派への虐殺は、世界史では珍しくなく、代表例がルワンダの大虐殺と中国共産党の少数民族ジェノサイドである。
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2019年3月21日号 週刊文春「池上彰のそこから!?
〘核保有国同士の戦闘始まる〙
核兵器を保有している国同士の関係が緊張し、軍事衝突が続く。核戦争の悪夢がよぎります。インドとパキスタンが、この状態になっているのです。
きっかけは、先月14日。両国が領有権を争うカシミール地方のインド側で治安部隊が乗ったバスに自爆攻撃があり、隊員40人が死亡したことです。パキスタンのイスラム過激派『ジャイシ・ムハンマド』が犯行声明を出しました。
これにインドが猛反発。パキスタン政府は過激派の存在を容認していると非難し、パキスタン領内にある過激派組織の訓練基地とされる場所を空爆しました。インドのメディアは、この空爆で過激派350人以上を殺害したと伝えていますが、パキスタン側は、基地など存在せず、犠牲者も出ていないと真っ向から否定しています。
パキスタン軍も対抗してインド側を空爆。
……
いったいインドとパキスタンはなぜ対立しているのか。それは、両国が建国されたとき、優柔不断なマハラジャ(藩王)がいたためです。
インドもパキスタンも、かつてはイギリスの植民地『イギリス領インド』でした。イギリスの『東インド会社』が17世紀にインド亜大陸に進出し、植民地化を進めました。東インド会社という名前は高校の世界史の教科書に必ず出てきますね。最初に『東インド会社』を設立したのはオランダ。その後、ヨーロッパ各国が同名の会社を使って南アジアから東南アジアを支配しました。東インド会社という会社の名称ですが、実態は軍事組織を伴っていました。要は強大な軍事力を備えた軍団が貿易を強制したのです。
これに怒った住民による反乱が相次いだことから、イギリスは19世紀になって、インドを直接統治します。インドの農産物が大量にイギリスに持ち去られ、大英帝国の経済基盤を支えました。
マハラジャの逡巡が対立招く
ただ、イギリスがインド亜大陸を支配した際、各地に存在したマハラジャと呼ばれる封建領主の自治を容認しました。
イギリスによる植民地支配に抵抗して独立運動を進めた人物として、マハトマ・ガンジーが有名ですね。
ガンジーは一つの国家として独立させようとしたのですが、これに異を唱えたのがムハンマド・アリ・ジンナーでした。イスラム教徒の指導者だった彼は、ヒンズー教徒の多いインドが一つの国家になるとイスラム教徒の国パキスタンに分かれて独立しました。
ただしイスラム教徒はインドの東西両側に多かったことからインドを挟んで東パキスタンと西パキスタンに領土は分かれながら、一つの国家になりました。しかし東西で民族が異なったことから対立し、1971年、東パキスタンは独立戦争の末、バングラデシュとして独立します。『ベンガル人の国』という意味です。
話を戻します。インドとパキスタンが独立したとき悲劇が起きました。パキスタンとして独立した地域に住んでいたヒンズー教徒たちが、イスラム国家に住むことを嫌がり、インド側に移動を始めます。
一方、インドになる地域のイスラム教徒はイスラム国家を目指して、こちらも移動。両者の大移動が始まり、大行進は各地で衝突を引き起こしました。結果、約100万人が犠牲になったとされます。
とりわけ問題になったのがカシミール地方です。日本で発行されている地図帳を見ると、インドとパキスタンの国境の北側が白くなっています。国境が画定していないという意味です。セーターのカシミアは、この地方のカシミア山羊の毛でつくられます。
この地域のマハラジャは、インドに入るかパキスタンに入るか、態度を明らかにしませんでした。時間切れでどちらにも属さずに独立国家になることを目指していたとも言われています。
この地域はイスラム教徒が多かったことから、態度を明らかにしないことに腹を立てたパキスタン側は、義勇軍を送り込みました。マハラジャ本人はヒンズー教徒だったため、慌ててインドに助けを求めます。かくして両国は戦火を交えます。印パ戦争です。これまでに3回の戦争になり、最期の第3次戦争ではバングラデシュ独立を支援したインドが勝利。そのインドが核開発を始めたことからパキスタンも核開発を始め、両国とも核兵器を持つに至ったのです。
建国時に遡る対立意識。カシミールに平和は訪れないのです。」
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インドとパキスタン紛争を解決不能な状況に追い込んでいるのは、中国共産党の対インド封じ込め政策と一帯一路構想である。
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国家と国民の統合の象徴が、存在しなかったムガル帝国と存在した日本国の違い。
