☭22」─1・D─敗戦後もソ連の侵略に頑強に抵抗した関東軍ゲリラ部隊「スメルトニク」。~No.68No.69No.70 

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 2025年8月10日 MicrosoftStartニュース 文春オンライン「「ろくな武器も持たず、最後は肉弾戦で…」第2次大戦末期、ソ連軍を恐れさせた「旧日本軍のゲリラ部隊」教官が語る“無謀な計画”
 第2次世界大戦の末期、ソ連軍に恐れられた旧日本軍のゲリラ部隊が存在した。彼らはソ連軍から決死隊を意味する「スメルトニク」と名付けられ、1945年8月15日以降も激戦を繰り広げたとされる。最終的に肉弾戦をも辞さなかったという恐怖の部隊は、どのような戦いを繰り広げたのか。『 満州スパイ戦秘史 』(永井靖二著、朝日新聞出版)から一部抜粋し、お届けする。(全3回の1回目/ 続きを読む )
 【画像】ソ連軍を怯えさせたゲリラ部隊「スメルトニク」とは?
 第2次世界大戦末期、ソ連軍が手を焼いた「スメルトニク」とは? ©︎AFLO
 © 文春オンライン
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 関東軍の幹部らが右往左往の末に降伏を決めた後も、抗戦を続けた部隊は存在した。有名な例として、東部国境に築かれた虎頭要塞の守備隊がある。彼らは1945年8月26日まで戦闘を続けた。要塞に身を寄せた開拓団員も含め、立てこもった2500人余のうち53人しか生き残らなかった。その戦いは、「第2次世界大戦最後の激戦」と呼ばれている。一方、守勢に回るのではなく、ソ連軍の後方をかき乱すことだけを目的とした部隊の存在は、これまで注目されることは少なかった。
 それは、関東軍が従来信奉していた「銃剣突撃主義」をかなぐり捨てて編成した、ゲリラ部隊だった。部隊長をはじめ、編成や訓練にあたった複数の将校の肉声が、クックス博士の証言録音に含まれていた。これらの部隊の行動は、公刊戦史には記されていない。
 ソ連軍は怯えて手を焼き、日本軍司令部に泣き付いた
 一方、分野によっては公刊戦史よりも記述が詳しく、大戦末期の日ソ戦の基本文献として知られる中山隆志の「満洲──1945・8・9 ソ連軍進攻と日本軍」(国書刊行会、1990年)は、約2ページを割いてこれらの部隊の戦闘について記録している。このゲリラ部隊は、「昼はじっと我慢し、夜間に挺進斬り込みをして敵を混乱減殺してその行動を制約する」ことが目的で、3人一組の「組戦法」を基本としていたという。関東軍が無条件降伏を受け入れても、彼らの活動は続いたため、「ソ連軍は対応に手を焼き、早く戦闘をやめるよう日本軍司令部に要請」し、隊長の「逮捕命令も出されたようである」とある。
 彼らはソ連軍から、決死隊を意味する「スメルトニク」と名付けられた。満州国の占領後に暴虐を尽くしたソ連軍だったが、彼らには心底おびえた様子がうかがえる。証言録音によれば、車両や砲の操作に長じた兵や士官を集めてゲリラ部隊の訓練が本格化したのは、1945年5月ごろだったという。ゲリラ部隊は、大隊規模のものが挺進大隊、その上の連隊規模は遊撃隊、さらにその上は機動旅団と名付けられた。
 ゲリラ戦の訓練を担当したのは、機動旅団の内山二三夫大尉だった。機動旅団の中に遊撃戦の教育を担当する大隊が作られ、南方のコタバル戦線などで各種の機動戦の経験を積んでいた内山が教官に着任したという。潜入工作、対戦車攻撃、敵の勢力圏での生存技術などの科目があり、「私なんかが(それらの)教官を全部やらされた」と、説明した。
 この部隊は歩兵なのか、工兵なのか──。兵種を尋ねたクックス博士に、内山は「歩兵はおります。戦車兵おります。工兵おります。砲兵おります。何の戦でもやる。爆薬も使えるし、敵の戦車を取ったらそれも操縦できるし、橋は壊すし自分でも作るし、何でもやるわけ。……だから兵科が、兵種がないわけですよ」と答えている。
 「銃すら要らない。手榴弾と肉弾戦で…」
