🛲11」─2─フランスの植民地カンボジアとラオス。アンコール王朝.シアヌーク殿下。ポル・ポトの200万人虐殺。~No.96No.97No.98No.99 * ⑨ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 世にも恐ろしい共産主義
 中国共産党は、アジア各地に住んでいる中国系住人(華僑・華人)に対して忠誠の証を示す事を求めた。
 カンボジアでは、中国系住人が反中国派住民とベトナム人を虐殺した。
 インドネシアでは、反中国派住民を虐殺した。
 アジアに於ける重大な虐殺を行ったのは、日本軍ではなく、中国共産党であった。
 中国共産党と反天皇反日的日本人は、日本を時効なき戦争犯罪者に仕立て上げる為に、中国共産党の命令で虐殺を行った中国系住民の非人道的行為を日本軍に擦り付けた。
 中国系住民は、国際報道機関や日本のマスコミを利用して日本を告発している。
 アジア各地で民族浄化の大虐殺の主犯は、日本軍ではなく中国共産党である。
 中国共産党は、アジア各地に住み着いている中国系住民を手足の如く使っている。
 反天皇反日的日本人は、アジア各地に反日勢力を広め強化するべく親日派潰しを積極的に行っている。
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 9世紀から15世紀まで。アンコール王朝は、高度な文明を持っていた。
 1181年 カンボジアは、民族・部族の他に宗教、文化、言語で数多くの王国が乱立して戦いが絶えなかった。
 クメール族アンコール王朝のジャヤバルマン7世は、諸王国に対し対立を超え平和に暮らす事を訴えて一つの王国にまとめ上げた。
 首都アンコールワットは、100万人の人口を誇る大都市で、農業と交易で豊かに繁栄していた。
 外国交易として、隣国ベトナムで海のシルクロードを通じて中国・インド・アラブとつながっていた。
 国内交易として、アンコールワットを中心として街道を東西南北に十字に伸ばし、各地とつながっていた。
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 東南アジアの諸国・諸地域は、琉球を経て奥州平泉の藤原氏に交易船を派遣し、奥州平泉を通じて蝦夷樺太満州・千島列島の物産を輸入していた。
 奥州藤原氏の金が、アジアの南北交易を支えていた。
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 カンボジアは、親日派であった。
 独立派カンボジア人は、昭和天皇を偉大な君主として尊敬し、日本軍を味方として歓迎した。
 戦後。日本はアメリカの保護国となり支配された為に、カンボジア親日派を封印した。
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 日本国憲法平和憲法)は、自主独立国家が持っている外交と軍事をアメリカに依存していた。
 日本国憲法に於ける主権は、日本国民ではなくアメリカにあった。
 誰の為に憲法で日本政府を縛っているのかと言えば、日本国民ではなくアメリカの為である。
 第九条は、日本国民ではなくアメリカの為に存在する。
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 カンボジア
 1863年 フランスは、カンボジア王国保護国とした。
 1887年 カンボジアは形式的に王制体制を維持していたが、実質的にはフランスの植民地としてフランス領インドシナ仏印)の一部に組み込まれた。
 カンボジア人はベトナム人同様に、フランスの圧政に苦しめられた。
 1940年5月 ドイツ軍は、パリに入場した。
 7月1日 ペタン元帥は、ヴィシーえお新たな首都と定め、ナチス・ドイツの軍門に降った。
 9月 日本軍は北部仏印に進駐した。
 11月 タイ・仏印国境紛争。タイ王国は、失地回復を掲げて仏印を侵略した。
 松岡洋右外相は、地域の平和の為に仲介し、翌年5月9日の平和条約(東京条約)締結で国境画定させて紛争を収束させた。
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 1941年7月 日本軍は、南部仏印に進駐した。
 独立派カンボジア人は、日本軍を歓迎した。
 11月 仏印政庁は、植民地支配下を強化する為に、ノロドム・シハヌークシアヌーク)王子(18)を国王に即位させた。
 日本軍は、南部仏印に進駐したが、仏印における施政権をフランスから奪う事はせず、自主性を尊重した。
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 1944年8月 連合軍は、パリを解放した。
 ヴィシー政権は崩壊した。
 ド・ゴール将軍は、新生フランスを宣言し、連合軍の一員として参戦すると宣言した。
 仏印政庁は、新生フランスに忠誠を誓った。
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 1945年 北ベトナムで飢餓が発生し、200万人近い餓死者が出ていた。
 3月12日 日本軍は、明号作戦を発動して、ベトナムに次いでカンボジアに駐留しているフランス軍武装解除した。
 シアヌーク国王は、フランス支配が消滅した事を機に、カンボジア王国の独立を宣言した。
 日本軍は、カンボジア人を戦争に協力させる為に、カンボジア王国の独立を容認した。
 カンボジア人は、日本軍を白人支配からの解放者として熱烈歓迎した。
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 1946年8月 シハヌーク国王は、軍国日本が降伏し、日本軍の軍事支援が得られなくなった為に、やむなくフランスの再支配を制限付きで受け入れた。
 1947年 シハヌーク国王は、粘り強く独立運動を続け、独自の憲法を公布した。
 1949年 フランスは、ベトナムの独立紛争鎮圧に専念する為に、フランス連合内での独立を認めたが、フランス支配を維持する為に治安維持の名目で警察・軍隊権を与えなかった。
 シハヌーク国王は、完全な独立を求めて離宮に籠もった。
 フランスは、各地で続発する反仏デモや暴動を鎮圧するべく軍隊を派遣した。
 カンボジア国民は、日本軍に武装解除させられたフランス軍を以前ほど恐れず、独立運動を激化させた。
 1953年11月 シハヌーク国王は、完全独立を果たす為に、フランス、アメリカ、タイを回って世界世論に訴えた。
 フランスは、カンボジア人の反仏暴動が激しくなった為に、カンボジアを植民地として保持する事は不可能と判断して独立を認め、警察権・軍事権を引き渡した。
 自主独立国家・カンボジア王国の誕生である。
 カンボジア国民は、独立運動を指揮したシハヌーク国王を「独立の父」と尊敬した。
 アジア諸国は、韓国・朝鮮とは違い、国家及び民族の独立を血を流して勝ち取った。
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 1955年 シハヌーク国王は、アジア・アフリカ会議バンドン会議、バンドン、インドネシア)で非同盟・中立外交政策を表明した。
 シハヌーク国王は、王位を父ノロドム・スラマリットに禅譲し、自由な立場に立って国家建設に取り掛かった。
 シハヌーク殿下は、政治団体サンクム・リアハ・ニヨムを組織し総裁となり、総選挙で全議席を獲得し、首相兼外相に就任した。
 1956年 カンボジア王国は、独自路線を貫く為に、東南アジア条約機構への加盟を拒否した。
 1960年 シハヌーク首相は、父スラマリット王が逝去するや王位を空席とし、新設した国家元首に就任して国政を指導した。
 カンボジアは、アメリカの西側陣営にもソ連の東側陣営にも組みせず、第三世界の一員としての独自路線をとるべく中国やユーゴスラビアに接近していた。
 1965年5月 国家元首シハヌークは、北ベトナムへの爆撃を理由にしてアメリカとの断交を宣言した。
 ベトナム戦争により国内は不安定となったが、アメリカの経済制裁があっても報復攻撃はなく、経済的には豊かではなかったが安定した農産物生産で飢餓は発生しなかった。
 1967年4月 政府はバタンバン州サムロートで余剰米強制買い付けた為に、反対する農民と地元政府の間で衝突が起こった。
 北ベトナム政権とベトコンは、1965年頃からカンボジアの余剰米を政府値より安く買い上げた。 
 地元共産主義勢力は、反米反政府のビラを撒き暴動を煽動した。
 カンボジア軍は、サムロート周辺の暴動を数ヶ月かけて鎮圧した。
 国内での、右派と左派の衝突が頻発し治安が悪化した。
 1968年 アメリカ空軍は、カンボジア全域を空爆し、1年半の間で数十万人の農民を殺害し、200万人の国内難民を出した。
 国民は、アメリカ空軍による被害が広がるや、反政府政策の現政権への不満を募らせた。
 国内各地で、反政府活動が激化した。
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 1969年 アメリカ軍による北ベトナム空爆が始まるや、カンボジア内戦が勃発した。
 シハヌーク殿下の本音は、日本との関係改善による国家の発展を希望したが、日本がアメリカの属国的立場に甘んじ、戦前のような「アジアの希望の光」では無いと事に失望感を抱いていた。
 軍国日本によって国民に独立気運を与えてくれた感謝と昭和天皇への敬意を込めて、北朝鮮で軍国日本礼賛の『ポコールの薔薇』という戦争映画を製作した。
 北朝鮮は、韓国とは違って、日本軍と戦って独立したという「正統性の自信」から親日映画の撮影に全面協力した。
 金日成は、昭和天皇と軍国日本を讃える劇映画を鑑賞して「素晴らしい作品」と絶讃した。
 戦前の、「弱兵でも、自主独立の為ならば、臆する事なく全滅覚悟で強敵に戦いを仕掛ける」という敢闘精神の大和魂・日本精神は、東南アジアの人々に受け継がれていた。
 最後まで諦めず「断じて行えば鬼神も之を避ける」という、日本軍人魂はアジアの解放に貢献した。
 白人キリスト教列強に戦いを挑んだ、軍国日本はアジアの光であった。
 平和憲法下で、自主防衛の軍事力を放棄してアメリカンの属国となっている戦後日本には期待はしていなかった。
 アジアなどの有色人種社会で日本が尊敬されるのは、平和憲法を持った戦後日本ではなく、玉砕や特攻で最後の最後まで戦い抜いた戦前の軍国日本であった。
 世界常識として、死を覚悟して戦う者は勇気ある人間として尊敬され、命を大事にして戦わない者は臆病者として軽蔑され一人前と認められない。
 サムライや忍者が憧れの的であるのは、死を恐れないその生き様にある。
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 1970年3月 首相兼国防相ロン・ノル将軍は、シアヌーク殿下が外遊中で不在を機に軍事クーデターを起こした。
 シハヌーク殿下を国家元首から解任し、シハヌーク派を追放した。
 シハヌーク殿下は、中国へ脱出し、北京でカンプチア民族統一戦線を結成し、反ロン・ノル諸派の共闘を呼びかけた。
 4月 アメリカ軍と南ベトナム軍は、カンボジア国内のホーチミン・ルートを粉砕する為にカンボジアに侵攻した。
 10月9日 ロン・ノル将軍は大統領に就任して、王制を廃止しカンボジア王国は滅亡させ、クメール共和国の樹立を宣言した。
 アメリカは、ベトナム戦争本格介入の為に、ロン・ノル政権が親米路線を採用する事を条件に承認し財政援助を行った。
 ロン・ノル政権は、反ベトナムキャンペーンを行い、南ベトナム解放民族戦線への支援が疑われるカンボジア在住のベトナム系住民を迫害・虐殺した。
 ベトナム系住民約50万人中20万人が、ベトナムに強制帰還された。
 シハヌーク殿下は、カンプチア王国民族連合政府を樹立し、かつて敵対していた毛沢東主義ポル・ポト、キュー・サムファン、イエン・サリら共産主義勢力「クメール・ルージュ」と共にロン・ノル政権を打倒する方針を打ち出していた。
 10月 クメール・ルージュは、カンボジア共産主義国家とする為に、シハヌーク殿下を指導者として内戦を始めた。
 1971年1月 アメリカは、ロン・ノル政権支援の為に南ベトナム派遣軍の一部をカンボジアへ侵攻させた。
 10月 ロン・ノル大統領は、アメリカの支援を受けて軍事独裁体制を宣言した。
 1972年3月 新憲法を公布した。
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 1973年3月29日 アメリカ軍はベトナムから完全撤退し、ベトナム独立戦争は終了した。
 ベトナム戦争終結に貢献したアメリカ代表キッシンジャー北ベトナム代表レ・ドクトにノーベル平和賞の授与が決まったが、レ・ドクトは受賞を断った。
 北ベトナム軍とベトコンは、ベトナムを統一する為に南ベトナム政府を攻撃していた。
 ロン・ノル大統領は、アメリカ軍の強力な後ろ盾を失った。
 カンボジア内戦アメリカ軍・南ベトナム軍の介入で、農村インフラは破壊され、カンボジアの農業生産は大打撃を受けていた。
 69年には、総耕作面積249万ヘクタールで米23万トンを輸出する農業大国であった。
 74年には、総耕作面積5万ヘクタールに激減し28万2,000トンの米を輸入する飢餓国家に転落していた。
 アメリカは、食糧援助を行ったが、政府が支配する地域への配給はできたが、反政府支配地への援助ができず大規模な飢餓が起きていた。
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 1975年4月 北ベトナム軍とベトコンは、サイゴンを占領し、南ベトナムを完全制圧した。
 解放されたベトナム人は、植民地支配に協力していた上流階級ベトナム人と経済を支配して不当な利益を得て財を成していた華僑(約120万人)を襲った。
 ベトナム人は、永年の恨みから華僑を弾圧し、不当に得た財産を暴力的に奪った。
 華僑は、人種差別の儒教価値観でベトナム人を下等人間として軽蔑し、永年生活してきたベトナムに愛着を持っていなかった為に、特権を持って金儲けができないないと分かるやボートピープルとなってベトナムを脱出した。
 4月17日 クメール・ルージュポル・ポト書記長は、クメール共和国を打倒して、原始共産体制の民主カンプチアを樹立した。
 ロン・ノル大統領は、国外に脱出しハワイへ亡命した。
 ポル・ポト政権は、極端な毛沢東思想による農本主義政策を実行したが全て失敗し、旱魃、飢餓、疫病、虐殺などで総人口800万人中200万人以上を死者させた。
 食糧増産の為に、都市住民を強制的に農村へ移住させたが、不慣れな農作業で結果的に失敗して食糧危機を一層増大・深刻化させた。
 農作物を作るという事は、そう簡単ではないと言う事であった。
 共産主義国家は、共産主義による失政を誤魔化す為に、暴力と死の恐怖政治を行って人民に圧政を敷き、共産主義大義の為に大量虐殺を行った。
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 1976年 中国共産党は、ベトナムの華僑を救うべくカンボジアのクメール民族主義クメール・ルージュ)を掲げるポル=ポト派を軍事支援して、ベトナムに圧力を加えた。
 ポル=ポト派は、民主カンボジアを樹立し、キリング・フィールドとして王族や政府高官から資産家や知識人まで約200万人を虐殺した。
 虐殺対象者は、中国共産党の意向に従って反共産主義の華僑とベトナム人が大半であった。
 中国共産党の対ベトナム戦略は、遠交近攻策として、ポル=ポト政権のカンボジアと共同してベトナムに懲罰戦争を仕掛ける事であった。
 ポル=ポト政権は、計画性のない政敵弾圧に明け暮れて、国家再建と対ベトナム戦争準備どころではなかった。
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 1978年 ベトナムは、中国共産党の機先を制する為に、虐殺を繰り返して混乱しているカンボジアに侵攻して、囚われていたベトナムカンボジア人を解放した。
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 1979年 ベトナムは、古代・漢王朝時代から中華帝国に侵略され祖国を守る為に戦争を繰り返してた関係から反中国で、フランスに対する独立戦争を始めるや中国共産党とは縁を切ってソ連からの直接援助を受けた。
