💒86」─1─宗教的地政学。アメリカはルターの改革に不満を持った新プロテスタンティズムが「改革のさらなる改革」を求めて築いた。~No.233No.234No.235No.236 @ ・

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 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。  ↗  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2018年11月号 Voice「米独プロテスタンティズム地政学 深井智朗
 トランプが体現するリベラリズムメルケルに潜む保守主義
 宗教的地政学とは何か
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 両首脳の対立については、すでに多くの政治的分析がなされている。しかしあらためて宗教的地政学という視点から考え直してみたい。というのは、両首脳は、この宗教的地政学n視点から見るならば、いずれもきわめてプロテスタント的な政治家なのだ。意識的か、無意識かということは別にして、その点で二人は似ている。そして二人を分かつ頒(わ)かつものもまたプロテスタンティズムなのだから。
 ところで宗教的地政学とは何か。一つの事例を挙げて説明しよう。今年、アメリカ合衆国イスラエル大使館をエルサレムに移転した。それに追随する国もあり、これまでの暗黙の合意の上に成り立っていた既存のシステムが崩壊し、世界中に大きな影響を与えている。トランプ大統領が次の中間選挙での共和党の勝利のために行った国内向けの政治的パフォーマンスだという説明は、おそらく正しい。だが、他方で、エルサレムという場所に特別な宗教的意味を見出すプロテスタント信者である彼の側近の一人の心の中にある確信が、その人の宗教的世界の話にとどまるのではなく、現実の政治を動かし、既存のシステムを変えてしまったということもできる。政治と宗教の関係について合理的な説明は困難だが、この政治的出来事のなかで両者はたしかに結び付いている。
 この宗教と政治の関係、あるいはこの現象の深層構造を読み解くことは、今日の国際政治上の現象を読み解くために役立つのではないか。宗教の世界には目に見えないが、社会を動かす最も大きな要因の一つであることは明らかだ。目に見えない宗教の社会的機能を分析することで、現象を読み解く手法を『宗教的地政学』と呼ぶたい。
 メルケルとトランプの宗教観
 アンゲラ・メルケルの父ホルストは、ルター派の伝統を受け継いだ牧師だ。1954年に東ドイツに赴任することになり、生後まもなくの彼女も同行した。彼女は東ドイツという共産主義国家で活動する牧師の娘という特殊な環境で育ったがゆえに、自覚的キリスト教徒となった。ちなみにイギリスのテリーザ・メイ首相も牧師の娘で、ヨーロッパの2人の女性首脳がいずれも牧師の娘であることも宗教的地政学の考察の対象かもしれない。
 ドナルド・トランプもまたプロテスタン教会の信者である。意外なことかもしれないが、彼は若いころは熱心な教会の信者の一人であった。トランプの父はドイツ系移民の子で、一家はクイーンズの長老派教会の熱心な信者であった。ところが彼はニューヨークで最も古い教会の一つマーブル教会へと転会し、今度はその教会の熱心な会員となった。この教会は古い歴史をもつだけではなく、当時牧師をしていたノーマン・ヴィンセント・ピールによってアメリカ中に知られていた。
 ピールが書いた『積極的考え方の力 ポジティブ思考が人生を変える』(邦訳、ダイヤモンド社)がアメリカで大流行したのだ。内容は、聖書の言葉の独特な読み方をすることで、ポジティブに考え、生きて行こうという試みで、キリスト教に慣れ親しんだアメリカの人びとにはわかりやすい、どこの国の空港や駅のキオスクのブックコーナーにも置かれている自己啓発の類(たぐい)である。
 要するに『なせばなる』と教えるのだ。とはビジネスで成功し、アメリカ中で注目さえるようになるまで、明らかにこの牧師の教えに忠実だったし、ピールも彼を励まし続けた。
 こもように二人は自覚的にプロテスタントなのであるが、じつはまったく異なった性格をもつプロテスタントであることを見落としてはならない。その違いが二人の政策や政治家としての信念の違いを生み出しているのだから。どういうことであろうか。
 改革ではなくリフォーム