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ムガル皇帝は、統合の象徴の役割を果たしきれなかった。
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日本は、清国(中国)や朝鮮ではなくムガル帝国に似ていた。
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近代的天皇制度による明治維新が、日本をムガル帝国のような滅亡から救った。
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反天皇反日的日本人や共産主義者(マルクス主義者)が理想とする人民革命は、ムガル帝国滅亡である。
彼らは、如何なる犠牲も必要な犠牲として正当化している。
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イギリスは、日本をムガル帝国はビルマ王国のように利益・大金で内部協力者を使って分裂崩壊できると高を括ったが、日本民族日本人は利益や金ではなく名誉や体面を重んじた為に内部崩壊せず当てが外れた。
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日本民族日本人は、利益や金で買えない大事なモノ、命を捨てても守らねばならない大切なモノがある事を知っていた。
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ウィキペディア
インド・パキスタン分離独立(英語: Partition of India、ヒンディー語: ???? ?? ?????? Bh?rat k? Vibh?jan または ?????????? ?? ?????? Hindust?n k? Batw?r?、ヒンドゥスターニー語: ???????? ?? ????? Hindust?n ki Taqseem、ウルドゥー語: ????? ??? Taqseem-e-Hind)、略称として印パ分離、印パ分断などとも、は、1947年8月14日および15日にイギリス領インド帝国が解体し、インド連邦とパキスタン(後にバングラデシュとして独立する飛地の東パキスタンを含む)の二国に分かれて独立したことを指す。インド独立運動における最大の悲劇に数えられる。
この結果、インドとパキスタンの両国が並び立つこととなり、この二者の対立は今日に至るまで続いている(なお、バングラデシュは東パキスタン時代に西から一方的な政治的支配・弾圧を受けた確執や、独立戦争にインドが協力した歴史的経緯から比較的親印感情が強いとされる)。
「二民族論」
第二次世界大戦の結果、イギリスは勝利したものの疲弊して超大国の地位から転落することが確実となり、脱植民地化の流れが強まるなかで最大の植民地であったイギリス領インド帝国の解体は不可避になっていた。
イギリス領インドにおけるヒンドゥー教徒とイスラム教徒の分布(ピンクがヒンドゥー、緑がイスラム、黄が仏教)
しかし、当のインドでは多数派(マジョリティ)のヒンドゥー教徒と社会的少数者(マイノリティ)であるイスラム教徒の対立は激しさを増し、特にムハンマド・アリー・ジンナーを指導者とする全インド・ムスリム連盟は1940年のラホール決議(Lahore Resolution)で「二民族論」(Two-Nation Theory)を唱え、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の分離を強硬に主張していた。
マハトマ・ガンディーはこうした分離の動きに強く反対して統一インドの実現を唱えており、インド国民会議派も政教分離・世俗主義の立場から宗教による分離には慎重で、インド共産党やヒンドゥー・ナショナリストもそれぞれの反応をみせたが、分離の勢いが止まることはなかった。
分割の確定
イギリスも当初はヒンドゥー教徒の多い地域にヒンドゥスタン、イスラム教徒の多い地域にパキスタン、そして各藩王国を残し、この三者で「インド連邦」を構成する独立案を構想していたが、合意は得られなかった。
そこでイギリス領インドの最後の総督ルイス・マウントバッテンはインドを一体とする計画を諦め、1947年6月4日、イギリス領インド帝国を「インド」と「パキスタン」に分割することによる独立(インド高等文官、インド軍、インド鉄道の分割を含む)を、同年8月15日をもって行う案を声明した。
また、独立後の統治の暫定的な枠組みをイギリス議会が制定した1935年インド統治法によって行うことも含まれていた。7月18日に施行された1947年インド独立法(英語版)(→インド憲法#憲法制定までの沿革#1947年インド独立法)は、イギリス領インドをインドとパキスタンの2つの新しい国に分割し、それぞれの国の憲法(インド憲法およびパキスタン憲法(en))が施行されるまでイギリス連邦の自治領(ドミニオン。カナダやオーストラリアと同じ地位で、国際法上の独立国)とすることを定めた。
