🔯20」─4─軍事強国スパルタが、ライバル・アテナイの民主政を恐れた意外な理由。~No.64 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 現代の日本人は、思想や哲学を持たず、歴史、宗教、イデオロギーが理解できない。
 その傾向は、超難関校出の高学歴の政治的エリートと進歩的インテリ達に強い。
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 2024年9月6日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「文化を軽視し文字を嫌った軍事強国スパルタが、ライバル・アテナイの民主政を恐れた意外な理由。
 スパルタのレオニダ王の像。本村凌二氏撮影
 古代ギリシアの歴史の舞台、ポリス(都市国家)として有名なのは、アテナイ(アテネ)とスパルタだ。しかし、アテナイが民主政治や壮麗な神殿建築、ギリシア悲劇などを連想させるのに対して、スパルタといえば「スパルタ教育」……しか思い浮かばない。しかし、アテナイと激しく覇権を争った強国の意外な実像には、歴史の皮肉が――。
 【写真】軍事国家スパルタの王
 いまは「見栄えのしない田舎町」
 現在のスパルタ。遺跡のむこうに街並みが見える。本村凌二氏撮影
 「地中海世界の歴史」第3巻『白熱する人間たちの都市』(本村凌二著、講談社選書メチエ)から、この謎多きポリス・スパルタの歴史をたどってみよう。
 著者の本村氏は、現在のスパルタを訪れた印象を記している。
 〈スパルタは今日訪れても見栄えのしない田舎町にすぎない。これがアテナイと並び称された大強国の都市かと目を疑いたくなる。いくら武勇を重んじ文化を軽んじたとはいえ、アテナイとの落差を考えると、文化遺産の少なさや品質の低さに愕然とする。〉(『白熱する人間たちの都市』p.247-248)
 古代スパルタ人にとっては「今の自分たち」が大事であり、文化遺産などという未来の価値観などには思いがいたらなかったらしい。それがスパルタ人の気質だったのだろう。
 もっぱら軍事が重んじられたスパルタでは、文芸の素養は軽視され、文武両道を「良きたしなみ」と見なすこともなかった。
 あるアテナイ人が「スパルタ人は無学だ」とからかったときには、王位にあったスパルタ人は「おっしゃるとおりだ。われわれだけがあなた方から悪習を学ばなかったですからな」と返したという。
 〈文芸には少しも関心を示さなかったスパルタ人だが、優雅さのただようピリリと鋭い言葉を用いることについては、子供たちに教えていたという。スパルタ王の皮肉な応答はいかにも機敏な武人の面目躍如たる姿を思い浮かべさせるのではないだろうか。〉(同書p.99)
 とにかく、スパルタ人にとって大切なのは言葉ではなく行動だった。そのせいか、スパルタについての文書史料は極端なほど少ないという。スパルタ人の文字嫌いは徹底しており、法律も成文に記されることもなく、墓石にも、わずかな例外を除いて、故人の名前が刻まれることはなかった。その例外とは、戦死した兵士の名前であり、それがスパルタという国家の軍事的性格を物語っている。
 そもそもスパルタは、前2千年紀末、ドーリア人の一派がペロポネソス半島南部に侵入し、原ギリシア人であるアカイア人を征服して都市を築いたことに始まる。
 ポリスとしてのスパルタには、スパルタ人(市民)、ペリオイコイ(劣格市民)、ヘイロータイ(隷属民)の三つの身分があった。スパルタ人はみずからをホモイオイ(平等者)と称し、その結束が固いことを誇りにしていた。この市民にペリオイコイを加えてラケダイモン人とよばれたが、ペリオイコイには従軍義務はあっても政治参加は認められていなかった。
 スパルタの強力な軍事力は、対外戦争だけを目的としていたのではなかった。スパルタ人は先住のギリシア人を征服した人々であり、その地を永久に占領するために、服属した先住民をヘイロータイ(隷属民)として、農奴のように働かせなければならなかった。つまり、占領下のヘイロータイという「内なる敵」を抱えていたのである。この厄介な勢力に対して、常備軍は絶えざる軍事訓練を余儀なくされていたのだ。
 女性の務めは兵士を産むことだけ
 テルモピュライの戦いでのスパルタ王レオニダス。ジャック・ルイ・ダヴィッド画。
