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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
現代日本人は、民族的な伝統力・文化力・歴史力そして宗教力がないだけに、日本の歴史はもちろん世界の歴史も理解できない。
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2025年2月19日 YAHOO!JAPANニュース ダイヤモンド・オンライン「「金持ちも貧乏人も戦争を望んだ」古代ローマに学ぶ“残酷な真実”とは?
出典:『地図で学ぶ 世界史「再入門」』
「金持ちも貧乏人も戦争を望んだ」古代ローマに学ぶ“残酷な真実”とは?
「地図を読み解き、歴史を深読みしよう」
人類の歴史は、交易、外交、戦争などの交流を重ねるうちに紡がれてきました。しかし、その移動や交流を、文字だけでイメージするのは困難です。地図を活用すれば、文字や年表だけでは捉えにくい歴史の背景や構造が鮮明に浮かび上がります。
本連載は、政治、経済、貿易、宗教、戦争など、多岐にわたる人類の営みを、地図や図解を用いて解説するものです。地図で世界史を学び直すことで、経済ニュースや国際情勢の理解が深まり、現代社会を読み解く基礎教養も身につきます。著者は代々木ゼミナールの世界史講師の伊藤敏氏。黒板にフリーハンドで描かれる正確無比な地図に魅了される受験生も多い。近刊『地図で学ぶ 世界史「再入門」』の著者でもある。
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● 古代ローマが侵略戦争を続けた「意外な理由」
歴史は人類、人間によって紡がれてきた事象の蓄積です。その人類の歴史は、様々な理由から常に「移動」を伴うものでした。具体的には移住、商取引(貿易)、戦争などです。
このような「動き」(移動)を伴う活動は、狭いエリアから広範囲に至るものまで多様なものであり、ある意味、人類の歴史の根幹をなしているものと言えるでしょう。
この「ヒトの動き」ないし移動のポイントは、移動に何かしらの「目的」が付随していることです。一例を挙げましょう。
紀元前2世紀半ばまでに、共和政ローマ、後のローマ帝国は、ポエニ戦争という戦争を経て西地中海で最大の勢力に躍り出ました。その後もローマは属州と呼ばれる海外領土を拡大するべく、征服戦争を継続します。
これは、「内乱の一世紀」(前133〜前27)と呼ばれる混乱のさなかであっても、さらに帝政期を迎えてもなお同様でした。下図をご覧ください。
では、なぜローマは属州の拡大を続けたのでしょうか。
正解は、「奴隷の確保」にあります。
● なぜ人々は戦争を望んだのか?
ポエニ戦争後より、ローマでは富裕層を中心にラティフンディアと呼ばれる大土地(大農)経営が各地で展開されました。このラティフンディアでの労働力となったのが、奴隷だったのです。したがって、たとえ国内が混乱にあっても、富裕層は奴隷を必要としたことから征服戦争を支持し、また都市の貧困層も、無償のパンの配給(いわゆる「パンとサーカス」)が属州産の安い穀物で維持されたことから、属州の拡大を歓迎したのです。
もちろん、「奴隷の確保」だけがローマの征服戦争の理由ではありませんが、この例のように征服戦争という「ヒトの動き」と、それに付随する「奴隷の確保」という「目的」を見出すことで、ローマという国家の様々な要素を体系的につなぐことができるのです。
(本原稿は『地図で学ぶ 世界史「再入門」』の一部抜粋・編集を行ったものです)
伊藤敏
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古代ギリシャ、古代ローマ、古代エジプトなど古代文明では、戦争と奴隷を必要としていた。
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福岡県弁護士会
弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
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2015年9月23日
奴隷のしつけ方
ローマ
(霧山昴)
著者 マルクス・シドニウス・ファルクス 出版 太田出版
ローマには奴隷であふれている。イタリア半島の居住者の3,4人には1人は奴隷だ。ローマ帝国全体では8人に1人が奴隷。首都ローマの人口100万人のうち、少なくとも3分の1は奴隷。
奴隷とは、戦争捕虜か、女奴隷が産んだ子。このほか貧しい者が借金返済のために自らを売ることもあれば、人買いにさらわれてきて奴隷になる者もいる。
ローマという大帝国を支配してきた者の多くは、実は奴隷の子孫なのである。