 2月 中越戦争華国鋒は、ベトナムへの懲罰として60万人の中国軍にベトナム侵略を命じた。
 旧式の武器しか持たない中国軍は、ソ連からの軍事支援とアメリカ軍から獲得した武器を装備していた少数精兵のベトナム軍によって撃退された。
 カンボジアを占領したベトナム軍は、ポル=ポト派を攻撃し華僑を弾圧した。
 カンボジアの華僑は、フランス占領下ではフランス人に協力し、日本軍占領下では日本軍に協力し、ポル=ポト政権下ではクメール・ルージュに協力し、その時々の支配者に取り入り、その商才で金儲けをしていた。
 東南アジアの人民にとって、華僑は憎むべき相手であった。
 華僑は、寄生していた植民地支配がなくなった為に中国共産党の庇護を受けるべく、稼いだ金の一部を党幹部に賄賂として送った。
 ベトナムが中国と対立したのは、イデオロギーではなく民族主義として対立し、永年渡る中国の侵略に対する祖国防衛の抵抗であった。
 中国は、古代から周辺諸国・地域への侵略を繰り返し、領土、属国、植民地の何れかを行い、領土とする場合は漢族化を推し進めた。
 漢族化の為には、民族浄化として非漢族大虐殺を当然の権利として実施した。
 歴史的に、中国周辺諸国にはハッキリとした「正しい戦争」が存在していた。
 訒小平は、中国軍の近代化をする課程で軍隊を私兵化して権力を掌握し、中国共産党の実力者に上り詰めた。
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 反訒小平派は、訒小平暗殺を幾度も実行したが全て失敗した。
 昔から中国は、権力者に対する暗殺事件や追放謀議が絶えず、歴代王朝の皇帝達は天寿を全うできず若くして逝去し、政府高官の多くも任期半ばでその地位を追放され処刑される事が多多あった。
 本人の処刑は、家族や一族にも及び女子供まで数百人から数千人が処刑された。
 一寸も気を許す事が出来ないというのが、中華世界の現実である。
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 2015年8月9日 産経ニュース「【メガプレミアム】「歴史を直視しろ」はこっちのセリフ 中国とポル・ポトの関係は…大量虐殺に加担した史実を隠すな
 何枚もの顔写真が貼り付けられているツールスレン虐殺博物館。共産主義政権の犠牲者だ(ロイター)
 「歴史を直視しろ」。中国の習近平政権は戦後70年を意識し、しきりに日本を牽制(けんせい)する発言を繰り返している。それならば、中国の歴史も直視しよう。1970年代、数百万人ものカンボジア国民を虐殺したポル・ポト政権を“熱烈”支援していたのはどこだったのか。「一度も謝罪しない」で開き直る中国の態度に憤るカンボジアの人々の声を米紙が伝えている。
 中国なくして殺戮なし
 「中国こそ自らの歴史への直視を迫られている」
 米紙ニューヨーク・タイムズが掲げた見出しの記事は、首都プノンペンにある悪名高き「ツールスレン・ジェノサイド(虐殺)博物館」の場面から始まる。
 同博物館はかつて高校だったが、ポル・ポトが実権を握ったクメール・ルージュカンボジア共産党)支配の「民主カンプチア」時代、「S21政治犯収容所」となり、約2万人が収容されたとされる。生き残ったのはたったの8人。反対する者、疑わしき者は粛清、抹殺する共産主義の恐怖政治を象徴する場所だ。
 そこで案内役を務める男性が必ず見学者に聞く質問がある。「この中に中国人はいませんか」と。その理由を聞いた同紙の記者に男性はこう答えている。
 「ポル・ポトの大量殺戮(さつりく)を可能にしたのは、中国のせいだと説明すると彼らはすぐに怒り出すんだ。真実ではない。今は友好国だ。過去は水に流そう、なんて言い出す」
 カンボジア国民にとっては到底、水に流せる問題ではないだろう。同国の悪夢ともいわれるクメール・ルージュが中国のサポートなしでは成り立たなかったことは史実として認識されている。米コーネル大学で中国とアジア太平洋地域の研究を担うアンドリュー・メーサ氏は「中国の支援がなければ、クメール・ルージュは1週間と持たなかっただろう」と断じている。
 カンボジアとは“蜜月”
 クメール・ルージュカンボジアを支配したのは1975年4月〜79年12月。指導者のポル・ポトは「階級のない完全な共産主義社会」を目指し、一切の国民の財産を没収。「反乱の恐れがある」として特に知識層を敵視し、殺戮の限りを尽くしたホロコーストの時代だ。犠牲者の正確な数字はいまだ不明だが、同紙は約170万人と伝えるなど、200万人前後が虐殺されたという。英映画「キリング・フィールド」を思い出す人もいるだろう。
 その“狂産”カンボジアに肩入れしていたのが、毛沢東(76年死亡)であり、●(=登におおざと)小平の中国だった。
 両国の関係を著書「戦友」(Brother in Arms)に集大成したメーサ氏は「当時、カンボジアへの外国援助の90%は中国が担っていた」と語る。食料や建設資材から戦車、航空機、火器まで送り込み、殺戮の最中でも、中国人エンジニアや軍事顧問はクメール・ルージュ共産党員を訓練していたという。同国中部には“蜜月”ぶりを象徴する軍用滑走路が残っている。
 大量殺戮への中国の関与を認めるべきだという批判に対し、2010年、当時の駐カンボジア中国大使が「われわれは食料と農具を送っただけだ」と突っぱねるなど、責任逃れの抗弁を繰り返している。
 しかし、ベトナムクメール・ルージュを追討した直後の1979年2月、●(=登におおざと)小平は“懲罰”だとして中越戦争を仕掛けた。また、山間部に逃亡したクメール・ルージュ残党を中国は支援し続け、ポル・ポトが中国を訪れたり、幹部に中国籍のパスポートを発給していたりしていたのも忘れたのだろうか。
 歴史教科書では無視
 中国政府の歴史健忘症は実際、驚くほど進行しているという。
 同紙によると、中国の高校生向け主要歴史教科書には、クメール・ルージュ中越戦争に関する記述は全くといっていいほどない。ベトナムとの間で戦争があったことすら知らない若者も少なくなく、共産党の歴史操作は成功していると指摘する。
 「中国政府は非難されそうなことは無視し、都合の良い歴史をプロパガンダにして強調している」と語り、共産党の恣意(しい)的な歴史認識をあぶり出そうとしている中国人歴史家もいる。
 記事では、中越戦争に参加した多くの元兵士が現在、恩給も十分に与えられずに困窮状態になるなど、中国政府から無視されている実態にも言及している。
 その一方で、朝鮮戦争については、北朝鮮が仕掛けたという国際社会で共通認識になっている事実を教科書では全く記述せず、「自国の安全と朝鮮救済のためやむなく参戦し、国際的地位を高めた」と自画自賛しているというから、厚顔無恥も極まれりだ。
 共産中国建国直後の大躍進政策文化大革命で、一体どれだけの血が流れたのだろう。そして天安門事件や今も続くチベット人ウイグル人への弾圧…。
 李克強首相は3月、「一国の指導者は先人の業績を継承するだけではなく、その罪による責任も負わなければならない」と述べた。安倍晋三首相が今年夏に出す戦後70年談話を意識した発言だが、そっくりそのまま返したい。
 「中国は史実を認めないし、謝罪もしない」。カンボジア国民の声を聴けば、いびつな中国共産党歴史認識にまともにつきあう必要はないことがわかる。(2015年4月27日掲載)」
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 中国人は、砂ではなく砂鉄である。
 砂鉄を吸い寄せる磁石は、権力であり、金であった。
 磁気が強力であればあるほど、大量の砂鉄を引き寄せた。
 磁気の範囲は国内はおろか国外まで拡がり、華僑・華人など海外で生活する中国人にも影響を及ぼす。
 アメリカに移住した日本人は、祖国・日本を捨ててアメリカに忠誠を誓い、アメリカ軍兵士としてアメリカの為に戦争に参加した。
 中国人は、日本人とは違い、祖国・中国の為に行動した。
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 中国共産党政府は、外貨を稼ぐ為に各国に紛争を起こし武器を輸出する死の商人であり、共産主義を広める革命扇動家であった。
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 12月22日号 週刊新潮「変見自在 高山正之
 支那マネー
 ベトナム戦争が大方の予想を裏切ってベトナム勝利に傾きだしたころの話。
 カンボジア人イエン・サリが北京に呼ばれた。彼には陳某の名もある。華僑の隠れ息子だった。
 呼ばれた理由はベトナムのことだった。この国は最近ソ連とくっつき、本家筋の毛沢東政権をないがしろにしてきた。米軍がベトナムから撤退した今、ベトナムをこのままソ連衛星国にさせたのでは支那のメンツが潰れる。
 ついてはカンボジア支那勢力を作り、背後からベトナムを攻めろ。前からは支那がやる。
 范雎(はんしょ)の言う遠交近攻策だ。イエン・サリは国に戻るとポル・ポトと組んでクメール・ルージュを結成した。支那から武器がどしどし運び込まれた。
 彼らはまず東部に入植していたベトナム人農民を虐殺した。メコンの支流は殺されたベトナム人の死体で埋められた。
 ベトナム人は頭がいい。だから都市で医者や教員をやっていた。イエン・サリは次に都市人間をまとめて農村に下放した。
 そこでベトナム人を選別し、片端から殺した。下放された中にはベトナム人以上に優雅にやっていた華僑もいたが、それを除外したら毛沢東がバッグにいることがバレてしまう。
 『革命のためだ。彼らもやってしまえ』と毛はイエン・サリに言った。
 それで処刑場はプノンペン郊外の華僑墓地チュンエクが選ばれ、華僑とベトナム人がここで何万人と殺され、埋められた。
 カンボジアはキリング・フィールドと化したが、そこは頭のいいベトナム人たちだ。ポル・ポト派が攻勢に出る前にベトナム軍が先に先制攻撃をかまして彼らを蹴散らしてしまった。
 遠交近攻が失敗して頭にきた訒小平ベトナム人を懲らしめるために人民解放軍を出した。華夷秩序を守らせねばならない。
 これが世に言う中越紛争だが、結果は支那軍の歴史的な惨敗に終わった。
 因みに漢民族政権は日本を含めた外国勢力と幾度か戦ってきたが、一度も勝ったためしがない。
 追われたイエン・サリらは山に籠り、支那が供与する武器で辻強盗をして食いつないだが、結局、降伏し国際法廷に立たされた。
 立って驚いた。国際法廷事務局にミシェル・リー(李志英)がいた。彼女はポル・ポト派の虐殺をどこが支援したか、なぜ大量の支那製対人地雷があるのかも含め、すべての審問から『支那』を消し去ってしまった。
 同じころ、香港でSARSが大流行した。原因はウイルスを含む糞尿が高層マンションの下水管の穴から空に舞っていたためだ。
 しかし衛生署長マーガレット・チャン(陳馮富珍)は最後までぼけたまま。大流行を許してしまった。
 その3年後、世界保健機構(WHO)事務局長に支那の推薦で彼女が選ばれた。推薦理由が『SARS撲滅に功あり』。歴史の事実もあっさり書き直された。
 WHOでもきっと何かやらかすと思われた。案の定、ただの弱毒性インフルエンザを『スペイン風邪以上に危険』と彼女が認定、フェーズ6のパンデミック指定を発表した。結果はカラ騒ぎ。英製薬会社が大儲けし、チャンも豊かになった。
 先月、国際刑事警察機構(ICPO)総裁選があって孟宏偉が選ばれた。彼は習近平が目下、力瘤を入れる裸官狩りの先頭に立ってきた男だ。
 今後は警視庁辺りに裸官狩りの手伝い命令が来そうで、ダライ・ラマも国際手配され、北京で死刑にされる可能性が出てきている。
 でもなぜ、ここぞというとき関係国際機関の長に支那人がなっているのか。なぜ北京の思い通りにコトが進んでいくのか。
 支那人が13億人いるからでは答えにはならない。
 例えば支那は国連分担金を控えめにし、浮かした分、あちこちを賄(まいない)で籠絡してきた。南京大虐殺の嘘を記録遺産に登録したユネスコのボコヴァがいい例だ。
 世の中、支那マネーが支配する。…」
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 2017年6月12日 産経ニュース「【世界に称賛される自衛隊カンボジア紙幣に描かれた「日の丸」 この感謝の気持ちをどれだけの日本人が知っているのか 井上和彦 カンボジアでの自衛隊PKO活動=1992年。同国の紙幣500リエル(右上)には、日の丸などが描かれている
 「(南スーダンの)首都ジュバでは(自衛隊のPKO=国連平和維持活動=派遣部隊とともに)カンボジアの部隊も活動しています。その若い女性隊員があるとき、自衛隊員に、こう話しかけてきたそうであります。『日本が、私たちにしてくれたことを、今こうして、南スーダンの人たちに返せることを誇りに思う。そして、アフリカのPKOに参加できるまでになったカンボジアの姿を、日本人に知ってもらえて、うれしい』と。20年余り前、日本の自衛隊が、カンボジアの大地に植えた『平和の苗』は、今、大きな実を結び、遠く離れたアフリカの大地で、次なる『平和の苗』を育もうとしています」(夕刊フジ
 安倍晋三首相は2016年度自衛隊記念日観閲式の訓示で、5月末で任務を終えた南スーダンPKOのエピソードを披露し、聴衆を感動させた。
 1992年6月、「国際平和協力法」(PKO法)が成立した。同年9月には、カンボジア暫定統治機構(UNTAC)に、陸上自衛隊の施設大隊と停戦監視要員が、戦乱から立ち直って民主選挙を控えたカンボジアへ派遣された。
 日本PKOの幕開けとなった派遣部隊は、第1次、第2次隊を合わせて約1200人。約1年間の任務期間中に、長く続いた内戦で破壊された道路や橋梁(きょうりょう)を修理するなどして、カンボジアの復興に貢献した。修理した道路は約100キロ、補修した橋梁は約40に上った。
 ところが、日本国内では、このPKO派遣について、まるで自衛隊が対外戦争に派遣されるかのような異常な反対論もあった。派遣部隊が携行する武器をめぐっても、非現実的で無責任な議論が起こり、結果、小銃と拳銃という軽装備で任務を遂行せねばならなかった。
 だが、実際はどうだったか。
 筆者は、あれから25年後のタケオを訪れた。
 かつての自衛隊の宿営地は、いまはサッカー場として整備されており、そこには平和に暮らす村人の生活があった。
 当時、情報職の職員だったサオ・サリ氏は次のように言う。
 「自衛隊がやってきたときは本当にうれしかった。道路や橋をつくり、修復してくれたし、村の人々とも温かい交流があった。当時は、近くに(大虐殺を行った)ポル・ポト派兵士がいて危険だったが、自衛隊が守ってくれたので人々は明るく生活できたし、夜も安心して眠れた。われわれは、自衛隊に感謝し、その恩を忘れません」
 自衛隊は地元の人々を守るために派遣されたのではなかったが、地元の人々は自衛隊を大歓迎した。PKO派遣を“日本の侵略行為の兆候”などとは捉えなかったのである。
 カンボジア国際平和協力業務では、UNTACに自衛隊だけでなく、警察官75人、選挙要員として国家・地方公務員18人、民間人23人が参加した。まさに国を挙げての支援だったのだ。
 実はカンボジアの紙幣500リエルの裏側には、日本のODA(政府開発援助)でメコン川に架けられた「絆橋」「つばさ橋」とともに、「日の丸」が描かれている。
 カンボジア復興のために、日本政府が行ってきた誠実な支援に対するカンボジアの感謝の気持ちが、紙幣にまで現れていることを、果たして、どれほどの日本人が知っているだろうか。
 ■井上和彦(いのうえ・かずひこ) ジャーナリスト。1963年、滋賀県生まれ。法政大学卒業。専門は、軍事安全保障・外交問題近現代史。「軍事漫談家」の異名も持つ。産経新聞「正論」欄執筆メンバー、国家基本問題研究所企画委員などを務める。第17回「正論新風賞」受賞。主な著書に『日本が戦ってくれて感謝しています』(産経新聞出版)、『東日本大震災 自衛隊かく闘えり』(双葉社)、『撃墜王は生きている!』(小学館)など多数。」
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ポル・ポト―ある悪夢の歴史