ラドクリフ・ライン
マウントバッテンが分離独立を示してから実施に移すまででも2か月強、インド独立法の施行からならばわずか1か月弱しかなかったことも問題だったが、それ以上に大問題となったのは、イスラム教徒が多数を占める地域がイギリス領インド帝国の東西に分かれて位置していることであった。
このため、西のパンジャーブ地方と東のベンガル地方はそれぞれインド・パキスタン両国に分割され、パンジャーブ地方はパンジャーブ州 (パキスタン)とパンジャーブ州 (インド)(後にそこからさらにハリヤーナー州やヒマーチャル・プラデーシュ州、チャンディーガルが分割される)に、ベンガル地方は東パキスタンと西ベンガル州に分割されることとなった。この地理的分割の作業は、それまでインドに縁がなかったロンドンの法廷弁護士(バリスター)シリル・ラドクリフ(Cyril Radcliffe)にゆだねられ、このため分割線(分離独立後はそのまま国境となる)はラドクリフ・ライン(Radcliffe Line)と呼ばれるようになった。なお、この分割線は独立当日まで公表されなかった。
ベンガルでは1905年のベンガル分割令に近い形での分離がなされた(en)が、パンジャーブでは分割の経験がなかったため、混乱はより大きくなった。
パンジャーブで鉄道車両からあふれる難民
大混乱、衝突、そして虐殺
そして両地方ではヒンドゥー教徒地域のイスラム教徒はイスラム教徒地域へ、逆にイスラム教徒地域のヒンドゥー教徒(およびパンジャーブではシク教徒)はヒンドゥー教徒地域へ、それぞれ強制的な移動・流入による難民化を余儀なくされた。
このとき短期間での1千万人以上もの人口流入によって生じた大混乱のため、特にパンジャーブ地方では両教徒間に数え切れないほどの衝突と暴動、虐殺が発生、さらに報復の連鎖が各地に飛び火し、一説によると死者数は100万人に達したとされる。このとき生じた両者の不信感そして憎悪が印パ関係の後々まで影響することとなる。いっぽうカルカッタではガンディーの尽力により虐殺が抑えられた。
結果
パキスタンの独立は8月14日に、そしてインドの独立は8月15日に行われた。ジンナーがパキスタンの総督となり、またジャワハルラール・ネルーが新生独立インドの首相となった。しかし、そこに至る道、およびその後の両国が歩んだ道は決して平坦なものではなかった。
大都市スラムの発生
保守的なイギリス人にとって、この事件はかつてのインド総督カーゾン卿が予言したとおりの、大英帝国の没落の現実化であった。またインドになだれ込んだヒンドゥー教徒およびシク教徒難民、パキスタンになだれ込んだイスラム教徒難民は、デリー、ボンベイ、カルカッタ、カラチ、ラホール、ダッカといった両国の大都市に巨大なスラムを生み、両国に膨大な都市貧困層を生じさせて社会の不安定要因となった。
ガンディーの暗殺
ヒンドゥー、イスラム両教徒のあいだの不信は、両者の融和を説いたガンディーに対する反発を生むこととなった。特に民族義勇団などのヒンドゥー・ナショナリストからはイスラム教徒やパキスタン側に対して譲歩しすぎるとして敵対視された。その結果、翌1948年1月30日、ガンディーは狂信的なヒンドゥー・ナショナリストによってデリーで暗殺される結果を招いた。非暴力を説いたガンディーが暴力の連鎖を止められず、自らもその中に倒れたことは悲劇の象徴として捉えられた。
印パ戦争から核開発へ
また多くの藩王国はインド側の副首相ヴァッラバーイ・パテールの巧みな交渉もありインドに帰属したが、大藩王国のニザーム藩王国とジャンムー・カシミール藩王国はその態度を最後まで決めかねており、1948年9月インドはニザーム藩王国を強制併合したが、ジャンムー・カシミール藩王国においてはその帰属をめぐって第一次印パ戦争が発生し、その後の印パ戦争とへと続いていく。
そして、パキスタンは東西に分かれた領土を持つこととなり、国家として不安定な状況を生むこととなった。これは最終的にバングラデシュ独立戦争と第三次印パ戦争を経て東パキスタンがバングラデシュとして独立するまで続くこととなる。さらに、両国の対立はインドの核開発(1974年および1998年)と、それに対抗するパキスタンの核開発という形で、南アジア地域にとどまらない世界的な国際政治の不安定要因を生み出している。
また、両国の対立はインドが世俗主義であるのに対し、パキスタンがイスラム教を国教としているという、両国の国家理念の根本的な違いに起因するという見解もある。これは、インドではムガル帝国の3代皇帝アクバルが「民族融和の象徴」とされているのに対し、パキスタンでは6代皇帝アウラングゼーブがイスラームの教えを遵守した「英雄」とされている点からもうかがえる。」
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インドの宗教間対立
