🐉18」─1─中国共産党の最大のタブー、天安門事件「火炎ビン1000本」の深すぎる闇。~No.62No.63No.64 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 中国共産党とは、孫子の兵法を駆使する謀略と陰謀の党である。
 孫子の兵法とは、戦争を避けて勝利する戦略の事である。
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 中国における反日デモ・暴動の多くは、中国共産党が仕向けている官製デモ・暴動である。
 歴史的事実として、中国共産党の支配とは共産主義による暴力と死による恐怖支配である。
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 日中戦争と日米戦争は、レーニンの指示に従って暗躍した中国共産党によって起きていた。
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 日本国内には、中国共産党を支援する媚中派エセ保守と反米派・反安保派・反自衛隊派リベラル左派、過激派が存在している。
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 中国共産党は、昭和天皇や皇族を惨殺しようとした日本人の共産主義者無政府主義者テロリストを支援していた。
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 2025年7月6日 MicrosoftStartニュース ダイヤモンド・オンライン「天安門事件「戦車に立ち向かう男」の正体は?伝説の名シーンに隠された不可解な謎
 戦車隊の前に丸腰で立ちふさがる1人の男。1989年6月4日の天安門事件で撮影されたと言われる戦車男の映像は、実は不自然な点だらけだ。中国共産党の情報工作と報道の舞台裏を描きながら、誰も知らなかった戦車男の真相に迫る。※本稿は、加藤青延『虚構の六四天安門事件 中国共産党不都合な真実に迫る』(PHP研究所)の一部を抜粋・編集したものです。
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● 中国共産党の軍隊に勇敢にも 素手で立ち向かう民主化運動家
 民主化運動を軍が武力鎮圧した天安門事件。その「名場面」としてこれまで世界に広く伝えられてきたのが、戦車の前に立ちふさがる「勇敢な男(戦車男)」の写真や映像だ。
 分厚い鋼鉄に包まれ大砲を搭載する威圧的な戦車に対して、たった1人丸腰で立ち向かうその勇ましい青年の姿は、「中国民主化運動のヒーロー」と受けとめられ、今なお、当時の画像や映像がメディアにしばしば登場する。
 そのためか、今では多くの人が、あの写真こそ天安門事件そのものなのだと信じ込むようになった。だがその「勇敢な男の名場面」が天安門事件を象徴する一幕として使われるたびに、当時、武力鎮圧に関わった当事者たちは、「何もわかっていない」とほくそえんでいるかもしれないのだ。
 これまでに世界で数多く伝えられてきた「名場面の伝説」は、次のように要約される。
 時はまさに天安門事件の真っただ中。民主化運動を武力で制圧するため出動した人民解放軍の戦車部隊の前に、1人の勇敢な若い男が飛び出した。彼は大胆にも戦車の前に立ちふさがり、仁王立ちになってその前進を阻んだ。すると戦車の操縦士がハンドルを切って進む方向を少し変え、彼の脇をすり抜けようとした。だが、その男も果敢に横移動して方向を変えた戦車の前に立ちふさがる。戦車が今度は逆方向に舵を切り、逆サイドから男を避けて進もうとするが、男もそれと合わせて逆方向に横移動し、再び戦車の行く手を阻んだというものだ。
 そして彼こそが、素手で戦車に挑んだ勇敢な民主化運動の戦士だったと称えられている。確かに世界に配信された短い映像やスチール写真に限れば、そのような説明をつけても誰も不思議には思わない光景ではあった。
● 戦車男が現れた場所には 外国メディアがひしめいていた
 もし筆者が当時現場でそのありさまを自分の目で見ていなかったら、いとも簡単にその「伝説」を信じ込んでいただろう。だが実際にその不思議な「名場面」をありのまま目にすることができたおかげで、多くの疑いを抱くようになった。
 現場に居合わせたからこそ断言できる点は、まずあの「名場面」が起きたのは、天安門事件の当日ではなく、その翌日、つまり1989年6月5日だったということだ。すでに広場は、人民解放軍の部隊に完全に制圧されていた。
 「名場面」の舞台も、天安門広場そのものではなく、それよりやや東側の長安街。当時、民主化運動の取材をするため多くの外国の報道機関が最前線の取材拠点を構えていた北京飯店のすぐそばだった。外国の報道機関に対して最もアピールしやすい地点だった。
 4日の軍事制圧で広場を締め出された多くの外国の報道機関は、北京飯店の長安街沿いのバルコニーにカメラを備えつけ、レンズを広場のほうに向けて警戒していた。問題の「名場面」は、まさにその報道陣のカメラのファインダーにそのまま写り込む絶好の場所で起きた。だからNHKを含む世界の主要メディアの多くが、男が戦車の前に立ちふさがる瞬間を撮り逃すことなく撮影できたのだ。
 もし、それが「勇ましい民主化運動の闘士」の大胆な決起であれば、事前に予告でもされていない限り予測不能であり、たまたまその場に居合わせたどこかの幸運なメディアが特ダネとして撮影できることはあり得るとしても、かくも多くの外国の報道機関が一斉に撮影できるとは考えにくい。
● 戦車20両を止めた名場面が もし用意された演出だったら?