 厳しい訓練やしつけの代名詞として、「スパルタ教育」という言葉が今も使われているように、スパルタでは、少年たちは幼少期から集団生活をしていた。これらの少年たちを役人が事細かく目配りし、衣食住は質素にしながら、強壮な身体を鍛えあげるように監督したのである。集団生活は30歳までつづけられ、その後も毎日の共同の食事でお互いの絆を深めたというから、その結束力は凄まじいものがあった。
 こうした特異な国家組織は、「リュクルゴス体制」ともよばれる。スパルタを強国にした一連の改革は、リュクルゴスなる人物の手で成しとげられたと伝えられているからだ。ところが、古代の人々にとってすら、リュクルゴスはさらに古い時代の立法者であるというだけで、人物像は不明だったという。彼の生年も、家柄も、その最期も分からないことだらけで、肝心の法律や政策についても、伝えられるところはまちまちだった。そもそも実在しなかったとか、数人の人物を一人の人格にまとめているとか、諸説さまざまである。
 男児はだいたい7歳で母親の手を離れるから、スパルタ女性の家庭での務めは女児の世話だった。その女児教育も、強い兵士を産み育てるための体育が重んじられた。
 古代ギリシアでは、まずは機織りが女性の務めとされていたが、スパルタではそれは劣格市民(ペリオイコイ)の仕事だった。そのせいか、古代ギリシア世界においては、スパルタ女性はその役割と地位においてかなり解放されていたように見えるふしもあるという。
 〈たとえば、自分自身の権利で土地を所有し処分することができたのである。あえて言えば、兵士を産むことだけが女性に求められたのであり、その他のふるまいには規制が少なく、それだけに勝手気ままであってもよかったと言えなくもないのだ。そのせいで、後世には、スパルタ女は放縦だとの噂が出まわったというが、まんざら根拠のない評判でもあるまい。〉(『白熱する人間たちの都市』p.101)
 民主的であることの「軍事的威力」
 スパルタに立つレオニダス王の巨像。本村凌二氏撮影
 史料の少ないスパルタの歴史のなかで、本村氏は前6世紀末にスパルタがアテナイに侵攻し、民主政の黎明期にあったアテナイに撃退された事件に注目している。
 スパルタは古来の家系から2名の王がいたとはいえ、軍事大国の中核をなすのは市民の戦士共同体だった。その市民共同体はホモイオイ(平等者)の集まりであり、ある意味で徹底した民主主義が実現していた。それにもかかわらず、民主政国家として興隆しつつあるアテナイに軍隊を派遣したのだ。ここで本村氏は「歴史の皮肉に出会う気がする」という。
 〈想像力をはばたかせれば、古参の民主国家は強大な軍事力の秘密を知っていたから、新参の民主国家が軍事大国になることを怖れていたという図式も成り立つ。ここで思い浮かべるのが、(中略)W・チャーチルが20世紀の戦争について予見した言葉である。この今なお英国民に敬愛される勇相は「来るべき国民の戦争は、これまでの国王の戦争よりも恐ろしいものになる」というのである。国民が一団となって祖国防衛の戦いに参加すれば、それは強大な兵力になり、それだけ悲惨な戦争になるという予見である。〉(『白熱する人間たちの都市』p.157)
 幼少期から集団で厳しく訓練されたスパルタ人は、成員全体の徹底的な平等と団結が勝つために肝要であることを知っていた。つまり、「民主的であることの軍事的威力」にも気づいていたのだ。
 〈それゆえ、スパルタは民主アテナイの興隆をことさら危惧していたとも推察される。事によると的外れな拙い議論かもしれないが、この点についてはギリシア史研究者の間でそれほど問題視されていないように思われるのだ。〉(同書p.157)
 ちなみに、この戦いに勝利したアテナイについて、歴史の父ヘロドトスは「アテナイは独裁者から解放され、自由を得たことで最強国となった」と感慨深く記しているという。
 こののち、5世紀に入ると大国ペルシアの侵攻に対抗してスパルタとアテナイを中心にギリシア都市連合が成立するが、ペルシア戦争後にはふたたび、アテナイとスパルタはギリシア世界を二分して激闘を繰り広げることになる。
 ※さらに関連記事〈神と人間の関係で、文明は変わる!? 「地中海世界の歴史」が唱える「心性史」という新視点。〉も、ぜひお読みください。
 学術文庫&選書メチエ編集部
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 2024年7月11日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「自由・平等・民主主義を生んだ古代ギリシア。しかしその社会は「奴隷」に支えられ、「賄賂」が横行していた!?
