🛲11」─3─親中国派ポル・ポトは中国共産党の支援を受けて大量虐殺を行った。~No.97No.98No.99 

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 中国共産党は、世界を中国化する為に、友好国・支援国に対して共産主義文化大革命を輸出していた。
 媚中派は、中国共産党を手本として、人民(国民)を死と暴力による恐怖支配を行っていた。
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 毛沢東中国共産党は、建国から現代までに1億人以上の人々を虐殺していた。
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 2024年5月22日 野嶋剛「文化大革命の「輸出」とカンボジア
 中国の政治・経済・社会
 文化大革命の「輸出」とカンボジア
 カンボジア出身のドキュメタリー監督、リティ・パニュの「消えた画 クメール・ルージュの真実」を試写会で見た。
 リティ・パニュは1970年代にポル・ポト政権下のカンボジアで少年時代を過ごし、クメール・ルージュ、つまりポル・ポト政権の農村のキャンプに強制移転させられ、家族のほとんどを失った経験を持つ。キャンプを命からがら抜け出し、フランスで映画の道に入り、カンボジアの苦難の歴史に関する多くの作品を発表して国際的に高い評価を受けている。
 *「消えた画」の公式HP。7月5日から上映です。
 クメール・ルージュが支配した「民主カンプチア」時代は、1975年から1979年まで続いた。わずか4年あまりの時間だったが、人類史にも例を見ない大量虐殺や大量洗脳が行われたことは誰もが知っている。だが、当時の状況についての映像や写真は不足しているという。
 本作は、そのリティ・パニュ監督が、手製の100体以上の泥人形を駆使し、記録映像も組み合わせて当時の状況の再現を試みたものだ。表情のない人形によって、かえって当時の非人間的な状況が浮かび上がる。古典的名作「キリング・フィールド」とはひと味違った、カンボジア人の視点からの作品となっている。
 作品の本題からやや外れるが、映画のなかで、2人の中国共産党の指導者がカンボジアを訪問し、ポル・ポトらと会談し、クメール・ルージュの「功績」を賞賛している貴重な映像が流されていたところに興味を引かれた。
 その2人とは、張春橋と、耿飚である。
 カンボジアポル・ポト派中国共産党から強い影響と支援を受けながら育った集団だ。ルージュは赤。共産党の色も赤。クメール・ルージュの一連の狂信的な政策は、文化大革命の海外輸出でもあった。1979年の中越戦争で、中国のベトナム攻撃の理由のなかにも、ポル・ポト派カンボジアから追い出したことが「懲罰」の理由に入っていたことを思い出した。
 張春橋文革を推し進めた四人組の1人で、ポル・ポト派が1975年にうち立てた「民主カンプチア」の憲法を事実上起草したとも言われている。映像のなかの彼は、非常に興奮した様子で感激を表しており、ポル・ポトと両手を握り合ってから抱擁し、毛沢東の写真を額縁に入れてポル・ポトに寄贈していた。張春橋にとっては、カンボジアは自分の「子供」のような国に感じられただろうし、その喜びようは演技とは思えなかった。
 映画では張春橋と耿飚のカンボジア訪問の日時が説明されていなかったが、1976年10月に四人組は逮捕されているので、それ以前であることは間違いない。
 もう1人の中国人、耿飚は、抗日戦争で活躍した軍人で、おそらくこの時点では党の対外連絡部の部長という身分で、張春橋に同行していたと考えられる。耿飚は四人組の「極左」路線に対して、周恩来と気脈を通じながら抵抗し、路線の修正に努力していたと中国版のウィキペティアである「百度百科」などに書かれている。もしもそうなら、張春橋とは対立関係にあったはずだが、映像からはその様子は当然うかがいしれない。
 その後、ポル・ポト派は政権の座から追われ、中国との関係も薄くなり、1990年代のカンボジア和平とその後の治安回復や復興について主要な役割を演じたのは日本だった。
