🎄23」24」─1─フランス・ベルギー連合軍はドイツ・ルール地方を武力占領。カレルギー『パン・ヨーロッパ』。1921年~No.80No.81No.82No.83No.84No.85 @ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 何時の時代でも「力は正義」である。
 軍事力や経済力といった国力のない国家や民族には、独立も自由もなく、屈服という屈辱しかなかった。
 平和には、価値がなかった。
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 ベルサイユ条約は、ロシア帝国を解体し、いい加減な国境線を引き、引き裂いた国土をドイツ国民ともども、大戦後に新たに作った周辺の新興国の領土に組み込んだ。
 周辺諸国の国民となったドイツ人は、少数民族として虐げられていた。
 ドイツ国民は、ベルサイユ体制の不正義に怒り、差別と迫害されたドイツ人を民族として再統一する為に奪われた国土の回復を望んだ。
 ヒトラーは、国民の悲願を実現する事を選挙公約として、ナチ党の議席を増やしていった。
 イギリスのネヴァイル・チェンバレンは、ベルサイユ条約の不正義とドイツ国民の悲願に理解を示していた。
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 1919年 アメリカ上院は、コミンテルンの会合がワシントンで開催された事から特別委員会を設置した。
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 1920年 ハミルトン・フィッシュ及びジョン・マッコーマック下院議員は、それぞれが委員長とする「外国からの脅威」を調査するための特別委員会を下院に設置した。
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 1921年11月(〜23年2月) ワシントン会議。各国政府は、戦後不況を乗り切る為に財政の緊縮を模索していた。各国民も、永久平和の為に軍縮を求め、財政負担により生活を圧迫している建艦競争の縮小を希望した。
 日本全権、加藤友三郎海相幣原喜重郎駐米大使、貴族院議長徳川家達侯爵。
 ヒューズ国務長官は、イギリス以外の各国全権の了解を得ずに、海軍軍縮の具体的な主力艦保有量に関する爆弾動議を発表した。
 アメリカ10、イギリス10,日本6、フランスとイタリア3.5。
 アメリカは、会議を成功裡に終わらせる為に、イギリスが求めるアメリカと同数量を受け入れた。
 日本海軍は、アメリカを仮想敵国とする立場から軍縮案は屈辱的であるとして猛反対し、国防からアメリカ10に対して7は譲れないと要求した。随員の加藤寛治中将は、伝統的八・八艦隊戦略から反対した。
 加藤海相は、国際協調を重視し、アメリカとの国力差を考慮して、日米戦は不可能との立場から軍縮案を受け入れるべきであると判断した。不賛成の加藤随員を帰国させて、アメリカ提案を無条件で受託した。
 加藤友三郎「国防は、軍人の専有物にあらず。戦争も、また軍人にてなし得るべきものにあらず。国家総動員して、これにあたらざれば目的を達成し難し。……平たく言えば、金がなければ戦争が出来ぬという事なり。戦後ロシアとドイツがかように成りし結果、日本と戦争の起こる可能性のあるはアメリカのみなり。かりに軍備はアメリカに拮抗するの力ありと仮定するも、日露戦闘の時のごとき少額の金では戦争はできず。しからばその金はどこよりもこれを得るべしやと言うに、アメリカ以外に日本の外貨に応じる国は見当たらなず。しかしてそのアメリカが敵であるとすれば、この途は塞がるるが故に……結論として日米戦争は不可能という事になる。国防は国力に相応ずる武力を備うると同時に、国力を潤育し、一方外交手段により戦争を避くる事が、目下の時勢において国防の本義となりと信ず。すなわち、国防は軍人の専有物にあらずとの結論に達す」
 アメリカは、イギリスを対日の協力者とする為に日英同盟の破棄を望んだ。
 カナダ、オーストリアニュージーランドなどの英連邦諸国も、日本の拡張に対抗する為にも同盟の破棄を求めた。
イギリスは、アジア及び太平洋地域での諸問題を解決する為にはアメリカの協力が必要との結論から、同盟の破棄を決定した。
 日本も、アメリカとの協調を重視して日英同盟の解消に同意した。
