🔯7」─3・B─宗派間の対立が熾烈な「キリスト教」は、なぜかくも複雑化したのか? 〜No.25 

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 2023年11月2日 YAHOO!JAPANニュース NHK出版新書「宗派間の対立が熾烈な「キリスト教」は、なぜかくも複雑化したのか? 【キリスト教の本質 「不在の神」はいかにして生まれたか】
 宗教 キリスト教 NHK出版新書 加藤隆
 ヴァランタン・ド・ブーローニュ『書簡を書く聖パウロ』(1618~20年頃、ヒューストン美術館蔵)
 ストラスブール大学神学部出身の神学者加藤 隆さんが、自身の研究の集大成として世に放つ新書『キリスト教の本質 「不在の神」はいかにして生まれたか』。
 全世界で22億5000万人もの信者を有する一大宗教であるキリスト教。しかし、その実態について、日本人のほとんどが理解していないと著者は言います。
 そんなキリスト教の本質に迫る——2023年10月の発売直後に増刷も決定した本書より、その一部を特別公開します。
 (※NHK出版公式note「本がひらく」より)
 キリスト教諸宗派全体の理解は不可能である
 「キリスト教」を理解する上では、大きく言って二種類のアプローチがある。
 一つは二千年近くの間に「キリスト教」が展開した姿を観察・理解して、それらを総和すればキリスト教が分かる、とするアプローチである。こうしたアプローチは、「キリスト教」とされている現象のすべてを等し並みに考慮し検討しようとしていて、「キリスト教」という対象に対する姿勢として誠実かもしれない。
 しかし、実際には、必要な作業をきちんと実行することが不可能である。「キリスト教」はきわめて大規模な動きとなっていて、この上なく複雑な姿を示してきている。単純素朴な構えで「キリスト教」の全体を理解しようとするなら、「キリスト教」なるもののそれらの事象の全てを、観察・理解しなければならない。そのような作業は、対象が量的に膨大であるために実行不可能である。
 キリスト教諸宗派のすべてを全面的に理解することはできない。しかし、このことは、調査・勉強を少し進めてみるだけで、すぐに理解できる。また、次のような問題もある。「キリスト教」には、大中小のさまざまな分派が生じてきている。それらの分派は、互いに立場が異なっているから分裂している。そして、分派間のさまざまな対立は、場合によっては厳しいものになり、対立する相手を皆殺しにしなければ済まないような「キリスト教」内部の戦争になったりもした。
 こうした熾烈な対立が生じているのに、それらをまとめて「キリスト教」と言ってしまえるのかと疑問に思われるほどである。「キリスト教」がなぜこのように内部で分裂するのか、それなのに、それらをまとめて「キリスト教」となぜ言えるのかについても、本書で考察する。
 この機会に重大な誤りになっている点を、注意点として指摘する。
  「キリスト教」はさまざまな分派に分かれている。それらの分派のどれかの立場を信奉している者、多くの場合「キリスト教徒」「信者」が、自分が信奉している分派で教えられている「キリスト教」が「キリスト教全体」の姿だと主張するような誤りである。どの分派も自分たちの立場こそが「真のキリスト教」「正しいキリスト教」だと教えているから、このような事態が生じることになる。独りよがり、独善、になっている。
 しかし、他の分派からは、そのような「キリスト教」は異端であり無神論であり、誤りであって、別の「キリスト教」こそが、その分派では、「真のキリスト教」「正しいキリスト教」とされている。「目糞鼻糞を嗤(わら)う」という日本語の表現にぴったりとあてはまる場面が繰り出されている。自分は完璧だ、正しい、と「信じ込んで」、他のすべてを否定的に決めつけて軽蔑する態度である。狭隘(きょうあい)な理解に閉じこもっている者たちは、キリスト教を分かっていると主張する。どう理解すべきか、どうすべきか、どう考えるべきか、が分かっていると主張する。さまざまな分派が存在していて、自分たちが理解しているのは、そのうちの一つでしかないということは明らかなはずなのに、その狭隘な理解が、「キリスト教の全体」の理解だと主張してはばからない。
 日本には、仏教が、日本的な仏教の範囲内でも、さまざまな分派になっているという状況がある。しかし、それぞれの分派に属する者たちで、自分たちの「仏教理解」が「仏教全体の理解」だと主張する者はいない。「わたしらのとこ(自分たちの宗派)では、こうです。でも、あちらはん(別の宗派)では、ちごてます」、といった具合である。日本の知識人で、「仏教が分かっている」と言い切る者はいない。
 しかし、「キリスト教」ということになると、自分たちの狭隘な「キリスト教理解」が「キリスト教全体の理解」と主張されている。そのような独りよがりの「キリスト教理解」を振りかざす者たちは、日本語では「キリスト者として云々」と誇らしげに言うことが多いようである。しかし「キリスト教」の全体の姿、さまざまな対立を含んだ複雑な姿を見渡せば、すべてを理解できないことは明らかであり、「私はキリスト教が分からない」となるはずである。「自分のキリスト教」を「キリスト教」そのもの、と主張するのは、やめるべきである。
 キリスト教の成立前後に着目する
 二千年近くの間の「キリスト教」の事象に注目するアプローチは、実行不可能である。しかしもう一つのアプローチならば、(幸いにして)「キリスト教」をうまく把握できる。
 「キリスト教」は、紀元後一世紀前半のイエスの活動がきっかけになって生じた。イエスの活動はユダヤ教内部での改革運動と言うべきものだったが、そこから展開した流れが一世紀の末あたりに従来のユダヤ教から分裂して、ユダヤ教とは別の流れになり、「キリスト教」といわれる独立した流れになった。
 「キリスト教」成立前後のこうした様子には、のちに展開する「キリスト教」の本質的要素がすでに備わっている。成立前後の「キリスト教」も複雑だが、二千年近くにわたる「キリスト教」の展開全体に比べれば、規模ははるかに小さい。慎重に検討するならば、全体像を把握することができる。
 そこで、成立前後の「キリスト教」の様子を検討することにする。まずは最初のきっかけになったイエスの様子に注目することになる。
 イエスの意義は、どのようなものなのか。
 イエスは、今は「中東」の「パレスチナ」と呼ばれる地域にいたユダヤ人である。イエスは普通のユダヤ人青年の一人だった。ところが社会的に目立った活動をするようになり、まもなく処刑されてしまう。「十字架刑」だったようである。処刑されるまでの社会活動の期間はかなり短く、一年間ほど、長くても二~三年だった。
 イエスは「キリスト教創始者」ということになっている。それで完全に間違い、ではないのだが、コトは単純ではない。イエスは何もないところから突如として「キリスト教」なるものを創出した、「キリスト教」と言われることになる運動を開始した、のではない。イエスの活動には前提がある。ユダヤ教である。「イエスの活動はユダヤ教内部での改革運動と言うべきものだった」と述べた。
 イエスユダヤ人であり、ユダヤ教徒である。ユダヤ教民族宗教なので、ユダヤ人ならユダヤ教徒である、ユダヤ教徒ユダヤ人である。
 そのユダヤ教の改革運動を、イエスは行おうとした。つまり、イエスがいた当時のユダヤ教には、問題があった。そしてその問題について何とかできると思うからこそ、イエスは目立った活動を行った。問題があるだけでは、何らかの活動を行うことにはならない。
 問題があって、その問題をなんとかできると思うのであれば、目立った活動をすることになる。ではユダヤ教のその問題とは何か。
 簡単に言えば、「神の沈黙」「神が動かないこと」である。しかし、ユダヤ教のこの問題の意味を十分に理解するには、ユダヤ教が如何(いか)なるもので、イエスの当時までどのように展開してきたのかを知らねばならない。
 「キリスト教は何か」を知るために、「ユダヤ教は何か」を知らねばならないことになった。これでは課題が横滑りしただけで、しかも課題が一つ増えたことになっている。しかし「ユダヤ教を知る」ことは、「キリスト教を知る」ことに比べて、かなり取り組みやすい。
 ユダヤ教は、中規模の集団であるユダヤ人たちの一つの民族宗教集団の立場である。地球規模で二千年近く展開し、無限と思えるほどに内部が多様になったキリスト教に比べれば、はるかにまとまりがある流れになっている。
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 本書『キリスト教の本質 「不在の神」はいかにして生まれたか』では、
・「キリスト教」についてのアプローチ
ユダヤ教の諸段階
キリスト教の成立
キリスト教と「世俗化」
・日本とキリスト教の関係について
 という章立てで、キリスト教の本質に切り込みます。
 キリスト教の本質 「不在の神」はいかにして生まれたか
 まるで『カラマーゾフ』の大審問官。これは、現代の「ツァラトゥストラ」だ!