 機動旅団の「機動」は車両を意味するのかという重ねての問いに、内山は「車というものは、もう全然着想ないです。機敏に動くっていう意味ですよ」と、返した。「敵の戦車でも何でも使う。とにかく奇襲をして取ったものを使う。……最後には銃すら要らない。手榴弾と護拳(手指の保護具)があればいい」「私たちは土の下へ潜っている。その上を戦車でも何でも、どんどん走らせて。……土から顔を上げて出て、後ろをたたこうと。あるいは高等司令部を襲撃してやっつける、あるいは弾薬集積所をやっつける」のだと語った。
 内山らは6月ごろから、対ソ戦に備えて東部国境の街、琿春の近くに布陣した。7月末には大隊本部の場所を決め、「関東軍地質調査班」と称して家を借り、拠点作りを進めた。ソ連軍の侵攻は「おそらく9月か10月であろう」と見込んでいたという。ソ連軍が満州国へ侵攻してくるとなれば、最大兵力は西部国境からであろうと、内山は予測していた。だが、「ノモンハンあたりから大きな矢印が来たとしても、我々は生息できない。砂漠へ行ったら、いくら隠れようと思っても、隠れていられない」と判断したという。「第2次的な重点だけれども、ここなら密林が多い」という理由で、東部国境の一帯がゲリラ戦の舞台に選ばれた。
 密林で敵を攪乱しながら戦い続けるため、訓練目標の一つに、装備を背負って1日だけなら120キロ、3日間なら300キロを徒歩で移動できるようになることが挙げられていた。敵の勢力圏に入ってしまった後でも拠点にできる地下壕などの施設を、8月20日までに完成させるよう、内山は部下たちに命じた。
 だが、先手を打ったのはソ連軍だった。
 内山がソ連軍の侵攻を知ったのは、間が悪いことに、部隊の主力を離れて管内を視察中の時だった。東寧の南西約40キロの山中で主力と合流する機会をうかがいながら、内山は近くにいた約60人の兵を従えて行動を開始した。一帯では、すでに散発的に戦闘が始まりつつあった。
 10日夜には、日本軍の服装を着けた「武装諜者」が一帯に入り込んできたという。朝鮮人が主体だった。日本陸軍は1938年6月に兵装を一新し、従来あった歩兵は赤、砲兵は黄色といった襟章の兵科の区別をなくしていたが、彼らの軍服にはその標示が着いていたので、すぐそれと分かった。それらの部隊とは大きな戦闘にはならなかったが、ある中隊は潜伏していた拠点を割り出されそうになり、移動を余儀なくされた。彼らは「結局、朝鮮へ行って、今の北朝鮮の主体になった」という。
 1945年8月11日未明には、合流できないままでいた中隊の一つがソ連軍戦車と戦って散り散りになったという情報が入ってきた。「遊撃隊としては最も恥ずべき戦闘」と、内山は評する。「ろくな爆薬も持ってないのに戦車と交戦しちゃって。……強いものが来たら隠れていろって教えたんです。……でも、若造だもんだからそれが分からなくて」
 〈「人を殺すことより重視したのは…」第2次大戦末期、“無条件降伏後”もソ連軍を襲い続けた旧日本軍「恐怖のゲリラ部隊」が展開した衝撃戦術〉へ続く
 (永井 靖二/Webオリジナル(外部転載))
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 8月10日 YAHOO!JAPANニュース 文春オンライン「
「人を殺すことより重視したのは…」第2次大戦末期、“無条件降伏後”もソ連軍を襲い続けた旧日本軍「恐怖のゲリラ部隊」が展開した衝撃戦術
 ソ連軍を夜襲した恐怖のゲリラ部隊「スメルトニク」 ©︎AFLO
 〈「ろくな武器も持たず、最後は肉弾戦で…」第2次大戦末期、ソ連軍を恐れさせた「旧日本軍のゲリラ部隊」教官が語る“無謀な計画”〉 から続く
 【画像】ソ連軍を怯えさせたゲリラ部隊「スメルトニク」の戦術
 第2次世界大戦の末期、ソ連軍に恐れられた旧日本軍のゲリラ部隊が存在した。彼らはソ連軍から決死隊を意味する「スメルトニク」と名付けられ、1945年8月15日以降も激戦を繰り広げたとされる。最終的に肉弾戦をも辞さなかったという恐怖の部隊は、1945年の8月14日からソ連への夜襲を開始した。『 満州スパイ戦秘史 』(永井靖二著、朝日新聞出版)から一部抜粋し、お届けする。(全3回の2回目/ 続きを読む )