 当時、北京飯店の1室の最前線拠点で取材をしていた筆者も、戦車と戦車男が対峙する場面を遠目ながら直接目視することができた。その時の様子はこうだ。
 天安門広場のほうから数珠つなぎのようになって戦車20両近くが出現し、長安街を東方向に進んできた。それまでに広場を出入りした多くの戦車と比べて、その走行スピードは明らかに遅かった。すると突然、長安街の歩道からバッグのようなものを両手にぶら下げた白シャツ姿の男が飛び出した。くだんの戦車男だ。これを見て長安街の両端の歩道にいた群衆から「ウォー」という大きな歓声が上がる。筆者も含め、その歓声に驚いて長安街の出来事に関心を寄せた記者も少なくなかっただろう。
 南側の歩道から車道中央に飛び出した男は何ら躊躇することもなく、近づいてきた戦車の列の先頭車両の前に立ちはだかった。すると戦車はピタリと制止。後続する戦車もそれに従うように次々と一列縦隊の形で止まった。
 たった1人でいとも簡単に戦車の縦隊を止めることに成功した男は、右手にぶら下げたバッグを少し振り回すようなしぐさをした。
 すると先頭の戦車がそちらの方向に舵を切る。男はただちに横に移動し、戦車の行く手をさえぎり、そして今度は左手にぶら下げたバッグを少し振り回すようなしぐさをした。するとそれに応じたかのように、今度は戦車が左側に舵を切り返した。戦車男と先頭の戦車の間では、その後も同じようなことが何回も繰り返され、戦車は右へ左へと舵を切り返し、そのたびに男が戦車の前に立ちふさがることになった。
 やがて戦車男は、停止している戦車の上によじ登り砲塔の中をのぞき込んだ。続いて戦車から降りて砲塔から顔を出した兵士と言葉を一言交わしたように見えた。
 しかし戦車がまた前進しようとしたため、再び戦車の前に立ちふさがり行く手を遮ろうとしたところを、長安街の両側から一斉に飛び出した私服警官と思われる男たちの手で取り押さえられ、そのまま目の前の公安省(警察庁に相当)の中に連れ込まれるように姿を消したのだ。公安省には当時、第24集団軍の兵士が多数進駐していた。
● 監視の目が光る公安省の前で なぜ戦車男は無事だったのか?