ポル・ポト―ある悪夢の歴史

🔔2」─1─米大統領選。バイデン当選と中国共産党。〜No.2No.3No.4 

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 2020年11月5日 産経新聞「中国、バイデン氏意識?「正しい軌道で前進を」 関係改善に期待感
 中国外務省の楽玉成(らく・ぎょくせい)次官は5日、米大統領選に関して、関係改善に期待感を示した(ロイター)
 【北京=西見由章】中国外務省の楽玉成(らく・ぎょくせい)次官は5日、米大統領選に関して「米国の新政権が中国側と歩み寄り、衝突せず、対決せず、協力に焦点を当て、両国関係を正しい軌道に沿って前進させるよう希望する」と述べ、関係改善に期待感を示した。
 4日に開かれた中国外務省報道官の記者会見では、米大統領選に関して「結果がまだ確定していない」「立場をとらない」などと述べるにとどめていた。楽氏が記者会見した5日午前の時点では民主党のバイデン氏が優勢との見方が強まっており、トランプ米政権の対中圧力強化によって対立が激化していた米中関係の“仕切り直し”を図りたい中国側の意向がにじみ出た形だ。
 楽氏は「中米間には意見の相違があるが、幅広い共通の利益と協力の余地もある」と強調した。一方、中国国内では、民主党のバイデン政権が誕生しても厳しい対中政策を継続するとの見方は根強い。
 楽氏は10日にテレビ会議形式で開かれる上海協力機構(SCO)首脳会議に習近平国家主席が出席することを受けた記者会見で、米中関係に関する質問に答えた。」
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 11月8日 産経新聞「「関与か切り離しか」 バイデン氏の対中政策に注目 トランプ氏「最後の狂気」警戒も 
 中国の習近平国家主席(左)とバイデン氏=2015年9月24日、米メリーランド州(AP)
 【北京=西見由章】米大統領選で民主党のバイデン前副大統領が勝利したとの報道を受け、中国メディアは「バイデン新政権」の対中政策が中国とのデカップリング(切り離し)から「関与」へと回帰するのか注目している。またトランプ政権が残り70日余りの任期で「最後の狂気」(中国メディア)をみせることへの警戒感も隠さない。
 中国共産党機関紙、人民日報系の環球時報(電子版)は8日、バイデン政権の発足によって米中関係は「一息入れる」ことができると指摘する信強(しん・きょう)復旦大教授の見方を伝えた。
 信氏は米中両国が今後、「新型コロナウイルスへの対応や気候変動などの領域で実務的な協力を復活させ、対話メカニズムも再開するだろう」と予測。ただし「戦略的な相互信頼」を短期間で再構築することはできないと分析した。
 一方、達巍(たつ・ぎ)国際関係学院教授は同紙に、バイデン政権の対中政策が、中国との協力を重視したオバマ前大統領の時代へと単純に回帰することはないと指摘。トランプ政権の4年間で、米中両国のエリートと民衆の間で相手側への見方が徹底的に変わったことなどが原因とした。
 さらに「バイデン氏による対中政策の調整も、トランプ時代が基礎になる。対中政策を徹底的に変えたことが、トランプ政権が米国に残した最大の政治遺産だ」と分析。一方、米中両国の競争と対抗という趨勢(すうせい)を変えるのは困難だが、バイデン政権が完全な対中デカップリングを進めることはないとの認識も示した。
 また達氏は、トランプ氏が自らの対中政策をバイデン氏に転換させないために「最後の機会」を利用し、引き続き米中関係の破壊を図る可能性があるとの警戒感を示した。」
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 11月9日 産経新聞「【バイデンの米国】(上) 中国との「融和」に募る懸念
 8日、米大統領選でのバイデン氏勝利が伝えられ、ニューヨークで祝う人たち(ロイター)
 「バイデン民主党政権が誕生したら、中国、ロシア、北朝鮮といった米国の敵性国は新大統領を値踏みするため、早々に挑発行動を仕掛ける可能性がある」
 民主党のバイデン前副大統領が当選を確実にした大統領選の開票が進む中、複数の米政府関係者はこのように警告した。特に注目されるのが中国の動向だ。
 トランプ大統領は、1979年の米中国交正常化以降に歴代米政権がとってきた「対中関与路線」との完全決別を宣言した。習近平国家主席率いる中国共産党体制に対しては制裁関税などを通じて強力な圧力をかけ、中国を米国および世界のサプライチェーン(供給網)から切り離す「デカップリング」を進めてきた。
 これに対しバイデン氏は中国にとり「御しやすい相手」に映っているようだ。大統領選前の8月、米情報機関を統括する国家情報長官室(ODNI)が「中国がトランプ氏の再選阻止に向けた工作を展開している」と指摘したのも、こうした見方を裏付ける。
 中国との外交・安全保障分野でバイデン氏を早々に揺さぶる可能性があるのが台湾情勢だ。
 トランプ政権は台湾の蔡英文政権との関係を一気に緊密化させ、8月には米台断交後で最高位となるアザー厚生長官を訪台させた。一方の中国は、軍事演習などの威圧的行動を活発化させて対決姿勢を強める。
 習氏は10月、台湾への上陸進攻作戦の主力となる海軍陸戦隊を視察した際、こう号令をかけた。
 「心と精力の全てを戦争への準備に注ぎ込み、高度な警戒態勢を維持せよ」
 当面「強硬」維持か
 バイデン氏が率いる次期政権について、元米政府高官や有識者の間では「中国に厳しい態度をとっていく点ではトランプ政権と違いはない」との指摘も多い。
 果たしてそうなのか。
 トランプ政権は発足当初から中国を「戦略的競争相手」と位置づけ、強硬な政策路線を敷いてきた。
 米議会でも、中国の不公正な貿易慣行や新疆(しんきょう)ウイグル自治区での少数民族弾圧、香港民主化問題で中国に厳しく対処していく超党派の合意が形成された。
 一方、民主党系の外交・安全保障の専門家や元政府高官の間では、トランプ政権の対中政策に関し「米中冷戦を引き起こす」として約1年前までは批判的な見方が支配的だった。
 しかし、大統領選の同党候補指名争いが本格化した昨年頃から民主党も中国に厳しい立場を打ち出す方向に急転回した。米世論の対中意識が急速に悪化してきたのをにらんだ態度変化であるのは明らかだ。
 バイデン氏は、中国が米国主導の世界秩序を破壊することを食い止めたいという立場ではトランプ氏と一定程度は共通している。
 また、「民主党政権は中国に融和的だ」との批判を封じるためにも、当面は現政権の対中強硬政策を大枠で継続する立場を打ち出すとみられる。
 新政権で外交・安保関連の重要ポストに就くと有力視されるブリンケン元国務副長官、サリバン元副大統領補佐官(国家安全保障問題担当)も最近の論文や講演で「中国を国際ルールに従わせる」と強調する。
 中国と「休戦」?
 ただ、バイデン氏は就任当初、新型コロナウイルス危機で甚大な打撃を受けた経済の再建を優先させる考えから、中国との貿易戦争については、制裁関税の部分緩和などで「一時休戦」とし、中国に譲歩する可能性も指摘されている。
 バイデン氏は「多国間主義」を重視する立場から、新型コロナ対策や気候変動問題など地球規模で対処すべき分野で中国と協調する立場を打ち出している。
 気候変動を政権の最重要政策に据えることが確実視されるバイデン氏が、中国からこの問題での協力と引き換えに制裁関税の緩和を求められた場合、なし崩し的に対中融和路線に引き込まれる可能性がある。
 しかも、次期政権で急進左派が主導する形で気候変動対策や雇用政策に予算が重点的に投入された場合、そのしわ寄せで国防予算が抑制され、中国をにらむ米軍の作戦行動や即応能力に支障をきたす恐れは強い。
 尖閣諸島沖縄県石垣市)を含む東シナ海南シナ海で中国が軍事的覇権をうかがう中、民主党の政策綱領は「中国問題での最重要課題は安全保障ではない」とした。その現状認識には不安が付きまとう。
 バイデン氏は昨年5月、中国を「競争相手ではない」と述べ、大統領選では中国を「敵性国」と呼ぶことを避けた。こうした認識の甘さが中国に付け入られる恐れは排除できない。(ワシントン 黒瀬悦成)
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 米大統領選で当選を確実にしたバイデン前副大統領は超大国の米国をどこに導こうとしているのか。トランプ米大統領から引き継ぐであろう課題は、軍事演習など威圧的行動をとる中国との関係や、新型コロナウイルス感染症への対応など山積している。来年1月からの「バイデンの米国」の行方を探った。」
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 11月10日21:29 産経新聞習近平氏「世界の繁栄には中国が必要」 米新政権の「切り離し」路線継続を牽制 
 習近平
 【北京=西見由章】中国の習近平国家主席は10日、テレビ会議形式で開かれた上海協力機構(SCO)の首脳会議で演説し、「中国の発展は世界と切り離すことができず、世界の繁栄も中国を必要としている」と強調した。共産党機関紙、人民日報(電子版)が伝えた。
 トランプ米政権は中国を米国や世界のサプライチェーン(供給網)から切り離す「デカップリング」を進めてきたが、米大統領選で当選を確実にしたバイデン前副大統領がこうした路線を継続しないよう牽制(けんせい)した形だ。
 習氏は「中国はより水準の高い開放型経済の新体制を建設中だ」とアピールし、各国と協力を深めたい意向を表明。「米国第一」を掲げて対中圧力を強めてきたトランプ米政権を念頭に「互いに利益をもたらす協力は(勝つか負けるかの)ゼロサムゲームにとって代わり、多国間主義はかならず一国主義に勝つ」と主張した。
 また「われわれは各国が政治の安全と社会的安定を守ることを揺るぎなく支持し、外部勢力による(SCO)加盟国への内政干渉に断固反対しなければならない」と述べた。民主主義や人権を重視するバイデン氏にくぎを刺す狙いもありそうだ。
 上海協力機構は中露と中央・南アジア6カ国の計8カ国で構成される。」
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🛲11」─1─日本人が知ろうとしないカンボジア・ラオスの歴史。~No.93No.94No.95 * 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 東南アジア人を下等人・劣等人・野蛮人と見下す差別意識が強いのは、昔の日本人より現代の日本人の方が多い。
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 戦国時代から江戸時代初期にかけて、東南アジアには数多くの日本人町があり、多くの日本人が住んでいた。
 中世キリスト教教会と白人キリスト教徒商人達は、日本人を日本で買い込み各地で奴隷として売っていた。
 徳川家康の許可を得た御用商人は、主家を失て浪々の身となった武士達を契約傭兵として東南アジアに派遣していた。
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 現代の日本でアジアを重視すべきだとはいう日本人の本心は、アジアの人々の事も歴史にも興味も関心もなく、知ろうとしないし、知りたいとも思わない。
 そもそも、アジアを知らない。
 戦前の日本人は、アジアを詳しく知って同情し、アジアの為に命を犠牲にしようとした。
 現代の日本人は、アジアの事を知る気はなく、戦前の日本が犯したとされる戦争犯罪を探し回り、なければ捏造し、日本を貶める事に生き甲斐を感じている。
 昔の日本人と現代の日本人の別人のような日本人である。
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 アジアでは昭和天皇は憧れ、尊敬、崇拝する対象で、昭和天皇を悪く言うアジア人はいなかった。
 昭和天皇を嫌っていたのは、中国人と朝鮮人、そして一部の日本人であった。
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 カンボジアの歴史         