インドの宗派別人口
下にインドにおける2001年の宗派別人口と構成比を表にまとめた。(この表の人口は、イスラム教徒が多くパキスタンとの間で帰属が問題となっているジャンムー・カシュミール州を除いている。)イギリスからの独立時に多数のイスラム教徒がパキスタンへ移住したが、インド国内にも1億を超えるイスラム教徒が居住している。主に上位4宗派間で対立や紛争が目立つが、2013年には仏教に対するテロ事件も起きている。仏教はインドで興ったが13世紀にはインド内では消滅し、現在の仏教徒は20世紀に入って主にヒンドゥー教の下位カーストの人たちが集団で改宗したものである。またジャイナ教は生活において厳しく非暴力アヒンサーを徹底している。
インドの宗教別人口
宗教
人口(万人)・比率(%)
ヒンドゥー教・82,760・81.4%
イスラム教・13,819・12.4%
キリスト教・2,408・2.3%
スィク教・1,922・1.9%
仏教・795・0.8%
ジャイナ教・423・0.4%
ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立の歴史
イスラム過激派が起こしたとされるテロ事件
インド国内ではしばしばテロ事件が起こり、そのかなりの割合がイスラム過激派が起こしたものとされる。事件を起こした過激派はパキスタンから来たとされることが多かったが、2008年以降インディアン・ムジャーヒディーンという組織が関与したとされる事件も起きている。イスラム過激派が起こしたとされる最近の主なテロ事件には以下のものがある。
2006年7月11日 ムンバイ列車爆破事件 - 死者209名
2008年7月26日 グジャラート州アフラマバードで連続爆破事件 - 死者49人
2008年9月13日 ニューデリー中心部で連続爆破事件 - 死者25人
2008年11月26日 ムンバイ同時多発テロ - 死者172名
2013年7月7日 ブッダガヤ爆弾テロ事件 - 仏教寺院が狙われた事件、けが人は出たが死者はなかった
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ヒンドゥー教(ヒンディー語: ?????? ????、サンスクリット語: ????? ????)、慣用表記でヒンズー教、ヒンヅー教は、インドやネパールで多数派を占める民族宗教、またはインド的伝統を指す。西欧で作られた用語である。
英語のHinduは、まずイスラム教徒との対比において用いられるのが現在では一般的で、イスラム教徒以外で小宗派を除いた、インドで5億人を超えるような多数派であるインド的な複数の有神教宗派の教徒の総称である。ヒンドゥー教徒の数はインド国内で8.3億人、その他の国の信者を合わせると約9億人とされ、キリスト教、イスラム教に続いて、人口の上で世界で第3番目の宗教である。
同じくヒンドゥー教と訳される英語のHinduismは最も広い意味・用法ではインドにあり、また、かつてあったもの一切が含まれインダス文明まで遡るものである。一般的には、アーリア民族のインド定住以後、現代まで連続するインド的伝統を指す。西洋では、このうち仏教以前に存在した宗教をバラモン教(英:Brahmanism)、特にヴェーダ時代の宗教思想をヴェーダの宗教(英:Vedic Religin)と呼んだ。これらは日本の漢訳仏典の婆羅門教(ばらもん教)に当たる。
ヒンドゥー教の狭い意味での用法は、仏教興隆以後発達して有力になったもので、とくに中世・近世以後の大衆宗教運動としてのシヴァ教徒・ヴィシュヌ教徒などの有神的民衆宗教を意識しての呼び方であることが多い。
語源と名称
「ヒンドゥー」 Hindu の語源は、サンスクリットでインダス川を意味する sindhu に対応するペルシア語。「(ペルシアから見て)インダス川対岸に住む人々」の意味で用いられ、西欧に伝わり、インドに逆輸入され定着した。(同じ語がギリシアを経由して西欧に伝わって India となり、こちらもインドに逆輸入されて定着した。漢訳では玄奘による「印度」が定着している。)インド植民地時代に大英帝国側がインド土着の民族宗教を包括的に示す名称として採用したことから、この呼称が広まった。
日本では慣用表記ではヒンズー教、一般的にはヒンドゥー教と呼ばれるが、時にインド教と呼ばれることもある。中国、韓国でも「印度教」と呼ばれるが、現在のインドは世俗国家であり国教はなく、インドでこのように呼ばれたことはない。
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インドにおけるイスラーム
インドに居住または活動するイスラーム教について概説する。
歴史
伝播
インドにイスラーム教が伝わったのは7世紀であり、インド西部のマラバール海岸へやって来たアラブの貿易商がその役割を担ったとされる。