 筆者とともに北京飯店にいた取材班は、しばしあっけにとられ、一体何が起きたのかわからなかった。とにかく普通ではあり得ないことが起きたことだけはわかった。そして、考えれば考えるほど理解に苦しむことが次々と浮かび上がってきた。
 まず、厳重な警備が敷かれていた天安門広場の近くになぜあの戦車男が易々と入り込めたのかということ。もし仲間がいれば数人で一斉に車道に飛び出したと思われる。前日の天安門事件の時に、長安街に突入してきた装甲車を止めようとした「暴徒」は、大勢で装甲車を取り囲み、キャタピラと車輪の間に鉄パイプを突っ込むことで、力ずくで走行を不能にした。
 ところがあの戦車男はたった1人で無謀にも戦車の前に立ちふさがったのだ。完全な単独行動に見えた。
 しかも男が戦車を止めた場所が公安省の目の前の路上で、当時その近辺には、非常に多くの私服警官が見張っていたはずだった。もし不審な男がいれば、道路に飛び出した瞬間につかまってしまうような緊迫した状況だった。なぜ私服警官たちは、あの戦車男が戦車の前に飛び出してもすぐに取り押さえず、しばらく戦車の行く手を妨害し続けることを黙認したのだろうか。
 また、戦車男はなぜ両手に大きなバッグをぶら下げ、戦車に合図を送るようなしぐさをしたのか。戦車男の視線が常に戦車の操縦士の潜望鏡のほうに向けられていたのはなぜなのか。戦車男は、なぜ最初から最後まで無言であったのか。広場で抵抗した多くの学生や市民が、いつも大声で共産党や政府の批判を口走っていたのとは対照的だった。
● 戦車男が立ちはだかった相手は 広場に入る戦車ではなかった
 そもそも行く手を阻まれた戦車部隊は天安門広場を制圧した後、広場から“撤収”する方向に移動していたのだ。もし戦車男の行動が、広場に侵入しようとする戦車を食い止めようとしたのであったらまだ納得できる。
 実際には、戦車男の行動はまさにその逆で、自らの宿営に帰ろうと広場を後にする戦車の列の前に、まるで「広場から撤収するな」というかのような阻止行動をしたのだ。
 さらに疑問は尽きない。先頭の戦車が前進を阻まれても、後続の20両近くの戦車がお行儀よく1列に連なる必要はなかったはずだ。現場の長安街の道幅は片道5車線以上という北京の中でもひときわ広い場所だった。周囲にはバリケードもなかった。
 他の戦車は、先頭車の脇をすり抜けてどんどん前進できたはずだ。たった1人の素手の男が、先頭の戦車を止めたところ、後続する20両近くが数珠つなぎのようになって一斉に止まってしまったことすらおかしなことだった。
 男が着ていた服装もおかしかった。真っ白なワイシャツを着ていたのだ。当時、天安門広場で抗議運動をしていた学生や市民の多くは、その場に何日も寝泊りしていたため、顔はすすけ、着ているものはだいぶ汚れていた。汚れが目立たないよう色物のシャツを着ている人が多かった。
 天安門広場の周辺で見かけた「きれいな白いシャツ」の人たちは、その多くが2人ずつペアで行動する私服警官など当局側の人間が多かった。われわれが天安門広場などで取材する時も、常に「白シャツ」の姿や視線を確認しながら行動していたのだ。
 当日、戦車男を取り押さえた私服警官と見られる人たちも、その多くが白シャツだった。そして何より、秘かに人民大会堂に進駐した兵士たちもまた、白シャツ姿が多かった。
 加藤青延
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 7月6日 MicrosoftStartニュース ダイヤモンド・オンライン「中国共産党の最大のタブー、天安門事件「火炎ビン1000本」の深すぎる闇
 加藤青延
 天安門事件では、民主化を求めて集まった市民が暴徒化し、軍の装甲車に火炎瓶を投げつけた。中国共産党は、これをもって武力弾圧を正当化したが、その火炎瓶を投げたのは市民ではなかった可能性があるという。燃えた軍車両、現場に残された数々の矛盾、自作自演を疑わせる状況証拠。火炎瓶の出所を追うと、天安門事件の真相と、中国共産党の暗部が見えてきた。※本稿は、加藤青延『虚構の六四天安門事件 中国共産党不都合な真実に迫る』(PHP研究所)の一部を抜粋・編集したものです。
 天安門に現れた1000本の火炎瓶
 市民にそんな準備ができるのか?