 NHK出版ECサイト
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 著者
 加藤 隆(かとう・たかし)
 千葉大学名誉教授。神学博士。専門は、聖書学、神学、比較文明論。著書に『新約聖書はなぜギリシア語で書かれたか』『一神教の誕生』『歴史の中の「新約聖書」』『旧約聖書の誕生』『「新約聖書」の誕生』『別冊NHK100分de名著 集中講義 旧約聖書』など。
※刊行時の情報です
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🎄41」─2─ユダヤ人をホロコーストに追い込んだのはユダヤ人のシオニスト・リーダーであった。~No.135No.136 

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2018-10-23
🎄43」─1─第二次世界大戦ユダヤ人難民船セントルイス号事件。ニューヨーク万博。ユダヤ人難民船タイガーヒル号事件。1938年~No.140 @ 
2024-02-29
🎄45」─2─ユダヤ人追放。マダガスカル計画。1938年~No.147No.148 
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 ポーランドユダヤ人の一部は、祖国がドイツ軍とソ連軍の連合軍に侵略された為に国外に脱出し、ナチス・ドイツソ連共産主義から逃れて、軍国日本に生きる望み託してアメリカのユダヤ人組織からの送金でシベリア鉄道に乗って東へを向かった。
 彼らが信じたのは、中級外交官であった杉原千畝ではなく日本の国家元首であった昭和天皇であった。
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 2024年3月8日 YAHOO!JAPANニュース 東洋経済オンライン「魂を売った?ホロコーストの裏に「極限の駆け引き」 ユダヤ人リーダーが移送責任者と結んだ取引の成否
 アウシュヴィッツ強制収容所(写真:YMZK-Photo/PIXTA
 複数の「正しさ」が衝突し、対立が深まる時代、人は「何でもあり」の相対主義に陥りがちになると指摘するのが、応用倫理学を専門とする村松聡・早稲田大学教授です。論理ではわりきれない問いに直面したときに“筋を通す”ための倫理とは何か?  村松氏が「ホロコースト」を題材に解説します。
 ※本稿は村松氏の新著『つなわたりの倫理学 相対主義と普遍主義を超えて』から一部抜粋・再構成したものです。
ハンガリーシオニズム指導者が結んだ契約
 1944年、ハンガリーに住むユダヤ人の絶滅収容所への強制移送が始まる。
 当時、ハンガリーシオニズム(ユダヤ人によるイスラエル復興を目指す運動)の指導者であり、ユダヤ人救済擁護委員会の中心人物の1人であったルドルフ・カストナーは、移送の責任者アイヒマンと取引を行う。アイヒマンは、ヨーロッパ各地のユダヤ人の絶滅収容所への鉄道輸送をすべて管轄していた。
 カストナーは、一部のユダヤ人の救出を条件に、全ハンガリーユダヤ人の輸送を滞りなく行う企てに協力する契約を結ぶ。ユダヤ社会の復興を考えて、カストナーは、著名なユダヤ人、重要人物を選び出すが、その中にはカストナーの家族、親類縁者も含まれていた。
 最終的に、1684名のユダヤ人がドイツ親衛隊の監視下、列車に乗り中立国スイスへと出国する。一方、40万にのぼるハンガリーユダヤ人は、アウシュヴィッツガス室で死んだ。
 戦後、カストナーはイスラエルに渡り、通商産業省のスポークスマンの職についていたが、同胞のユダヤ人からナチスとの協力に対する非難を受け、1955年、イスラエルで法廷に立つ。
 ハレヴィ判事は裁判で、カストナーを「悪魔に魂を売った」と批判した。カストナーは列車の行きつく先に何が待っているか知っていたにもかかわらず、その情報をユダヤ人社会に伝えなかった、と非難された。
 もし、救済擁護委員会がアイヒマンと協力せずユダヤ人を組織して鉄道輸送に抵抗していたならば、せめてハンガリーユダヤ人社会に正確な情報を伝えていたならば、輸送に時間と手間がかかり、効率的にユダヤ人をアウシュヴィッツに輸送できなかったろう。
 ナチスに協力しなかったとしても、多くのユダヤ人が殺されたにちがいないが、抵抗するべきだった、そう考えることもできる。実際、1943年ワルシャワでは絶望的ななかでユダヤ人たちが蜂起し、その鎮圧にナチスの親衛隊は多くの労力と時間を費やさなければならなかった。
 裁判はカストナーの非を認定、カストナーはイスラエル政府の職を辞する。裁判を機に、彼はイスラエルでもっとも悪名高き人物となった。妻は心労で起き上がれず、娘は学校で石を投げられる状況だったらしい。そして、カストナーは、同胞のユダヤ人によって自宅前で暗殺される。
■判事の批判にはいくつかの疑問
 カストナーは「悪魔に魂を売った」のか。
 ハレヴィ判事の批判にはいくつかの疑問が浮ぶ。カストナーとアイヒマンの交渉と契約は対等なものだったか。カストナーはアウシュヴィッツで何がおきているか正確に知っていたのか。さらに、正確に知っていたとして、カストナーが正確な知識をユダヤ人社会に伝えたとき、何が生じると予想できたか。
 そして最後に核心となる問いに答えなければならない。当時の状況のなか、カストナーのとった「契約」以外のいかなる形でハンガリーユダヤ人を救出できたろうか。
 カストナーはアイヒマンと対等に取引ができたわけではない。カストナー自身ユダヤ人であるから、ナチスの秘密警察に逮捕される可能性もあった。ブダペストの路上で親衛隊に射殺されることも充分考えられた。その気になればアイヒマンアウシュヴィッツ送りを命令できたのである。
 現実には、常に自分自身と家族に降りかかる身の危険を感じながら交渉していた。こうした取引を、通常の状況下での契約のごとく考えることはできない。
 アウシュヴィッツユダヤ人の絶滅が進行しているのをカストナーは知っていた。アウシュヴィッツから1944年4月に脱出したスロヴァキア出身の二人のユダヤ人からの報告を見ていたからである。
 また、絶滅収容所以外にも、特殊部隊(アインザッツ・グルッペ)により、東方、ウクライナユダヤ人が集団銃殺されている事実を聞き知った、とカストナーの同僚で、同じくユダヤ人救済擁護委員会の中心人物だったヨエル・ブラントがアイヒマン裁判で証言している。
 ブダペストユダヤ人社会の中心にいた人々がこうした報告を受けていたのは間違いないだろう。
 しかしユダヤ人殺戮の事実を人々に伝えたとき、人々がそれを事実として受け取るかどうかは、また別である。アイヒマン裁判の裁判記録を読んでいると、絶滅など自分の目で見るまで信じられなかったとホロコーストの生き残りが繰り返し証言している。
 当然だと思う。文明化された現代ヨーロッパの真ん中で、1つの「民族」を絶滅させる計画が進行しているなど、誰が信じられただろう。とんでもないデマ、今風に言えばフェイク・ニュースと受け止めた可能性が高い。
 ナチスは、東方(ロシア)での強制労働につくために輸送するとユダヤ人に説明していた。この説明を多くのユダヤ人が死の直前まで信じていたのである。
■契約以外の形で救出できたのか
 さて、それでは、カストナーのとった「契約」以外のいかなる形で、ハンガリーユダヤ人を救出できたろうか。
 カストナーのアイヒマンとの「契約」が小悪の選択であったかどうか、その正否を判断するためには、すべてがわかっている現在からの「後知恵」ではなく、当時のブダペストの不安と不確実さの状況下にあったユダヤ人の視点に戻って推移を追う必要があるだろう。
 ユダヤ人救済擁護委員会は、すでに1944年以前から偽造パスポートなどを使って、ドイツ占領下の地域から、ユダヤ人がハンガリーへと逃亡する手助けをしていたらしい。当初ハンガリーはドイツの同盟国であったから、ナチス・ドイツも勝手にハンガリー国内のユダヤ人に手を出すわけにはいかなかった。
 事態が変わるのは、ハンガリーがドイツから離れるのを察知して、ドイツがハンガリーを占領した1944年3月である。ここからハンガリーユダヤ人の絶滅が計画され、実行に移される。またこの頃、既にドイツの敗戦の色は濃くなっていた。こうした中、交渉も始まる。
 アイヒマンはドイツの軍用トラックをユダヤ人に供出させようとして、100万のユダヤ人の命と引き替えに、東部のロシア戦線で使用する1万台のトラックを提供するように、カストナーの同僚のユダヤ人指導者、ヨエル・ブラントに持ちかける。
 ブラントはこの提案をもって、トルコ、イスタンブールユダヤ人社会へと赴く。アイヒマンはドイツの敗色濃い中、ユダヤ人を介してソヴィエトを除く西側連合国と講和のための準備をしようとしていたのかもしれない。
 この提案を聞いて、カストナーは、それに先行して600名のユダヤ人の国外移住をナチスに願い出る。命とトラックの交換を真剣にナチスが考えているのか、確かめようとしたらしい。こうして1944年5月に最初の「契約」が行われる。
■いっこうに帰ってこないブラント
 しかし、ブラントはいっこうに帰ってこなかった。ブラントはイスタンブールからカイロにまで行き、現地のユダヤ人社会と接触するばかりではなく、連合国側にも面会し、必死にトラックの供出を懇願していた。だがユダヤ人の大量虐殺も、またその代用としてのトラックの件も信じてもらえなかったのである。
 こうして事態が動かず、むなしく月日が過ぎていく中、ユダヤ人の絶滅収容所への輸送が次々に行われていく。カストナーは、その間アイヒマンと何度も接触し、中立国へ移送するユダヤ人の数を600人からさらに増やそうと試みる。
 アイヒマンは同意した。1943年4月から5月にかけて1カ月間続いたワルシャワユダヤ人ゲットーと同様の蜂起が起きるのを、アイヒマンは恐れていた。ブダペストで同じく蜂起がおきれば、鉄道輸送は遅れ、自らの責任問題になる。後に「悪の陳腐さ」とアレントから形容されるアイヒマンは、力なきユダヤ人相手には怒鳴りつける男だったが、すべてを秩序に基づいて行うことに異様なまでにこだわる小官吏だった。
 度重なる交渉の結果、最終的に中立国への出国許可は1684名に及ぶのだが、脱出に保証があったわけではなかった。このとき出国した1人の証言によれば、「列車に乗るかどうか、シオニズムに関わっていた叔父が、ブダペストに残れば100%死を免れない。出国のための列車に乗るならば死ぬ確率は90%だと言った」。
