🛲5」─1─日本の教訓。イギリスのインド侵略。ムガル帝国滅亡。~No.30No.31No.32  * 

GHQ焚書図書開封10: 地球侵略の主役イギリス

GHQ焚書図書開封10: 地球侵略の主役イギリス

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本が教訓とするべきは、阿片戦争の清国(中国)ではなく反英闘争のムガル帝国(インド)である。 
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 インドは、南アジアに位置し、インド亜大陸を領有する連邦共和制国家である。ヒンディー語の正式名称バーラト・ガナラージヤを日本語訳したインド共和国とも呼ばれる。
 1947年にイギリスから独立。インダス文明に遡る古い歴史、世界第二位の人口を持つ。国花は蓮、国樹は印度菩提樹、国獣はベンガルトラ、国鳥はインドクジャク、国の遺産動物はインドゾウである。
 国民
 人種・民族
 詳細は「南アジアの民族」を参照
 インド亜大陸の民族については、インド・ヨーロッパ語族、ドラヴィダ語族、オーストロアジア語族、モンゴロイド系のシナ・チベット語族の4つに大別されるが、人種的には約4000年前から混血している。 大半がインド・アーリア語系の分布で、南はドラヴィダ族が分布し、オーストロアジア語族、シナ・チベット語系は少数な分布となっている。 Y染色体やMtDNAの研究結果によると、インド人の大半は南アジア固有のハプログループを有している。ミャンマーと国境が接している北東部は、チベットビルマ語族の民族がいる。
 言語
 詳細は「インドの言語」、「インドの公用語の一覧」、および「インドの言語の話者数一覧」を参照
 インドはヒンディー語を連邦公用語とする。ヒンディー語圏以外では各地方の言語が日常的に話されている。インドで最も多くの人に日常話されている言葉はヒンディー語で、約4億人の話者がいると言われ、インドの人口の約40%を占める。方言を含むと800種類以上の言語が話されているインドでは、地域が異なればインド人同士でも意思疎通ができない場合がある。植民地時代に家では英語だけで子供を育てたことなどから、英語しか話せない人もいる。しかし一方で、地域や階級によっては英語がまったく通じないこともしばしばである。
 宗教
 詳細は「インドの宗教」を参照
 インドの人口に占める各宗教の割合: ヒンドゥー教徒80.5%、イスラム教徒13.4%%、キリスト教徒2.3%、シク教徒1.9%、 仏教徒0.8%、ジャイナ教徒0.4%(2001年国勢調査)。また、ブリタニカ国際年鑑2007年版によれば、ヒンドゥー教徒73.72%、イスラム教徒11.96%、キリスト教徒6.08%、シク教徒2.16%、仏教徒0.71%、ジャイナ教徒0.40%、アイヤーヴァリ教徒0,12%、ゾロアスター教徒0.02%、その他1.44%である。
   ・   ・   
 ムガル帝国
 ムガル帝国は、16世紀初頭から北インド、17世紀末から18世紀初頭にはインド南端部を除くインド亜大陸を支配し、19世紀後半まで存続したトルコ系イスラーム王朝(1526年 - 1858年)。ムガル朝とも呼ばれる。首都はデリー、アーグラなど。
 公用語:ペルシア語、ウルドゥー語チャガタイ語。
 人口 1700年:1億5,000万人。
 呼称
 王朝名の「ムガル」とは、モンゴルを意味するペルシア語の「ムグール」(モゴール)の短縮した読みであるムグルが、ムガルに転訛したものである。すなわち、「ムガル帝国」とは「モンゴル人の帝国」という意味の国名になるが、これは飽くまでも他称である。
 歴史
 前史
 1483年2月23日、ムガル帝国創始者となるバーブルは、中央アジアのフェルガナに生まれた。
 バーブルはのちに自伝『バーブル・ナーマ』で、自身のインド征服の業績についてこう語っている。

 「預言者ムハンマド)の時代から、インド征服を成し遂げた者は余のほかに2人しかいない。ガズナ朝のマフムードとゴール朝のシハーブッディーン・ゴーリームハンマドゴーリー)である。だが、余の功績はこの2人の功績とは比べものにならない。」
?バーブル、『バーブル・ナーマ』