イスラームと仏教
12世紀のイスラームの侵攻によってインド仏教勢力は壊滅した(インドにおける仏教の弾圧)。
インドにおけるイスラーム王朝
・デリー・スルターン朝(1206年 - 1526年)北インドのイスラーム王朝。奴隷王朝、ハルジー朝、トゥグルク朝、サイイド朝、ローディー朝がある。
・ムガル帝国(1526年 - 1858年) - トルコ系イスラーム王朝。
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日本民族日本人の尚武とは、私利私欲で他人を蹴落として利益や金を個・私として奪う事ではなく、先祖代々受け継がれた大事なモノ、大切なモノを伝統・公と定め命捨てても守る事である。
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日本に外国人移民(主に中国人移民)が急増すると、日本から天皇・皇室への愛着・崇敬・敬意・畏敬の思いが薄れ、将来の日本はムガル帝国と同じ道を辿る危険性がある。
それは、日本民族日本人の消滅を意味する。
が、外国人移民政策を採用した現代日本人は、ナショナリズム(民族主義)の消滅を受け入れた。
日本にとって最大にして最悪な存在が、中国共産党と共産主義者(マルクス主義者)である。
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国家と国民の統合の象徴とは、国内に住む全ての人種・民族・部族、宗教、文化、言語、習慣、哲学、思想、主義主張など有りと有らゆる違いによる、差別、偏見、蔑視などの嫌悪感や敵愾心を中和し、迫害、弾圧、暴動、騒乱などを沈静化させ、治安を維持し、秩序を保ち、平和と安寧、発展と進歩、幸福と豊かさをもたらす事である。
あらゆる要因による多数派と少数派の対立、敵対を消し去るのが、統合の象徴の役割である。
国家と国民の統合の象徴とは、国家を調整し、社会に均衡をもたらし、国民を調和させる事である。
調整・調和をもたらす為に、象徴は、多数派・少数派、富裕層・貧困層などに関係なく誰にも味方せず肩を持たず絶対中立を保ち、ただ弱者・貧者に言葉少なく寄り添う事だけである。
俗世の政治・外交・戦争、神聖な宗教などで、公的な発言をしない事である。
統合の象徴とはサイレントで、行動・振る舞い・仕草を見せるだけである。
国家と国民は、統合の象徴がサイレントとして言葉を発しない為に、行動・振る舞い・仕草の一挙手一投足に注視して統合の象徴の気持ちを忖度するだけである。
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日本でも、平安時代、朝鮮半島から日本列島に逃げて来て東国に定着した渡来人が反天皇反日本の反乱を起こした。
天皇と日本国は、半島や大陸からの難民・避難者・移住者を温かく受け入れ、生活できるように土地を与えて定住さ、祖先を神として祀る事を認めた。
高句麗人による高麗神社が有名。
親日派帰化人(百済人・高句麗人)が天皇と日本国に味方した為に、反日派渡来人(新羅人)の反乱は鎮圧された。
帰化人は多数派で、渡来人は少数派であった。
天皇と日本国に、忠誠を誓ったのが帰化人(多数派)で、忠誠を拒否したのが渡来人(少数派)である。
古代から反天皇反日本国というドス黒い怨念が国内に存在し、天皇を滅ぼし日本国を転覆させようとい怨念は現代日本にも蠢いている。
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外国人移民(主に中国人移民)が増えている日本が学ぶべきは、東アジアの中国や朝鮮ではなく南アジアのインド・ムガル帝国である。
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ムガル帝国は、外敵に協力する裏切り者によって内戦が激しくなり、戦乱と混乱によって内部崩壊を起こし、滅亡し、ムガル帝室は消滅した。
ムガル皇帝は、外敵の内通者によって悲惨な末路を辿り、失意の末に死亡した。
国内の反皇帝派によって、ムガル帝国は滅亡した。
ムガル帝国を滅しムガル皇帝を死に追いやった裏切り者・内通者・売国奴は、侵略者に優遇され権力と高い地位を与えられ、莫大な富、金を手にして優雅に暮らした。
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多数派のヒンズー教徒と少数派のイスラム教徒による宗教対立による殺し合いの連鎖の末に、インドはヒンズー教の国とイスラム教の国に分裂した。
パキスタンは、国内での異民族対立から分裂し、東パキスタンがバングラデシュ(ベンガル人の国)として独立した。
宗教的インド・パキスタン戦争や民族的パキスタン分裂内戦で、百万人以上が犠牲となった。
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