 戒厳軍と戦うために学生たちが火炎瓶を準備している様子をまったく見たことがなかった。しかし、天安門事件の時に北京市内で「武闘派」(編集部注/天安門広場を制圧しようとする戒厳軍に立ち向かう、火炎瓶で武装した人々を指す)が使用した火炎瓶の数は、計り知れないほど多かった。
 現場で目撃できた破壊車両の多くは黒焦げ状態で、ほとんどが火炎瓶攻撃を受けていた。武装した軍用車両と力で対抗するには、火炎瓶が最も有効な攻撃手段になったことがうかがえる。
 事件から2カ月後の8月16日、戒厳部隊某連隊で政治委員だった李練上校(大佐に相当)が広東省の日刊紙『南方日報』で明らかにした数字によると、「暴徒」によって破壊された車両は、合わせて1000両あまりということだ。
 単純に計算するわけにはいかないが、1両破壊するのに火炎瓶1本が最低限必要だとすれば、1000本以上の火炎瓶が使われていても不思議ではない。そのような多数の火炎瓶が、なぜ天安門事件の当日だけ大量に出現したのであろうか。
 当時、いすゞ自動車の北京事務所長だった渡辺真純氏は、2020年に発行された『証言 天安門事件を目撃した日本人たち』(ミネルヴァ書房)のなかで次のように記している。
 「燃やされた軍用トラックなどは私の眼にはどれもみなまったくのポンコツ車に映った。当時の中国ではガソリンは重要管理品目で購入許可証が必要で、市民が簡単に入手できるものではなかった。そのガソリンがいとも簡単に瓶詰めされ、“火炎瓶”となって突如、市内のあちこちに出現した。しかも、おかしなことに北京市内のガソリンスタンドは、どこも暴徒に襲われた形跡はなかった。それではあのガソリンは、一体どこで手に入れたものだったのだろう。今でも私の中ではナゾである」
 火炎瓶に不可欠なガソリン
 その供給ルートが不明すぎる
 渡辺氏の指摘には筆者もまったく同感である。あれほど大量のガソリンを手に入れ、市内各地に火炎瓶として配布するには、相当な組織力と資金力、さらには入手ルートの確保が必要だったはずだ。
 だが民主化運動を行う学生たちにも、それを応援する市民たちにもそのような力があったとはとても思えない。むしろ戒厳軍側が、学生市民に対して武力行使をする口実づくりのため、「暴徒が大量の軍用車両を襲撃し焼失させた」という「偽旗攻撃」を演出したと考えたほうが、突如大量の火炎瓶が出現したことを、すんなり納得できるのである。
 「暴徒」と軍がつながっていたとすれば、大量のガソリンを入手することなどいとも簡単で、しかも組織的にそれを北京市内各地に配布することも可能だったはずだ。
 もちろん軍に抵抗したすべての「暴徒」が軍の回し者であったと、ここで決めつけようとしているわけではない。軍が学生市民に対して無慈悲に発砲し、多くの人がバタバタと倒れるのを目撃した人の中からは、義憤にかられ暴力で軍に立ち向かおうとした人たちも、もちろん存在したのだと考える。
 だが、軍を火炎瓶で襲撃した「暴徒」のすべてが、そうした勇敢な学生・市民側の人たちだったとも考えにくいのだ。
 投石で逃げた兵士たちは臆病なのか?
 それとも確信犯だったのか?
 暴徒が軍用車両を襲う光景を直接目撃した渡辺氏は、火炎瓶攻撃の様子についても興味深い内容を記されている。
 ここではそれを順番付けしてご説明すると、(1)まず群衆が投石して戦闘車両を停止させる。(2)車両から兵士が脱出する。(3)兵士は軍服を脱ぎ捨て民衆の中に紛れ込む。(4)乗組員が不在になった戦闘車両に火炎瓶が投げつけられ炎上する、という流れである。
 この流れであれば、兵士は傷つくことなく車両を離れられ、空になった車両だけを焼失させることができる。もし火炎瓶攻撃が手順の最初に行われていたら、戦闘車両の中にいる兵士は、脱出が難しくなることもあり得るし、脱出できても大やけどをする恐れもあっただろう。
 もっとも投石を受けただけで、兵士が即座に車両の中から逃げ出し軍服を脱ぎ捨てるということも、いささか奇妙なことではあった。
 戦車にせよ、装甲車にせよ、投石ごときをはねつけられるだけの強靭さが備わっていたはずだ。投石を受けた程度で兵士が乗車している装甲車両を放棄してしまうのであれば、これはあまりに腑抜けと言わざるを得ない。人民解放軍の名誉のためにも、そこまで臆病な兵士はいなかったと筆者は信じたい。