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 内山は大急ぎでゲリラ戦の態勢を整えた。密林の中の見えにくい場所に八錐形の天幕を張って本部とし、隊員の残り半数は洞窟に潜ませた。手持ちの爆薬は限られていたので、全部手作りの手榴弾にした。監視兵を要所に置き、敵戦力の出入りを把握する仕組みを整えた。爆薬を浪費する戦車への攻撃は禁止し、トラックは「やってもいい」けれど、自分が許可したもの以外は攻撃してはいけないと命じた。戦車よりも、燃料の補給を攻撃する。砲撃があれば、砲兵を狙う。高等司令部が来たら、将軍を狙う──。要するに「殴り込むんですよ」と、内山は語った。
 ゲリラ部隊が態勢を整え、夜襲を始めたのは14日からだったという。居場所を探知されないよう少し離れた山奥に置いていた無線班が15日、「停戦」を受信した。だが、「もちろんこれは噓だ。敵の謀略であろう」と、内山は受け付けなかった。連隊長から正式な命令があるまでは戦闘を続ける決意だった。
 「ここに入ってきた(ソ連軍の)部隊は、囚人部隊なんです。……要するに愚連隊なんです」。だから「警戒は非常に下手だった」という。「すごく悪いことを日本人の女なんかにしたし、同時に弱い。警戒心が悪くて弱くて、殴り込んでいく時には、降参、降参ってやるんですがね」
 「動けなくなったら自決しろ」が部隊の掟
 昼間は森に潜み、深夜になると10人ほどを連れて幕舎や武器庫を襲った。50人ほどのソ連兵が寝ている建物へ飛び込み、一人一部屋ずつ、暗闇の中で、手当たり次第に銃剣で突き、斬り付け、ホイッスルの合図で退却する戦法を繰り返した。昼間のうちに周到な偵察で退路を決め、撤収する際の集合場所と時刻を打ち合わせておいた。軍用犬でも追跡できないよう、退路は谷川を何回か渡るようにしていたという。
 「動けなくなったら自決しろ」が、掟だった。「お前一人を助けるために4人が帰れなくなるんだ、と。それは精神教育としてやっていた」と、内山は語った。ゲリラ部隊は、夜襲を特に多く仕掛けた8月14〜20日の間で、約190丁もの自動小銃を奪い取ったという。
 ソ連軍はそれまで、内山の眼前をもっぱら南下していた。だが、17〜18日ごろから、戻ってくる部隊が目立つようになった。「敵は日本軍の主陣地にぶつかり、攻略が無理なので、別の正面に兵力転換しているんじゃないかと思っていた」。今から思えば「まぁ、甘い考えなんだけれども」と前置きして、内山は振り返った。
 20日、拠点にほど近い老黒山(東寧の南南西約40キロ)にあった日本軍の車両修理基地跡に、ソ連軍の部隊司令部が移転してきたという情報がもたらされた。整備兵など1千人規模の人員だという。「これは最高の目標だ」。ここをつぶせば一帯の敵を無力化できると考え、闇が深くなる月齢を見計らって襲撃を「26日午前0時から」と決め、入念な偵察に取りかかった。
 五十数人が二手に分かれた。内山自身は23〜24人を連れ、前夜の25日未明には突入地点の近くに身を潜めていた。丸1日かけて兵士や車両の出入りを見極め、午前0時ちょうどに「アカツリゴシ」と呼んでいた赤色の信号灯を打ち上げた。突入の合図だった。
 重視したのは人を殺すことよりも…
 宿舎を襲って人員を殺傷することを目的とした班と、戦車やトラックに火を放つ班に分かれ、訓練通りに十数分の間に与えられるだけの損害を与え、撤収する手はずだった。この襲撃では「人員殺傷よりも、むしろ兵器を焼くこと」に力点を置いたという。ホイッスルで一斉に引き揚げると、50〜100メートル走ったところで「やっと(後方から)弾が来て、生き残り(のソ連兵)が撃って。でも全然当たらないんです。だから損害がない」。
 この時の敵の損害を、内山はシベリアへ送られる際に裁判で聞かされた。それによると、200台の自動車と14両の戦車が燃やされ、死傷者は八十数人だったという。ソ連軍には女性兵士がいることは隊員らにも事前に知らせてはいたが、「これも戦闘員ですから」と結局、彼女たちに手加減することはなかったと、内山は打ち明けた。各自が潜行しながら、襲撃部隊は27日朝までに拠点へ帰還した。自軍は戦死と行方不明が各2人、重軽傷が17人。これが戦闘をやめるまでの間で唯一、人的損害を出した事例だったという。
 全員が疲労困憊だったので、以後3日間は休養と決めた。転機が訪れようとしていた。
「私は降伏しない!」第2次大戦末期、“無条件降伏後”もソ連兵を殺し続けた「旧日本軍・恐怖のゲリラ部隊」が最後に受けた「むごすぎる仕打ち」 へ続く
