🐉8」─1─中国の族誅。特定の一族・血族殲滅。三族/九族/十族皆殺し。〜No.23No.24No.25 

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 2010年7月25日 Record china「古代中国ではなぜ「九族皆殺し」の刑が採用されていたのか?―中国メディア
 20日、古代中国には、1人が罪を犯すと九親等までの親族を皆殺しにするという刑罰制度があった。写真は北京郊外の「川底下村」。明・清代に建てられた四合院建築がほぼ当時のまま残されている。
 2010年7月20日、古代中国における刑罰の残忍さはおよそこの世のものとは思えない。「皮剥ぎの刑」「腰斬(ようざん)刑」「凌遅(りょうち)刑」など、名前を聞いただけで思わず身震いしてしまうものばかり。さらには、一族郎党皆殺しにされるという徹底ぶりだった。中国新聞社が伝えた。
 中国では昔から「罪は九族に及ぶ」といわれ、1人が罪を犯すと九親等までの親族を皆殺しにするという刑罰制度が、清(1644−1912年)の時代まで続いていた。ひと口に「九族」と言っても、親族が多ければそれはおびただしい数に上る。親族に連帯責任を負わせることにより、犯罪抑止を期待したほか、遺族の恨みを根こそぎ断ち切るという狙いもあった。
 権力争いが絡めば、たとえ血のつながった兄弟姉妹でも容赦しない。明の恵帝(建文帝)は太祖・朱元璋が亡くなった後、皇位を継いだが、叔父にあたる燕王・朱棣にその座を奪われた。この時、朱棣は恵帝を抹殺するために国中を探したが、ついに見付からず、刑罰を与えることができなかったという。
 中国は古代から家族主義が第一だった。国家より個人より家族という単位が最も重んじられてきたのである。権力を代々引き継ぐ世襲も、古代から伝わる中国の「伝統文化」だと言えよう。そして、現代の中国人もこの伝統文化を脈々と守っていきたい考えのようだ。(翻訳・編集/NN)」
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 族誅(ぞくちゅう)は、封建時代の中国において、重罪を侵した者について、本人だけでなく一族についても処刑することである。族滅もしくは三族/九族皆殺しとも呼ばれる。ただし、特定の一族・血族全体を対象とするのではなく、あくまで特定の重罪人への刑罰の付加刑として行われる。従って、族誅の対象も特定個人との親族関係をもとに判断される。
 殷の時代に始まり、秦の時代になって拡張され、清の時代までみられた。中国以外では朝鮮、ベトナム、日本でも行われた。

 三族
 古代においては、謀反などの重罪については三族に対する族誅がもっとも行われたが、三族の範囲ははっきりしていない。
 『史記』秦本紀に「文公二十年、初めて夷三族の罪有り。」との記述があり、この三族について『史記集解』中で張晏は「父、兄弟及び妻子」と、如淳は「父族、母族及び妻族」と注している。一方で『周礼』春官宗伯の鄭玄注では「父、子、孫」としている。
 一方で、『墨子』号令篇に「諸ろ罪有りて死罪より以上なれば、皆父母、妻子、同産に還る。」とあり『漢書』鼂錯伝に「大逆無道なれば、錯まさに腰斬し、父母・妻子・同産も少長なく棄市すべし。」とあり、三族と明記されていないものの、父母・妻子・同居親族が族誅の対象であった記述もある。
 三族への族誅は秦代から行われており、『後漢書』楊終伝には「秦政酷烈にして、一人罪有らば三族に延及す。」との記述がある。

