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2024年11月19日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「「仏教とキリスト教」には、なぜ「似た伝説」が存在するのか? 一人の学者が提出した「驚きの視点」
長く関心を持たれてきた「類似点」
アメリカ大統領選での宗教右派の影響が議論されたり、宗教二世の問題が耳目を集めたりと、「宗教」への関心はこれまで以上に高まっています。宗教に関する知識を得ておくべきタイミングが来ているのかもしれません。
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日本で「宗教」といえば仏教ですが、日本の仏教は、もともとはインドで紀元前後にはじまった「大乗仏教」が入ってきたところに起源をもつとされます。
大乗仏教とはなんなのかを知るのに有益なのが、『大乗仏教の誕生』という本。著者は、京都大学教授で仏教学者である梶山雄一氏(2004年没)です。
同書で興味深いのが、仏教徒キリスト教の類似点について解説している部分です。
19世紀以来、ヨーロッパでは、仏教とキリスト教の類似性に注目が集まっていましたが、当時のそれはかなり牽強付会の傾向があったと梶山氏は解説しています。ところが、1980年代には、A・L・バシャムというインド史の研究者がより実証的に両者の対応関係について考察したそうで……。
バシャムの考え方について紹介している部分を同書より引用します(よみやすさのため、改行などを編集しています)。
〈新約聖書と仏教サンスクリット文献における物語の対応例を挙げたバシャムは、しかし、十九世紀的な仏伝・福音書比較研究を復活させようとしているわけではない。彼の視野は、二つの点において昔の比較研究とまったく異なっている。
一つは、彼は、イエスの伝記とブッダの伝記とのあいだに対応を見ようとしているのではなく、前者と西暦紀元ごろから数世紀間にわたってインドで生成・発展した大乗仏教──あるいは紀元後の小乗経典のあるものとのあいだに対応を見ようとしていること。二つは、キリスト教と大乗仏教とのあいだに、一方の他方からの直接の借用を主張するのではなく、両者の共通の源泉としてイランのゾロアスター教を想定し、その東西両側への影響を考えていることである。
キリスト教と仏教とのあいだのこれらの相似を、偶然に帰してしまうこともできる。また、偶然に帰するにはその数があまりに多いために、なんらかの概括的な判断をすれば、それはきわめて主観的なものとなってしまう。とすれば妥当な唯一の結論は、それらの一致の大部分は西アジアにおける両者に共通の源泉に由来するとすることであり、その共通の源泉としてはイランの二元論が考えられる、とバシャムはいう。
古代イランのゾロアスター教、ズルワン・アカラナ(無際時)やミスラの信仰などの神話が一方で大乗仏教に、他方でバビロン幽囚以後のユダヤ教とキリスト教の神話に多くの暗示を与えた。後代のユダヤ教に始まり、キリスト教において完成されるメシア信仰は、仏教の未来仏マイトレーヤ(弥勒)信仰と関係づけられるが、それらはいずれもゾロアスター教の、世界の終末における救済者サオシュヤントに共通の起源を求めることができる。キリスト教の天使、仏教の菩薩の観念は、ゾロアスター教のフラワシやアメシャー・スペンターに基づいている。〉
〈しかし、バシャムは、大乗仏教がその救済論的・終末論的特徴のいくつかをゾロアスター教から借用した、というべきではなくて、西北インドにひろがったイランの影響が、仏教徒の側がゾロアスター教と似通った宗教的態度をとるための基盤を提供した、というべきである、という。大乗仏教はゾロアスター教からと同じように、ヒンドゥー教からも影響を受けており、また初期仏教や小乗仏教自体のなかに、大乗仏教の教義に成長してゆく萌芽もあった、と論ずる。
なによりも、前二世紀から後二世紀におよぶ期間に、北方および西方からつぎつぎと侵入した外敵によって引き起こされた西北インドの動乱と苦難という社会的情況が、仏教に大きな変化を要求し、大乗仏教の生成を促した、とバシャムは考えている。〉
大乗仏教とキリスト教の類似には、西アジアの宗教・ゾロアスター教が関わっていたと考えられる……。のちに日本にやってくる大乗仏教の淵源には意外なものがあったようです。
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さらに【つづき】「ブッダとイエスの教えの「意外な相違点」をご存知ですか? インド史の大家が語っていたこと」では、ブッダとイエスの相違点について見ていきます。
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11月19日YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「ブッダとイエスの教えの「意外な相違点」をご存知ですか? インド史の大家が語っていたこと