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 8月10日 YAHOO!JAPANニュース 産経新聞ユダヤ難民と北海道を救った樋口中将の孫、隆一氏「祖父は平和ボケやめよ、と言うのでは」
 樋口季一郎中将(樋口隆一氏提供)
 8月15日、わが国は終戦から80年を迎える。戦争の惨禍や平和の尊さを考えるとともに、戦後、GHQ連合国軍総司令部)による占領政策などで封印された歴史と記憶にも目を向けるべきだ。こうしたなか、戦時中、ナチス・ドイツの迫害からユダヤ人を救済し、終戦直前、日ソ中立条約を破って対日参戦してきたソ連の北海道侵略を阻止した樋口季一郎陸軍中将が改めて注目されている。樋口中将の孫で、バッハ研究で知られる明治学院大学名誉教授の樋口隆一氏にインタビューした。(矢野将史)
 【写真】占守島に残る日本軍の戦車
 「祖父は戦後、海外に展開していた軍人らを帰還させる北部復員監を退いた後は、いかなる職業にも就くことなく、静かに『慰霊の日々』を送っていた。亡くなった多くの部下らを悼みながら。宮崎県小林町(現小林市)で祖母方の田畑を耕していたときは、毎朝、畑から東西南北に向かって手を合わせていたそうです。博学多識で何でも知っていた。話も面白く、いつも引き込まれた。ただ、私にはほとんど戦争については話さなかった」
 隆一氏は、年齢が58歳離れた祖父について、こう振り返った。5年前、祖父がひそかに書きためていた軍人時代の記録や戦後の遺稿を編著者としてまとめ、『陸軍中将 樋口季一郎の遺訓』(勉誠出版)を出版した。
■戦後は静かに「慰霊の日々」
 樋口中将は明治21(1888)年、兵庫県阿万村(現南あわじ市)生まれ。陸軍幼年学校、陸軍士官学校を経て、超難関の将校養成機関である陸軍大学校を合格・卒業した。情報将校としてロシアや欧州、満州などで活動した後、ハルビン特務機関長、参謀本部第二部長(情報担当)、第九師団長(満州・牡丹江警備)、北部軍司令官、第五方面軍司令官を歴任した。
 「人道の将」と樋口中将が評されるのは、ハルビン特務機関長時代の昭和13(38)年、ナチス・ドイツの迫害から逃れて満ソ国境オトポール駅に殺到したユダヤ人難民にビザを発給して、輸送列車などで大連・上海へと向かわせた「オトポール事件」が大きい。
ユダヤ難民にビザ発給
 隆一氏は「祖父が45(70)年に亡くなったとき、朝日新聞が祖父の死とユダヤ難民救出について報じ、親戚中が大騒ぎになった。私が小学生の時、日本で事業を始めたユダヤ人が訪ねてきて、祖父に感謝を伝えて『ぜひ、顧問になってほしい』と言ってきたことがあった。お土産の果物が豪華だったことを覚えている。祖父は訪問を歓迎しながらも、顧問については『それとこれは話が違うので遠慮します』と断った」といい、続けた。
 「朝日新聞は救出されたユダヤ難民を『2万人』と報じたが、祖父は自筆原稿に『何千人』と書いていた。祖父はオトポール事件前年の第一回極東ユダヤ人大会でも、来賓として『ユダヤ民族は研究心に富み勤勉であり』『ともに手を携えて、世界平和と人類の幸福に貢献したい』などと祝辞を述べて問題になっていた。ドイツは同盟国だが『日本はユダヤ人迫害をやってはならない』という確固たる信念を持っていたようだ」
 もう一つ、樋口中将の「功績」として伝えられるのが、北海道と南樺太、千島列島の防衛を担当していた第五方面軍司令官だった20(45)年8月、「自衛戦闘」を展開して、最高指導者・スターリン率いるソ連軍の「北海道侵略を阻止」したことだ。
ソ連の北海道侵略を阻止
 ソ連は80年前の8月9日、有効だった日ソ中立条約を破って対日参戦してきた。満州南樺太朝鮮半島、千島列島に一方的に侵攻してきた。将兵だけでなく、無辜(むこ)の民間人も多数殺害され、凌辱(りょうじょく)された。
 これに樋口中将は「飽ク迄自衛戦闘ヲ敢行スベシ」と命じた。15日に「終戦詔勅」が発布された後、18日に始まった千島列島北端の「占守(しゅむしゅ)島の戦い」では、上陸してきたソ連部隊に大損害を与えた。