 九族
 九族については、『三字経』では高祖父、曾祖父、祖父、父、本人、子、孫、曾孫、玄孫としている。元曲の『賺蒯通』の一節に「律法有りて云う、一人造反せば九族全て誅さる。」とあるように、中世以降において、重罪犯は九族への族誅が行われることになっていたが、九族の範囲は必ずしも明確でない。
 『唐律』では、謀反大逆の場合の族誅について、「父子にして年十六以上は皆絞す。十五以下および母女、妻妾、子の妻妾も亦同じ。」とあり、『大明律』では「祖父子、父子、孫、兄弟及び同居の人にして異姓を分かたず、及び伯叔父兄弟の子にして籍の同異を限らず、十六以上なれば篤疾廃疾を論ぜず皆斬る。」とあり、九族の定義と一致しない範囲の族誅となっている。

 十族
 明の方孝孺は、建文帝に重用された恩義から永楽帝の帝位を認めなかったため、面前で一族800人余りを処刑されたのち自身も処刑され、著作をすべて焼き捨てられた上に彼の門下生までも処刑・流罪となった。この事件は「滅十族」と呼ばれた。

 日本
 日本においては、豊臣秀次切腹の際に眷族が処刑されたほか[1]、慶安の変において首謀者の由比正雪や丸橋忠弥の親族が事件とは無関係であっても処刑された[2]。また、伊達騒動では首謀者の一人である原田宗輔の死去後、事件に全く関与していない子や孫はおろか、養子に出された者や乳幼児を含め全員を死罪にして原田家の血筋を根絶やしにしている。
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 前漢の平帝の時。皇后の弟の子であった王莽(おうもう)は、徳による儒教政治を標榜して人心を収攬し、平帝を徳なき天子として毒殺し、幼児嬰を擁立し、自らを摂皇帝の位に就いた。
 王莽は、臣下の支持を得て、幼帝を配して真皇帝と称し、漢(前漢東漢)を廃して国号を「新」(西漢)と改め、都を洛陽より西に移した。
 王莽は、儒教による理想的な徳政治を行ったが、反対者が続出して叛乱が起き国は乱れた。
 前漢の高祖(劉邦)9世の孫である劉秀(りゅうしゅう)は、血筋・血統の正統性を前面に押したてて湖北で挙兵し、王莽を昆陽で破り、帝位について漢皇室を再興した。
 王莽は、殺される寸前まで、儒教の儀式を行い天・天帝に救いを求めていた。
 劉秀は、都をもとの洛陽に遷し、後漢王朝を開き、死後光武帝諡号された。
 後漢は、前漢同様に儒教の徳を唱道した。
 儒教の理想的徳が真実として現実を支配した時、事実は捻曲げられ、人の思いが作り出す架空が現実とされ、こうあるべきだという幻が社会を支配し、悲劇が悲劇を生みついには国を滅ぼした。
 それは、宗教でも同じ事が起きた。
 その為に、儒教と宗教・仏教は対立し、際限のない殺し合いを繰り返していた。
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 王 莽(おう もう、前45年 - 23年)は、新朝の皇帝。字は巨君。『漢書』などに記されている「莽」の字の草冠の下の字は大ではなく犬である。
 前漢元帝の皇后・王政君(孝元皇后)の甥で、成帝の母方の従弟に当たる。王曼(おうまん)の次男で、王宇・王獲・王安・王臨・王興・王匡らの父。孫(王宇の子)は王宗。娘に平帝の皇后王氏、王曄、王捷らがいる。正妻は宜春侯王咸の娘。また、王永の弟で、王光の叔父。