 しかし、2000年以降は中国の「南進」によって、カンボジアにとっての「後ろ盾」は中国に取ってかわられ、中国から大量の投資も注ぎ込まれた。いまのカンボジアASEANのなかでも最も外交姿勢が中国寄りの1つであり、日本の外務省のホームページにも「近年は対中国傾斜が顕著に」と書いてあるぐらいだ。
 中国の「文革」の輸出は、数百万人の生命の喪失と国土の荒廃という巨大な災難をもたらしたわけだが、カンボジア人が「歴史」と「現実利益」の折り合いをつけているのは間違いない。
 援助や投資などチャイナマネーへの期待はあるだろう。戦略的に中国とうまく付き合って、カンボジアが伝統的に警戒感を持っている隣国のベトナムを牽制するというバランス外交の意味もあるだろう。中国にカンボジアをサポートさせることで、不名誉な歴史に対して中国に一種の責任を取らせているという風に考えることもできるのだろうか。カンボジアは小国だからほかに選択肢はないというところもあるだろう。一考に値するテーマだ。
★国際情報サイト「フォーサイト」に執筆したものです。
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 8月13日 YAHOO!JAPANニュース 南日本新聞「学びやは拷問と虐殺の場となった。国民の4分の1の命を奪った旧ポル・ポト政権。「むごい」。多数派の意見で突き進む危うさを思い知った
 コの字型に並んだ校舎と、こぢんまりした校庭は当時のままだ。外観は普通の学校だが、室内には拷問部屋や頭蓋骨、血痕など虐殺の跡が残る。ポル・ポト政権下で政治犯収容所だった施設を改修し、負の歴史を伝える国立博物館「トゥールスレン虐殺博物館」(プノンペン)。
 【写真】〈関連〉旧ポル・ポト政権による虐殺の語り部活動をする生存者(中央)と中高生=7月27日、カンボジアプノンペン
 「笑い声があふれる校舎からは、悲鳴が上がるようになった」「二度と悲劇を繰り返さないために記憶の継承者になって」-。入場前は現地の人々と交流し歓声を上げていた中高生らは、日本語音声ガイドを聞き一斉に言葉を失った。
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 そこは、トゥールスワーイプレイという高校だった。当時のポル・ポト首相が率いたクメール・ルージュは、極端な共産主義の下、都市部の住民を農村部に移住させ、過酷な肉体労働を強制し多くを死に追いやった。学者や医者、教師ら知識人や少数民族、僧侶、その家族らを敵とみなし粛清したほか、「反政府思想」を疑い多くの一般市民を拘束、拷問の末に虐殺した。極秘収容所「S21」へと姿を変えた学びやは、拷問と殺害の場となった。
 大虐殺では当時の人口の4分の1に相当する200万人近くが命を奪われたとされる。その後も、同国の発展を阻害し、今を生きる人にも影響を与えている。ポル・ポト政権崩壊後に生まれた現地ガイドのチョーダさん(44)も貧困で高校進学はかなわなかった。「学べることは当たり前じゃない。今を大切にしてほしい」と中高生に呼びかけた。
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 女性の性器などをペンチでつぶしたりムカデにかませたりする絵、狭いれんが造りの独房、ガラスパネルを埋め尽くす犠牲者の顔写真…。川辺高校3年の中村龍心さんは「人権がなかったと痛感した。自分も高校生。学びやが変わり果てるなんて残酷すぎる」。
 加治木高校3年の浜田桃花さんは「こんなむごいことが起きていたなんて知らなかった。多数派の意見で突き進むのは危険だと感じた。さまざまな意見を尊重し反映するために、一人一人が意志表示することの大切さに気づかされた」と話した。
 中高生は「同じ国民の間で虐殺が起きるなんて」と驚いた。所得格差や性別、職業、差別…。日本でもあらゆるところに分断の種はある。中高生たちは、カンボジアの凄惨(せいさん)な記憶を、自分や自国に引き寄せて考えていた。
 ■トゥールスレン虐殺博物館 1970年代にカンボジアを支配したポル・ポト政権が首都プノンペンに設置したトゥールスレン政治犯収容所の跡に当時の拷問器具や犠牲者の写真などを展示する。1万2000人を超える収容者が拷問などで殺害されたとされ、確認された生存者は12人。通称「S21」と呼ばれた。同政権下の75年4月~79年1月、強制労働や処刑などで200万人近くが犠牲になったとされる。