 この証言が正しいとすれば、列車に乗った人たちは、10%の可能性に賭けていたことになる。アイヒマンが契約を履行するかどうか、実際には誰にもわからなかったのである。
 現実に中立国への脱出はすんなりいったわけではない。
 カストナーのユダヤ人たちを乗せた列車は6月にブダペストを発ち、ドイツのベルゲン・ベルゼン強制収容所へ向かう。大部分のユダヤ人はそこで数カ月間とどめ置かれている。列車に乗っていたすべてのユダヤ人がスイスへ出国するのは、ようやく1944年も暮れの12月になってからである。
 おそらく戦争の経緯を、アイヒマンナチス当局も見ていたのだろう。敗戦が避けられないとわかった時点で、西側連合国との講和を考えて、ユダヤ人を出国させたと推測できないだろうか。信じられないような話だが、講和を有利に進めるためにユダヤ人を使おうとナチス親衛隊長官ヒムラーは戦争末期考えていたから、この推測もあながち的外れではないだろう。
 こうした経緯をみるとき、カストナーは少なくとも当初、ブラントが何らかの返答をもって帰ってくるのを期待していたろう。それまでにどれだけの人間を救えるか、あるいは殺戮から少しの間でも生きながらえさせるか、アイヒマンとの交渉はそこに焦点があったのではないか。
■「悪魔に魂を売った」わけではないという判決
 カストナーに対する最も大きな批判の1つとして、ユダヤ人に輸送の目的を教えなかった事実が挙げられていた。教えたとしても、多くの場合信じてはもらえなかったろう。
 また、情報を得て冷静に事態を受け止めた、ユダヤ人社会の中心にいた人間でも、証言の通り出国の成功率10%の見込みと考えていたように確実な保証は何もなかった。そうであれば、ワルシャワゲットーのように蜂起する可能性も小悪選択であったかもしれない。
 1958年、カストナーのケースは、イスラエル最高裁判所で再度審理され、1955年の判決は覆される。最高裁のアグラナット判事は、アイヒマンとカストナーの間の取り決めを契約とはみなせないと判断している。
 またユダヤ人全体を救助しようとするカストナーの動機を認め、カストナーは「悪魔に魂を売った」わけではないと判決をだした。ただしその判決は、3対2のきわどいものだった。
 シンドラーの指輪に彫られたタルムードの言葉「一人を救うものは、全世界を救う」をもう一度私は考える。ハンガリーユダヤ人40万人は救えなかったが、1684名を救ったカストナーに、この言葉と指輪はふさわしくないのだろうか。
 村松 聡 :早稲田大学文学学術院文化構想学部教授
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🔯3」─5・B─旧約聖書の秘密を紐解く【物語としての旧約聖書】〜No.13 

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 2024年3月6日 YAHOO!JAPANニュース NHK出版デジタルマガジン「楽園追放、バベルの塔十戒……旧約聖書の秘密を紐解く【物語としての旧約聖書
 楽園追放、バベルの塔十戒……宗教史にはかりしれない影響をおよぼした旧約聖書は、謎めいた物語に満ちています。その秘密の一端を明らかにした『物語としての旧約聖書 人類史に何をもたらしたのか』が1月に刊行され版を重ねています。著者は、古代オリエント史・聖書学が専門の月本昭男さん。当記事では本書の「はじめに」を特別に公開します。
 『物語としての旧約聖書 人類史に何をもたらしたのか』はじめにより
 旧約聖書成立の歴史
 聖書には、旧約聖書新約聖書があります。後者の新約聖書キリスト教会内で成立した書物です。そこには、イエスの教えと十字架の死にいたる生涯を伝える福音書、初代キリスト教の宣教の記録、キリスト教をローマ世界に伝えたパウロの書簡など、キリスト教が確立してゆく過程で記された二七の書物が収められています。
 旧約聖書のほうは、大小三九の書から構成されています。そのほぼ半分は古代イスラエルの先祖たちの物語や王国の歴史記述ですが、預言者たちの言葉、イスラエルの民が詠った詩歌、さらに短編小説を思わせる物語や人生を省察した作品などがそこに加わります。聖書と呼ばれるので、堅苦しい宗教的な教えを思い浮かべる方もおられるかもしれませんが、そこには人間味あふれる物語が少なくありません。
 旧約聖書が現在のような形にまとめあげられたのは紀元前二世紀ころです。キリスト教に先立ち、ユダヤ教の聖書としてそれは成立しました。しかも、その大半が記された時期はそこから幾世紀もさかのぼります。それらは、ユダヤ教が確立する以前に、古代イスラエルの民によって書き残された書物群でした。ユダヤ教はこれを基礎にして成立したのです。ですから、ユダヤ教徒にとっては、いまでも旧約聖書だけが聖書です。彼らはこれをミクラーあるいはタナハと呼びます。ミクラー(Miqrā’)とは「朗読すべきもの」というほどの意味、タナハ(TaNaKh)は、旧約聖書をトーラー(Tôrāh「律法」)、ネビイーム(Nəbîʼ îm「預言者たち」)、ケトゥビーム(Kətûbîm「諸書」)という三つの部分に区分し、それぞれの頭文字を並べてこれに補助母音aを付した名称です。
 ユダヤ教の聖書がなぜキリスト教の聖書とされたか
 では、ユダヤ教の聖書がなぜキリスト教の聖書とされたのでしょうか。ナザレのイエスも彼の弟子たちもユダヤ人として旧約聖書に通じていましたが、十字架にかけられたイエスをメシア=キリスト――キリストはヘブライ語メシア(マシーアハ)のギリシア語訳です―――と信じた弟子たちは、次第にユダヤ教からたもとを分かってゆきました。ところが、ユダヤ教の聖書はそのまま受容したのです。その理由は、メシアを待望する預言(「メシア預言」)をはじめ、旧約聖書に記された内容の数々はイエス・キリストにおいて成就した、と彼らが信じたことにありました。そして、後に成立した新約聖書と区別して、これを旧約聖書と呼ぶようになりました。
 ユダヤ教の聖書がキリスト教に受容されることにより、旧約聖書に伝わる思想の多くもキリスト教へと引き継がれました。唯一神観、自然観、歴史観、人間観など、キリスト教思想の多くは旧約聖書に由来します。それだけではありません。ユダヤ教キリスト教を介して、旧約聖書の物語や思想はイスラム教にも受け継がれました。初期のイスラム教徒が自分たちを創世記に物語られるアブラハム(イブラヒム)の子孫と理解したことなどは、その一例です。
 古代イスラエルの民とは何か
 旧約聖書を残した古代イスラエルの民は、紀元前一二〇〇年前後にパレスティナに定住した弱小の一民族でした。紀元前一〇〇〇年ころに王政に移行したあとも、彼らは弱小の民であるがゆえに、南のエジプトと東のメソポタミアに興ったアッシリアバビロニアといった大国のはざまで翻弄され続けました。王国は南北に分かれ、北王国は紀元前七二二年にアッシリアに滅ぼされ、南のユダ王国は紀元前五八六年にバビロニアによって滅ぼされ、ユダ王国の主だった人々は国を失ってバビロニア捕囚民となりました。捕囚から帰還した紀元前六世紀後半以降、エルサレムを中心とする彼らの地はペルシア帝国の一属州になり、ペルシア帝国が滅亡してからは、エジプトのプトレマイオス朝の、またシリアのセレウコス朝支配下に組み込まれました。旧約聖書に記されたもっとも新しい時代は、マカベア戦争と呼ぶ、ユダヤの民が蜂起し、セレウコス朝独立戦争を挑んだ紀元前二世紀前半です。その後、ハスモン朝さらにはヘロデ王による独自の王政が敷かれた時期もありますが、紀元後七〇年、反ローマ独立戦争に敗れたユダヤの民は故地を失い、世界に散在する民(ディアスポラ)となるのです。
 古代イスラエルのこのような歴史のなかで、旧約聖書は書き記されました。そしてそれが、ユダヤ教成立の基礎となり、キリスト教誕生の土壌となり、イスラム教にまで浸透しました。当時の古代オリエントの強大国に翻弄され続けた弱小の民が残した旧約聖書は、こうして、その後の宗教の歴史にはかりしれない影響をおよぼすことになりました。それは人類宗教史に生起した一大逆説と呼びうるような現象です。旧約聖書には宗教を形成する力が秘められている、ということでしょうか。
 旧約聖書の原文は、古代イスラエルの民が日常的に用いていたヘブライ語(一部アラム語)で記されています。これを今日に伝えたのはユダヤ教の学者たちでした。それに対して、ローマ世界からヨーロッパ全域にひろまったキリスト教は、ながらく、紀元前二世紀ころに訳された、七十人訳と呼ばれるギリシア語訳の旧約聖書を、さらにはウルガータと呼ばれるラテン語旧約聖書を重んじてきました。そこにはヘブライ語聖書にはない書物がいくつも加えられました。ギリシア語(一部ラテン語)を原典とするそれらの書は日本語で「旧約聖書続編」と名づけられましたが、キリスト教の教派によって、その位置づけにはひらきがあります。たとえば、カトリック教会はこれを旧約聖書に含めますが、プロテスタント諸派は聖書とは認めません。
 キリスト教世界でひろくヘブライ語聖書が重視されるようになるのは、旧約聖書の学問的研究が確立する一九世紀以降のことです。本書では、ヘブライ語で伝わる旧約聖書にもとづき、古代西アジア文明地の一隅に歴史を刻んだイスラエルの民が伝える物語をたどりながら、そこにたたみ込まれた思想と信仰の特色を探ってゆきます。それによって、人類の宗教史にはかりしれない影響をおよぼしえた旧約聖書の秘密の一端を、また旧約聖書のもつ今日的意義の一端を明らかにできれば、と願っています。
 著者
 月本昭男(つきもと・あきお)
 1948年、長野県生まれ。古代オリエント博物館館長。経堂聖書会所属。専門は、旧約聖書学・古代オリエント学・聖書考古学・宗教史学。著書に『詩篇の思想と信仰』Ⅰ~Ⅵ(新教出版社)など。2018年度、NHK「宗教の時間」で通年『物語としての旧約聖書』を講じた。
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🐊13」─1─駐豪州大使が緊急寄稿「中国への認識を改めよ」。中国共産党、戦狼外交の実態。~No.77 

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 2024年3月10日 YAHOO!JAPANニュース 文藝春秋「駐豪州大使が緊急寄稿「中国への認識を改めよ」