 カンボジアの暗黒時代
 詳細は「カンボジアの暗黒時代」を参照

 スレイ・サントー(1431年 - 年)
 詳細は「スレイ・サントー」を参照
 1431年、シャムの度重なる侵攻により、首都アンコールが陥落し、栄光の時代は終わりを告げた。時の王ポニャー・ヤットはアンコール・トムからコンポンチャム州のスレイ・サントーに遷都し、シャム(現在のタイ)に近いアンコールを含むトンレサップ湖の北部を放棄した。その後、首都は転々とした。

 プノンペン(年 - 1553年)]
 詳細は「プノンペン」を参照
 スレイ・サントーは河川の氾濫があまりにたびたび起こるのでプノンペンへ再遷都した。西洋の資料としては、1511年のポルトガル人による手記に記されるプノンペンカンボジアについての最初の記録である。既に日本人との貿易が始まっていたことが記されている。

 ロンヴェク(1553年 - 1618年)
 詳細は「ロンヴェク(クメール語版)」を参照
 プノンペントンレサップ湖の中間地点にあたるロンヴェク(クメール語:1553 - 1618)へ遷都した。1593年にKing Sattha(1576?94) は、フィリピンのスペイン人総督(フィリピン総督領)に保護国になる依頼をおこなった。フィリピンから120名の兵士が送られたが、到着する前年にシャムに占領されていた。1597年にスペイン兵たちは、King Satthaの息子を王位に付けることが出来たが、二年後にマレー系の傭兵にスペイン兵たちは殺害された。1607年頃、呂宋助左衛門が通商を開始した。

 ウドン(1618年 - 1866年)
 詳細は「ウドン (カンボジア)」を参照
 ロンヴェクから南へ5Kmほどのウドン(1618 - 1866)へ遷都した。 17世紀から19世紀は、隣のシャムやベトナムの侵略や干渉がつづき、国内は混乱した。
 16世紀に黎朝がヴィジャヤ王朝(旧チャンパ王国のひとつ)を滅ぼしてチャンパの旧領を併合すると、大量のチャム族がクメール帝国領内に難民化して流出した。1623年、チェイ・チェッタ2世(在位:1618年-1628年)は、オランダ東インド会社の介入した鄭阮戦争で阮氏広南国から流出した難民のためにプレイノコール(英: Prey Nokor、現ホーチミン市)に税関事務所を建設したが、これがベトナムの南下を許すことになった。1643年のカンボジアオランダ戦争でオランダ人の虐殺がおこり、オランダはその後カンボジアから撤退した。1693年に広南国の阮福?(明王)がパーンドゥランガ王朝を征服。17世紀の終わり頃、ベトナムメコンデルタ上流からフーコック島対岸周辺までのクメール人居住地域を占領。カンボジアは海へのアクセスを断ち切られ、海上貿易にはベトナムの許可が必要になった。
 1765年から1769年にかけて清緬戦争や泰緬戦争が勃発し、1767年にアユタヤがコンバウン朝に占領されたが、戦後最も強勢になったのはタイだった。 1788年から1789年にかけて清越戦争が勃発し、西山朝が清の介入を撃退し、黎朝が滅んだ。しかし西山朝も数年で滅び、広南国の残党が阮朝を建てた。
 1831年、タイがカンボジアの支配を狙って起こした第一次泰越戦争では、タイはカンボジア北部に侵攻した後、南転してさらにベトナム南部のチャウドックとヴィンロンを蹂躙した。ベトナム(阮朝)が反撃に転じると、戦闘になる前にタイは撤退し、ベトナムカンボジア全土を掌握した。タイとの戦争でカンボジアが弱体化すると、Prey Nokurは徐々にベトナム化し、名前も嘉定、のちにサイゴン(現在のホーチミン市)となった。
1841年、タイがカンボジアの支配を狙って再び起こした第二次泰越戦争の結果、泰越両国でカンボジアを共有する平和条約が締結された。1848年にアン・ドゥオン王が即位し、ひそかにシンガポールのフランス領事を通じてナポレオン3世に援助を要請したが、事前にシャムに情報が漏れ、失敗に終わった。

 近代(植民地時代)
 フランス領インドシナ
 19世紀中頃からフランスによるインドシナ半島インドシナ)の植民地化が始まった。
 1863年8月11日、フランスはカンボジア王国との間に「修好、通商及びフランス国の保護に関する条約」を締結。カンボジア国ノロドム は同王国に対するフランスの保護権を認めた。この保護国化は、隣国タイやベトナムの圧力に堪りかねたカンボジア側からフランスに要請された側面がある。

 プノンペン
 詳細は「プノンペン」を参照
 1866年にウドンからプノンペンにあるチャドモックに首都が移転される。
 1867年7月15日、歴史的にカンボジア宗主国であった暹羅(シャム=現在のタイ)国が、カンボジアに対するフランスの保護権を承認。(「カンボジア王国の地位を定めるためのフランス国暹羅国間条約」)
 1887年にはカンボジアがフランス領インドシナ編入された。
 1907年3月23日、フランスは暹羅との条約により、バッタンバン、シェムリアップ、シソポンの各地域をクラット港一帯の島嶼と交換し、カンボジア全土を獲得した。 1916年には地方から集まった4万人もの農民がプノンペンの王宮前に集まり、シソワット王に直訴した。 1925年にはコンポンチュナン州の農民たちが徴税中の理事官パルデスを暗殺した。この事件はフランス人たちを震撼させた。
 1940年5月から6月にフランスはナチスに侵攻され、7月にヴィシー政権に移行すると、8月30日には日本との間に「政治軍事・経済協定」(松岡・アンリ協定)を締結し、9月からの日本軍によるフランス領インドシナ進駐を認めた。11月23日、カンボジアラオスの領土をめぐりタイ・フランス領インドシナ紛争が勃発。その後も紛争は拡大していったが、1941年5月9日、日本の居中調停によりタイ・フランス両国間で平和条約(東京条約)が結ばれ、カンボジアの一部、チャンパーサック県・バタンバン州及びラオスの一部、シェムリアップ州がタイに割譲された。 1941年11月、ノロドム・シハヌーク(18歳)が王位に就いた。 1945年3月12日、ノロドム・シハヌークシアヌーク)王は、日本軍の明号作戦に呼応する形で、カンボジアの独立を宣言。しかし、日本が連合国に降伏すると、1946年には再びフランスの保護下に戻り、独立は消滅してしまう。

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 民族
 詳細は「カンボジアの民族集団」を参照
 カンボジアの民族分布(1972年)
 クメール人が86%、ベトナム人が5%、華人が5%、その他4%がチャム族などの少数民族である。日系カンボジア人も少数ではあるが存在し、著名なものとして猫ひろし後藤忠政が挙げられるが、その多くは起業や投資のためにカンボジア国籍を取得した元日本国籍者である。

 言語
 カンボジア国内で最も話されている言語はクメール語カンボジア語)である。公用語は1993年公布のカンボジア王国憲法第5条で規定され、同6条では「王国は、必要に応じカンボジア語を擁護し、発展させる義務を有する」となっている。少数民族が話す言語にはチャム語などがある。高齢者や特別な職業(医師など)の間ではフランス語がある程度通じるが、若者の間で最もポピュラーな外国語は英語となっている。

 宗教
 詳細は「カンボジアの宗教」を参照
 上座部仏教憲法で国教と定められているが、信教の自由が保障されている。人口の9割以上が上座部仏教の信徒であり、チャム族を主とする4%ほどがイスラム教徒(カンボジアイスラム教)である。
 クメール・ルージュ政権時代には宗教活動が禁止され、多くの仏教寺院やモスクなどの宗教関係施設が破壊され、多くの僧侶が還俗させられ、或いは虐殺された。

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 ラオスの歴史

 ラオスの歴史では、ラオス人民民主共和国の歴史について記述する。
 ルアンパバーン王国
 詳細は「ルアンパバーン王国」を参照
 1791年にスリニャ・ウォンサーが死亡すると、インタソーム王の第二子であるアヌルッタが王位に就いた。ヴィエンチャン王国との紛争が原因でアヌルッタ王は1792年に一時シャムに逮捕されたが、4年後には復位し、1817年に死亡するまで王位に就いた。その後はマンタトウラートが即位、1827年、マンタトウラートはヴィエンチャン王国のチャオ・アヌウォンから独立の決意を秘密裏に打ち明けられるも、この情報をシャムへ流し、ヴィエンチャン王国の独立を阻んだ。1852年、チャンタラートが即位した翌年にシェントンで民衆の反乱が勃発。これを制圧したことをシャムより高く評価され、1779年にシャムに押収されたプラバーン金仏像がルアンパバーン王国へと返還されている。
 ルアンパバーン王国の統治はおおむね平和に行われていたが、1872年より、突然複数のチン・ホー族による来襲が始まった(ホー戦争)。チン・ホー族の襲撃は2年間に渡り続けられ、シップソーン・チュタイ地方(Sip Son Chu Tai)、ムアン・タン(現在のディエンビエンフー)などルアンパバーン王国の北東部を占拠されるに至った。1874年にはいったん沈静化したが、翌年より再びシエンクワーン、ヴィエンチャンなどでチン・ホー族の襲撃が行われている。これらの襲撃はシャム軍による掃討作戦により一応のおさまりを見せたが、1885年に再度ヴィエンチャンが襲撃に遭い、1887年にはルアンパバーン王国太平天国の乱の後ベトナムの傭兵としてフランスと戦っていた黒旗軍に襲撃された。この襲撃により当時国王であったウン・カムとその家族は危機に晒されたが、フランス副領事館のオーガスト・パヴィによりパークラーイまで救出され、さらにバンコク(シャム)への逃亡に成功している。
 長きに渡ったチン・ホー族の反乱と黒旗軍の襲撃は、ルアンパバーン王国の住民に初動が遅れたシャムへの不信感を植え付け、逆に国王を救出したフランスへの信頼感を産み出す契機となった。
 
