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2024年12月23日 YAHOO!JAPANニュース WEB Voice「戦後ドイツはナチス時代を反省したのか? 政府が「多くの党員を免責した」理由
第二次世界大戦後のドイツは、ホロコーストへの反省をどのように行ってきたのか? 東進ハイスクール講師の荒巻豊志氏が解説する。
第二次世界大戦後のドイツは、ホロコーストへの反省を強調する一方で、戦争犯罪の全体像を曖昧にし、多くのドイツ人を免責してきた。植民地としていた国々に対する補償も、選択的かつ限定的であったという。東進ハイスクール講師の荒巻豊志氏による書籍『紛争から読む世界史』より解説する。
【書影】世界の「紛争地図」から、面白いほどいろんなことが見えてくる! 『紛争から読む世界史』
※本稿は、荒巻豊志著『紛争から読む世界史』(大和書房)から一部を抜粋・編集したものです。
ドイツの歴史認識をめぐる問題
1933年から45年までわずか12年ほどドイツを統治したアドルフ・ヒトラーと、彼が率いたナチスの名は、おそらく人類史が続く限り消えることはないでしょう。第二次世界大戦後のドイツは当然、ナチスとの向き合い方が国内外から問われることになります。いかにして「過去を克服」するのかということです。
ドイツの政治教育(ドイツでは民主的市民性教育と呼ぶ)は極めて評価が高いです。1976年にボイテルスバッハ=コンセンサスという基本原則が定められます。
(1)圧倒の禁止、(2)論争のあるものは論争のあるものとして扱う、(3)個々の生徒の利害関心の重視という三原則で、教師が教壇においてどのように生徒に接するのかを定めたものです。日本でも主権者教育の一環としてこの語が少しずつ広がっています。
政治的無関心と無知がナチズムを広げてしまったことへの反省から、教育は国家が国家のための動員として教化するものではなく、生徒一人ひとりの批判的判断能力を育てていこうとする姿勢には素晴らしいものがあると思っています。
ドイツは宗教教育も重視しています。それは、ナチスに対して弱いながらも最後まで抵抗を示した唯一の勢力がキリスト教だったと思われたからです。
牧師でありながらヒトラー暗殺を企てたディートリッヒ・ボンヘッファーや、「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」の詩で知られるマルティン・ニーメラーのことをドイツで知らない人はいないといっていいでしょう。「良心」を涵養することはナチズムに対する一番の防波堤という認識です。
実はこうした試みは戦後直後から行なわれていたわけではないのです。信じられないでしょうが、ドイツの多くの人がホロコーストのことを知ったのは1978年以降なのです。アメリカのテレビドラマ『ホロコースト 戦争と家族』がドイツで放映されるまでは、ユダヤ人がひどい目に遭っていたということは噂レベルでしか知らなかったのです。
ドイツの政治教育の指針となるボイテルスバッハ=コンセンサスができたのも1976年です。実際に統計では、「ヒトラーを偉大な指導者と思うか」という質問に対し、1975年までは肯定する人が30%台後半をキープしていました。否定する人も40%台後半で推移しています。
2000年の時点で「はい」が25%を切り、「いいえ」が70%を超えるまでに差が開いています。つまり、長い時間をかけて戦後(西)ドイツの国民の物語がつくられてきたといえるでしょう。
この物語とは、徹底的にナチスを否定し、ホロコーストのようなことは二度と起こさせない、というものですが、これは何を「忘却」することでこの物語が成り立つのかを問いかけています。
過去を反省したのか
戦後ドイツの物語の1つ目の柱は、徹底的にナチスを批判するということです。
ところが、ナチスとは一体誰のことを指すのかがよくわかりません。戦争敗北後、ドイツのニュルンベルク裁判で有罪になったナチス党員がいました。アドルフ・アイヒマンやオットー・フンシェのように1960年代になってもナチスの高官は逮捕され裁判にかけられました。