 生涯
 魏郡元城県委粟里(現在の河北省邯鄲市大名県の東)の人。
 皇后に立てられた伯母の王政君の縁故で伯父達が列侯に封ぜられ高官として裕福な暮らしを送る中で、父・王曼と兄・王永が早世したために王莽の一家のみが侯に封ぜられず貧しかった。王莽は恭倹に身を持し、沛郡の陳参に師事して『礼経』を受け、身を勤め学を広め、儒生並の服装をし、母と兄嫁に仕えた。また、甥の王光を養子として実子以上に熱心に養育し、それに王莽の妻が不平を述べたと伝えられる。
 壮年となり、伯父の大将軍王鳳が病むとその看病を続けたため、王鳳は死に臨んで成帝と王政君に王莽を託す。これ以後、王商や王根の推挙と皇太后となった王政君の後ろ盾を背景に王莽は順調に出世する。親戚の淳于長を失脚させ、大司馬となると、王莽の勢いは飛ぶ鳥を落とすほどになり、永始元年(前16年)には新都侯に封ぜられる。綏和2年(前7年)に哀帝が即位すると哀帝の祖母の傅太后・母の丁姫との対立により大司馬を罷免され、2年後には封国の新都へ追いやられたが、国政復帰の嘆願が多く出され、元寿元年(前2年)の日食を契機に長安に呼び戻された。
 元寿2年(前1年)に哀帝が崩じると、哀帝から皇帝の璽綬を託されていた大司馬董賢から璽綬を強奪し、中山王劉衎(平帝)を擁立して大司馬に返り咲いた。暫くして古文経学の大家だった劉歆を始めとした儒学者を多く招き入れて、儒学と瑞祥に基づいた政策を実施。その一方で民衆の支持を獲得するためには手段を選ばず、次男の王獲を奴僕を殺したことで罪に問い、長男の王宇を謀略を為したことで獄に送って、共に自殺に追い込んでいる。娘を平帝の皇后に冊立し、宰衡、安漢公となった後、5年には14歳になった平帝が死去した。平帝の死因については王莽による毒殺とする史書も有るが確定はしていない。後継として下の世代である僅か2歳の遠縁の広戚侯劉顕の子・劉嬰を立てるも皇帝ではなく皇太子とし、「符命」(一種の予言書にあたるもの)に基づいて自らが摂政として皇帝の業務を代行することとした。そして自らの呼称を「仮皇帝」・「摂皇帝」としてほぼ皇帝と同格の扱いとし、居摂と改元、周公旦の故事に倣って朝政の万機を執り行った。
 更に天下を狙う王莽は古文を典拠として自らの帝位継承を正当化づけようとした。折しも、哀章という人物が高祖の予言という触れ込みの「金匱図」・「金策書」なる符命を偽作し、また他にも王莽の即位を後押しする符命が出現していた。そこで、これらの符命などを典拠として居摂3年(8年)に王莽は天命に基づいて禅譲を受けたとして自ら皇帝に即位、新を建国した。この出来事は歴史上で初めての禅譲であり、簒奪に相当する。
 『漢書』元后伝によると、太皇太后として伝国璽を預かっていた王政君は、玉璽の受領にやってきた王莽の使者王舜(王莽の従兄弟)に対して向かって王莽を散々に罵倒し、それでも玉璽の受領を迫られると玉璽を投げつけて「お前らは一族悉く滅亡するであろう」と言い放った。
 王莽は周代の治世を理想とし、『周礼』など儒家の書物を元に国策を行った。だが、現実性が欠如した各種政策は短期間に破綻した。また匈奴高句麗などの周辺民族の王号を取り上げ、華夷思想に基づく侮蔑的な名称(「高句麗」を「下句麗」など)に改名しようとしたことから周辺民族の叛乱を招き、それを討伐しようとしたが失敗した。さらには専売制の強化(六筦)なども失敗し、新の財政は困窮した。
 そうした中、農民・盗賊・豪族が与した反乱が続発(赤眉の乱・緑林軍など)。緑林軍の流れを汲む劉玄(更始帝)の勢力を倒そうと王莽が送った公称100万の軍勢も昆陽の戦いで劉玄旗下の劉秀(光武帝)に破られるなど諸反乱の鎮圧に失敗し、各地に群雄が割拠して大混乱に陥る。地皇4年(23年)、遂には頼む臣下にも背かれて、長安城には更始帝の軍勢が入城、王莽はその混乱の中で杜呉という商人に殺された。享年68。これにより新は1代限りで滅亡した。王莽の首級は更始帝の居城宛にて晒され、身体は功を得ようとする多くの者によって八つ裂きにされたという。
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