 チャンパーサック王国
 詳細は「チャンパーサック王国」を参照
 チャンパーサック王国では1791年、シェン・ケーオによる反乱が発生し、当時の国王サイニャ・クマーンが死亡するという事態が発生している。この反乱はシャム軍により鎮圧され、バーン・シンターに駐屯していたチャオ・ファイナーが反乱鎮圧の功を認められ、新しい国王に就いた。その後、1813年に王位に就いたチャオ・マー・ノーイと副王タンマキッティカの間で権力闘争が勃発したが、シャムによる副王解任で大きな被害はなく混乱は収まった。
 チャオ・マー・ノーイの時代に超能力者を自称する高僧サーが、住民を扇動してチャンパーサック王都を占拠するという事件が発生。チャオ・マー・ノーイはこの事件がきっかけで逃亡先のバンコクで死亡し、1819年、チャオ・アヌウォンの息子であるチャオ・ニョーが新しく国王に就いた。チャオ・ニョーは城壁の修復や税制改革などで敏腕を発揮し、名君と謳われたが、1825年、父親チャオ・アヌウォンが起こしたヴィエンチャン王国の独立戦争に賛同して挙兵したためシャムによって逮捕され、獄中死した。
 チャオ・ナーク王の1837年にチャンパーサックは大火事に見舞われ、王都をバーン・ヒートホート郊外に移した。その後コティタムトーン王の1863年に再び遷都が行われ、メコン川西岸、ポーンポックとラコーン寺の間に移された。この時の遷都により作られた都が今日のチャンパーサックの基礎となっている。

 フランス植民地時代
 詳細は「::en:Franco-Siamese War of 1893|:en:Franco-Siamese War of 1893」および「フランス領インドシナ」を参照
 帝国主義時代になると、ヨーロッパ列強がアジア各地を次々と植民地にしていった。ラオスもその例外ではなく、列強の侵略に巻き込まれた。1885年、清仏戦争の結果、清はベトナムに対する宗主権を失う。すでに、フランスは、1863年カンボジア保護国化し、植民地化の標的をラオスに定めた。1887年に黒旗軍ルアンパバーン王国に侵攻し、壊滅的な打撃を受けたがフランスに助けられた事件をきっかけに、ルアンパバーン王国はフランスの保護を受け入れる道を選択した。1893年、タイ王国との間でラオスをめぐり仏泰戦争が起き、フランスはタイを圧倒し、1905年には保護国化を完了し、フランス領インドシナが完成した。1902年から6年間に渡ってオン・ケーオによる反乱がターテーン(セーコーン県)で起こった。
 1940年11月、タイとフランスとの間で仏印国境紛争が起こり、タイは反仏宣伝の一環として対ラオス工作を開始した。ラジオ放送や宣伝ビラ、パンフレットの活用、工作員の潜入などを通して行われ、「ラーオ人もタイ人も結局は同じタイ系民族である」との民族同胞性を強調することによって、抑圧者フランスに対して協力することを訴えた。このタイの反仏抵抗に対してフランスがとった政策は、ルアンパバーン王国の強化と文教政策、ラオス刷新運動であり、フランスのラオス植民地維持政策であった。学校教育を重視し、小学校が各地に新設され、「勤勉・家族・祖国」をスローガンに「母なる祖国・フランス」への奉仕が説かれた。このような政策を広めるために大きな役割を果たしたのは1941年1月に発刊されたラーオ語紙であった。しかし、ラオス人のなかに「ラオス」という祖国・国民を構想するものが現れてきた。そして1954年3月9日の日本軍による仏印武装解除後、祖国・国民を構想する動きが活発になっていった。
 第二次世界大戦中、日本の占領下にある1946年、ラーオ人の民族主義者らはフランスからの独立を宣言した。
 日本の敗戦後、シーサワーンウォン王は、ラオスの独立宣言を撤回した。独立派はラオ・イサラ(自由ラオス)を結成し、臨時政府を樹立した。しかし、1946年4月には再びフランス軍ラオスを制圧し、第一次インドシナ戦争が起きた。ラオ・イサラはタイに亡命政府を樹立した。
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ラオスは戦場だった

ラオスは戦場だった

🛲10」─4─ベトナム独立運動家・潘佩珠は、軍国日本と日本天皇に独立支援を依頼した。~No.89No.90No.91No.92 * ⑧ 

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 アジアの独立派にとっての解放と独立と自由の希望の光は、ソ連共産主義中国共産党ではなく、日本天皇と軍国日本と日本軍であった。
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 2017年5月号 正論「折節の記  高山正之
 天皇陛下ベトナム訪問の旅で旧都フエを訪ねられた。『ベトナム独立運動家の潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)記念館にも足を運ばれた』と新聞にあった。
 新聞記事によると彼は『1905年、日本にやってきて日露戦争に勝った日本に学ぶ東遊運動を始め、多くのベトナム人留学生を呼び寄せた』
 しかしベトナム宗主国『フランスの意向で日本から退去させられた』という。
 その後は静岡の篤志家、浅羽佐喜太郎の支援を受けて、みたいな話になっている。
 これは少々、話が歪みすぎている。潘佩珠が日本に来た目的は日本から冊封を受けたいというものだった。なぜなら『朝貢していた清が清仏戦争に負けてベトナムを勝手にフランスに割譲した』からで、今後は日本に朝貢するからフランスを叩き出してくれという願いだった。
 戊戌(ぼじゅつ)の政変で逃げてきていた梁啓超の紹介で大隈重信犬養毅らが彼に会っている。梁も含め3人とも『自分の国を救うのは他国ではない。自分たちが立ち上がることだ』と諭した。
 犬養は『そのためなら協力は惜しまない』と言った。それでベトナムの若者の日本留学が決まった。安南王朝の皇子クオンデも含めて300人が日本に密航して、学び、そして『仏賊を駆逐し越南を回復して共和国たる越南民国を成立させる』(潘佩珠)反仏抵抗運動組織、越南光復会が生まれた。
 『フランスの意向で追放』のくだりも誤解を招く。
 日本は日露戦争に勝った。白人が世界を支配する20世紀の入り口で、その白人国家の一つロシアが黄色人種の国に負けた。このままでは白人の面子は潰されると考えたセオドア・ルーズベルトが講和の仲介に立って敗北の証となる『賠償金』が一切ないポーツマス条約を日本に押し付けた。
 日本は膨大な戦時債を発行していた。勝って賠償金で返済するはずだったのに予定が狂った。金を貸してくれたのはフランスだけ。それもベトナム留学生の引き渡し要求付きだった。
 日本国を倒産させるわけにはいかない。でも留学生引き渡しもしなかった。日本から出る船は仏官憲がみなチェックしたが、だれも捕まらなかった。
 なせか。クオンデは上海で船を下りた。仏官憲の手が届かない港の保税区域で松岡洋右領事の車に乗って走り去った。日本は留学生のすべてをそっと逃がしていた。
 佩佩珠はこれより前にタイに脱出し、のちに広東に移って日本で学んだ留学生を軸に反仏抗争を始めた。
 この組織は以降、仏総督2人を含む要人の暗殺やサイゴンの植民地政府庁舎爆破など反仏テロを息長く続けていく。
 1925年、潘は上海で仏官憲に捕まる。プリンストン大アジア研究のマカリスター教授はホーチミンの密告だったと言う。ホーは潘にかかった15万ピアストルの懸賞金を手にした。党の活動資金にしたというが、共産党員の言うことはみないい加減だ。
 植民地政府は彼に死刑判決を宣告したが、民衆の反応を恐れて結局フエに軟禁した。潘は寓居に若者を集めて世界を教えた。今回、陛下が訪れた記念館が建てられた所だ。
 教え子の中にボー・グエン・ザップがいた。ホーの右腕としてディエンビエンフーの戦いからベトナム戦争中越紛争まで戦い抜いた老将軍だ。
 もう四半世紀前、サイゴンで80歳になった将軍に会った。
 『潘佩珠は日本のことをよく話された。外敵を追い出すのは国民以外にないことも語られた。聞いていてじっとしていられなくなったのを覚えている』
 潘は1940年、日本軍がドンダン要塞を落として仏印進駐したのを聞いて微笑みながら崩じた。
 犬養毅は自分の国は自分で守れと潘に言った。日本人を見ろ。大国ロシアだって怖じず戦い、倒したのだと。
 尖閣でなんかあったら米国が助けてくれる、防衛費より子供手当てが大事だと蓮舫が言った。外人には日本人は分からない。
 ……」
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 真っ当な民族・国民であれば、自国の自主独立・安全は、自力か、他国と同盟を組んで守るものであって、自主努力を放棄して属国・保護国となって依存はしない。
 東南アジア地域の民族主義者や独立運動家らは、日本の明治維新による近代化(殖産興業・富国強兵・近代教育)を手本とし、日本のような国家を建設しようとした。
 東南アジアにとって、昭和戦前期までの日本は憧れであり、希望をもたらす「アジアの光」であった。
 自主独立運動を戦った東南アジア諸民族にとって、日本天皇はアジアを未来に導く唯一の偉大な指導者であった。
 が、白人植民地支配に協力して利益を得ていた中国系住民(華僑・華人。多くがキリスト教徒)は猛反対した。
 民族主義者・独立派は、親日派として軍国日本・日本天皇に味方し、進攻してきた日本軍を解放軍として歓迎して、敵軍の情報を教え、快進撃を助ける為に軍需物資の輸送を手伝った。
 中国系住民は、反日派として白人植民地軍に義勇軍を提供して侵略してきた日本軍と共に戦った。
 ソ連・コミュニティの指導を受けた各地の共産党員は、共産国家を建設する為に、両者に味方をする振りを見せながら忍び込み、内から両者の勢力を弱体化させる為に対立を煽り、有力者の殺し合いをさせた。
 いつの時代でも、何処ででも、共産主義者はおぞましい程に陰険である。
 共産主義者の本質は、人の命を大事にする平和主義者でも人権主義者でも道徳家でもなく、人の命を道具のように磨り潰して廃棄する共産主義大義を達成を目指す暴力的革命家である。
 世界中で白人キリスト教列国の植民地化にあった諸地域、欧米諸国の都市で奴隷のような悲惨な境遇で生活していた非白人にとって、日本天皇と軍国日本は解放をもたらしてくれる「希望の光」であった。

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🐉22」─3─内モンゴル自治区、中国共産党の人権弾圧に監視を。~No.86 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 中国共産党少数民族ジェノサイド政策で、滅び行く少数民族
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 2020年11月7日 産経新聞「【主張】内モンゴル自治区 中国の人権弾圧に監視を
 中国共産党政権が内モンゴル自治区で、少数民族モンゴル族の子供に対し標準中国語(漢語)の教育を強化している。
 チベット族ウイグル族に続く強引な同化政策の一環であり、香港などに対する人権弾圧とも共通する。日本を含む国際社会は団結して中国の人権問題を徹底監視し、改善を迫るべきだ。
 内モンゴル自治区では9月の新学期から国語の授業で、漢語を使った全国統一の教科書を使うようになった。来年は道徳、再来年は歴史の教材についても同様に切り替える。モンゴル族の子供から、民族色を失わせる戦術だ。
 中国の習近平国家主席は9月、新疆ウイグル自治区に関する座談会に出席し、教育によって国家観、歴史観、宗教観を導き、「心の奥底に中華民族の共同体意識を植え付ける」と述べた。
 これは同化政策の強化宣言であり、少数民族に対する国際社会の人権侵害批判に対する露骨な開き直りだった。チベットウイグルでは同化政策に難色を示すと要注意人物となり、職業訓練センターと呼称する強制収容所に送られているとされる。モンゴル族もまた、その対象となる。
 中国に約600万人いるモンゴル族が使うモンゴル語は、内モンゴル自治区と国境を接する隣国モンゴルの人々とほぼ同じだ。
 同化政策にはモンゴルでも反発が広がり、エルベグドルジ前大統領は、中国の政策を「文化的ジェノサイド(民族大量虐殺)だ」と非難した。これに中国の王毅国務委員兼外相はモンゴル側に「内政干渉をするな」と反発した。
 仏西部にあるナント歴史博物館では、モンゴルの英雄チンギスハンに関する来春の展示会が見送られた。産経新聞の取材に同館は「中国政府が7月ごろ、突然介入してきて、チンギスハンを展示から消すよう要求した」と理由を明かした。言語ばかりか、歴史まで抹消しようとする姿勢は常軌を逸したものだ。
 人権の擁護は普遍的な国際社会の価値観である。「内政干渉」とする中国側の反論は、何ら意味をなさない。米国の大統領選は混迷を深めているが、誰がその座に就こうが人権への監視を緩めてはならない。日本も同様である。中国に人権問題などの改善がみられない限り、習主席の国賓来日を白紙撤回すべきである。」
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🛲10」─3─フランスの植民地ベトナム。東遊運動。餓死者200万人。ベトナム戦争と旧日本軍兵士。~No.86No.87No.88 * 