 文藝春秋 2022年4月号
 ウクライナ危機において、ロシアの軍事行動に理解をしめす中国の対外政策に改めて注目が集まる中、2020年11月から駐豪州大使をつとめる山上信吾氏が3月10日発売の「文藝春秋」に対中政策に関する論考を寄稿。山上氏は論文で、中国に経済的利益を求めるだけだった豪州がいかにして変わったかを分析し、日本の対中政策の転換を提言している。
 〈かつての豪州にあっては、左派政治家、旧世代の外交当局者、中国との石炭・鉄鉱石貿易等に携わってきた財界人を中心として、ナイーブで柔弱な対中認識が主流であった。ところが、情報機関の働きによって、国家安全保障を損なうような中国からの投資に光があてられ、国会議員をはじめとする要人への不当な浸透工作が暴露されてきた。その結果、「与党のみならず野党労働党、一般国民の間にも、中国に対する警戒感が広がった。この5年間で豪州の対中認識は一変(sea change)した」と言われるほどになったのである〉
 そこに追い打ちをかけたのが、中国による貿易制限措置だった。
 豪州にとって中国は輸出額の30%超を占める最大の貿易相手国。その関係に亀裂が入ったのは、豪州が5Gからのファーウェイの排除や新型コロナの国際調査を呼びかけたためだ。烈火のごとく反発した中国は、大麦、ワイン、石炭など、豪州の主な輸出品目に対し、貿易制限措置を次々講じた。
 こうした豪中関係の変化から、中国に経済的に依存する日本が得られる教訓として、情報機関の重要性を挙げる。
 〈目の前の相手との関係の維持・改善に注力しがちな外交当局とは別に、中国の動態、性向を冷徹に把握、分析、警戒する人間が必要となる。対外情報庁であり、対内防諜担当機関である。
 このような情報機関が、今般の豪州による対中政策の大転換に不可欠の役割を果たした。某首相経験者は、対内防諜担当機関からのブリーフを受けて認識を大いに改めた旨、しみじみと私に吐露したことがある。
 ひるがえって日本はどうか? 日暮れて道遠しの一言である〉
 山上氏 ©共同通信社
 日本がとるべきだった“道筋”
 そして、山上氏は〈このように猛烈な攻勢と威圧に直面した豪州が辿ってきた軌跡は、実は日本こそがとるべき道筋だったのではないだろうか〉とした上で、〈そもそも、日本こそが北東アジアでの地政学的課題と脅威の最前線にいる。その日本が、情報収集能力や防衛力の抜本的増強を通じて抑止力を高め、地域の平和と安定を維持するために自ら率先して行動すべきなのは、言を俟たない〉と断じる。
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 3月4日 YAHOO!JAPANニュース 文春オンライン「「中国問題に口出しするな」と露骨なけん制も…元オーストラリア大使が見た「戦狼外交の実態」
 オーストラリアでは長年親中派政権が続き、中国と緊密な経済関係を築いてきた。ところがコロナ禍をきっかけに、中国の態度が一変。オーストラリア国内で活発な情報工作活動を展開しているという。
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 ひるがえって日本は「戦狼外交」を繰り広げる中国とどのように向き合うべきなのか。ここでは、2023年までオーストラリア大使を務めた山上信吾氏による新刊 『中国「戦狼外交」と闘う』 (文春新書)を一部抜粋して紹介する。
 ◆◆◆
 2020年11月、駐豪大使として発令を受けて間もない頃、送別ランチに招待されて東京三田のオーストラリア大使公邸に赴いた。
 かつての華族、蜂須賀家の屋敷跡とされ、風格と趣、そして広大なスケールを有する庭が自慢だ。東京の一等地にあまたある各国大使の公邸の中でも、屈指の環境。その美しい庭園を愛でつつ食前酒の豪州産スパークリング・ワインを共に堪能していた際、突如ホスト側から問われた。
 「アンバサダーヤマガミ、なぜ日本はオーストラリアより遥かにうまく中国とやっているのですか」
 一瞬、耳を疑った。中国海警局の巡視船が恒常的に尖閣諸島周辺の日本の接続水域に進出、しばしば領海侵入まで企てているのは、東京に駐在している各国の外交官にとっては周知の事実だ。外交常識や国際標準に照らせば、際だって挑発的な行動をしかけてきている。しかも、目を海から空に転じれば、日本列島には人民解放軍の戦闘機が接近するのは常態だ。何と平均して1日2回もの割合で、航空自衛隊スクランブルをかけざるを得ない状況。加えて、何人もの日本人ビジネスマンがスパイ容疑で中国国内に拘束されたままでいる。
 2022年12月に作成された新たな国家安全保障戦略が明記するとおり、中国の外交姿勢と軍事力増強は日本にとって最大の戦略的挑戦なのだ。
 「悪魔の誘いか」と思った
 にもかかわらず、くだんの豪州外交官は「日本の方がうまくやっている」と言う。同時に、これからキャンベラに赴任する新任の大使を相手にしての問いかけなので、何かを期待しての「悪魔の誘いか」と思った。その後、豪州赴任後にも、何人もの豪州人から同じ質問を受ける端緒となった。
 どういうことなのか?
 このような発言の背景には、幾つかの要因がある。
 ひとつは、豪州が過去数年間にわたって晒されてきた中国による経済的威圧が、異様なほど広範で厳しいことだ。2010年の日本に対するレア・アースの輸出制限に始まって、ノルウェーのサーモン、フィリピンのバナナ、カナダのカノーラ(菜種)、韓国への団体観光客等、中国の不当な経済的威圧によって貿易や往来が制限されてきた「狙い撃ち」事例には事欠かない。しかしながら、今般のオーストラリアほど、様々な品目にわたって、しかも長期間、貿易制限措置に晒されてきた国はない。その苛烈さに、南半球にあって戦略的競争に慣れてこなかった豪州人が戸惑うのも無理はなかった。
 もうひとつは、5Gからのファーウェイ(中国華為技術)社排除の推進、コロナ禍の原因の国際調査要求など、豪州のスコット・モリソン政権(当時)が対中強硬姿勢を声高に宣明したことに対しての批判が豪州国内にはある。特に、外交当局関係者や労働党関係者の間では、そうした批判が根強い。「メガホン外交は豪州の国益に資さない」との主張が典型例である。
 下手に同意すれば…
 だからこそ、自国政府の対中政策に対する批判の裏返しとして、「日本はうまくやっている」と振れることとなる。下手に同意すれば、「日本大使も批判している」としてモリソン政権批判に使われることは必至だ。したがって、日本大使としてこうした議論に安易に与するわけにはいかない。ましてや、相手の発言を額面どおり受け止め、豪中関係に比して日中関係は上手くいっているなどと鼻の下を長くするなど論外だ。むしろ、対中外交最前線にある日本が直面している挑戦を過小評価しているとして戒めるべき筋合いなのである。
 そこで、ひとこと言っておいた。
 「That is bullshit!」
 豪州人がよく使う表現でもある。
 字義どおりに訳せば、「牛の糞」、要は、「たわけたことを言うな」だ。外交官が公の場で口にするには上品な言葉ではないが、相手の目を覚ますには最適の言葉でもあった。
 手厳しく反論されたと感じたのだろうか、質問した女性外交官は呆気にとられ、赤面した。
 だが、こうした場面は、私の豪州着任後、何度も繰り返されることとなる。
 中国大使館から「暴言」となじられて
 それだけではなかった。「中国問題に口出しするな」とまで露骨に牽制されたのは一度で済まなかった。圧力に耐え忍ぶ豪州にエールを送ろうとすれば、中国大使館の戦狼たちから「暴言」となじられ、「適切に仕事をしていない」とまで批判された。のみならず、歴史カードを振りかざされ、「日本大使は歴史を知らない」とまで「説諭」された。そんな挑発に接しても、決して口をつぐむことなく、かつ、相手と同じレベルに引きずりおろされて口角泡を飛ばすことなく、理路整然と時にユーモアを交えて反論し、豪州社会の理解と共感を得ていく。これが私の駐豪大使生活の基調となった。
 中国の猛烈な反発に遭い、車のヘッドライトに照らされたカンガルーのように立ち尽くしてしまう豪州人が一部にいたことは事実だ。そうした中で、ヘナヘナと原則なき妥協に走ることは豪州にとってのみならず、日本の国益、更にはインド太平洋地域の秩序作りにとって最悪である。
 そうした事態の展開を防いでいくために、必要な突っかい棒を打っていく。何よりも、日本の対中認識を冷静に説得力ある形で説明し、日豪の足並みを合わせていく。私の豪州での奮戦記の始まりだった。
 日中関係の特異な変遷
 戦後、とりわけ1972年の国交正常化以降の日中関係の変遷は特異で奇妙なものだった。
 1970年代、日本政府に台湾との外交関係を断念させて日中国交正常化を実現した中国外交官が異口同音に発した合言葉は、「日中友好」。これは日本側にも伝播し、大東亜戦争(筆者注:「太平洋戦争」とは呼称しない。当時の日本政府が採用した名称であるとともに、戦争の本質が中国を巡るものであったことを考えると、大東亜戦争の方が適切と考えるからである)の最中や戦争前の行為に対する贖罪意識に捉われた政治家、財界人、官僚の間だけにとどまらず、マスコミ、言論界を含めて広く日本社会でも暫くの間「日中友好」ムードが世の中を席巻していくこととなった。
 私は、外務省にあってはいわゆる中国(チャイナ)スクールではなく、米国ニューヨークのコロンビア大学大学院で研修したアメリカンスクールだった。だが、1990年代後半には中国課の首席事務官を務めたことがある。日中関係を所掌する中国課が中国語研修のチャイナスクールだけに偏ってはならないとの昔からの配慮で、課長に次ぐ首席事務官にはチャイナスクール以外の者が就くことが多い。私もその一例だった。そして、1998年夏、中国課勤務を終えた後に香港の総領事館に派遣され、さらに2年間にわたってナンバー3の総務部長ポストを務めることとなった。
 外務省のいかなる課でもそうだが、中国課にあっても首席事務官はほぼすべての決裁文書に目を通し、精査して決裁する役回りだ。当時、チャイナスクールの担当官が起案して首席事務官の決裁を求めて上がってくる総理や外務大臣の発言要領の中に、「日中友好」というセリフが何と多く盛り込まれていたことか! その適否について何ら議論することもなく、いわば条件反射的に使われていたのだ。日米関係に携わる外務官僚が「日米安保堅持」を言い募る性癖を想起させられた。むろん、文脈やその当否に照らし、似て非なる実態だが、呪文のように繰り返す有様には心底驚いた。まさに、思考停止そのものだった。