奴隷は家族をもたず、結婚の権利と義務から切り離され、存在理由そのものを主人から押しつけられ、名前も主人から与えられる。
奴隷は自分の個人財産をもつことが一般的に許されていた。ただし、法律上はあくまで主人の所有者とされた。結婚も、法律上は認められなかったものの、一般的には主人が事実婚を認めていた。
主人の措置に耐えかねたとき、奴隷が神殿に逃げ込むことが許されるようになった。
奴隷による反乱はまれだった。そして、スパルタクスの反乱を例外として、たやすく鎮圧された。スパルタクスたちは、奴隷の大国を目ざしたのではない。できるかぎりの略奪をして、なんとか地方の故郷に帰ろうとしただけ。背景にあったのは、奴隷所有者たちの行きすぎた残 忍性だった。
奴隷の解放は、ただではない。奴隷価値の5%を税金として納めなければならなかった。つまり、多くの奴隷が解放されると、それだけ国の税収も増える仕組みになっていた。
解放奴隷のなかには、人並みはずれた頭脳の持ち主もいて、学術研究に多大の貢献をなし た。解放奴隷とは、これ見よがしに富をひけらかすのが好きな連中だ。
ローマ帝国は大量奴隷の存在を抜きにしてありえなかったようです。
(2015年6月刊。1800円+税)
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世界史の窓
解放奴隷(ローマ)
古代ローマで、一定の条件で奴隷から解放され、市民権を得た自由人。帝政期に増加した。
ローマ市民社会の最大の特徴
古代ローマにおいては、奴隷が「正当かつ合法的な解放」によってローマ市民となることができた。おなじく多くの奴隷が存在した古代ギリシアのアテネでは、解放された奴隷は在留外人(メトイコイ)となるだけで、市民権は認められなかったから、ローマの市民社会の最大の特徴と言うことができる。
奴隷解放の一定の手続きには、「人口と財産調査による解放」、「杖による解放」、「遺言による解放」の三つのケースがあった。
人口と財産調査による解放 5年に一度、監察官が行う市民の人口と財産の調査に際して、奴隷所有者が、奴隷がもともと自由人であったことを申告することによって解放された。
杖による解放 執政官、法務官、属州総督などの公職者の面前に、奴隷主と奴隷、奴隷がもともと自由人であったことを証言する原告役の市民の三者で出頭し、原告役の市民が奴隷がもともと自由人であったことを証言して奴隷の体を杖でさわり、奴隷主がそれに抗弁しない(異議を申し立てない)と、公職者は奴隷の自由身分の回復を宣言して、奴隷は解放される。
遺言による解放 奴隷主が遺言で奴隷解放の意思を表明する。主人が奴隷の忠勤に対する報償として解放を認める、もっとも一般的な方法であった。主人の相続人に一定の金銭を払うことなどの条件をつけることができた。
解放奴隷の解放条件やその地位に関しては、帝政成立期のアウグストゥス帝とティベリウス帝の時代に細かい規定が設けられた。解放奴隷は自由人となり、ローマ市民権が与えられ、民会に出席し、公職者の選挙にも参加できた。しかし、ローマの市民社会を規制するローマ市民法では、人間は自由人であるか奴隷であるかでまず二分され、自由人は出生自由人であるか解放奴隷であるかでさらに二分された。また出生自由人には、元老院議員とそれ以外の市民が厳然と区別され、元老院議員に次ぐ階層は騎士階級とされた。なお解放奴隷の中には、条件が十分ではなく、自由人となったが市民権は認められない場合もあった。
富裕な解放奴隷
帝政成立後、100年ほど経った頃から、解放奴隷の中にも富裕な財産をもつものが現れた。解放奴隷に対してはもとの奴隷主が解放後も一定の保護権を持っていたが、富裕な財産をもつ解放奴隷は旧奴隷主の保護から離れて、中には傍若無人に振る舞うものも現れ、元老院議員たちを憤慨させることがあった。帝政ローマ時代にペトロニウスという人が書いたと言われている『サテュリコン』は、そのような富裕な解放奴隷が登場する一種の悪漢小説で、帝政初期のローマの風俗が描かれており、その中の一つに年老いた解放奴隷トリマルキオの語る成功談がある。解放奴隷は元老院議員や騎士身分にはなれず、せいぜい下級官吏止まりだったから、もっぱら商売や投資で財産を殖やした。
コロヌスへ
ローマの支配階級であった元老院議員たちの大土地所有であるラティフンディアでも奴隷制生産は効率が悪く、また奴隷の供給も減少したため、2紀ごろから解放奴隷を小作人として土地を耕作させ、小作料を取るようになった。このような小作人をコロヌスといい、そのような生産方式をコロナトゥスといった。コロヌスは奴隷とは異なり自由人ではあったが、小作地を離れることはできず、中世の農奴の原型となった。
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