ブッダとイエスの違い
アメリカ大統領選での宗教右派の影響が議論されたり、宗教二世の問題が耳目を集めたりと、「宗教」への関心はこれまで以上に高まっています。宗教に関する知識を得ておくべきタイミングが来ているのかもしれません。
日本で「宗教」といえば仏教ですが、もともとはインドで紀元前後にはじまった「大乗仏教」が入ってきたものでした。
大乗仏教とはなんなのかを知るのに有益なのが、『大乗仏教の誕生』という本。著者は、京都大学教授で仏教学者である梶山雄一氏(2004年没)です。
本書には、ブッダとイエスの違いについて、A・L・バシャムというインド史の研究者が解説した内容が紹介されていますが、非常に興味深いものです。同書より引用します(読みやすさのため、改行などを編集しています)。
〈シュラーヴァスティーの裕福な商家の嫁であったキサー・ゴータミーは、突然男の子を亡くしてしまった。彼女は死んだ子を抱いて歩きまわり、会う人ごとに薬をせがんだ。人びとは「死んだ子に飲ませる薬があろうか」とあざけった。彼女を憐んだある人が、たまたま近くに来ていたブッダのところへ行くようにと教えてやった。
ブッダに近づき、また薬をせがんだキサー・ゴータミーに向かってブッダは、「町に行き、だれも死んだことのない家から、カラシ種をもらってくるがよい」という。キサー・ゴータミーは死者を葬ったことのない家を探してまわるが、そういう家を見つけることができない。〉
〈そうしているうちに彼女は、無常ということは、神がみさえも免れることのできない、世の定めであることにおのずから気づいた。ブッダのもとに戻った彼女は出家を申し出て許され、修行に専心し、のちに、ついに解脱して聖者となった。
バシャムはこの物語を紹介し、そこにあらわれるブッダの教化の仕方と、つぎつぎに病人をいやし、死者をよみがえらせる奇跡を行ったイエスの教化とのあいだに対照的な相違のあることを強調している。
ブッダは常に、静かにものごとの本質を指し示して見せた。そして神変や奇跡を行うわけでもなく、人びとがみずから真理に気づくのを待った。〉
また、つづく部分では、ブッダの教えのポイントである「八正道」について端的に紹介されています。
〈彼は四つの真理を教えた。苦・苦の原因・苦の消滅・苦の消滅にいたる道、の四つである。ブッダのいう苦とは、生まれること・老いること・病・そして死の四苦であり、また、憎らしい者に会う苦悩・愛する者と別れる苦悩・欲しいものが手に入らない苦悩・要するに身心の要素はすべて苦悩である、ということ(四苦とあわせて八苦という)であった。
人間の苦にはさまざまなものがある。戦争・暴力・盗難・恋愛の悩み・家庭問題などなど。ブッダは、しかし、そのようなさまざまな現象としての苦よりも、本質としての苦に主要な関心をもっていた。少壮のなかにも老いと病はある、生まれることのなかにすでに死がある、とブッダは教える。なぜなら、身心としての人間の存在そのものが苦であるから。〉
〈しかし、ブッダは苦を、そして人間存在を実体としてはとらえなかった。形体・感受・表象・意欲・認識という身心の諸要素に実体はない。もし形体あるものに不変不滅の実体があるならば、身体が病気になることはないであろう。私の身体はこうあってほしい、こうあってほしくない、といえるであろう。
しかし形体あるものには実体がないから、身体は病気になるのだし、意のままにすることもできないのである。感受も表象も意欲も認識も同じである。これら五要素は永久に存続せず、常に移り変わるものであり、したがって苦である。永続せず、移り変わり、苦であるものを、これは私だ、私のものだ、私の実体だ、ということはできない。
こうして、五つの要素、つまり、あらゆるものは無常であり、苦であり、実体(自我)のないものである、と教える。
苦は、いいかえれば、あらゆるものは、実体としてどこかからやってきたのでもないし、どこかへ去ってゆくわけでもない。それは、原因・条件の集まりによって生じ、原因・条件が欠ければ滅する。そして、その苦の滅こそが絶対の平安である。
苦の原因とは欲望と無知である。欲望と無知を滅すれば絶対の安らぎがある。絶対の安らぎにいたる道は、正しく見ること・正しく考えること・正しい言葉を用いること・正しく行動すること・正しく生活すること・正しく努力すること・正しく留意すること・正しく瞑想することの八つ(八正道)である。〉
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さらに【つづき】「「仏教とキリスト教」には、なぜ「似た伝説」が存在するのか? 一人の学者が提出した「驚きの視点」」の記事では、仏教とキリスト教の類似点について解説しています。
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