 あれから、ほぼ四半世紀。状況は大きく変わった。時代が音を立てて変わったと言って過言ではないだろう。その最たるものが戦狼外交なのだ。
 福島処理水を巡る中国の容喙
 今、外交慣例ではおよそ理解できない異様なことが起きている。2023年8月に始まった東京電力福島第一原発での処理水の海洋放出に対する中国政府の執拗な問題提起だ。国際原子力機関IAEA)の理解と協力を得て、「科学的に安全」との専門家のお墨付きも得られているにも拘らず、国際社会にあって中国政府が公の場で先頭に立って繰り返し、かつ、声高に、「汚染水を海洋放出する日本は無責任」だとキャンペーンを張っているのである。国際社会、とりわけ北朝鮮や太平洋の島嶼国に対して同調するよう働きかけているのも明白だ。
 元はと言えば、この問題は、未曾有の被害と犠牲が発生した東日本大震災に遡る。震災直後に寄せられた国際社会からの温かい数々の支援、とりわけ台湾からの義捐金の額が突出していたことは多くの日本人の記憶に鮮明だ。
 あれから苦節十余年。福島を始めとする被災地の人々の血のにじむような努力、国内外の同情と支援があって復興は相当程度進んできた。その復興をさらに前に進める大きな一里塚としての処理水海洋放出なのである。
 翻って地震被害は中国にもある。2008年に四川省で発生した大地震のいたましい惨禍とその際の日本始め国際社会の支援は記憶に新しいところだ。
 かつて「日中友好」を繰り返しお経のように唱えていた中国政府であれば、そうした日本の事情に対する温かい理解と他国に率先したモラル・サポートを期待してもよさそうなものだ。しかしながら、極めて残念なことには、事態は全く正反対のベクトルで動いてきた。
 東北だけではなく、日本全国の飲食店やホテルなどに寄せられてきた中国からの心ない嫌がらせ電話が一例だ。だが、問題はそれだけではない。日本事情と日本人の心情に最も通じている筈の日本に駐在する中国の外交官自らが先頭に立って処理水放出を取り上げ、悪しざまに批判を重ねているのである。何たることだろう。
 典型例は、大阪総領事の薛剣だ。
 「日中友好」は遠くなりにけり
 2023年8月10日には関西プレスクラブで講演し、処理水放出に関して、「本当に安全ならなぜ飲用水や灌漑水に使わないのか」とまで述べて批判したのである。のみならず、7月に公表され、処理水の放出は「国際的な安全基準に合致する」としたIAEAの包括報告書にも噛みついた。薛は「報告書は海洋放出の許可証ではない」とし、「もし安全でないなら全人類の健康を脅かす」とまで滔々と論じたのである。
 誰しもが、世界各地で膨大な数の罹患者、死者を出すこととなったSARSやコロナの発生地を覚えている。そうした大抵の日本人にとっては、まさに噴飯物の主張だ。神経を逆なですると言っても過言ではないだろう。
 「そのお言葉。熨斗をつけて貴方にお返しします」と言いたくなるのが人情だ。
 事態の異様さは、日本との関係を重んじるべき立場、そして日本の事情や立場について本国関係者の理解を促進し、日中関係の摩擦要因を取り除くよう努力すべき立場にいる大阪の中国総領事が先頭に立って挑発的な批判を展開していることだ。外交官の立ち居振る舞いとしてこれを異様と言わずして何を異様と言うのだろうか?
 外交官が任国との関係を気にかけることなく、本国の方ばかりを見て「これだけやっています。これだけ言っています」と声を振り絞るかのように喧伝して回る醜態。これが戦狼外交のまごうかたない一断面なのだ。「日中友好」は遠くなりにけり、の感慨を禁じ得ない。
 山上 信吾/文春新書
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🛳49」─1─金門島事故で中国共産党お得意の無理無体な法律戦で台湾を削る。次は日本。~No.252 

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 2024年3月3日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「金門島事故をきっかけに台湾を削る~これが中国お得意の無理無体な法律戦の実態
 中国の常套手段
 中華人民共和国がまたやってしまった。「やってしまった」とは、中国が「法律戦(法戦法)」を用いること、実際には乱用することである。今回は金門島周辺海域での台湾沿岸警備隊が中国の未登録船を取り締まろうとした際の事故に対し、中華民国=台湾に影響を及ぼす新しい法律、規則、政策を一方的に宣言している。
 【写真】金門島事故は台湾有事にエスカレートするか~習近平のお手軽な毛沢東越え
 より具体的に言えば、法律戦争とは、あらゆる形態の国内法および国際法を悪用し(「曲解する」と言った方が適切だろう)、優位性を確立し、相手を委縮させるもので、通常は突然、とんでもないことを宣言する。
 中国はこのようなことを何十年も続けてきた。その一例が、1992年2月に中国が南シナ海全域の領有権を主張する「領海及び接続水域に関する法律」を可決したことだ。これは、その20年前にベトナムからパラセル諸島を奪取したことを正当化するためのものであり、フィリピンやその他の国が支配または領有権を主張する島々を一方的に奪取しようとする際に使われることになる。
 したがって、中国の法戦は、覇権主義を強める中国がこの地域に進出するための見せかけの葉である。軍事力が増大する中、その見せかけの葉では、中国のむき出しの侵略を覆い隠すことはできない。
 金門島事故の顛末
 最近、中国が台湾に対して新たな法戦を仕掛けた。2月14日の旧正月連休中、金門の東海岸から1.1海里(2km)以内の中央線を越えた海域で、未登録の中国製スピードボートが目撃された。このスピードボートは台湾沿岸警備隊の乗船要請を拒否し、逃走を図ったという。
 追跡を続けた結果、スピードボートは転覆し、2人の中国人乗務員が死亡した。漁師と最初に報道されたが、未登録であるスピードボートであり、逃げたことを考えると、密入などの違法的なことをされたと伺える。他の2人は拘留され、地元検察に取り調べを受けた。彼らは2月20日、金門から容易に見える本土に強制送還された。廈門市に到着すると、生き残った「漁師」たちは台湾の沿岸警備隊に2人の死亡の責任をなすりつけた。
 残念なことに、2010年9月に尖閣諸島付近で起きた事件と違って映像はない。検察当局によると、台湾沿岸警備隊の船には船上録画装置がなく、録画を担当した乗組員も、高速で追跡していたために携帯カメラにアクセスできなかったという。また、船長は航海に忙しく、他の2人の乗組員は高速艇に乗り込む準備をしていた。
 それでも、乗組員の内部音声記録は存在し、公開されている。正式な調査はまだ終わっていないが、スピードボートの船長は無責任な行動をとり、衝突につながり転覆して2人が死亡したようだ。念のため、台湾沿岸警備隊は今後、すべての船舶にビデオ録画装置を装備する意向だ。
 台湾の施政権下でも中国の国内問題として扱う
 しかし、事件はそれだけで終わらなかった。コメントを求められた中国外交部は、台湾の問題は中国の 「国内問題」であるとして、中国の「管轄当局」に尋ねるよう記者に伝えた。
 さらにその2日後には、中国の沿岸警備隊が台湾の観光船に乗り込み、立ち入り禁止水域に入ったことに対する監視船の業務だとして、乗組員や乗客の書類を確認する検査を行った。この体験は、旧暦の連休を楽しむ観光客に深い恐怖を与えた。報道によれば、この船は他の船も海上で止めているという。
 中国沿岸警備隊は訓練と称して定期的に台湾の海域に侵入しているが、民間船舶が巻き込まれた最近の事件は珍しい。
 人口10万人以上の金門と廈門市を隔てる海はわずか5kmしかない。金門は台湾から約330km離れているが、大陸の廈門市からは数kmしか離れていない。金門の経済は、中国本土からの観光と、中国市場への魚やその他の海産物の販売に依存している。中国本土は数年前から金門に飲料水を供給している。
 こうした経済的、家族的なつながりから、島民は緊張が緩和されることを望んでいる。台湾人や他の専門家たちは、海上警察の協力などを通じて緊張を緩和する方法を指摘している。
 1990年に調印された海峡両岸の協議メカニズムである金門協定では、「現実的かつ人道的な手段で相違を解決し、紛争を解決する」ことが謳われている。
 しかし、それは中国がまだ非常に弱く、台湾を含む他国に依存していた頃の話だ。今日の中国とその政策はまったく異なっている。残念ながら、多くの人々はこのことに気づいておらず、見ようともしていない。
 これは日本の未来でもある
 中国共産党は法戦を通して「新常態」を作り出し、その過程で台湾の空間を縮小させている。また最近、中国は一方的に飛行経路を変更し、台湾に接近させ、意図的に台湾海峡上空での紛争の危険性を高めている。
 米国政府高官のコメントが弱々しく、概して役に立たないのはこのためである。彼らは、この法戦の新たな現実と、中国が近隣諸国への圧力を強めていることを認識していないのだ。ジェイク・サリバン国家安全保障補佐官はワシントンで、米国は「現状を損なういかなる当事者によるいかなる行動にも反対する」と述べ、マシュー・ミラー米国務省報道官は、米国政府は引き続き「自制を促し、現状を一方的に変更することに反対している」と述べた。
 しかし、中国側は日々現状を変更し、何の罰則もなく日々それを行っている。遠く離れたワシントンD.C.から見れば、これらの変化は小さく、気づかないかもしれないが、台湾の当局者にとっては非常に大きく、明確なことなのだ。
 悲しいことに、これは日本の未来でもある。最初は尖閣周辺の海域で、次は琉球列島を構成する他の島々で。実際、それはすでに起こっている。石垣島宮古島の漁師たちは、尖閣諸島に近づくことを恐れ、海上保安庁からもそうすることを止められている。
 中国は日本や他の国々で限界に挑み続けるだろう。また、他の国々に対しても同様だ。世界は警戒を怠らず、中国を強く、押し返す必要がある。
 ロバート・D・エルドリッヂ(政治学者・台湾外交部フェロー・淡江大学客員研究員)