 東インド会社ムガル帝国
 1600年、イギリスは東インド会社を設立し、インド亜大陸に最初に商船団を派遣したのは、1608年のことで、西北インドの港スーラトに派遣したこの時、ジャハーンギールから有利な条件で貿易を行う許可を獲得した。
 1639年には、チェンナイの領主からこの地を買収し、東インド会社は要塞の建設が認められると同時に、イギリス東インド会社のこの地においての貿易において、関税は免除されると同時に、他の会社が貿易行った場合には、イギリス東インド会社にその会社に課せられる関税の半分が支払われるという条件で、マドラスと改称してインド貿易の橋頭堡を築いた。
 また、18世紀後半までにプラッシーの戦いカーナティック戦争で、イギリス勢力は南インドベンガル地方に浸透していた。だが、18世紀後半に即位した皇帝シャー・アーラム2世はイギリスの支配に抵抗した唯一の君主であり、帝権の回復を狙った。
 1761年以降、シャー・アーラム2世はアワド太守やベンガル太守と結んで、1764年10月23日にイギリスに戦いを挑んだが敗北した(ブクサールの戦い)。そのため、1765年8月にシャー・アーラム2世はアラーハーバード条約を締結し、イギリスにベンガル、ビハール、オリッサ三州のディーワーニー(収租権)を授けなければならず、これによりこの三州は事実上イギリスの領有するところになった。ディーワーニーとは、皇帝よりディーワーンと呼ばれる各州の財務長官に与えられる職務・権限を意味し、その権限は主に税の徴税・支出を含むものであった。
 シャー・アーラム2世はその後、イギリスの保護のもとアラーハーバードで年金受給者として暮らしていた。だが、1765年にデリーの宮廷で混乱が発生すると、シャー・アーラム2世はイギリスにデリー帰還を求めたが、その助力はあてにならなかった。
 そうしたなか、1769年末以降からマラーターが北インド一帯のアフガン勢力を制圧し、1771年2月10日にシンディア家の当主マハーダージー・シンディアがその過程でデリーを占領した。そのため、同年にシャー・アーラム2世はデリー付近に勢力を持つマハーダージー・シンディアと協定を結んだ。この結果、1772年1月にシャー・アーラム2世はデリーへと帰還を果たした。
 シャー・アーラム2世がデリーへ帰還したのち、軍総司令官ミールザー・ナジャフ・ハーンという人物が台頭した。この人物はかつてイランを支配したサファヴィー朝の末裔でもあった。そして、1782年4月にミールザー・ナジャフ・ハーンが死ぬまでに、ムガル帝国の権威はパンジャーブサトレジ川からアーグラの南の密林に至る地域、ガンジス川からラージャスターンのジャイプル王国に至るまでのまで回復を果たしていた。
 ミールザー・ナジャフ・ハーンの死後、その副官4人によるその地位を引き継ごうとして争い、ムガル帝国の国力はふたたび衰退したその後、同年に第一次マラーター戦争が終結したことにより、マハーダージー・シンディアもこの争いに介入し、ミールザー・ナジャフ・ハーンの副官4人の争いを制圧し、ムガル帝国の情勢を安定化させた。
 そして、シャー・アーラム2世はマハーダージー・シンディアの功績を認め、1784年12月4日にムガル帝国の摂政と軍総司令官に命じ、マハーダージー・シンディアは事実上北インドの支配者となった。ただし、この地位は莫大な貢納と引き換えに与えられたものである。だが、マハーダージー・シンディアがヒンドゥー教徒であるにもかかわらず、帝国の摂政と軍総司令官なったことは、宮廷のイスラーム教徒の怒りと不満を買った。
 マハーダージー・シンディアは勢力拡大のために軍事活動を続けたが、1787年7月にラージャスターンのラールソートでラージプートの連合軍に敗北を喫した(ラールソートの戦い )。彼はその責任を追及されて権力が弱まり、ヒンドゥー教徒が摂政であることに対して憤慨していたイスラーム教徒がその排斥に集結することとなって、デリーから撤退した。
 その後、1788年7月にローヒラー族の族長グラーム・カーディル・ハーンがその隙を狙ってデリーを占領、シャー・アーラム2世ら帝室の人々に暴行を加える事件が発生した。だが、グラーム・カーディルが食糧不足からデリーを離れると、再びマハーダージー・シンディアが舞い戻って、追撃をかけて殺害し、略奪された財宝は返却された。
 1790年9月9日、マハーダージー・シンディアは皇帝シャー・アーラム2世に王国宰相マーダヴ・ラーオ・ナーラーヤンを皇帝代理人に任じさせ、自分が北インドにおける王国宰相の代理であることに認めさせた。
 このように、帝国は常に北インドの有力者に左右され続け、マラーターの勢力下でなんとか存続することができた。