でも、どれだけの元ナチス党員が戦後もそのまま普通に生活していたか。これはオーストリアやフランスと同様、ナチスの党員だった800万人の全員を何らかのかたちで処罰したら国が回らなくなってしまうからです。
冷戦が進む中で、アメリカがドイツを再建してソ連に対する最前線の防衛を担ってもらおうとしたこともその背景にありました。この米独合作でつくられた物語によって、一部の人間のみをナチスとして裁き、多くのドイツ人の犯罪は「忘却」されるのです。
こうして徹底的な非ナチ化ができず、ナチスの一部をスケープゴートにして多くのドイツ人は善良であったとする脚本はアメリカが描いたものといっていいでしょう。1950年代のアメリカ映画には悪としてのナチスと善良なドイツ人という二項対立で描かれた作品があります。
ちなみにその影響を日本のアニメ『宇宙戦艦ヤマト』も受け継いでいます。ゲールというヒラメキョロメ*でデスラー総統へのゴマスリしか考えてない副官が、武士道に則ってヤマトに対して正々堂々と戦おうとするドメル将軍の足を引っ張る姿は、『宇宙戦艦ヤマト』を観た人は記憶にあるでしょう。これが有名な「クリーンなドイツ国防軍」という神話のモチーフです。
(*宮台真司氏がよく使う用語。上の地位に媚びるヒラメ、横に合わせて同調圧力に屈するのがキョロメ。)
実際にはドイツ国防軍も戦争中は残虐な行為を繰り返していたし、何よりドイツ国防軍とナチスをどうやって区別するのかということも定かではありません。だけれども、これを表立って指摘することは戦後のドイツ国民の物語を批判することになるので隠さざるを得ません。
戦後ドイツの物語の2つ目の柱が、ホロコーストを徹底的に反省することです。
ナチス=ドイツが裁かれたニュルンベルク裁判でも、日本の戦争犯罪者が裁かれた東京裁判でも、戦争犯罪についてABCの区分が設けられました。
ABCは優劣を分ける基準ではありません。A級戦犯は、侵略戦争を始めたことに対する罪、B級戦犯は戦場で国際法に反したこと(残虐な行為)への罪、C級は人道に対する罪(ホロコーストに関する罪)です。日本にはユダヤ人虐殺はなかったのでC級戦犯がいないのです。
さて、ドイツが採った戦略はC級、つまり、ホロコーストへの罪を自ら認め反省するということを強調してA級、B級に対する罪を後景化することです。戦争を始めたのも戦場でひどいことをしろと命令したのもヒトラーとその側近だけだよ、としてほとんどのドイツ人を免責したわけです。
ユダヤ人に対するホロコーストへの反省として、第二次世界大戦後に成立したユダヤ人国家イスラエルに対して西ドイツは謝罪をしますが、その裏でイスラエルへの武器輸出によって経済復興に弾みをつけようとしたことも明らかになっています。
ドイツと違って日本は武器輸出について非常に抑制的ですが、ドイツはウクライナ戦争において武器を供与するなど武器輸出について日本のような原則はありません。このことをわかっていないと、ドイツは第二次世界大戦の責任をとって謝罪や補償をしていると勘違いをすることになります。
人道に対する罪に対し、謝罪をしてユダヤ人には補償はしましたが、ユダヤ人以外にはしていません。冷戦終結後にポーランドやチェコとは和解して基金をつくり、そこから補償することになりましたが、わずかな金額です。第二次世界大戦のときですらこの塩梅なので、かつてのドイツの植民地支配に対する補償についてはいわずもがなです。
ドイツは第一次世界大戦ですべての植民地を失いますが、ナミビアやルワンダなどがドイツ領でした。ナミビアは長く植民地下でのドイツの虐殺行為(ヘレロ=ナマの抵抗を鎮圧)に対してドイツ政府へ補償を求めていました。
2021年になってドイツ政府が虐殺の事実を認め、約1500億円の復興援助を行なうと決めましたが、あくまで復興援助であって補償ではありません。タンザニアでも、1905年に起きたマジマジの乱を鎮圧し多くの死者を出したことに対して、2023年に謝罪はしますがやはり賠償には応じていません。
荒巻豊志(東進ハイスクール講師)
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2024年12月16日 YAHOO!JAPANニュース WEB Voice「「イタリア・ファシズム」と「ドイツ・ナチズム」 当時の影響力とは?