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🐒7」ー2ー太平洋の島国に広がる中国警察網。中国共産党による世界制覇の野望。~No.20 

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 中国警察網の中に日本も含まれている。
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 太平洋における中国共産党の影響力が強まり、日本の地位は低下している。
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 2024年3月2日 YAHOO!JAPANニュース 朝日新聞デジタル「太平洋の島国に広がる中国警察 ハワイまで2000キロの国にも
 北京で2020年1月6日、式典に出席したキリバスのマーマウ大統領(左)と中国の習近平(シーチンピン)国家主席=ロイター
 米中が影響力を競う太平洋の島嶼(とうしょ)国で、中国警察が活動を広げている。ハワイに近いキリバスでは、中国の警察官が職務にあたっていることがロイター通信の取材で発覚。周辺には中国と警察協力協定を結んだソロモン諸島や、協力を交渉中のパプアニューギニアといった国もあり、米国などが警戒を強めている。
 【写真】キリバスの南タラワで2013年5月、泥を塗り合う子どもたち=ロイター
 キリバス警察のアリティエラ長官代理は2月下旬、ロイターの取材に「中国警察の代表団が、地域の治安維持や犯罪データベースの作成などでキリバス警察を支援している」と話し、地元で中国の警察官が活動していることを明かした。
 2022年にキリバスが中国に警察への支援を要請し、23年に中国の制服警官計12人が派遣されたという。両国の詳しい合意内容は公表されていない。
 キリバスはハワイから最短約2千キロの太平洋中央部に位置する。国際機関の太平洋諸島センターによると広範囲に島や環礁が散在し、世界3位の規模とされる広大な排他的経済水域EEZ)を持つ。19年に台湾と断交し、中国と国交を樹立した経緯がある。
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🎄45」─2─ヒトラーのユダヤ人追放悲願。フランス領マダガスカル移住計画。1938年~No.147No.148 

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 日本軍部は、アメリカの政治・経済・外交に強い影響力を持つユダヤ人資本家に恩を売って日本の国益に利用するべく、満洲ユダヤ人やポーランドユダヤ人難民を助け、満洲ユダヤの国家を建国しようとしていた。
 日本における親ユダヤ派は、昭和天皇松岡洋右満洲シンジケートや日本陸軍の親ポーランド派で、A級戦犯東条英機松井石根らはユダヤ人保護の影の協力者であった。
   ・   ・   ・   
 1933年 アメリカは、大量の貧しいユダヤ人難民を受け入れる事は大恐慌以来の失業者問題を悪化させるとして、自活できる才能なるユダヤ人難民を条件付で受け入れるという移住制限を強化し、ユダヤ人差別はナチス・ドイツの国内問題として慎重に対応した。
 ユダヤ人問題が表面化するや、反ユダヤ主義の将校団は国務省の所管として静観した。
 アメリ在郷軍人会や民間のアメリカ連合と一部のキリスト教神父などの移民制限派は、「アメリカ人の為のアメリカ」という大義で、排他的で同化できないユダヤ人の割当量を削減するという移民法の改正を求め、国家に忠誠を誓わず、国家と地域に貢献せず自己の利益しか考えない反社会的ユダヤ人の国外追放を求めた。
 政府高官や保守派エリート、上層階級や中産階級、チャールズ・E・クーリン神父やジェラルド・B・ウィンロッド師ら宗教指導者らは、アメリカをヨーロッパの混乱と戦争から救うべくユダヤ人救済に反対した。
 在郷軍人会は、アメリカは迫害を受けているユダヤ人の避難場所ではない以上、その子供達をも条件で受け入れるべきではないと表明した。
 アメリカ・ユダヤ人協議会救援委員会(RCAJC)がピザを取得した難民の数は、全体の約5.9%にすぎなかった。
 3月 アメリカのユダヤ系新聞は、ナチス・ドイツユダヤ人への迫害報道するや、同月27日に全米でユダヤ人に同情し反ユダヤ政策の中止を求める集会(参加者約100万人)が開かれ、ドイツ製品のボイコット運動が拡大した。
 ニューヨークでは25万人が参加し、マヂソン・スクエア・ガーデン会場に5万5,000人が集まった。23日 国務省は、在ドイツ大使館に迫害事件の真相調査を命じた。
 アメリカ・ユダヤ人会議(AJC)は、迫害に苦しむ東欧系ユダヤ人の受け入れをルーズヴェルトに嘆願した。
 ユダヤ人移民制限派は、国民世論を動かして、失業者の自殺が急増している時にユダヤ人のみの為に血税を使い時間を割く事に反対した。
 ドイツとの貿易を拡大させつつあったアメリカ資本は、ナチス・ドイツを孤立化させない為に政府に圧力を掛けて両国の友好関係を維持させた。
 彼らにとっては、ユダヤ人の生きる権利よりも貿易が出きる「ドイツとの平和」が大事であった。
 アメリカ・ユダヤ人会は、人種差別主義者への恐怖から、ユダヤ人難民の救済に反対した。アメリカ系ユダヤ人(約500万人)の大半も、ドイツやオーストリアの同胞に同情しても国内のキリスト教的反ユダヤ意識を刺激する事を恐れ、ユダヤ人のみの移住制限の緩和を求める事はしなかった。
 つまり、同じユダヤ人であっても他人よりも自分と自分の家族が大事であった。
 ユダヤ人財閥は、ハリマンらの協力を得て、ユダヤ人への迫害報道を中止させるべく報道機関に圧力をかけた。報道機関の大半は、ユダヤ人が経営していた。
 ワシントンやニューヨークなどの日本総領事から東京の内田康哉外相へ、ユダヤ人迫害反対運動の仔細な報告がなされ、同時にカリフォルニアなどにおける日本人移民に対する優生学による人種差別的運動の知らせもあった。
 夏 ヒトラーの命を受けたドイツ経済省と政治シオニスト左派指導者ベングリオンは、ユダヤ人を国外に移住させるという「振替協定」を結んだ。
 右派は、同協定に猛反対した。
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 ヒトラーは、科学的優生学思想にもとずき、ゲルマン民族の純血をユダヤ人などの遺伝的欠陥のある劣等民族から守る為に同化を禁じた。
 そして、民族の純化の為に、ユダヤ人など劣等人種を全ヨーロッパから追放しようとした。
 ヒトラーの劣等民族には、日本人は含まれていたが、世界文明を生み出した中国人とインド人は含まれていない。
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 1939年1月30日 ヒトラーは、国会で演説を行った。「ヨーロッパ内外の国際主義的ユダヤ人が諸国を再び世界大戦に引きずり込もうとすれば、世界が共産主義化やユダヤ人の勝利は招来せず、ヨーロッパのユダヤ人の壊滅に終わるのみであろう」
 ヒトラーとナチ党は、ヨーロッパ世界から全てのユダヤ人(人口約1,100万人)を追放する事を宣言していた。
 だが、何処の国もユダヤ人を引き受けようとする国はなく、それ以上にユダヤ人難民を入国させず、キリスト教国は自国領からドイツへと強制送還しようとしていた。
 こうして、大量のユダヤ人が行く当てもなくドイツ領及びドイツ軍占領地に溢れた。
 アメリカと世界中に植民地を持つイギリス、フランスは、1,100万人のヨーロッパ・ユダヤ人を受け入れる事に猛反対した。
 もし、人道、人権そして人命を重視して1,100万人のユダヤ人を無条件で受け入れていれば、約600万人が虐殺されるというホロコーストが起きた。
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 昭和13年 世界が宗教的科学的人種差別で排除していた非人道行為は、劣等民族とされた日本(8,000万人)を戦争へと追い込んでいた。
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2018-03-08
🍙7〗─2─太平洋戦争の原因は昭和5年~16年までの人口爆発と食糧緊急輸入に対するアメリカの経済制裁であった。~No.23No.24No.25・ @ ③
2018-04-11
🍙21〗─4─昭和16年6月 戦争回避を目的とした幻の「ニューギニア島日本売却」提案。~No.101No.102No.103・ @
 軍国日本は、世界の人種差別によって絶望的戦争へを追い詰められた。
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 知恵蔵 「シオニズム」の解説
 19世紀末以来のユダヤ人国家を建設しようという運動。その創始者として知られるのが、オーストリアユダヤ系ジャーナリスト、セオドール・ヘルツルである。当初は東アフリカに国家を樹立する案などもあったが、結局はユダヤ人が祖先の地とみなすパレスチナが候補地として選ばれた。エルサレムの別名である「シオン」の地に戻ろうとする運動ということで、シオニズムと呼ばれる。1948年にイスラエルが成立すると、この運動は国家の樹立という一応の目的を達成した。
 (高橋和夫 放送大学助教授 / 2007年)
 出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報
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 マダガスカルの歴史 - マダガスカル
 1883年に、フランスはマダガスカルに侵入し、1896年までには島はフランスに制覇され、フランス植民地になりました。 マダガスカルが木材やバニラなどの珍しい香辛料の宝庫だったために、それらの資源の源としてフランスに使われました。
   ・   ・   ・   
 第二次大戦解説。
 http://www.conmoto.jp>マダガスカル計画madagaskarplan
 マダガスカル計画 ユダヤ人をマダガスカル島に追放せよ
 フランスを降伏させたドイツは、ユダヤ人を処理するいい方法を思いついた。フランスの植民地、マダガスカル島ユダヤ人を追放するのである。