 イギリスの保護下にて
 1794年2月12日にマハーダージー・シンディアは死亡し、ムガル帝国は大いなる庇護者を失った。マハーダージー・シンディアの死後、親族のダウラト・ラーオ・シンディアが後を継いだが、この頃からシンディア家はしだいに弱体化していった。
 他方、イギリスが1799年にマイソール戦争でマイソール王国に勝利したのち、内紛の多かったマラーター同盟に介入するようになった。そして、1802年12月にバージー・ラーオ2世はマラーター諸侯に対抗するため、イギリス東インド会社と軍事保護条約(バセイン条約)を結び領土の一部を割譲し、シンディア家、ホールカル家、ボーンスレー家といった諸侯との対立が深まった。
 そして、1803年8月8日にイギリス東インド会社との間に第二次マラーター戦争が勃発した。無論、ムガル帝国もシンディア家の保護下にあったため、第二次マラーター戦争に巻き込まれ、同年9月11日にイギリス東インド会社軍がデリー市内でシンディア家の軍と交戦した(デリーの戦い)。両軍はデリー城下で激しく争ったが、決着は1日でつき、シンディア家は死傷者3,000人を出して敗北し、ムガル帝国はイギリスの保護下に入った。
 その後、1805年5月23日にムガル帝国とイギリスとの間に条約が結ばれ、デリー周辺の地域の税収入と月額9万ルピーが支払われることとなった。
 1806年11月10日、シャー・アーラム2世は死亡し、息子のアクバル2世が帝位を継承した。アクバル2世の治世に入ると、ムガル帝国はもはやすっかり崩壊し、デリーとその周辺を支配するのみの小勢力となっていた。
 しかし、ムガル帝国の名目的主権は守られ、帝国は藩王国としては扱われず、帝国の君主も藩王より上の皇帝として扱われた。アクバル2世の治世、首都デリーはイギリスの管理下に置かれたことで人口が集積し、商業取引の中心地となり繁栄につつまれた。
 また、デリーでは年に何度か皇帝主催の大きな祝祭が開かれ、皇帝や皇子、宰相や大臣、イギリス人らが象に乗り、そのあとに楽士や歩兵、騎兵が続き、賑やかな行列が町をねり歩いた。
 他方、イギリスは第三次マラーター戦争、二次にわたるシク戦争の戦争で帝国分裂後の地方政権に勝利し、従順なものは保護国藩王国)化するなど、イギリスはインドの植民地化を急速に進めていった。

