🛲20」─2─タイとカンボジアとの1000年国境戦争。隣国とは戦争をする敵である。~No.117 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 現代の日本人は、戦前の日本人に比べてアジア・東南アジアの事が理解できない。
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 歴史的事実として、国家・国民は、国土を守る為に領土・領海・領空に侵入してきた相手を敵と断定し祖国防衛戦争を起こし、敵兵を侵略者として容赦なく殺していた。
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 2025年7月31日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「タイとカンボジア【対立の歴史】クメールを見下すきっかけになった「タイ愛国主義政策」とは?
 チャクリー・マハ・プラサート宮殿(タイ)
 タイとカンボジアとの間で国境紛争が起きています。2025年5月28日、両国の国境地帯で小競り合いが生じ、その後外交協議が行われたものの不調に終わり、7月24日に本格的な軍事衝突に発展しました。民間人を含めて30人以上が死亡する事態となっています。日本からの観光客やビジネスパーソンも多い両国でこのようなエスカレーションが起きるとは、想像できなかった方も多いのではないでしょうか。
 両国が揉めている国境地帯にはプレアビヒア寺院と呼ばれる11世紀に建築されたヒンドゥー教寺院があり、そこと周辺地域の帰属をめぐって長年対立が続いてきました。国際司法裁判所カンボジアの帰属を認める裁定を下しているのですが、タイは「意思決定プロセスに問題がある」としてその裁定を完全に認めてはおらず、2008年以降、散発的に小競り合いが起きていました。
 タイとカンボジアの対立は領土紛争だけではなく、歴史や文化、スポーツなど多岐に及びます。なぜタイ人とカンボジア人はいがみあうのか。歴史的経緯をみていきましょう。
■クメール帝国とアユタヤ王朝
 古代の東南アジアには、インドやスリランカからやってきた商人や伝道者らが、仏教、建築、芸術、政治制度、言語まで、あらゆる文化的なものを伝えました。
 9世紀ごろには、チャム人のチャンパー、マレー人のシュリーヴィジャヤ、モン人のドヴァーラヴァティ、ピュー人のピューなど、多くの民族がインド文化を受容し、国家を形成していきました。
 インド文化の恩恵を受けた国の中でもっとも発展したのがクメール人カンボジア人)のクメール帝国(アンコール王朝)です。クメール帝国の王たちは、積極的な対外戦争で領土を拡大し、10世紀ごろには現在のカンボジアラオス、南部ベトナム、中部〜東北部タイ、東南部ミャンマーにまで至る大帝国を築きました。クメール帝国の王都だったのが、言わずと知れたアンコールワット遺跡群です。
 その頃タイ人はどこにいたかというと、現在の中国・雲南省広西チワン族自治区付近に住んでいました。中国南部では漢人の南への移住に伴い、7世紀ごろから中国南部の先住民であるタイ人やベトナム人ビルマ人が南の東南アジアに住むようになりました。
 タイ人はチャオプラヤ川上流、メコン川上流、サルウィン川上流などに定着し、中小の王国が生まれていきます。もっとも有名で現在のタイ人が自分たちのルーツと認識しているのが13世紀に開かれたスコータイ王朝です。スコータイ王朝衰退後、チャオプラヤ川下流域アユタヤにあった勢力がスコータイの王族と婚姻し、14世紀にアユタヤ朝が開かれます。
 アユタヤ朝は積極的な軍事遠征によって領土を広げ、チャオプラヤ下流域からマレー半島中部、タイ東北部、アンコール平原へと拡大しました。
 アユタヤ朝の侵攻を受け弱体化したクメール帝国は、いくつかの王権に分裂し、王都アンコールワットを捨てて東へ移動していきました。タイ人は領土拡大の過程で、先進文化をもっていたモン人やクメール人から学び、それをさらに発展させていきます。タイは「クメール文化の後継者」なのです。
■愛憎混じり合った複雑な感情
 当時のタイ人は、クメールの先進文化に憧れをいだき、尊敬をしていたと考えられます。スコータイ朝アユタヤ朝の王族は、クメール帝国の王族に称号を与えられ自らの権威付けに利用していたし、公共施設にはクメール様式の建築物やクメール式の名前を採用していました。
 しかしアユタヤ朝が東方に拡大していく過程で、クメール人を見下す感情も同時に生まれていきます。それがよく分かるのが「フィティ・パトムカム(Phithi Pathomkam)」の物語です。
 アユタヤ朝の中興の祖であるナレースワン王の時代のことです。クメールのサタ王(在位:1576~1596)は、アユタヤがビルマとの対決で軍備が手薄になっている隙を狙って、首都アユタヤへ奇襲攻撃をかけました。アユタヤの年代記によると、ナレースワン王はサタ王を捕らえて首をはね、その血で足を洗う儀式をしたとされます。その儀式がフィティ・パトムカムです。
 ところがナレースワン王がサタ王を切ってフィティ・パトムカムを行なったのは事実ではなく、サタ王はクメール本土に帰還しています。この時点でタイ人はクメール人を「自分たちの支配下の存在」とみなす意識が強まっていました。そこに不意打ちを喰らったので、フィティ・パトムカムが行われたナラティブを語ることによって、自国優位意識を強化しようとしたのです。
 この考え方は、ラーマ6世ワチラーウット王(在位:1910~1925)の時代に始まった「タイ愛国主義政策」で国民的な文脈に定着しました。その文脈を現在の受け継ぐタイ人は、歴史的なクメールの指導者や王を「裏切り者」や「恩知らず」とみなす傾向があります。
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