 ユダヤ人の国外移住
 ナチスユダヤ人を「ドイツを崩壊させる病原体」と見なしていたから、国内に住まわせることは考えていなかった。だが、別に最初から、世界から完全に絶滅させようと考えていたわけではなかった。
 第二次世界大戦が始まる前、ドイツから多くのユダヤ人が外国へ逃げ出した。開戦までにアメリカに10万人、イギリスに5万人、フランスに3万人、オランダに3万人が脱出している。
 身の危険を感じたユダヤ人が自主的に逃げ出したこともあるが、ナチスもまた出国を容認していた。ユダヤ人は少数民族とはいえ、その人口は多くナチスも対応に困っていた。
 フランスを降伏させたドイツは、その植民地マダガスカル島ユダヤ人を追放する計画を立てた。ナチスをはじめとする反ユダヤ主義者は、ユダヤ人を憎んでいただけではなく、「病原体」と考えていた。だから、病原体を隔離できれば目的は達成できるのである。マダガスカル島はアフリカの南東にある大きな島なので、そこへ隔離しておけばドイツに害はなかった。
 計画頓挫
 ポーランドを占領したドイツはユダヤ人政策に頭を悩ませていた。ポーランドにはたくさんのユダヤ人が住んでいたのである。出国を促すだけで、ユダヤ人が全員いなくなるはずはなかった。フランスの植民地マダガスカル島を手に入れたことで、この問題が解決できると考えたのである。
 しかしマダガスカル計画には問題があった。そう、ユダヤ人を船に乗せて運ばなければならないのである。ヨーロッパ周辺の制海権はイギリスが握っていた。
 ヒトラーはイギリスと講和を結ぶことを考えていたのだが、イギリスは徹底抗戦の構えを見せた。イギリスの同意がなければマダガスカル計画は実行できない。こうして計画は頓挫してしまった。
 ユダヤ人でふくれあがるゲットー
 ナチスは既にポーランドにゲットー(ユダヤ人強制居住区)をたくさん建てていた。これはポーランドユダヤ人が多く住んでいたということもあるが、とりあえずドイツから遠く、ソ連に近いからという理由が大きかった。いずれユダヤ人はソ連に追放するつもりだった。当初の予定では、ゲットーはユダヤ人を追放するまでの一時的な居住区だったのである。
 ドイツの支配地域が広がると、ポーランドのゲットーにはたくさんのユダヤ人が移送されてきた。元々食料もろくに与えていなかったのだが、住民の数がどんどん増えてどうしようもなくなった。マダガスカル計画も消えてしまい、ついに受け入れ困難な状態になった。
 ヒトラーはこの状況を打開するには、ソ連侵攻が最もよいと考えた。ソ連に侵攻すればドイツの食料問題も解決し、ユダヤ人も追放できる。こうしてバルバロッサ作戦が始まった。しかし、ソ連領内にもまた、多くのユダヤ人が住んでいた。
 武装親衛隊の仕事
 ソ連に侵攻したドイツ軍は、そこに住んでいたユダヤ人を殺して回った。特にこの仕事を引き受けたのは、武装親衛隊だった。しかし愛国心あふれる武装親衛隊ですら、無抵抗の市民を銃殺して回る仕事は堪えきれなくなった。
 そこで、他の方法を考えることにした。たとえば爆薬で爆殺するとか有毒ガスで殺戮するとか、という方法である。ガス室による殺戮が発明されると、武装親衛隊は喜んだ。自分の手で殺して回る仕事から解放されたのである。
 1942年1月、ユダヤ人問題を解決する方法として、「絶滅させる」ことが決定した。
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 ウィキペディア
 マダガスカル計画(マダガスカルけいかく、独: Madagaskarplan、英: Madagascar Plan)とは、ナチス政権下のドイツにより立案された、ヨーロッパのユダヤ人をマダガスカル島へ移送する計画である。
 マダガスカル計画
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 マダガスカル計画(マダガスカルけいかく、独: Madagaskarplan、英: Madagascar Plan)とは、ナチス政権下のドイツにより立案された、ヨーロッパのユダヤ人をマダガスカル島へ移送する計画である。
 マダガスカルはアフリカの東岸に位置する。
 発端
 ヨーロッパのユダヤ人がマダガスカル島に脱出するという考えはナチス独自のものではない。19世紀ドイツの東洋学者で反ユダヤ主義者でもあったパウル・ド・ラガルドにより1885年に提唱されたものが初であり、1920年代にはヘンリー・ハミルトン・ビーミッシュ、アーノルド・リースその他によって取り上げられている。
 1904年から1905年にかけて、イギリス政府はシオニストグループに対し、アフリカ中央部のウガンダ(今日のケニアを含む)へのユダヤ人の移住を打診している。この英領ウガンダ計画はシオニストの間で真剣に議論されたものの、結局実行に移されることはなかった。イズレイル・ザングウィルらは「約束の地」での国家建設にこだわるシオニストから袂を分かち、現実的にユダヤ人が定住でき、かつ国家、少なくとも自治地域の建設ができる地域を世界中の候補地から探すべきだとする領土主義(英語版)を提唱することになる。
 ナチス・ドイツにおける計画の具体化
 ナチス政権下のドイツの指導者たちもやがてこのアイディアに注目するようになり、1938年、アドルフ・ヒトラーにより計画は正式に裁可された。1940年5月、ハインリヒ・ヒムラーは彼の「東方の異人種の取り扱いについての意見」に基づき、次のように宣言した。「全てのユダヤ人をアフリカやその他植民地に大規模に移住させるという可能性を以ってしてユダヤ人の存在証明は完全に消え去るだろうと私は望んでいる。」
 立案開始
 マダガスカル計画についての議論は、1938年からユリウス・シュトライヒャー、ヘルマン・ゲーリング、アルフレート・ローゼンベルク、ヨアヒム・フォン・リッベントロップなどをはじめとする有名なナチの指導者、イデオローグらにより議題に挙げられていたが[2]、具体化に動き始めたのは1940年になってからである。同年5月初旬よりドイツはフランスへの全面侵攻を開始し、6月25日にはこれを降伏に追い込んだ。ナチス党員でありドイツ外務省の外交官であったフランツ・ラーデマッハーはフランスとの講和条約の条項の一つとして、フランスがヨーロッパからのユダヤ人の移住先としてマダガスカルに利用可能な居留地を建設することを提案した。
 反響
 多くのナチ高官、とりわけハンス・フランクなどポーランド総督府ポーランド占領地のうちドイツ本国に組み込まれなかった残部を統治する)当局は、収容能力に限界があるゲットーにこれ以上ユダヤ人を追放するよりもはるかに望ましいとして、400万人のユダヤ人を強制的にマダガスカルに再定住させる見方を持っていた。7月10日の時点でポーランド各地からゲットーへの全ての移送、ワルシャワ・ゲットーの建設は一時中断させられていた。いずれも不必要であると思われたからである。
 最終的な破棄
 1940年8月にラーデマッハーはリッベントロップに対し、本計画を強固なものとするための専門家集団の編成を開始するため外務省にて会合を開くよう嘆願しているが、リッベントロップはこれを無視した。同じようにアイヒマンの草案もハイドリヒの承認を得られず放置された。やがてワルシャワ・ゲットーの工事も再開され10月に完成し開設された。ドイツ占領地域からポーランド総督府へのユダヤ人の追放も1940年の秋後半から1941年の春にかけて再び続けられた。
 バトル・オブ・ブリテンの間のイギリスの抵抗と同年9月までにイギリスに迅速に勝利することに失敗したことで、ドイツの計画は完全に失敗に終わった。イギリスの海上輸送力をユダヤ人排除に利用するというドイツの思い通りにはならなかった。ドイツの海軍力では到底制海権を握ることは出来ず、そして戦争はいつまでも続いていた。「ゲットーを超える存在」としてマダガスカルを言及することはその後数ヶ月間、時折ある程度だったが、とうとう12月初旬に本計画は完全に破棄された。また、1941年6月からの独ソ戦において、同年中にはソ連軍の抵抗により東方への進出も止まり、ユダヤ人をポーランドやロシア占領地域からさらに東方へ追放することも事実上不可能となった。それらの結果が、領内ユダヤ人の絶滅を目指すことによって最終解決を図る、1942年1月のヴァンゼー会議につながっていく。1942年11月にはイギリス軍と自由フランス軍がヴィシー・フランス軍からマダガスカルを奪取したことで、この計画の議論は事実上すべて終焉を迎えた。
 なお万が一この計画が実行に移された場合、到底受け入れ不可能な数のユダヤ人を押し付けられたマダガスカル島の現地社会には破滅的な経済破綻、物資不足、飢餓が横行したであろうと予想されるが、ナチス・ドイツでの計画立案から放棄に至る過程にあたって、この点が考慮された形跡は全く存在しない。
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 ホロコースト百科事典
 難民
 ナチスが政権を握った1933年からナチスドイツが降伏した1945年にかけて、34万人以上のユダヤ人がドイツおよびオーストリアから移住しました。 悲劇的なことに、そのうちの10万人近くは、その後ドイツによって征服された国に避難したのです。 彼らのほとんどがドイツ当局によって移送され、殺害されることになりました。
 ドイツが1938年3月にオーストリアを併合すると、特に1938年11月9日〜10日に発生した「水晶の夜」と呼ばれるポグロムの後は、西ヨーロッパおよび南北アメリカ諸国は難民の流入を恐れるようになりました。 1938年3月から1939年9月までに、12万人のユダヤ人移民のうち約8万5,000人のユダヤ人難民が米国に到着しましたが、この程度の移民数は、避難場所を探していた人々の数をはるかに下回るものでした。 1938年後半には、既存の移民割り当て人数に基づく2万7,000件のビザを取得しようと、12万5,000人の申請者が米国領事館の外に並びました。 1939年6月までに申請者数は30万人を上回りましたが、ほとんどのビザ申請者はビザを取得できませんでした。 1938年7月に開催されたエビアン会議では、ドミニカ共和国のみが大量の難民の受け入れ態勢が整っていることを表明しました。ボリビアは1938年から1941年までに約3万人のユダヤ人移民を受け入れることになりました。