 日本海軍は、主力艦を制限された為に、不足分を補うべく新たな基本防衛戦略を採用した。  1,超ド級大和型戦艦の建造。
 2,独自の潜水艦建造による潜水艦隊の弾力的運用。一等潜水艦伊号の開発。
 3,国産航空機の開発による航空部隊の増強。九七艦上戦闘機、零式戦闘機などの製造。世界初の機動艦隊の編制。
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 1923年 オーストリア貴族リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー(母親は日本人)は、『パン・ヨーロッパ』を出版した。
 「汎欧州に向けた努力の到達点は米合衆国に倣った欧州合衆国の設立」であると記し、対立・戦争の原因となる排他的民族主義を取り除くべきであると。 
 各国が持っている民族という概念を否定せず、「血の共同体」ではなく文化による「精神の共同体」を目指し、政治的言語的生活習慣的宗派的に幾つかのグループに分かれ汎欧州文化感情で欧州民族を生み出すべきだと。
 欧州合衆国にはイギリスは含まれていないが、反英ではないためので、イギリスが加盟を希望すれば認めるとしている。
 イギリスは、同じアングロ・サクソンとして、アメリカと同じ言語と似た文化を持つためにアメリカとの結びつきを望む可能性があると、考えたからである。
 欧州合衆国実現の為にはフランスとドイツの関係がカギとなるが、ドイツは対フランス戦略から潜在的にロシアとの協力関係を重視している。
 「ポルトガルからポーランドに至る……平和と自由の統一世界」
 「西[米国]も東[ロシア]も欧州を救いはしない。ロシアは欧州を征服しようとし、米国は買収しようとする」
 「すべても偉大な歴史的事績は空想として始まり、現実として終わる」 
 1月11日 ポアンカレ大統領は、ベルサイユ条約の条項に違反し事に対する制裁として、軍隊にドイツ・ルール工業地帯の武力占領を命じた。ルール地方は、ドイツ人口の一割を占め、国内の石炭・鉄鉱生産の8割を占めるドイツ産業の心臓部であった。イギリスは、16年のサイクス・ピコ秘密協定にもとずき、フランスの報復主義に対して抗議したがそれ以上の行動は取らなかった。
 ドイツ政府は、連合軍の軍事占領に抗議するために、占領地の全公務員と住民に消極的抵抗として占領軍の命令を拒否するように指示した。労働者もストライキを行い、ドイツ帝国銀行は労働者の生活を支援するために大量の紙幣を印刷して支給した。占領軍は、ルール占領地帯をドイツ経済から切り離すべく、命令に従わないドイツ人15万人以上を追放し、抵抗するものは暴力で排除して、400人以上を殺した。フランスは、ルール地方にあったドイツ資産を全て没収した。
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 1924年 ジョン・エドガー・フーバーは、FBI長官になるや、権力維持の為に、政敵になりそうな政治家や官僚や労働組合関係者から財界人や有名人まで全ての階層で盗聴を行った。
 アメリカは、表向きには憲法で個人の自由・プライバシーは守られていたが、実体は厳しい監視社会として個人の権利は守られる事なく盗聴や監視が行われていた。
 人権が公的権力でいとも容易く踏みにじられる国に於いては、唯一憲法のみが公権力の暴走を規制していた。
 レイモンド・B・フォスディック(ロックフェラー財団理事長)「人口の問題は、将来の大きな危機をもたらす要因の一つであり、この人達が主張している通りに何かの手を打っておかなければ、我々の子孫に、現在よりもはるかに生活手段が苦しく、食糧を奪い合う世界を残す事になると思う」(ジョン・D・ロックフェラー2世への手紙)
 アメリカ政治に影響力を持つ富裕上流階級は、マルサス理論にもとずき、非文明国での人口爆発によって食糧が不足し、地球規模の飢餓が襲うと政府に警告を発した。移民反対派は、これ以上の能力のない貧困層の移民は食糧供給に支障をきたす恐れがある為に、制限もしくは禁止すべきであると、民意として政治家に圧力をかけた。
 アメリカ軍は、各国を色で識別暗号化した戦略計画を策定した。日本をオレンジ、メキシコをグリーン、ドイツをブラック、イギリスをレッドと定めた。
 海軍は、オレンジ計画を検証する為に、150隻以上の艦船と4万5,000人の兵士を動員して大演習を行った。演習の結果、主力艦以外の補助艦の保有制限も必要であると報告した。