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 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。 ↗ 
   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   
 独立派ベトナム人は、祖国をフランスの植民地支配から独立させる為に日本軍に協力していた。
 日本軍と独立派ベトナムは、アジアを白人キリスト教徒に対して共同戦線を敷いた。
 植民地支配に苦しむアジア人にとって、軍国日本は救いの神であった。
 日本軍は、独立派にとって解放軍であったが、植民地派にとって侵略者である。
 日本軍の仏印侵攻を侵略で、軍国日本は多大なる被害を与えたと主張する日本人は、白人キリスト教国の植民地支配を正当行為と容認する植民地主義者である。
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 アジア人にとって、軍国日本は白人キリスト教国による植民地支配から解放してくれる光であった。
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 2018年4月号 正論「折節の記  高山正之
 英国は阿片戦争に勝つと阿片をどんどん送り込んで暴利を上げた。米国のラッセル商社のウォーレン・デラノは犯罪組織、紅幇と渡りをつけて売り上げを伸ばした。フランクリン・ルーズベルトの祖父に当たる人物だ。
 それを羨ましく思ったフランスは阿片の売り捌き場所にベトナムを選んだ。それで清に戦争を吹っ掛け、1885年、天津条約で保護国化に成功すると、ベトナムの主要都市にまず刑務所を建設し、本国から刑務所の数だけギロチン台を送り込んだ。
 そのうえで町村ごとに阿片の専売店レジ・オピオムを置いて家族ごとに阿片を割り当てて販売した。その25年後に阿片禁止のハーグ条約が締結されたが、植民地についてはその適用を留保ができた。さらに10年後に国際連盟が成立、その規約22条に『いまだ自立できない植民地の人々の福祉、発展を促すことは文明国の神聖な使命だ』とある。
 フランスはその福祉発展のための財源として人頭税、阿片専売に加えて新たに結婚税、出産税、葬式税、移動税が設けられた。
 中でも葬式税は意味があった。仏女性ジャーナリスト、アンドレイ・ビオリスの『インドシナSOS』には地方都市ビンで過酷な課税に人々が立って抗議デモを展開した顛末を紹介されている。
 数百人のデモに仏軍は即座に爆撃機デボアチンを飛ばし、デモ隊に向けて機銃掃射を浴びせた。
 『死んだも葬式税が入るから殺すことに躊躇(ためら)いはなかった』と。
 黄色い人種だとここまでやるかと驚いたものだが、先日、全斗煥大統領時代の光州事件について韓国国防軍が『40機のヘリが出動し丸腰の市民に無差別の銃撃を加えた虐殺だった』と発表した。
 全羅道は差別されているとはいえ同じ韓国人だ。それで仏植民地軍も裸足で逃げ出す虐殺をする」
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 1906年 ヴェトナム革命家の潘佩珠(ファンボイチョウ)は、ベトナム独立を志して、グエン朝の末裔のクオン・デ侯を擁立すべく日本に密航し、大隈重信犬養毅大川周明頭山満浅羽佐喜太郎らと交流した。
 「この時に当たって東風一陣、人をしてきわめて爽快のおもいをあらしめた一事件が起こりました。それは他でもない、旅順、遼東の砲声がたちまち海波を逐うて、私達の耳にも響いて来たことでありました。日露戦役は実に私達の頭脳に、一新世界を開かしめたものということが出来ます。……前に遼東、旅順の砲声がなかったならば、わが国民はついにまた大フランス国以外如何なる世界があるかを知らなかったのであります」
 潘佩珠は、日本精神・大和魂を学ぶ為に東遊(ドンズー)運動を始めた。
 日本に学ぶ為に、ベトナム人青年達を日本に留学生させた。
 ベトナムでは、潘佩珠の呼びかけに応じて、福沢諭吉慶応義塾を手本にした東京義塾が作られ、愛国的進歩的青年が育成された。
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 独立派ベトナム人は、フランスの植民地から独立する為に、日清戦争で清国(中国)を破り、日露戦争ロシア帝国(白人)に勝利した日本に期待していた。
 祖国独立の「正義の戦争」に勝つ為に、日本軍の軍事支援を求めた。
 日本は白人の圧政から救い出してくれるだと、過剰な期待を寄せた。
 だが。日本は、ハワイ王国同様に、アジア人達の期待を裏切って支援要請を断った。
 西洋礼賛派日本人達は、白人植民地で圧政に苦しみアジア人を未開の野蛮人と軽蔑し、無教養であるから支配されて当然であるとして見下していた。
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 1940年9月 軍属の西川は、特務機関「山根機関」の山根道一機関長の命令で、サイゴンにある日本の有力商社「大南公司」に入社し、独立派安南人を支援した。
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 仏印政庁は、ベトナムの反仏抵抗運動を弾圧し、独立派ベトナム人を逮捕して地獄の様なサイゴン監獄に送り込んでいた。
 フランス人刑吏は、ベトナム人を人間と見なさず残忍な拷問で痛めつけ、そのまま殺された独立派闘士もいた。 
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 9月23日 日本軍の北部仏印進駐。
 日本軍は、抵抗するフランス軍を苦もなく撃退した。
 フランス人の支配下で苦しんでいたベトナム人は、白人に抵抗しても叶わないと絶望していたが、非白人の日本軍がいとも簡単にフランス軍を撃退した事に狂喜し勇気を得た。
 民族主義者陳中立は、日本陸軍諜報機関の協力を得て、フランス軍か没収した鹵獲武器を貰い受け、東遊運動に共鳴するベトナム人を集めて叛乱軍を組織した。
 叛乱軍は、ハノイに向けて進軍して最大2,000人に膨れ上がったが、フランス軍の反撃にあって撃破された。
 日本軍は、中立を守って解放軍を支援しなかった。
 これ以降も、ベトナム人独立派と日本陸軍諜報機関は協力関係を保っていた。
 アメリカ軍諜報機関は、日本軍に対抗する為にベトナム人共産主義勢力を支援した。
 フランスは、民族の独立を求めるベトナム人を反逆者として逮捕し、地獄のような拷問にかけ、ギロチン刑で首を切断した。
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 白人キリスト教諸国の植民地では、数多くの非白人非キリスト教徒が酷たらしい処刑方法で惨殺されていた。
 民族主義者は、処刑されても、民族の独立の為に命を捨てて戦っていた。
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 11月 井出諦一郎「農民は飢餓線上を彷徨しており、その生活費は1日2フラン15セントから1フラン20セントで、手から口への境涯だから何か事があれば直ぐに高利貸しの世話になり、生涯うだつは挙がらない。ジョセフ・F・ワーレン氏のマンダリンロードの旅行記によると『月夜ならば激昂の漏れようというあばら屋に住む百姓は2300万人中の90%』だということであり、その多数の農民達はフランス人4万6,000名中1万1,000名が兵隊、文官4千700名、残りが産業関係者と女子供という少数者によってこんな有様に搾取されているのである」
 フランス植民地インドシナベトナムカンボジアラオス)では、現地人は召使いとして人権はなく、搾取され貧困生活を強いられていた。
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 1941年当時、アジアに於けるナショナリストの独立派は、1割に過ぎない。
 白人植民地支配で利益を得ていた地元民は、4割あった。
 5割の地元民は、白人植民地からの独立には関心がなく、誰が支配者になろうとも興味が無かった。
 誰もが、白人キリスト教徒支配は永遠に続き、それをキリスト教絶対神が望んでおられる正しい世界秩序だと信じられていた。
 軍国日本の戦争は、国際法違反とともに絶対神の御心に叛く戦争犯罪とさた。
 現代の日本人は、永遠に時効無き戦争犯罪者として、アジア人に与えた犯罪行為に対して謝罪と賠償をする責任があるとされている。
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 ルーズベルトは、日本軍との戦争にベトナム人を利用するべく、中国系の社会主義指導者ホー・チ・ミンを支援していた。
 「終戦後にフランスがラオスベトナムカンボジアを再び植民地にする事を認めない」と約束したが、それは嘘であった。
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 1944年8月25日 連合軍は、パリを解放し、パリのドイツ軍は降伏した。
 ド・ゴールフランス共和国臨時政府が帰国し、ヴィシー政権は崩壊した。
 8月26日 ド・ゴールは、シャンゼリゼ通りで凱旋パレードを行う。
 10月23日 フランス共和国臨時政府がイギリス、アメリカ、ソ連の承認を受ける。
 ペタン元帥らは反逆者として逮捕され、ヴィシー政府は崩壊した。
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 1944年5月 台風は、ベトナム北部を襲い、農作物に甚大なる被害を与えた。
 10月から年末まで、気温が下がって凶作が発生して深刻な食糧不足に陥った。
 1944年末〜45年 ハノイ一帯で旱魃が起き、夥しいベトナム人が餓死したと言われている。
 ハノイ歴史博物館「日本軍は北部仏印後、フランスと共同支配して搾取し、200万人を餓死させた」
 東南アジア諸国の歴史教科書は、日本軍を凶悪な侵略者とし、白人民地支配よりも残虐行為を行い数百万人を虐殺したと教えている。
 日本軍は、飢餓に苦しむベトナム人達の救済にあった。
 同盟通信小山特派員「日本軍陣地で炊き出しがあった」「雑貨屋の日本人女将がお握りを振る舞った。戦後、仏人の店がみな焼かれたがこの店は襲われなかった」
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 1945年ベトナム飢饉(1945ねんベトナムききん)は、1944年10月から1945年5月にかけて、ベトナム北部で発生した大規模な飢饉。40万人から200万人が餓死したといわれている。
 経緯
 天候不順による凶作に加え、米軍の空襲による南北間輸送途絶や、フランス・インドシナ植民地政府及び日本軍による食糧徴発などが重なり、ベトナム北部を中心に多数の餓死者を出したとされる。新米が収穫される1945年6月に飢餓は収束した。
 死者数については40万から200万の数字が上げられる。ホー・チ・ミンによる1945年9月2日のベトナム独立宣言には、「フランス人と日本人の二重の支配」のもとで「我々の同胞のうちの200万人が餓死した」との記述がある。日本軍の戦後の調査では犠牲者数は40万とされている。
 原因
 飢饉の原因ははっきりとは判明していない。様々な要因が複合的に関連したとされている。一大米作地帯であったトンキン湾デルタ地帯の1944年の収穫量が水害により激減したこと、連合国軍の戦略爆撃によって南部から北部への輸送が不可能になったことが主な原因として上げられる。また1944年の冬は記録的な厳寒になったことも死者を増やす原因となった。
 日本の軍政は戦局の悪化に気を取られ有効な対策を取ろうとしなかった。フランス政庁は日本軍からの指示があったとして過分な収穫米を強制的に徴収した。これは日本軍への反感を強めるのが目的で、集めた米をまとめて焼却、あるいは川へ投棄していたとの証言もある。
 影響]
 ホー・チ・ミン率いるヴェトミンはこの飢饉の原因は日本軍の強制調達にあると民衆に訴えかけた。フランスによる植民地支配からの解放軍として一定の支持を集めていた日本に対する信頼[要出典]は失われ、ヴェトミンがイニシアティブを握るきっかけとなった。
 1945年8月15日の終戦時直後に日本軍が仏印処理により樹立させたベトナム帝国はヴェトミンにより打倒された。
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 1945年 フィリピンの第14方面軍司令官、山下奉文大将。戦力25万人。戦死・戦病死21万7,000人。
 1月9日 連合国軍南西太平洋地域総司令官・ダグラス・マッカーサー大将。第6軍(17万5,000人)は、ルソン島リンガエン湾への上陸を開始した。戦死8,310人。
戦傷2万9,560人。
 第14軍団所属の第1騎兵師団と第37歩兵師団はマニラを攻略するべく南下した。
 2月3日 アメリカ軍は、マニラに突入した。
 マニラ守備隊。日本海軍1万人。日本陸軍4,300人。戦死者1万2,000人。
 アメリカ軍3万5,000人。フィリピン人ゲリラ3,000人。戦死者1,010人。戦傷者5,565人。 
 マニラの大虐殺。マニラ市内には約70万人の市民が残り、その多くが抗日ゲリラとして日本軍を攻撃していた。
 日本軍は、戦闘が終了するまでに民間人10万人を虐殺したといわれている。
 3月3日 アメリカ軍は、マニラを占領して戦闘終結を宣言した。
アメリカ軍のフィリピン進攻は、南シナ海周辺地域に衝撃を与え、対岸の中立地帯インドシナを動揺させた。
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 日本軍支配下の東南アジアで。日本軍の敗色が見え始めるや、各地で地元民は連合軍に味方して蜂起し、ゲリラ活動として敗走する日本軍を襲撃した。
 本国からの補給が断たれた日本軍守備隊は、空腹に耐えきれず、地元民の家を家捜しして食糧などを現地調達した。