 学術文庫&選書メチエ編集部
 真理を探究する自然科学と哲学、現代に通じるデモクラシーをも生み出し、「ヨーロッパの源流」とされてきた古代ギリシア文明。しかし、近年の研究では、その意外な成り立ちと暗部も照らし出されている。「地中海世界の歴史〈全8巻〉」の最新第3巻『白熱する人間たちの都市』(本村凌二著)と、講談社学術文庫の新刊『賄賂と民主政 古代ギリシアの美徳と犯罪』(橋場弦著)で見えてくる古代社会の闇とは――。
 哲学者には「余暇」と「奴隷」が必要?
 メソポタミアからローマ帝国にいたる文明の歴史を、古代ローマ史研究の第一人者・本村凌二氏が新たな視点で描く「地中海世界の歴史〈全8巻〉」(講談社選書メチエ)。すでに刊行された第1巻・第2巻は、発売まもなく重版が決定し、大きな反響を呼んでいる。
 シリーズ第3巻となる『白熱する人間たちの都市』が取り上げるのは、エーゲ海ギリシアの文明だ。
 〈エーゲ海は紺碧に彩られた人類の愛する海である。この美しい情景のなかで、古来、ギリシア人はこの世を讃美することにことさら熱心であったという。それとともに、この世の仕組みに向けられたまなざしがめばえ、自然や宇宙の根源と法則を究めようとする姿勢が目立ってきた。やがて、人間は自由であり平等であることを自覚するようになり、その政治表現として民主主義すら生み出すようになった。〉(『白熱する人間たちの都市』p.3)
 眩しい陽光のなかで自由と平等を愛し、民主政治を生み出した人々――。しかし、その社会は、現代人には容認しがたい暗部を抱え込んでいた。そのひとつが、奴隷の存在だ。
 〈古代ギリシアでは、奴隷の存在に疑念がないどころではなく、むしろ奴隷制は当然のごとく認知されていた。よほど貧しい市民でないかぎり、一人二人の奴隷はいたという。だから、豊かな市民なら数名あるいは10名以上の奴隷を所有していたのは当たり前のことだった。〉(同書p.286)
 ギリシアの壺に描かれたオリーブを収穫する奴隷。photo/gettyimages
 このような雰囲気のなかで、自由を享受する市民の間では、商業や手工業ばかりか、農耕などの生産労働さえも卑しいものと蔑視する風潮も出てきたらしい。
 〈近現代人には「自由人」のかたわらに「奴隷」がいるという社会は信じがたいものがある。しかも、プラトンアリストテレスのような卓越した知識人すらも臆面もなく「自然による奴隷」つまり「生まれながらの奴隷」などと言っているのだから、古代社会のなかにはどこか底知れないところを感じさせられてしまう。〉(同書p.290)
 なぜ、自由・平等の観念とともに、このようなことが受け入れられていたのだろうか。
 どうやら、ポリスの市民が国家や政治について議論したり、哲学的な思索をめぐらすためには、なにはともあれ「余暇(スコレ)」が必要であり、市民の余暇が奴隷の担う労働に支えられるのは当然のことと考えられていたらしい。
 また、アリストテレスの生きた前4世紀は、奴隷身分の多くが異民族の出身であった。そして、異民族の大国、ペルシア帝国との戦争に勝利したという経験は、彼らを劣等なものと見なす通念の発端となったのではないか、と本村氏はいう。ギリシア人であることは、自由であることであり、それとともに、奴隷であることと異民族であることが同等と見なされるようになったのは自然の成り行きだったのだ。
 〈じつに、ギリシア人の社会にあっては、自由と奴隷は硬貨の表裏一体をなしていたと言ってもいいのであり、自由と人権を尊ぶ近代人の目からすれば、「ギリシア人の心性と文明は奴隷制の上に成り立っていた」と断言してもいいのではないだろうか。〉(『白熱する人間たちの都市』p.290)
 しかし、だからといって、現代人は自らの「公正さ」に胸を張れるだろうか。
 〈世界史を公平にふりかえれば、第二次世界大戦以前の近代史にあっても、国民国家宗主国と植民地帝国の異民族支配が表裏一体をなしていたことに気づく。それもわずか数十年前、私たちの父や祖父の時代のことである。歴史とは何という皮肉きわまる事例を開示してくれるのだろうか。〉(同書p.290-291)