 まずは、プロテスタンティズムについて説明したい。2017年はマルティン・ルター宗教改革から500年で、プロテスタントの誕生が祝われた。しかしルターは自らをプロテスタントとは呼ばなかったし、新しい宗教を立ち上げると宣言したわけでもない。彼が願っていたことは、制度疲労を起こしていた当時のカトリック教会のリフォームであった。
 ところがルターの提案は、彼の意図に反して、教会のみならず、神聖ローマ皇帝や帝国を構成する各領邦の領主たちを巻き込む政治的争いにまで発展した。理由ははっきりしている。彼が当時の西ヨーロッパの教会の支配者である教皇も誤る可能性があると述べ、その権威を相対比したからだ。教皇の権威に依存していた従来の社会の仕組みが揺るぎ始めた。
 教皇でないから何が権威をもつのか。ルターは聖書だといった。彼によれば、教皇を含め皆、聖書を基準に考えなければならない。それだけではなく、彼は誰でも教皇と同じように自由に聖書を読み、解釈してよいともいってしまった。それまで教皇によって独占されていた聖書解釈をすべての人に開放してしまったのだ。それで誰でも教皇のように聖書を読み、解釈できることになった。 そうなると理論上は聖書を読んだ人の数分だけ、解釈が生じることになり、プロテスタントは、教皇ただ一人の解釈によるただ一つの教えがあるカトリックろは違って、聖書の解釈によって争い、分裂する宗教となった。聖書を自由に解釈することこそがプロテスタントという宗教の特徴なのである。
 しかしルター自身が晩年にはこの問題で悩むことになった。誰でも聖書を自由に読みことができ、解釈することができるということになると、ルター自身の聖書の読み方や彼の教会形成の考えに賛成しない人びとの聖書の読み方も認めなければならなくなってしまう。もしそうなればアナーキー状態に陥(おちい)ることになる。事実ルターの改革に賛成しない人びとが登場し、それらの人びとはルターの改革の不徹底を主張し、批判し、『改革のさらなる改革』を強力に推し進めようとした。宗教改革プロテスタントを理解する際に、この二つの流れを押さえておくことが重要だ。ルターたちのプロテスタンティズムを『古プロテスタンティズム』と呼び、それに対して『改革の改革』を主張した流れを『新プロテスタンティズム』と呼ぶ。
 ルターは勇気ある改革者として登場し、教皇の命令に従わないならば破門だというバチカンの理不尽な命令に対しても勇敢に戦ったのだが、彼の主張を支持する人びとが増えていくと、今度は彼らの考えに賛成しない人びとを社会の秩序を破壊するサタン呼ばわりするようになった。
 歴史におけるあらゆる改革勢力と同じように、ルターたちも体制化し、保守化した。『前衛』は戦いを経て『後衛』になる。改革を主張していた人びとが、今度は新たな改革に対して守りに徹するようになる。政治的勢力と結び付くことである程度安定したポジションを得たことで、さらなる改革や批判を受け容れられなくなったのだ。ルターたちは改革よりは、守りに徹するようになる。領邦の政治的支配者と共に、自ら聖書の解釈に反対する勢力を排除するようになった。
 それに対してルターの改革の不徹底さを批判する『改革の改革』を主張する勢力、つまり『新プロテスタンティズム』は、ルターの保守化を嘆き、よりラディカルな改革を求めるようになった。そして彼らはアングロサクソン世界を経て、新大陸アメリカへと活動の場を求めるようになった。この二つのプロテスタンティズムの違いという点から、メルケルとトランプの政治判断や行動を考えてみよう。
 独プロテスタントの保守性
 ルター派の政治的保守性を象徴する考えとして、『上に立つ権威(die Obrigkeit)』に従うという聖書の言葉の特殊な解釈がある。ドイツ語でdie Obrigkeitは『上に立つ(者の性格)』というような意味であろう。王や政治的支配者、あるいは政府のみならず、お役人などの意味ももつ。聖書の『ローマの信徒への手紙』の13章にこういう言葉がある。『すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。したがって、権威に逆らう者は、神の定めにそむく者である』。
 ドイツのルター派はこの『上に立つ権威』への従順を、宗教的命令であるだけではなく、政治的責任とも理解し、既存の政治的支配者と『共にある教会』であり続けてきた。この教えの解釈によれば、教会だけが神からの使命を与えられた地上における唯一の宗教的機関であるのではなく、政治的支配者もまた神からの宗教的使命をもった統治システムなのである。教会も政治的統治者も神によって立てられたものであり、政治的支配者もまた宗教的システムの担い手であるというルターの聖書解釈が、ルター派という宗教の政治的特殊性を生み出した。これを『二統治説』と呼ぶ。