 地元民は、銃剣を突きつけて食べ物を奪っていく日本軍に憎み、日本人を嫌って抗日ゲリラを組織して連合軍に味方した。。
 敗走する日本軍は、連合軍の大軍の猛攻をを受けつつ、地元住民の抗日ゲリラとも熾烈な戦闘を行っていた。
 さらに。日本軍内には、多数の朝鮮人の兵士や軍属がいた。
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 3月 仏印政庁は、親ドイツ派ヴィシー政権が崩壊した今、連合軍に味方して参戦するか、依然として中立を保って参戦しないのか、その動向が注目された。
 仏印に駐屯していた日本軍(3万人)は、仏印政庁が連合国に味方し、仏印軍5万人が連合軍の上陸で敵に回って攻撃して来ること事を警戒した。
 日本軍の諜報機関である「安機関」は、インドシナ防衛の為に、連合軍上陸前に仏印軍を無力化するべく行動を開始した。
 共産主義者ホー・チ・ミンが率いるベトミン(越南独立同盟)は、反日反仏として、アメリカやファシスト中国から武器弾薬の支援を受けて対日ゲリラ戦を仕掛けていた。
 日本軍は、飢餓民救済の為にフランスのベトナム支配を終わらせる事が先決であるとして、フランスが連合国に参加した事を理由にして明号作戦を実行した。
 仏印政庁の統治権を停止し、フランス軍部隊を武装解除して監獄に収容した。
 監獄に収監されていたベトナム人政治犯を釈放し、日本軍の軍政に協力させた。
 日本軍は、仏印政庁が備蓄していた食糧を飢餓民の為に放出し、餓死の拡大を食い止めた。
 農民出身の日本人兵士は、高度な灌漑用水による日本式農法をベトナム人農民に教えた。
 伝統的農法にこだわる朝鮮人農民とは違ってベトナム人農民は、収穫量が増えると知るや日本式農法を取り入れた。
 昔のベトナム人は、東南アジアの中でも親日的であった。
 ただし、華人や華僑の中には根っからの反日派がいた。
 玉砕によって敗走に次ぐ敗走を続ける日本軍は、連合国軍に味方して日本軍を攻撃するビルマやタイなどの反日勢力を恐れ、ベトナム人民の離反を避ける懐柔策を実行した。
 同盟通信記者小山房二回顧「ジアラム空港の日本軍部は、宿営地前に大釜を出してお粥を配った。ハノイの雑貨店マゾワイエでは仏人経営者の日本人夫人が店先で炊き出しをした」
 マゾワイエは、ベトナム人の襲撃を受けなかったと言われている。
 ベトナム人は、中国人や朝鮮人とは違って、日本人同様に義理堅く受けた恩は感謝して守った。
 3月9日 第38軍司令官土橋勇逸中将は、明号作戦を発動して、ジャン・ドグー総督等政庁幹部を逮捕し、事前の約束に従ってベトナムカンボジアラオスの国王等の独立を認めた。。
 日本軍は、各地でエメー中将率いる仏印軍に攻撃を加え、5月15日迄に仏印を制圧した。
 3月11日 ベトナム。阮王朝のバオ・ダイ(保大)帝は、フエ王宮で、フランスとの保護条約を破棄して独立を宣言し、越南帝国を樹立した。
 カンボジアノロドム・シアヌーク国王は3月13日に、ラオスシーサワーンウォン国王は4月8日に、フランスからの独立を宣言した。
 インドシナ半島は、フランスの植民地支配から解放された。
 土橋勇逸「三国が不完全ながら独立した事は、仏印処理がもたらした大きな産物であり、これにより遠からず三国が完全な独立を獲得する土台となった事は、日本としての一つの功績である事は疑わない」
 インドシナの民衆は、過酷な植民地支配で苦しめられてきた怨念を爆発させ、各地で、フランス人の邸宅や商店を襲い、植民地支配に協力して財を成していた混血児や華僑・華人を襲撃し、略奪、暴行、放火、殺人を行った。
 日本軍は、連合軍の進攻に備える為に、暴動を鎮圧して秩序を回復し、民衆を味方に付けるべく華僑・華人らが植民地支配で蓄えていた厖大な隠匿物資を没収して貧困層に放出した。
 軍国日本が侵略戦争で行った戦争犯罪とは、植民地化で塗炭の苦しみにあったインドシナ民衆にではなく、植民地支配に協力して暴利を貪っていた混血児及び華僑・華人等であった。
 日本軍は、防衛陣地建設が急務で占領地での軍政を敷くゆとりはなかった為に、植民地支配の象徴であった人頭税を廃止し、独立した三ヵ国の支援・指導に留めた。
 三ヵ国の民衆は、黒い瞳と同じ肌を持ち米食を主食とするアジア人として信頼し、白人と戦う日本軍を尊敬し、日本人の協力を得て独立と建国の大集会を開いていた。
 ホー・チ・ミン率いるベトミンは、軍国日本による独立を認めず、各地で日本軍に対するゲリラ戦を続けていた。
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 8月15日 軍国日本は、国際連合国軍に降伏した。
 8月23日 バオ・ダイ帝は、後ろ盾の日本軍が消滅した為に退位して連合軍の軍門に降り、フランス軍が来るまで、北緯16度線を挟んで南部をイギリス軍が、北部を中国国民党軍が管理するとの声明を出した。
 カンボジアラオスも、フランスの報復を恐れて独立を取り下げて、フランスの植民地に復帰する事を表明した。
 日本軍によって被害を蒙った混血児や華僑・華人は、日本軍に協力した独立派への報復として暴行や強姦を行い、見せしめとして処刑した。
 多くの民衆は、植民地支配の復活として彼等の横暴を受け入れた。
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 9月2日 ホー・チ・ミンは、ソ連の支援を受けて北部でベトナム民主共和国の独立を宣言した。
 「日本とフランスの二重の軛のもと……200万人以上の同胞が餓死した」
 ベトナム人は、日本軍の軍政とフランス植民地支配が終わり民族の独立がなったと喜び、各都市で市民による行進が行われていた。
 興奮した群衆がを埋め尽くしている最中、サイゴンのカチナ大通りで、フランス人のトリコワール神父がキリスト教会の前で射殺された。
 キリスト教世界では、如何なる理由あっても神父・牧師を殺害する事は戦争を意味した。
 ベトナム人は、フランスによる恐怖の植民地支配に対する憎悪から暴徒と化して、フランス人に襲い掛かって4人を嬲り殺しにしその他多くに負傷を負わせ、フランス人商店を襲撃して商品を略奪した。
 9月6日 イギリス軍は、サイゴンに上陸するや、ベトナム人暴徒からフランス人を救出し、日本軍によって監獄に閉じ込められていたフランス軍兵士を解放して武器を渡した。
 9月11日 中国国民党軍は、ハノイに進駐した。
 中国共産党は、国民党を混乱させる為にホー・チ・ミンを支援した。
 武装放棄した旧日本軍は、連合軍の設けた捕虜収容所に収容された。
 アジアの解放を大義と信じていた一部の日本軍将兵は、ベトナムの独立の為に戦うことを決意してベトミン軍に参加した。
 ボー・グエンザップ将軍「抗日を旗印にしたが、日本が降伏するとホーは『日本人と戦うな。彼等を保護せよ』といった。日本人はその後もクアンガイ士官学校で軍事指導もしてくれた」
 クアンガイ陸軍中学は、46年6月1日にグエン・ソン将軍を校長として指揮官を養成する士官学校として設立された。
 日本軍脱走将兵は教官として、日本陸軍の戦略・戦術を教え、ジャングルに於けるゲリラ戦を指導した。
 ベトミン軍は、日本陸軍教育で最強のゲリラ部隊となり、フランス軍を苦しめ、後にアメリカ軍を撃退した。
 10月5日 フランス軍先遣部隊がサイゴンに到着し、11月までの間に第3機械化師団と第9植民地師団が到着した。
 フランス人がインドシナの支配者として舞い戻り、フランス軍が各地に駐屯した。
 フランス軍兵士は、同胞をベトナム人暴徒から救い出し、治安を回復して植民地支配を再開する為にベトナム人を虐殺した。
 フランス人は、白人至上主義で人種差別が強く、ベトナム人を人権を持った人間ではなく野蛮な獣として扱い、従わない者は容赦なく殺した。
 絶対神の愛されない異教徒ベトナム人を殺しても、後悔はしないし、反省もしないし、謝罪もしなかった。
 絶対神に愛さ恩寵を受けるのは白人と改宗者の非白人であり、非キリスト教徒の非白人はその資格は無いとされた。
 キリスト教の「隣人愛」に基ずく「博愛」の対象は、絶対神と「信仰の契約」を持つ者だけに限定されていた。
 東南アジア連合軍最高司令部調査団「街頭に出た彼らは、狂ったようにベトナム人を殺し廻った」
 ベトナム各地で、植民地支配を再開しようとするフランス人と独立を求めるベトナム人との間で流血事件が多発して混乱を極めていた。
 降伏投降せず逃亡した旧日本軍将兵達は、ベトナム人独立派に協力し、ゲリラ戦などの軍事指導を行っていた。
 戦争が終わっても、「アジアの解放」を信じる日本人はベトナム人の為の人柱となる事を覚悟して、祖国に帰り家族の下に戻る希望を捨てた。
 大和魂・日本精神を持つ日本人は、弱く虐げられたベトナム人の権利を獲得する為に命を捧げた。
 昔の日本人は、「何か大事なもモノ」の為ならば、命を捨て、死ぬ覚悟を持っていた。
 神出鬼没の地下トンネル要塞は、硫黄島などで日本軍が行ったゲリラ戦法であった。
 一切の教育が禁止され、武器の使用方法を知らなかったベトナム人を、短期間で反植民地の武装抵抗集団に変貌させたのは日本陸軍であった。
 連合国軍とフランス軍は、日本式軍事教練を受けたベトナム人独立派ゲリラの襲撃を防ぐ事が出来ず、被害を拡大させていた。
 東南アジアの連合軍最高司令官マウントバッテン卿は、、捕虜収容所の旧日本軍に武装させベトナム人暴徒の鎮圧を命じた。
 フランス軍は、ベトナム人ゲリラからフランス人居留区を守る為に日本人兵士を歩哨に立たされ、ベトナム人ゲリラの襲撃によって日本軍兵士が銃撃戦を始めれば、直ぐさま応戦体制がとれるようにした。
 だが。日本人兵士はベトナム人ゲリラの襲撃を見逃し、ベトナム人ゲリラも日本人兵士を殺さず足下を通り過ぎた。
 日本人兵士が歩哨に立つフランス人居留区は、ベトナム人ゲリラに襲撃され多くのフランス人が殺害された。
 マウントバッテン卿の終戦処理報告書「日本兵は、ベトナム人に逃げるよう促すだけであった」
 「現場では、日本軍の歩哨が空を見上げて突っ立っていた」
 共産主義勢力以外の反仏勢力は、日本人には手を出さなかった。
 当時の東南アジア人にとって、日本軍は白人植民地支配から解放してくれる味方であった。
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 日本陸軍の戦略戦術を日本軍人から学んだベトナム人は、フランス軍を追い出し、大量の物量と共に攻めてきたアメリカ軍・韓国軍を撃退して、白人キリスト教植民地支配から独立した。
 それは、正義の為の戦争であった。
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 ポーゲン・ギャップ(北ベトナム軍将軍)「ゲリラは魚で人民は水。アメリカ軍に追われた場合には水の中に逃げ込めばよい」
 アメリカは、アジア地域は共産主義に侵略されつつあるという「ドミノ理論」を持ち出し、ベトナム紛争介入を共産主義からアジアを救う戦争であると正当化した。
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 1964年 トンキン湾事件
 アメリカは、ベトナム戦争に参戦する切っ掛けにするべくでっち上げた嘘であった。
 アメリカ国防総省は、アメリカに不都合となる公文書を機密扱いとしたが、廃棄せず残していた。
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 日本の政府や官僚は、自分に不利になる機密文書・公文書は闇から闇へと焼却処分にして消し去る。
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 アメリカ軍、韓国軍、南ベトナム政府軍が戦ったベトコンとは、植民地支配に抵抗する独立派やキリスト教に反発する仏教徒であった。
 北ベトナムベトナム共産党は、ベトナム統一を掲げ、ベトコンを支援する為に共産党員や北ベトナム軍を送り込んでいた。
 旧日本軍脱走兵士らは、ベトナム独立の為にベトコンにジャングル戦と手掘りの地下陣地戦法を教え、アメリカ軍・韓国軍・南ベトナム政府軍と戦った。
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 ベトナム戦争の犠牲者は、アメリカ軍兵士約5万8,000人で、南北ベトナム人約130万人。
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 独立したベトナム共産主義の正義で、民族主義者や宗教関係者など反共産主義者を大量に処刑し、共産党政権を樹立した。
 華僑や華人らは、共産党政権による弾圧を逃れる為に、老朽化した船で海に逃げた。
 運のよい者達は外国船に助けられ、運の悪い者達は船と共に海の藻屑となった。
 共産党政権下は、地獄のような恐怖が支配していた。
 それは、中国でも、北朝鮮でも、カンボジアでも、同様であった。
 その中でも、中国共産党政権下が最も酷かった。
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 ベトナムの高校の歴史教科書「日仏の搾取的な政策が我々を困窮させた。その結果、200万人が餓死した」
 ベトナムは、反日教育を行った。   
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 現代の「日本人=極悪人」という認識とは全く正反対の日本人観が、1945年まで存在していた。
 そして。昔の日本人ほどに現代日本人を信頼せず、昔の日本人とは違う現代日本人から何かを学ぼうという意識は少ない。
 現代日本人は、相手の事を無視して「個」の自分の事しか考えないだけ、自己満足的に自惚れるほど、東南アジアの人々に好感を持たれてはいない。
 現代日本が、国際的に凋落しているのは自業自得である。 
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 平和憲法を持つ現代日本は、正義の戦争であろうと、自衛の戦争であろうと、全ての戦争を人殺しであるとして猛反対している。
 現代日本は、武器を捨て、非暴力無抵抗を訴えている。