 大々的に報道された1939年5〜6月の出来事では、米国がセントルイス号に乗ってドイツのハンブルクから航海してきた900人以上のユダヤ人の入国を拒否しました。 セントルイス号は、キューバ当局が難民の一時滞在ビザを取り消し、米国への入国ビサを待っていた乗客のほとんどの入国を拒否してから間もなく、フロリダ沖に到着しました。 米国への上陸許可を拒否され、セントルイス号はヨーロッパへ引き返しました。 英国、フランス、オランダ、ベルギーの各国政府が難民として乗客の一部を受け入れました。 ヨーロッパへ引き返した908人のセントルイス号の乗客のうち、254人(28%近く)がホロコーストで死亡したとされています。 288人の乗客は英国に避難しました。 大陸へ戻った620人のうち、366人(59%強)は、戦争を生き延びたとされています。
 6万人以上のドイツ在住ユダヤ人は、1930年代にパレスチナに移住しました。そのほとんどは、ハアヴァラ(移転)協定に基づくものでした。 ドイツとパレスチナユダヤ人当局で締結されたこの協定は、パレスチナへのユダヤ人の移住を促しました。 ドイツからのユダヤ人の移住の主な障害は、外貨の輸出を禁じるドイツの法律でした。 この協定によれば、ドイツ国内のユダヤ人の資産は所定の方法で処分され、その結果得られた資本はドイツ製品の輸出を通じてパレスチナに移転されるというものでした。
 ビザが必要ない数少ない場所の1つだった上海港で下船するドイツ系ユダヤ人難民。
 1940年、中国、上海。
 詳細
 1939年5月のマクドナルド白書により、英国議会はパレスチナへのユダヤ人の移住を厳しく制限する条例を含む政策綱領を承認しました。 歓迎の姿勢を示す受け入れ先が少なくなる中で、何万人ものドイツ、オーストリアポーランド在住のユダヤ人は、ビザが不要な上海に移住しました。 事実上日本の統制下にあった上海の国際入植地区は、1万7,000人のユダヤ人を受け入れました。
 1941年後半、ナチスによる大量殺戮の未確認報告が西側に広まっていたにもかかわらず、米国国務省は国家の安全保障問題を理由に、移民に対してさらに厳しい制限を定めました。 英国による規制にもかかわらず、「違法な」移住計画(アリヤー・ベト)を通じて、限定された人数のユダヤ人が戦争中にパレスチナに入国しました。 1938年から1939年にかけて、英国は自国への移民の受け入れを制限していましたが、特別なキンダートランスポルト(子供の輸送)プログラムによって、1万人ものユダヤ人の子供の入国を許可しました。 1943年4月に開催されたバミューダ会議において、連合国は救援のための具体的な提案をしませんでした。
 スイスは約3万人のユダヤ人を受け入れましたが、同人数のユダヤ人が国境で追い返されました。 約10万人のユダヤ人はイベリア半島にたどり着きました。 スペインは限定された人数の難民を受け入れた後、難民を素早くポルトガルリスボン港へ移送しました。 1940年から1941年にかけて、そこから何千人ものユダヤ人が米国に向けて出航しましたが、さらに数千人の人は米国の入国ビザを取得することができませんでした。
 戦後、何十万人もの生存者が西側連合国によって管理されるドイツ、オーストリア、およびイタリアの収容所に難民として避難しました。 米国では、難民受け入れの割当制度内での優先を許可した1945年のトルーマン大統領の指令によって、1万6,000人のユダヤ人難民の入国が許可されたものの、移民の制限はまだ施行されたままでした。
 Major camps for Jewish displaced persons, 1945-1946 [LCID: ger78150]
 主なユダヤ人難民キャンプ、1945〜1946年
 第2次世界大戦後、数十万人のユダヤ人生存者が難民キャンプに残りました。 連合国が、ヨーロッパからの出立を待っている難民のために、連合国占領下のドイツ、オーストリア、およびイタリアにこのようなキャンプを設置したのです。 ほとんどのユダヤ人難民は、パレスチナへの移住を希望していましたが、米国への入国を希望する人も大勢いました。 彼らはヨーロッパを出立できるまで、難民キャンプに残ることに決めました。 1946年末のユダヤ人難民の数は推定で250,000万人でした。そのうち185,000人はドイツ、45,000人はオーストリア、20,000人はイタリアにいました。 ユダヤ人難民のほとんどは、ポーランドからの難民ですが、その多くは戦時中にドイツからソ連内陸部に逃げた人々でした。 チェコスロバキアハンガリールーマニアから来たユダヤ人難民もいました。
 パレスチナへの移民(アリヤー)は、1948年5月にイスラエル国が建国されるまでは非常に限定されていました。何千人ものユダヤ人難民は非合法にパレスチナへの入国を求めました。 1945年から1948年にかけて、英国政府はパレスチナへ移住しようとしていた移民の多くをキプロス島の仮収容所に抑留しました。
 1948年5月にイスラエルが建国されると、ユダヤ人難民はこの新しい独立国に流入し始めました。 その後の2〜3年間で、14万人ものホロコースト生存者がイスラエルに入国しました。 米国は、1945年から1952年までに40万人の難民の入国を認め、そのうち約9万6,000人(およそ24%)がホロコーストを生き延びたユダヤ人でした。
 避難場所の探索は、ホロコースト前の数年間とその直後の両方に行われました。
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 歴ログ -世界史専門ブログ-
 おもしろい世界史のネタをまとめています。
 20141124
 幻のユダヤ人国家計画【7案】
 イスラエル
 1900年近く国がなかったユダヤ
 ユダヤ人と言えば、現在ではイスラエルという自前の国家を持っていますが、
 1948年に建国するまでは、ローマ帝国によって66年にユダヤ王国が滅ぼされて以来、およそ1900年近く亡国の民でした。
 国が滅びて以来、ユダヤ人たちは各地に離散し(ディアスポラ)、いつかは約束の地・パレスチナに戻りユダヤの国家を建設することを夢見ていました。
 ユダヤ国家建設はずっと主張され続けていましたが、18世紀から議論がさかんになり、その時々の政治的・社会的状況に応じ、様々な「ユダヤ人国家計画」が持ち上がっては消えていきました。
 このエントリーではそんな「幻のユダヤ人国家」を紹介します。
 1. アルゼンチン案
 1896年に、セオドア・ハルツィという人物によって提唱されたアイデアで、
 現在のアルゼンチンの一部とチリの一部が、ユダヤ人のホームランドとしての潜在性が十分にあるため、是非ともこの地をユダヤ人国家として独立させよう、というものでした。
 著作で提唱しただけで全く支持が得られず、特に大きなムーブメントにもならずに終わっています。
 2. アメリカ・ニューヨーク州
 1820年、マニュエル・ノアという人物が、ニューヨーク州ナイアガラ川にあるグランド島を「アララト(ノアの箱船がたどり着いた山の名前)」と呼び始め、「ユダヤ人が集うべき場所」と提唱する運動を始めました。
 ノアは最終的に、ユダヤ民族はパレスチナの地に戻るべきだとしながらも、
 その「アララト」で、アメリカ国内でユダヤ人の集合地帯を作り、そこで民族共同体作る運動を押し進めました。
 3. ウガンダ
 イギリス植民地省のジョセフ・チェンバレンによって提唱された案で、当時イギリス領だったアフリカのウガンダユダヤ人の入植地を作ろうと言うアイデアです。
 この案は、ユダヤ人有力者で作るシオニスト会議にかけられ、少なくない賛同は得たものの、やはりパレスチナじゃないどダメだ、という意見も強く、物別れに終わります。
 その後、現地を視察したユダヤ人が、ライオンやチーターなど獰猛な猛獣と、剽悍な原住民マサイ族の存在にすっかり怯え、イギリスの提案を却下してこの案はボツになってしまいます。
 4. ソ連極東案
 1928年、レーニン社会主義民族政策により、ソ連各地のユダヤ人がロシア東方に集められ、ユダヤ自治区が作られました。
 しかし1930年代になると、スターリンのもとでユダヤ人は迫害され、1948年のイスラエル建国でユダヤ人の人口は一気に減少し、現在のロシア連邦にもユダヤ自治州は存在するものの、ユダヤ人の人口は5%程度に過ぎず、名ばかりな存在となっています。
 5. 満州国
 1934年に、日産コンツェルン(現:日産自動車日立製作所など)の創業者である鮎川義介が提唱した「河豚計画」がそれで、
 満州国にヨーロッパから迫害ユダヤ人を招いて自治区を作り、ユダヤ資本を満州に入れることで満州経済を活性化させようというものでした。
 ですが、同盟を結ぶドイツ・イタリアの反ユダヤ政策との連携、そして本計画の有力な協力候補であったアメリカとの関係悪化のため、計画は挫折に終わります。
 6. マダガスカル
 ナチス・ドイツによって提唱された案で、ナチス支配下に住む全てのユダヤ人をマダガスカル島に強制的に移住させようというもので、発想はアウシュビッツ収容所と同じです。
 計画は移住させるまでで終わっており、ユダヤ人が移住した後のことは全く考慮されておらず、二重に酷いのは、マダガスカル原住民のことも一考だにされていないことです。 ヒトラーはイギリスを征服後に制海権を確保した上で、イギリス艦艇を用いて全てのユダヤ人をマダガスカルに移す、という計画を立てますが、バトル・オブ・ブリテンでの敗北で計画は頓挫しました。
 7. ガイアナ
 1940年に当時イギリス領だったガイアナに、ユダヤ人国家を建国する案が浮上しましたが、何だかんだでイギリス政府によって拒否され、うやむやになって頓挫しています。
 まとめ
 何でしょう、この、スッキリしない感じ。
 ユダヤ人国家を作ろうという気持ちはいいんですが、アフリカ案とか、南米案とかその節操のなさ。本命はパレスチナだったんでしょうけど。
 そしてイギリス、ドイツ、ソ連、日本などの列強にいいように駒に使われてしまう悲しさ。
 そんな悲しい歴史を背負っているのに、いまイスラエル政府がパレスチナで行っている残虐行為。
 そのもろもろを知ると、人間の歴史の一番醜い部分が集約されている気がして、心のモヤモヤが晴れないです。
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