 ではどうして兵士は車両から逃げ出したのか。それは、火炎瓶による襲撃が軍側の偽旗作戦による「演出」だったと考えればすべてが腑に落ちることになる。
 軍側の「暴徒」が軍事車両を火炎瓶で襲撃するのであれば、同士討ちの形で乗員の兵士を傷つけることを極力回避したいと考えるだろう。火炎瓶攻撃の際に、先に挙げた(1)から(4)の手順をきちんと踏むことで、乗員兵士側の被害を出さずに車両を炎上破壊する偽旗作戦が行われた疑いが濃厚というわけだ。
 火炎瓶攻撃を受けたのは
 ポンコツ車ばかりという謎
 実際に焼かれた車両のほうからも、軍側の「演出」をにおわせる疑惑が浮かび上がってきた。
 まさに車のプロである渡辺氏が「どれもみなまったくのポンコツ車に映った」と記されているように、事件直後、被害を受けた北京市内の軍用車両を見て回った筆者は、その型式がかなり古いものばかりであるとの印象を受けた
 特に、軍用トラックについていえば、長春にある第一自動車工場が60年代から主力生産した「解放牌」、俗に「老解放」と呼ばれる大昔のものを原型としており、天安門事件当時でさえ何十年も前の世界に戻ってしまったかのような違和感を覚えた。
 後日談になるが、天安門事件の半年後、筆者は北京市郊外の人民解放軍の某部隊を取材することができた。そこで目にしたのは、真新しい軍用トラックがずらりと並ぶ光景であった。
 ずらりと並ぶ真新しいトラック
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 「ピカピカの新しいトラックですね。『老解放』はもうお役御免ですか?」
 そう尋ねると、案内をしてくれた軍の関係者は、
 「あれはとっくに廃棄処分になっています」と答えた。
 つまり、天安門事件で焼失した軍用トラックの多くは、廃棄処分寸前か、すでに廃棄された車両であったようだ。戦車や装甲車は、当時まだ同じタイプのものが現役として使用されてはいたが、事件当時、通常走行中に奇妙なエンジン音を発したり、黒煙をもくもくと上げたりする整備不良と思しき車両も多く、最新鋭のものは見当たらなかった。
 どうせ偽旗作戦で焼失させるのであれば、「不要のものから順番に」ということではなかったかと疑ってしまう。
 逃げる時間はあったはずなのに
 縦列駐車のまま燃えた軍事車両
 当時は焼けただれた残骸の配置から見ても、「本当に暴徒の襲撃を受けた」とはとても思えないものが散見された。
 昨今のウクライナ戦争で攻撃を受けた軍事車両の残骸を見てもわかることだが、ふつうは最初の攻撃を受けた段階で何らかの回避行動をするものと思われる。
 天安門事件の時にも、広場近くの長安街では、確かに回避行動を行った焼失車両の残骸がてんでバラバラに散らばっていた。
 その一方で、少し離れた市西部の道路などでは、装甲車がまるで道路に縦列駐車をしたかのような格好で炎上しているケースも結構目立った。
 車間を詰めた形で縦隊の列を崩さず炎上する装甲車の写真も配信され、やはり異常な光景として受け止められた。道幅が狭い山道ならば最先端と最後尾の車両が攻撃を受けた場合は、その間の車両も身動きが取れずに縦隊を維持したまま餌食になることはあり得るかもしれない。
 縦隊を崩さずに炎上する装甲車の様子
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 書影『虚構の六四天安門事件 中国共産党不都合な真実に迫る』
 『虚構の六四天安門事件 中国共産党不都合な真実に迫る』(加藤青延、PHP研究所
 しかし天安門事件で隊列を維持したまま炎上した装甲車の場合、現場の道路が片側5車線前後と道幅が広く、いくらでも回避行動ができたと考えられる。
 被害を受けたとされる約1000両の軍用車両のうち、どれだけが本物の「暴徒」の襲撃を受け、どれだけが自作自演の「偽旗作戦」だったか。その割合については、残念ながら明確な数字を突き止めることはできなかった。
 世界に大きな衝撃を与えた天安門事件は、三十余年を経た現在にいたっても、中国共産党の「最大のタブー」として覆い隠され、疑いだせばきりがないほど、なお闇深いのである。
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