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 鹿児島県青少年国際協力体験事業で、県内の中高生16人が7月下旬、カンボジアシェムリアップを訪問した。言葉や習慣の違いに戸惑いつつも次第に異文化に溶け込み、最後は涙を流し別れを惜しんだ。農村部でのホームステイや交流を通し、改めて自分自身と向き合った中高生の変化を追った。
 ※2024年8月9日付紙面掲載「カンボジア夏体験~鹿児島県中高生訪問記㊤」から
 南日本新聞 | 鹿児島
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 2022年9月22日 日本経済新聞ポル・ポト派 常軌を逸した恐怖支配
 ピストルを握るポル・ポト派クメール・ルージュの兵士(1975年、プノンペン)=AP
 ポル・ポト氏が率いる武装勢力は1975~79年にカンボジア全土を支配した。極端な共産主義思想を打ち出し、拷問や処刑などを駆使する常軌を逸した恐怖支配を敷いた。病死や餓死なども含めて当時の人口の約4分の1の200万人弱が犠牲になったとされる。
 ポル・ポト政権は「クメール・ルージュ(赤いクメール)」と呼ばれた共産主義政党。「原始共産制」の実現をめざし、銀行や通貨を廃止するなど過激な政策を実行に移した。都市住民を農村部に移住させて集団労働を強要した。医師や教師ら知識層を「資本主義の手先」として殺害した。
 ベトナムの侵攻で79年に政権が崩壊し、91年にパリ和平協定が結ばれた後も、同派はタイ国境付近で抵抗を続けていた。しかし、98年にポル・ポト氏が死去すると、その後同派は消滅した。
 背後には常に大国の影があった。70年のロン・ノル将軍のクーデターを米国が支援。国内の混乱に乗じてポル・ポト派が台頭した。後ろ盾であった中国だけでなく米国もソ連に対抗する目的で、タイ国境に逃れたポル・ポト派を一時支援した。敵と味方が局面ごとに入れ替わり、事態を複雑にした。
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 2015年8月9日 産経WEST「「歴史を直視しろ」はこっちのセリフ 中国とポル・ポトの関係は…大量虐殺に加担した史実を隠すな
 「歴史を直視しろ」。中国の習近平政権は戦後70年を意識し、しきりに日本を牽制(けんせい)する発言を繰り返している。それならば、中国の歴史も直視しよう。1970年代、数百万人ものカンボジア国民を虐殺したポル・ポト政権を熱烈支援していたのはどこだったのか。「一度も謝罪しない」で開き直る中国の態度に憤るカンボジアの人々の声を米紙が伝えている。
 中国なくして殺戮なし
 「中国こそ自らの歴史への直視を迫られている」
 米紙ニューヨーク・タイムズが掲げた見出しの記事は、首都プノンペンにある悪名高き「ツールスレン・ジェノサイド(虐殺)博物館」の場面から始まる。
 同博物館はかつて高校だったが、ポル・ポトが実権を握ったクメール・ルージュカンボジア共産党)支配の「民主カンプチア」時代、「S21政治犯収容所」となり、約2万人が収容されたとされる。生き残ったのはたったの8人。反対する者、疑わしき者は粛清、抹殺する共産主義の恐怖政治を象徴する場所だ。
 そこで案内役を務める男性が必ず見学者に聞く質問がある。「この中に中国人はいませんか」と。その理由を聞いた同紙の記者に男性はこう答えている。
 「ポル・ポトの大量殺戮(さつりく)を可能にしたのは、中国のせいだと説明すると彼らはすぐに怒り出すんだ。真実ではない。今は友好国だ。過去は水に流そう、なんて言い出す」
 カンボジア国民にとっては到底、水に流せる問題ではないだろう。同国の悪夢ともいわれるクメール・ルージュが中国のサポートなしでは成り立たなかったことは史実として認識されている。米コーネル大学で中国とアジア太平洋地域の研究を担うアンドリュー・メーサ氏は「中国の支援がなければ、クメール・ルージュは1週間と持たなかっただろう」と断じている。