 そして現代の世界でも、民主的な自由競争の陰で、多くの奴隷的な労働と人権の抑圧が行われている。まさに、歴史は現代を映す鏡なのだ。
 戦争が賄賂の「危険性」を教えた
 市民の平等と政治参加という理想を追い求めた古代ギリシアの民主政も、政治の暗黒面を避けて通ることはできなかった。それが「賄賂」である。2500年前の市民たちは、この問題にどう向き合っていたのか。それを探究したのが『賄賂と民主政 古代ギリシアの美徳と犯罪』だ。
 著者の橋場弦氏は、古代ギリシア史を専門とする東京大学教授。同じく学術文庫の『民主主義の源流 古代アテネの実験』は、参加と責任のシステム=直接民主政の生成過程を平易に描いて評価が高い。では、民主政と賄賂は、切り離せないものなのだろうか。
 〈前近代社会一般に見られるように、古代ギリシア社会では、何かを贈られれば同等のものをもって返礼すべしとする原則が支配的であった。この原則を、互酬性(ごしゅうせい=レシプロシティ)の原理と呼ぶ。ギリシア最古の詩人ホメロスが描く社会にあっては、贈与こそ人と人とのつながりを形づくる基本的な社会原理であった。〉(『賄賂と民主政』p.24-25)
 そのような社会にあっては、賄賂もまた、お返しを期待された贈与の一形態にすぎないという。差し出されたものを受け取らないことは、敵対的な行為と見なされる。そして贈り物を受け取っておきながら、それに報いることがなければ、これまた敵対的と見なされるのである。
 古代ギリシア人にとって、賄賂とは「悪いけれどもよい」ものであり、第三者から見て言語道断の贈収賄行為でも、当事者にとっては伝統に従ったうるわしい美徳になり得る。賄賂と贈与は、一枚の紙の裏表のような関係にあったというのだ。しかし――、
 〈アテナイ民主政は、賄賂に対してけっして無為無策だったのではない。それが公共性を虫食いのように食いあらすことを、アテナイ市民は見抜いていた。民主政が民主政でありつづけるためには、賄賂との格闘をやめるわけにはいかなかったのである。その格闘のなかで育てていった意識と社会規範こそ、民主政の発展史において古代ギリシア人が達成した一つの成果であるといえるだろう。〉(同書p149) 
 アテネのオストラキスモス(陶片追放)に使われた陶片
 アテナイ市民のなかに、賄賂をきびしく断罪する姿勢が特にはっきりと表れてきたのは、ペルシア戦争という未曽有の困難に直面したときだった。
 たとえば、歴史の父・ヘロドトスはこんな事件を伝えている。
 アテナイ周辺をほぼ占領したペルシア軍総司令官が、アテナイ市民団に和議を申し入れたのに対し、評議員リュキデスなる人物が、和議の受け入れを提案した。するとアテナイ市民たちは激高し、リュキデスの家族もろとも「石打ちの刑」で殺害してしまったのである。
 ヘロドトスは断定していないが、どうやらアテナイ市民の多くは、リュキデスがペルシア側から賄賂をもらって和議の受け入れを提案したと信じていたらしい。
 圧倒的な財力を持つペルシアが、ギリシアの政治家や軍人に買収工作を行い、市民の自由ばかりか、ポリスやギリシア世界の存立を脅かすことへの危機感が強まっていたのである。やがて、収賄だけでなく、その仲介者も厳しい処罰の対象になっていく。ペルシア戦争をきっかけに、それまで賄賂に比較的寛容だったギリシア人は、その認識をあらためるにいたったのである。
 〈伝統的に互酬性の倫理に身をひたしてきたギリシア人は、賄賂のききめをよく知っていた。それだけに、ペルシア戦争という空前の危難に際して、賄賂が戦略の手段として用いられることに、なおさら大きな不安をいだいたわけである。〉(同書p.71)
 賄賂はなぜ「悪」なのか――。「政治とカネ」の問題が絶えない現在、あらためてアテナイ市民の思索と格闘の跡をたどってみたい。
 ※さらに関連記事〈「贈り物」という古代ギリシアの「美徳」は、なぜ「賄賂」という「罪」になったのか。〉〈ギリシア文明の起源はエジプトにあり? ペルシア辺境の「小文明」が、「ヨーロッパの源流」になった理由。〉も、ぜひお読みください。
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