 その意味でドイツのプロテスタント教会は最大の保守勢力だ。憲法の保障のもと、住民台帳に基づいて教会税を税務署に代理徴収してもらい、公立学校での宗教教育を主導している。国教ではないが、それに近い特権をもち、国民の約30%が信者である。メルケルはこの教会の動向を強く意識しているはずだ。
 興味深いデータがある。極右政党とされる『ドイツのための選択肢(AfD)』が結成されたのと同じ年、2013年の統計によれば、ドイツ・ルター派における1年間の日曜日の礼拝出席、また教会が主催するさまざまな集会やイベントに参加する信者数は3%増加した。とくに都市部でその傾向は顕著で、子育て世代の出席が増加している。緩やかな増加はすでに10年以上前から始まっていたのだが、近年その傾向は顕著だ。
 じつはプロテスタント教会の礼拝出席は1960年代以降急速に減少し、毎週日曜日に教会に行く人は信者全体の1%を大きく割っていた。ところがドイツ再統一後、減少から増加に転じ、1990年代後半には数字の上でも確認できるようになった。なぜドイツ・ルター派の教会に行く人びとが増えたのか。その答えは意外なもので、多元化するドイツ社会に人びとがある種の疲れを感じ、ルター派の教会に心の避難所を求めたからだ。
 戦後ドイツは、多元化共生社会の実現という政策を掲げてきた。ナチズムの時代への反省だけでなく、人口が減少に転じているドイツでは、労働力の確保という点でもいみんや外国人労働者の受け入れは必須のことである。しかし崇高な理想や高度な経済政策とは対照的に、人びとは日々の生活では疲れを感じるようになっていた。
 そのようななかで、ドイツ語だけが話され、もちろん他の宗教の人がいなくて、ドイツ的なもの、伝統的な習慣や文化が色濃く残っているルター派の教会に人びとがある種の居心地の良さを感じ、そこに逃げ込んだのかもしれない。それで教会の礼拝出席者が増加しているのだ。そこに逃げ込んだ、という表現が正しいのかもしれない。
 右派ポピュリスト政党や極右のグループが、目に見える意見表明や行動を伴った排外主義だとすれば、ルター派の変化は目に見えない、隠された排外主義なものかもしれない。また前者の動きに人びとが共鳴しているのは、過激な排外主義であるよりは現政権への批判が理由かもしれない。しかし後者の行動には生活の匂いがするし、一時的な感情や現政権への批判が生み出したものだとは思えない。正直な心の動きだ。だからこそ、後者は前者よりも大きなドイツ社会の変化なのかもしれない。メルケルはこの感情の変化に敏感に対応した。それが移民政策の実質的な変化である。
 もちろんドイツ・プロテスタンティズムの保守性と、右派ポピュリスト政党や極右の排外主義とは同じものではない。『保守』とは、反動のことではない。それは本来あるべき社会の姿が崩れて行こうとするときに警鐘をならし、社会を守ろうとする勢力である。
 『市場至上主義』社会のDNA
 さて、もう一つのプロテスタンティズムであるアメリカに移住した新プロテスタンティズムが主張したことは、国家や政治的支配者が特定の教会を決定し、保護するのではなく、それからは自立した教会を自由に建てることであった。彼らが求めたのは、国家が統治のために利用する国営教会ではなく、国家から自立した民間団体としての教会を自由につくる権利であった。だから彼らは政治的主権者が宗教を決めてしまうヨーロッパではなく、そういう政治的作法のないアメリカで新しく出発した。どの教会も国のの保護を受けるのではなく、自由に教会をつくり、宗教の市場で自由に競争できるのである。それが『教会と国家の分離の原則』であり、信教の自由であった。民営化や市場化こそが新プロテスタンティズムのDNAなのだ。そしてこのDNAがアメリカの『市場至上主義』社会をつくり出した。
 彼らは国家が宗教の市場に介入することを嫌い、民間団体としての意識を強くもち、市場での健全で、自由な競争こそが重要だという新しい社会でのグランドデザインを書いた。このグランドデザインは宗教だけではなく、経済や政治にも応用された。『改革のさらなる改革』を主張する新プロテスタンティズムアメリカ社会のルールに適応したのではなく、このプロテスタンティズムアメリカのグランドデザインを書いたのである。だからこそ、この国家嫌いで、民間重視で、自由な競争というデザインがアメリカ社会の深層構造を形成している。