 カンボジアとは“蜜月”
 クメール・ルージュカンボジアを支配したのは1975年4月~79年12月。指導者のポル・ポトは「階級のない完全な共産主義社会」を目指し、一切の国民の財産を没収。「反乱の恐れがある」として特に知識層を敵視し、殺戮の限りを尽くしたホロコーストの時代だ。犠牲者の正確な数字はいまだ不明だが、同紙は約170万人と伝えるなど、200万人前後が虐殺されたという。英映画「キリング・フィールド」を思い出す人もいるだろう。
 その狂産カンボジアに肩入れしていたのが、毛沢東(76年死亡)であり、●(=登におおざと)小平の中国だった。
 両国の関係を著書「戦友」(Brother in Arms)に集大成したメーサ氏は「当時、カンボジアへの外国援助の90%は中国が担っていた」と語る。食料や建設資材から戦車、航空機、火器まで送り込み、殺戮の最中でも、中国人エンジニアや軍事顧問はクメール・ルージュ共産党員を訓練していたという。同国中部には蜜月ぶりを象徴する軍用滑走路が残っている。
 大量殺戮への中国の関与を認めるべきだという批判に対し、2010年、当時の駐カンボジア中国大使が「われわれは食料と農具を送っただけだ」と突っぱねるなど、責任逃れの抗弁を繰り返している。
 しかし、ベトナムクメール・ルージュを追討した直後の1979年2月、●(=登におおざと)小平は懲罰だとして中越戦争を仕掛けた。また、山間部に逃亡したクメール・ルージュ残党を中国は支援し続け、ポル・ポトが中国を訪れたり、幹部に中国籍のパスポートを発給していたりしていたのも忘れたのだろうか。
 歴史教科書では無視
 中国政府の歴史健忘症は実際、驚くほど進行しているという。
 同紙によると、中国の高校生向け主要歴史教科書には、クメール・ルージュ中越戦争に関する記述は全くといっていいほどない。ベトナムとの間で戦争があったことすら知らない若者も少なくなく、共産党の歴史操作は成功していると指摘する。
 「中国政府は非難されそうなことは無視し、都合の良い歴史をプロパガンダにして強調している」と語り、共産党の恣意(しい)的な歴史認識をあぶり出そうとしている中国人歴史家もいる。
 記事では、中越戦争に参加した多くの元兵士が現在、恩給も十分に与えられずに困窮状態になるなど、中国政府から無視されている実態にも言及している。
 その一方で、朝鮮戦争については、北朝鮮が仕掛けたという国際社会で共通認識になっている事実を教科書では全く記述せず、「自国の安全と朝鮮救済のためやむなく参戦し、国際的地位を高めた」と自画自賛しているというから、厚顔無恥も極まれりだ。
 共産中国建国直後の大躍進政策文化大革命で、一体どれだけの血が流れたのだろう。そして天安門事件や今も続くチベット人ウイグル人への弾圧…。
 李克強首相は3月、「一国の指導者は先人の業績を継承するだけではなく、その罪による責任も負わなければならない」と述べた。安倍晋三首相が今年夏に出す戦後70年談話を意識した発言だが、そっくりそのまま返したい。
 「中国は史実を認めないし、謝罪もしない」。カンボジア国民の声を聴けば、いびつな中国共産党歴史認識にまともにつきあう必要はないことがわかる。(2015年4月27日掲載)
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 2020年11月21日 産経新聞モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら
 共産主義者は家族を破壊する
 共産主義の本質に鋭く迫ったアニメーション映画「FUNAN フナン」
 時節柄、映画の試写会もオンラインだ。先日「FUNAN フナン」というアニメーションを見た。2018年のアヌシー国際アニメーション映画祭で、長編コンペティション部門の最高賞を受けた作品である。
 中国共産党の支援を受けて、5年にわたる内戦に勝利したポル・ポト率いるクメール・ルージュカンボジア共産党)が、首都プノンペンに入城した1975年4月17日以降のカンボジアで起こった悲劇を、ひとりの母親の目を通して描く。脚本と監督はフランス生まれのドゥニ・ドー。カンボジアにルーツを持つ彼は、母の体験をもとに脚本を書いたという。タイトルは、1世紀から7世紀にかけてメコン川下流域(現在のカンボジアベトナム南部)で栄えた古代国家、扶南国に由来する。