 隆一氏は「スターリンは当時、トルーマン米大統領に『北海道北部の占領』を要求していた。祖父が『ソ連軍を撃滅せよ』と命じて自衛戦闘をしなかったら、北海道どころか東北までも分割占領されていた。私が中学生時代、ドイツが東西に分断され、ベルリンの壁が建設された(1961年~)。当時、神奈川県大磯町に住んでいた祖父が『隆一、ドイツの地図を書いてみろ』といい、ベルリンについて話をしてくれたことがある。私は大学院生になって、バッハ研究のため東ドイツに留学した。そのとき、『ドイツ分断の悲劇』を目の当たりにした。祖父には『ソ連の北海道占領を阻止した』という自負があったのではないか。ある米戦略研究者も『あの時、ソ連に北海道を侵略されていたら「自由で開かれたインド太平洋」もあり得なかった』というメッセージを私にくれた」と語った。
■自衛のための戦闘
 樋口中将は前出の『樋口季一郎の遺訓』に収められた文章で、ソ連の対日参戦について、次のように書き残している。
 《(ソ連は)強盗が私人の裏木戸を破って侵入すると同様の、武力的奇襲行動を開始したのであった。かかる『不法行動』は許されるべきでない。もし、それを許せば、いたるところでこのような不法かつ無智な敵の行動が発生し、『平和的終戦』はありえないであろう》
 《ソ連はこのようにエゲツナイことを平気でやるのである。彼らは紳士ではなく恐るべき横紙破りである》《私はこの戦闘を『自衛行動』すなわち『自衛のための戦闘』と認めたのである》
 スターリンは戦後、樋口中将を「戦犯」として引き渡すよう要求してきたが、GHQマッカーサー元帥はこれを拒否したという。背景の一つとして、ユダヤ人団体が樋口中将の引き渡しに反対して「圧力」をかけたといわれている。
マッカーサーは引き渡しを拒否
 戦後80年、わが国を取り巻く安全保障環境が悪化するなか、一部メディアや識者は例年のように「平和」を前面に掲げ、防衛力整備に疑問を投げかけるような発信をしている。
 樋口中将の『遺訓』には、次のような回想もある。
 《昔の祖国日本には理想があった。その理想には多少の行き過ぎがあったにしても、ともかくも一定の進むべき目標があり、少なくとも酔生夢死(=酒に酔い、夢を見て一生を終えること)ではなかった(中略)現在はそれが全く喪失せられ、ただ獣類のごとく、はたまた鳥類のごとく、その日その日を生きかつ楽しめばよいとされている(中略)そのような民族が、はたして存在の価値があるのか》
■日本人の魂に合致する憲法
 日本国憲法についても、こう記している。
 《この(憲法)前文は、だいたいにおいてポツダム宣言に対し、『悪うございました。将来は米国の言うことを聞きます』と云う降伏宣言を成文化したものと見てよく(中略)『主権』を有する国家の憲法に挿入すべき内容ではない》
 《平和主義を協調するあまり、媚態的に『不戦主義』にまで発展し、『他国の信義に信頼し、安全と生存を保持』せんとするは、あまりにも卑屈に堕し、現実に即せざる》
 《我らの祖国日本が真に独立を恢復(回復)したとするならば、当然我ら日本人の魂に合致する憲法が生まれなければならぬ》
 「平和」を守り、日本と日本人を守り抜くためにも、樋口中将の『遺訓』を参考にすべきではないか。
■自分の頭で考えて、独自の判断
 隆一氏は「国際情勢を見れば、世界各地で戦争が起きている。日本周辺では、ロシアと中国、北朝鮮がタッグを組んで、何をするか分からない。台湾有事も懸念される。とても『平和』ばかりを唱えている場合ではない。祖父は上意下達、がんじがらめの軍隊の中で、自分の頭で考えて、独自の判断が下せた。非常にユニークだったと思う。孫から見ても、すごい人でした。もし祖父が生きていたら、現在の日本について『そろそろ平和ボケはやめて、世界の中の日本の地政学的危険をよく考えろ』と言いたいのではないでしょうか」と語っている。
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 一般財団法人樋口季一郎中将顕彰会」では、札幌市にある札幌護国神社に、樋口中将の功績をたたえる銅像を建立する活動を行っている。詳しくは、同財団HP(https://general-higuchi.org/)で。
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