 アメリカにやって来たプロテスタントは自由を手に入れたが、誰も援助も保護もしてくれないので、自分たちの力で自らの聖書の解釈を宣伝し、人びとを集めなければならなくなった。そうしなければ教会は倒産してしまう。だからこそ熱心に、工夫し、人びとのニーズに応える宗教あった。
 聖書の解釈で勝負するというプロテスタントの基本的な立場は維持しているが、一つだけ違う点は、聖書の解釈の正しさの判断は市場にいる人びとのニーズによって決まるという点だ。聖書の解釈の正しさは教皇のような存在が決めるのではなく、自由なものであるから、たとえそれが極端な解釈であっても、人びとや社会のニーズに合っていれば広まるし、正しいとされるのである。たとえそれが反社会的な考えであり、極論だと思えても、自由な市場での競争のなかで消費者たちのニーズに合い、必要とする人が購入するならば、それは正義となる。いま市場で成功していることが正義であり、真理となる。ヨーロッパの社会にあったような『正統』が失われたのである。これがアメリカであり、アメリカ社会のプロテスタント的深層構造なのだ。そしてそれがトランプ大統領の論理でもある。それは最もアメリカ的であると同時に、最もプロテスタント的なのだ。
 プロテスタンティズムは、自らが生み出した自由をどこまでも追究し徹底化しようとするなかで、自由の喜びを経験しつつ、他方でこの自由の貪欲なまでの追求が自らの社会を破壊しかねないという矛盾に直面している宗教なのである。そしてそれがそのままアメリカ社会の危機でもあり、この深層構造を知る者はこの自由な市場というシステムを利用して社会を動かすのだ。それがいまのアメリカ政治の姿である」
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 中世キリスト教が日本にもたらしたのは、隣人愛の信仰による天国と地獄である。
 天国とは、媚びる日本人を白人に次ぐ人として「キリシタン」にする事である。
 地獄とは、拒む日本人を黒人同様の汚れた家畜であるとして「奴隷」にする事である。
 白人キリスト教徒商人は中世キリスト教会の祝福を受け「神の御名」により、日本人を、中国、東南アジア、南アジア、中南米大陸、アフリカ、ヨーロッパ、地球上に奴隷として売り飛ばして大金を稼いでいた。
 現代の国際世論とユネスコは、日本のキリシタン弾圧と潜伏キリシタンは日本が行った非人道的犯罪の証拠として人類が後世に残す歴史遺産と認めた。 
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 人間は、人間として、人間社会で生きる限り宗教を切り捨てては生きていけない。
 人として絶対不可分の宗教を暴力的に切り離し壊そうとしたのが、反宗教無神論共産主義であった。
 日本は、戦国時代から昭和前期まで、カトリック教の中世キリスト教会、プロテスタントのドイツ・イギリス・アメリカ、ロシア正教のロシア、そして反宗教無神論ソ連中国共産党などの共産主義勢力と、孤立無援の一ヵ国で夥しい死体の山を築きながら死闘を繰り返し生き抜いてきた。
 日本人、特に現代の日本人には宗教と政治の関係が理解できない。
 どう考えても、カトリック教とプロテスタントギリシア正教、そしてプロテスタントの中のルター主義とカルヴァン主義も分からない。
 日本人は、キリシタン弾圧と隠れキリシタン潜伏キリシタンを理解できても、中世キリスト教会容認による異教徒日本人奴隷交易は理解できない。
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 日本天皇は、政治・宗教・軍事から離れ、政治権力・宗教権威・軍事独裁の上に蓋のように浮いていた。
 日本天皇はその姿で、日本の倫理・道徳・良心・精神・心・志・平常心を体現していた。
 それが、天皇の御稜威=陰徳である。
 日本民族日本人は、天皇の姿に天皇の御稜威=陰徳を感じ、その内に神の道を空気のように感じ取っていた。
 日本天皇の、実体は軽いが、意義は重い。
 キリスト教共産主義マルクス主義)は、天皇制度廃絶及び天皇家・皇室の根絶で、日本民族日本人が守ってきた天皇の御稜威=陰徳を滅ぼそうとした。


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