#PHP新書
板橋拓己(東京大学大学院法学政治学研究科教授)
ナチズム
1922年、イタリアでムッソリーニ政権が成立。その3年後に独裁宣言がなされ、ヨーロッパにファシズム政権が誕生した。イタリア・ファシズムは国境を超えて他国にも多大な影響を与え、やがて1933年にはドイツにもヒトラーの独裁政権が確立する。しかし、両国の関係は決して蜜月といえるものではなかった。
※本稿は、細谷雄一・編著『世界史としての「大東亜戦争」』(PHP新書)を一部抜粋・編集したものです。
ドイツとイタリアのファシズムの主導権争い
1933年1月、ドイツでヒトラーが首相に就任する。すでにムッソリーニのファシズム政権が確立していたイタリアのメディアは「ドイツ・ファシズムの勝利」と言祝(ことほ)いだが、ここから独伊間の競合が始まる。
そもそも外交・安全保障の面で、当初独伊は対立していた。ムッソリーニは、ヒトラーが求めるドイツとオーストリアの合邦を防ぐため、オーストリアのドルフス政権を支えていた。
1934年6月にヒトラーとムッソリーニの会談がヴェネツィアで行なわれたが、この会談でムッソリーニはヒトラーを「狂人」と判断する。同年7月にオーストリア・ナチ党がクーデタを企てドルフス首相を殺害すると、ムッソリーニは墺伊国境に二個師団を派遣し、軍事介入をちらつかせた。
35年3月にドイツが再軍備を宣言すると、ムッソリーニはストレーザで英仏首脳と会談し、ナチ・ドイツに対する共同戦線を構築した。
こうした情勢を背景に、ファシズムをめぐる主導権争いも独伊の間で生じた。1933年7月、「ローマの普遍性のための行動委員会(CAUR)」が設立され、このCAURの主導で1934年12月にモントルーでヨーロッパ・ファシストの国際会議が開催された。そこにはヨーロッパ各国のファシストが集まったが、ドイツのナチ党からは有力者が参加しなかった。
しかも同会議では、決議をめぐる紛糾があった。イタリア側が協同体主義を強調する一方、たとえばノルウェーの国民結集党の指導者ヴィドクン・クヴィスリングが、ナチ流の人種主義を前面に出そうとしたのである。結果、決議は曖昧なものにとどまった。
ドイツのナチズムとイタリアのファシズムの綱引きは、各国のファシズム運動に反映された。ここではイギリスの例を取り上げよう。同国では、1932年10月にオズワルド・モーズリーが、イタリア・ファシズムに魅了されて、英国ファシスト連合(BUF)を結成していた。
イタリア側も、33年以降に駐英大使ディーノ・グランディを通じてBUFに資金援助をしていた。しかし、モーズリーは徐々に反ユダヤ主義を強め、次第にナチに傾倒していく。
36年にBUFは党名を「英国ファシストおよび国民社会主義者連合」に改め、モーズリーの妻ダイアナ・ミットフォードを通じてナチ・ドイツから資金援助を受けるようになった。逆に、BUFとイタリアの関係は悪化し、イタリア政府からの経済援助は打ち切られることになった。
ドイツへの従属を強め、反ユダヤ法を制定したイタリア
こうしたイタリア・ファシズムからナチズムへの「乗り換え」は、他国のファシズム運動にも見られる。たとえば、オランダのアントン・ミュッセルト率いる国民社会主義運動(NSB)は、当初はイタリアの影響を受けていたが、1935/36年にナチ流の反ユダヤ主義を採用した。
レオン・ドゥグレルを指導者とするベルギーのレクシストも、初めはイタリアから支援を受けていたが、30年代半ばからドイツの援助に頼るようになる。
このような動きは、独伊関係の変化、すなわちナチ・ドイツへのイタリアの従属と並行していた。1935年10月のエチオピア侵攻によりイタリアは国際的に孤立し、独伊接近が始まる。36年のスペイン内戦が独伊関係を強化し、同年11月にムッソリーニは「ローマ=ベルリン枢軸」について演説した。
イタリアは、37年11月に日独防共協定に加わり、38年3月にはナチ・ドイツによるオーストリア併合を承認する。ナチ・ドイツへの従属を強めるイタリアは、38年9月に反ユダヤ主義的な人種法を導入し、同年11月にはさらに厳しい反ユダヤ法を制定した。
それまでイタリア・ファシズムに人種主義的・反ユダヤ主義的な要素がなかったわけではないが、これでナチと同様に公式に人種主義的な原理を採用するようになった。この過程で、他国にとってのイタリア・ファシズム独自の魅力も薄れていったといえよう。
とはいえ、「ファシズム」のモデルがイタリアからナチ・ドイツに移ったという単純な話でもない。1930年代に権威主義的な政治体制を採用していたヨーロッパ諸国は、独伊双方のいわば「いいところ取り」を試みた。
たとえば、ハンガリーの首相ゲンベシュ・ジュラ(在任1932~36年)は、ヒトラー首相就任後に初めてベルリンを訪問した外国の首相だが、ナチ流の反ユダヤ主義者である一方で、イタリア型の協同体主義の賞賛者でもあった。
ゲンベシュ以上に効果的にファシズムを選択的に受容したのが、ポルトガルの独裁者サラザールである。サラザールは、1933年に制定した新憲法で協同体国家を導入する一方で、ナチ流の秘密警察を採用し、体制存続に成功した。
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