 インド大反乱と滅亡
 1837年9月28日、アクバル2世は帝都デリーで死亡し、息子のバハードゥル・シャー2世が新たな皇帝となった。このとき、皇帝は62歳であった。
 一方、ムガル帝国を保護しつつインドを侵略していたイギリスは、そのインド植民地化が最終局面を迎えようとしていた。1845年から1849年かけて行われた2次にわたるシク戦争で、イギリスはシク教徒のシク王国に勝利し、パンジャーブなど北西インドを併合して、全インドの植民地化を完成した。
 ムガル帝国も例外ではなく、1854年にイギリスのインド総督ダルフージーはバハードゥル・シャー2世の死後、その後継者は皇帝ではなく藩王として扱い、ムガル帝国藩王国とすることを決定した。だが、ダルフージーのこの計画は本国政府の反対で挫折した。
 このように、イギリスは反抗的な勢力をインドから一掃するとともに、ムガル帝国の名目的主権さえ奪おうとしたが、その前にイギリスによるインド支配に対する人々の不満が高まりつつあった。この頃、イギリスの長年の統治に対し、農民、商工業者、シパーヒー(インド人の兵士)、宗教関係者、知識人、旧支配層らは憤慨し、鬱積していた。ことに、1856年2月のアワド藩王国の理不尽な併合によって、それは頂点を極めた。
 1857年5月、大規模な反英闘争、いわゆるインド大反乱シパーヒーの乱、第一次インド独立戦争とも)が発生した。このとき、ムガル帝国はまだ、82歳の老皇帝バハードゥル・シャー2世が反乱軍の最高指導者として担ぎだされるほどの威光を保っていた。バハードゥル・シャー2世は反乱にあまり乗り気ではなかったが、彼らに身を委ねるほか選択肢はなかった。
 デリーの反乱政府では、皇帝バハードゥル・シャー2世を名目上の君主とし、執行機関として兵士6人と一般人4人からなる「行政会議」が結成され(なお、行政会議はヒンドゥームスリムそれぞれ5人ずつからなっていた)、反乱軍総大将をバフト・ハーンに決定した。行政会議はザミーンダーリー制を廃止し、実際の土地耕作者にその土地の権利を認めるなど、民主制に似た体制が樹立された。
 しかし、同年9月にバハードゥル・シャー2世はデリーが攻撃されると降伏してしまった。その後、1858年3月に彼はイギリスによる裁判で有罪とされ、ビルマへと流刑に処されて廃位させられた。
 これにより、ティムール朝から数えて約500年続いた王朝は完全に消滅し、ムガル帝国は332年にわたるインドにおける歴史に幕を閉じた。
   ・   ・   
 イギリスとの関係
 詳細は「英印関係(英語版)」を参照
 17世紀、アジア海域世界への進出をイギリスとオランダが推進し、インド産の手織り綿布(キャラコ)がヨーロッパに持ち込まれると大流行となり、各国は対インド貿易を重視したが、その過程で3次にわたる英蘭戦争が起こり、フランス東インド会社の連合軍を打ち破り(プラッシーの戦い)、植民地抗争におけるイギリス覇権が確立した。1765年にベンガル地方の徴税権(ディーワーニー)を獲得したことを皮切りにイギリス東インド会社主導の植民地化が進み、1763年のパリ条約によってフランス勢力をインドから駆逐すると、マイソール戦争・マラータ戦争・シク戦争などを経てインド支配を確立した。イギリス東インド会社は茶、アヘン、インディゴなどのプランテーションを拡大し、19世紀後半にはインドでの鉄道建設を推進した。
 イギリス支配に対する不満は各地で高まり、インド大反乱セポイの反乱、シパーヒーの反乱、第一次インド独立戦争)となった。イギリスは、翌年にムガル皇帝を廃し、東インド会社がもっていた統治権を譲り受け、インド総督を派遣して直接統治下においた。1877年には、イギリス女王ヴィクトリアがインド女帝を兼任するイギリス領インド帝国が成立した。第一次世界大戦で、イギリスは植民地インドから100万人以上の兵力を西部戦線に動員し、食糧はじめ軍事物資や戦費の一部も負担させた。しかし、イギリスはインドに対して戦後に自治をあたえるという公約を守らず、ウッドロウ・ウィルソンらの唱えた民族自決の理念の高まりにも影響を受けて民族運動はさらに高揚したが、アムリットサル事件が起きた。
 しかし非暴力を唱えるマハトマ・ガンディー、ジャワハルラール・ネルーにより反英・独立運動が展開された。ガンディーは「塩の行進」を開始したが成功しなかった。
第二次世界大戦では日本に亡命したチャンドラ・ボースが日本の援助によってインド国民軍を結成し、インド人兵士は多くが志願した。
 インドは念願の独立後の1950年代以降も、多くのインド人が就職や結婚など様々な理由で、景気の見通しが上向きであった英国に移住した。当時、英国政府は移民の管理に懸命に務めたものの、61年にはすでに10万人以上のインド人や隣国のパキスタン人が定住していた、と記録に残っている。彼らの多くは英国にすでに移住している同郷人が親族を呼び寄せるという「連鎖移住」の制度を利用した。現在、英国に住むインド出身の人々は西ロンドンのサウソール、ウェンブリー、ハウンズロー、バーネット、クロイドン、郊外では東西ミッドランズ、マンチェスターそしてレスターにコミュニティーを作っている。またイギリスでは医師の3割がインド人である。
 インドは歴史的に反英感情がまだ少なからず残っているものの、旧宗主国が普及させた世界共通語である英語を使い、英語圏中心に商売をしている。
   ・   ・   ・   

   ・   ・   ・    

ムガル帝国の興亡 (イスラーム文化叢書)

ムガル帝国の興亡 (イスラーム文化叢書)

イギリス東インド会社  - 軍隊・官僚・総督

イギリス東インド会社 - 軍隊・官僚・総督