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🛲10」─2─中華帝国の領土拡大の侵略戦争。ベトナムのジャンヌ・ダルク=徴 (ちょう)姉妹。後漢の光武帝。~No.83No.84No.85 * 

儒教と中国 「二千年の正統思想」の起源 (講談社選書メチエ)

儒教と中国 「二千年の正統思想」の起源 (講談社選書メチエ)

  • 作者:渡邉 義浩
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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 中国の歴史は、4000年の昔から傲慢な侵略戦争と残虐な虐殺と強欲な強奪の歴史である。
   ・   ・   ・   
 高山正之「中国の歴史を振り返って言えるのは、漢民族が国を建てると民は大いに難渋するというジンクスがあるということ。野蛮で残忍、破壊の限りを尽くす。漢、宋、明、中国共産党・・・本当にロクでもない王朝ばかり。そういう王朝になると、当然、国は乱れる。そこの隙をついて、鮮卑(せんぴ)や匈奴(きょうど)などの夷狄(いてき)がやってきて、がやがややっているだけの漢民族をまとめ、それぞれに絢爛の文化を築いていた。古くは殷の青銅器文明、周の鉄器文明、隋や唐、金、元、清という王朝が誕生した。漢民族は強力な征服王朝に組み敷かれているときが一番いい時代に見える」
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 徴 (ちょう)姉妹 とは、1世紀に後漢の交州 (現在のベトナム北部など) で起こった反乱を首謀した徴側 (ちょうそく〔チュン・チャク〕、? - 43年)と徴弐 (ちょうに、? - 43年) の姉妹を指す。
 生涯
 前半生
 徴側は峰州麋?県の有力な貉将 (地域の軍事指導者) の娘として生まれ、朱?県 (現:ハタイ省ソンタイ) の有力者であった詩索(ベトナム語版) の妻であった。徴弐の出生地は伝わっていないが、姉と同様であると考えられる。
 前漢武帝期に中国の支配下に入ったベトナム(南越→交州) では、漢に支配される前まで貉将および貉侯(地域の領主)が有していた税の徴収権が中国側へと移管されていた。当時、南越を支配していた後漢に対して、国内の有力者であった徴側が取り纏める形で、徴税権を南越側に移管するよう、後漢政府に通告した。
 交趾郡太守・蘇定の悪政もあって、40年3月には南越内の合浦・九真・日南各郡65の県の貉将・貉侯がこれに賛同した。徴側の妹であった徴弐も加わって、徴側は自ら女王として「徴王」を自称し麋?県に宮廷を構えて徴税を強行する姿勢を示した。
 徴姉妹の乱
 詳細は「徴姉妹の乱」を参照
 これに対して、後漢光武帝は徴姉妹による一連の行動を後漢に対する「重大な反乱行為」と判断し、馬援を「伏波将軍」に任じ反乱鎮圧を命じた。馬援は扶楽侯・劉隆を副将として、兵20,000(正規兵8,000、現地兵12,000) を率いて42年4月に南越へ到着した。
 悪天候と疫病の流行によって行軍も進まず、馬援軍は苦戦を強いられたものの、南越兵の中で厭戦ムードが広がったことから徴姉妹は戦闘に訴えざるを得なくなり、馬援軍と浪泊で決戦を挑んだものの大敗を喫し、数千が戦死し、10,000人以上が捕虜となった。徴姉妹は麋?県・禁谿へ逃れたものの、馬援軍による追討は厳しく徴姉妹は共に捕らえられた末に殺害され、翌43年初めに徴姉妹の首は洛陽へと送られた。
 その後も馬援は残党を追って、中部ベトナム・ゲアンにまで進軍し、数千人の貉将・貉侯を殺害すると共に漢民族や親漢派の住民を交阯に屯田させて、反乱が起きた土壌の根絶を図った。しかし、趙嫗の反乱(248年) など、中国支配に対する反乱は断続的に続くこととなった。なお、一連の反乱は首謀者・徴姉妹の名を取って、「徴姉妹(ハイ・バー・チュン) の乱」と呼ばれる。
 伝承・影響
 なお、徴側の最期については「川に身を投げた」、「馬援に首を刎ねられた」、「雲の中に消えた」等の説があり、(事実はともかく)最初の説が一般的な徴姉妹の最期として伝えられている。
 また、徴側の夫である詩索が交趾郡太守・蘇定に処刑されたことにより徴姉妹が反乱に踏み切ったというのは後世の伝承であり、実際は反乱時にも詩索が処刑されたとの内容を記した文献は無い。
 いずれにせよ、徴姉妹の支配は3年に過ぎなかったが、その後も徴姉妹はベトナムの英雄として語り継がれ、彼女らを祀る寺院も数多く造られている。また、ハノイホーチミンをはじめとするいくつもの都市に「ハイ・バー・チュン」を称する大通りもある。
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 光武帝(前6年 - 57年)は、後漢王朝の初代皇帝。南陽郡蔡陽県(現在、湖北省棗陽市)の人。
 王莽による簒奪後の新末後漢初に混乱を統一し、漢王朝の再興として後漢王朝を建てた。廟号は世祖。諡号光武帝は漢朝を中興したことより「光」、禍乱を平定したことより「武」の文字が採用された。「隴を得て蜀を望む」「志有る者は事竟に成る」「柔よく剛を制す」(『黄石公記』(=『三略』)の引用)などの言葉を残している(『後漢書』本紀1上・下・本伝)。中国史上、一度滅亡した王朝の復興を旗印として天下統一に成功した数少ない君主である。「漢委奴国王」の金印を倭(日本)の奴国の使節にあたえた皇帝とされている。
 政策
 民政・財政
 前漢末以来の混乱で中国は疲弊し、前漢最盛期で約6千万人となった人口が光武帝の時代には2千万ほどに減少していた。この対策として光武帝は奴卑解放および大赦を数度にわたって実施し、自由民を増加させることで農村の生産力向上と民心の獲得を図った。徴兵制を廃止して、通常は農業生産に従事させ有事に兵となす屯田兵を用い、生産と需要の均衡が崩壊したことによる飢饉や、辺境への食料輸送の問題を緩和した。
 人民の身分に関する政策としては上記の奴卑解放令の他、35年(建武11年)には「天地之性、人為貴。(この世界においては、人であることが尊い)」で始まる詔を発し、奴婢と良民の刑法上の平等を宣言したことが挙げられる。また31年(建武7年)に売人法、37年(建武13年)に略人法を公布し人身売買を規制した。
 租税については、それまで王朝の軍事財政の不足を理由に収穫の1/10としていたのを30年(建武6年)に前漢と同じく1/30とし、人民の不満の緩和を図った。この減税が可能となった背景として、屯田の施行により兵士の糧食を確保できるようになったことがある。
 徴兵を帰農させた後、39年(建武15年)に耕地面積と戸籍との全国調査を施行し、人民支配の基礎を固め、国家財政を確立した。もっとも、この耕地・戸籍調査の際には首都のある河南郡や皇帝の郷里である南陽郡で不正申告がおこなわれた。両郡の豪族が権勢を有していたことを示す事件である。また調査に不満を抱いた地方豪族が農民を糾合して反乱をおこすこともあった。
 王莽が貨幣制度を混乱させたため後漢初期には粗悪な貨幣が流通していたが、40年(建武16年)には前漢武帝以来の五銖銭の鋳造が始められ、貨幣制度が整備された。以上により統一王朝としての後漢王朝の実体がほぼ備わった。
 統治機構
 光武帝期における統治機構の整備としては次のようなものが挙げられる。
 後漢前漢統治機構を踏襲して郡国制を採用したが、諸侯王・列侯の封邑は前漢に比してきわめて小さいものであった。諸侯王の封邑も1郡に過ぎず、功臣を封侯しても多くとも数県を与えるのみであった。王莽が廃した前漢の諸侯王で光武帝の即位時に地位を回復されたものも37年(建武13年)には列侯に格下げされ、その後に光武帝期に諸侯王とされたのはかれの同族たる南陽舂陵の劉氏一族と皇子たちのみであった。
 中央政府には大司徒・大司空・大司馬の三公を政治の最高責任者として設けた。もっとも、政治の実務上は皇帝の秘書たる尚書が重用された。その他、官制・軍制については役所を統廃合して冗官の削減を実現し、31年(建武7年)には地方常備軍である材官・騎士などを廃止して労働力の民間への転換を行うなどしている。混乱期の将軍も多くが解任され、小規模な常備軍を準備するに留め、財政負担の軽減を図っている。
 また財政機関の再編成として、前漢では帝室財政を所管していた少府の管掌を国家財政の機関たる大司農に移し、帝室財政を国家財政に包含させたり、前漢では大司農に直属していた国家財政の重要な機関である塩官・鉄官を在地の郡県に属させるなどした。
 儒教の振興
 光武帝の施策の政治的・思想的特色のひとつとして儒教を振興し、学制・礼制を整備したことが挙げられる。29年(建武5年)、洛陽に太学を設けて儒学を講じさせたり14名の五経博士を設けた他、時期を同じくして各地に私学が設けられ、当地の学者が門弟を集めて経書を講義するようになった。
 また、官吏登用制度たる郷挙里選においては孝行・廉潔を旨とする孝廉の科目が重視され、36年(建武12年)には三公らが毎年一定数の孝廉を推挙するよう規定された。さらに56年(建武中元1年)には洛陽に教化・祭礼の施設として明堂・霊台・辟雍を設置した。
 光武帝が統治の根拠とした儒教は讖緯説と結合したものであった。前漢後期以来盛んに行われた讖緯説は予言などの神秘主義的な要素が濃いものであり、王莽もこれを用いた。光武帝は即位時に上述の『赤伏符』の予言に拠った他、三公の人事や封禅の施行の根拠として讖文を用いたこともあり、讖緯説を批判した儒学者は用いられなくなった。最晩年の57年(建武中元2年)には図讖を天下に宣布することを命じた。
 対外政策
 対外関係においては次のような施策をおこなった。
 東方では朝鮮半島楽浪郡後漢初頭以来の自立勢力を30年(建武6年)に討ち、郡県制による直接支配をおこなう一方、半島東方の首長を県侯に封じたり半島南部からの入貢者を容れて楽浪郡に属させるなど、直轄することを放棄した地域では間接支配をおこなった。王莽が侯に格下げした高句麗は32年(建武8年)に後漢朝貢し、前漢末以来の王号が復活された。また57年(建武中元2年)には倭の奴国(委奴国という説もある)の使者に対し金印を授けている。これが江戸時代に志賀島で発見された漢委奴国王印だと考えられている。
 西方では35年(建武11年)に侵攻してきた羌族を馬援に撃たせ、降伏した者を天水・隴西・右扶風の内郡に移住させて郡県の管轄下に置いた。
 南方では40年(建武16年)に交趾(ベトナム)で生じた徴姉妹の反乱に対し、馬援を派遣してこれを鎮圧している。馬援は武力行使の一方で城郭の修復や灌漑用水の整備による農業の振興などをおこない、また当地の慣習法を漢法に優先させるなどし、郡県制の整備にあたって現地の習俗を尊重した。
 北方では匈奴が王莽の強硬な外交政策に反発して以来勢力を増していた。光武帝は30年(建武6年)に和親の使者を送ったが、匈奴の侵寇は続いた。ところが48年(建武24年)に匈奴が内部抗争により南北に分裂し、南匈奴後漢に帰順した。この分裂により烏桓鮮卑匈奴から離脱した。光武帝は49年(建武25年)に烏桓の酋長を侯王に封じ、鮮卑朝貢も受けた。北匈奴後漢と和親して南匈奴を弱体化させるべく51年(建武27年)に使者を遣わした。光武帝は和親を認めず、一方で北匈奴を討伐する策もしりぞけ、絹帛などを与えて懐柔するにとどめた。
 評価
 南朝梁・元帝の『金楼子』は、諸葛亮の見解として「光武帝の部将は韓信・周勃に引けを取らず、謀臣は張良・陳平に劣らないが、光武帝が神の如き知謀を持ちみずから深謀遠慮を有していたため臣下は難事を未然に防ぐという賞賛されにくい功を挙げることとなった。いっぽう高祖は粗略であったために張良・陳平・韓信・周勃が(奇策や攻略といった)賞賛されやすい功を挙げることとなった」と記す。
 『資治通鑑』の著者司馬光は、「武力による天下統一から日を置かずして儒学を振興した光武帝の志は明帝・章帝に受け継がれ、200年後の曹操すら恐れて簒奪できなかったとし、夏・殷・周の三代が滅んで以来、教化による美風は後漢において最も盛んであった」と論じている。
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光武帝(上) (講談社文庫)

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光武帝(中) (講談社文庫)

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光武帝(下) (講談社文庫)

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王莽 (講談社文庫)

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張騫 (講談社文庫)

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