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 1926年 アメリカのケロッグ国務長官パナマのアルファロ大統領は、新たな運河条約を結び、「アメリカが戦争状態に入った時は、パナマも運河防衛に全面的に協力し、パナマ国内のいかなる場所でもアメリカ軍の移動を全面的に認める」(第11条)と定めた。パナマ議会は、屈辱的条約であるとして条約批准を拒否した。
 パナマの反米民族主義者は、親米路線の政府を打倒する為の暴動を起こしていた。アメリカ海軍海兵隊は、パナマ政府の要請を受けたとして出動して、パナマ市内を武力制圧し多くの市民を死傷させていた。
 アメリカは、中南米諸国への支配を強化する為に、各国と軍事協定を結び、軍事基地を建設して部隊を配置した。
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 1926年 ハリー・クランプトン、ハリー・H・ローリン、マディソン・グラント、ヘンリー・フェアフィールド・オズボーンらは、アメリ優生学協会を創設した。
 優生学フレデリック・ホフマン「動物界では優れたものが劣ったものを駆逐して生存権を得る。それは人類にも通じる」

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 1926年 ブラジル政府は、常任理事国入りを拒否された為に、国際連盟を脱退した。
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 1927年 オーストリア人の日記「今日の収穫はアボリジニ17匹」
 オーストリア人は、先住民アボリジニの土地を奪って開拓し、カンガルーなどの有袋類を狩猟すると共にアボリジニ人も獣として殺害していた。
 6月〜8月 スイスのジュネーブで日本・アメリカ・イギリスの3国による第二回海軍軍縮会議が行われた。フランスとドイツは、先のワシントン会議への不満から出席要請を拒否した。パナマ運河の中立性に関する協議を行う為に、パナマ代表も会議に参加した。
 若槻礼次郎首相は、対米協調を維持する為に参加を決定した。海軍側は、出席には同意下が、補助艦保有量を主力艦と同じ対米6割に制限される事には反対した。海軍随員には、対米7割を主張する様に任務訓令を発した。
 会議は、地球上に多くの植民地を持つイギリスとアメリカが激しく対立して決裂し、共同声明を発表して休会となり失敗した。
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 1928年 2社以外のアメリカとイギリスの大手石油会社も秘密協定に参加して、正式に現状維持(アクナキャリー)協定として成立した。32年までに大手7社が、カルテルに加盟した。世に言う、セブン・シスターズである。
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 1929年9月 フランスのブリアン首相兼外相は、国際連盟総会で、クーデンホーフ=カレルギーが提唱した汎欧州運動のような「ある種の連合関係が存在せねばならない」と発言した。 
 欧州27ヵ国の代表は、ブリアン構想に賛意を示し、具体的な文書を準備する事を要請した。
 ブリアンは、翌30年5月に「欧州連合体制の組織に関するメモランダム」を正式に提出した。
 チャーチルは、ブリアン構想に賛意を示すもイギリスは独自的な行動をとる事を、30年2月13日号のサンデー・イブニング・ポスト論文を発表した。
 「我々は欧州と共にあるけれども、その一部ではない。我々は繋がっているけれども、中には含まれない。……我々は一種の欧州合衆国を建設せねばならない。英国、英連邦、力強い米国は新しい欧州の友人であり後援者でなければならない」
 が、独仏連携を主導していたドイツのグスタフ・シュトレーゼマン外相が、29年10月に急死した為にブリアン構想の実現は不可能となった。
 ブリアンも、32年に死亡してヨーロッパは不安定な時代に突入した。
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 中南米大陸に進出するドイツ財閥。
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日本の神社と「神道」

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