 周知のように毛沢東思想と文化大革命に強い影響を受け、現代文明を否定して原始共産制社会をめざしたクメール・ルージュは、政権奪取から崩壊までの4年間で、同国の社会基盤を徹底的に破壊、自国民800万人の5分の1を死に追いやった。
 旧体制を憎み社会主義革命を企てる人々は決まって家族を壊そうとする。国の歴史、文化、伝統などを受け継ぎ、次代に伝えるのは家族だからだ。彼らは家族間の密告を奨励し、「子供は社会のもの」として親から子供の教育権を奪う。こうして家族は切り離され、それぞれは寄る辺ない原子状態に置かれる。不確かな記憶だが、1960年代後半に吹き荒れた学生運動のバイブルとなった羽仁五郎氏の『都市の論理』にも「子供は社会のもの」という思想が潜んでいたように思う。
 クメール・ルージュも家族の破壊に熱心に取り組んだ。都市から農村へ強制移住させられた人々は、家族ごとの食事を許されず、村落の共同食堂で食事をとらなければならなかった。子供は幼児のうちから子供労働キャンプに入れられて「教育」された。
 この作品で、ドー監督はプノンペンに暮らす中流家庭の食事の場面から物語を始める。慧眼だ。そして虐殺そのものを直接描くことはしない。軸になるのはオンカー(革命組織)の「指導」のもと、プノンペンから農村に強制移住させられる途中で幼い息子と生き別れになってしまった女性チョウの「家族回復」を求める闘いだ。
 加えて移住させられた農村で奴隷のように使役される人々の姿を描くことで、極限状態のなかでよりあらわになる人間の弱さ、ずるさ、そして何よりも強さと優しさを、静かに伝えようとする。カンボジアの美しい自然が得も言われぬ詩情を添える。作品を貫くのは、人間、家族、国の回復力(レジリエンス)を信じようとするドー監督の祈りにも似た思いだ。
 12月25日からYEBISU GARDEN CINEMA(東京都渋谷区)、シネ・リーブル池袋(東京都豊島区)ほかで公開される。
 朝日記者の見込み違い
 ここで脇道にそれたい。この作品を見て、朝日新聞の故和田俊(たかし)さんが書いた記事を思いだしてしまったのだ。和田さんはテレビ朝日の「ニュースステーション」でコメンテーターを務めていたので覚えている方も多いだろう。その記事とは、クメール・ルージュプノンペン入城から2日後、4月19日の朝日新聞夕刊に掲載されたものだ。
 《カンボジア解放勢力のプノンペン制圧は、武力解放のわりには、流血の惨がほとんど見られなかった。入城する解放軍兵士とロン・ノル政府軍兵士は手を取り合って抱擁。政府権力の委譲も、平穏のうちに行われたようだ。しかも、解放勢力の指導者がプノンペンの裏切り者たちに対し、「身の安全のために、早く逃げろ」と繰り返し忠告した。「君たちが残っていると、われわれは逮捕、ひいては処刑も考慮しなければならない。それよりも目の前から消えたくれた方がいい」という意味であり、敵を遇するうえで、きわめてアジア的な優しさにあふれているようにみえる。〈中略〉カンボジア人の融通自在の行動様式から見て、革命の後につきものの陰険な粛清は起こらないのではあるまいか》
 ジャーナリストに見込み違いは付き物とはいえ、これはちょっとひどい。現地を取材せず、東京のデスクで過去の体験を頼りに書いたのだろう。当時の日本社会を覆っていた「アメリカ帝国主義=悪」「共産主義勢力=善」という妄想図式の影響も大きかったに違いない。この記事がきっかけで、母国の役に立とうと帰国したカンボジア人留学生もいたはずだ。その意味でもとても罪深い記事だと考える。教師、医師、技術者といった知的な国民を徹底的に粛清したクメール・ルージュの蛮行が明らかになったとき、和田さんはどんな思いにとらわれたのだろう。
 大切なのは「よりマシ」
 モンテーニュはこんなことを言っている。
 《人間は実に狂っている。虫けら一匹造れもしないくせに、神々を何ダースもでっち上げる》(第2巻第12章「レーモン・スボン弁護」)
 私はこう言い換えたい。「共産主義者は実に狂っている。虫けら一匹造れもしないくせに、神のごとく理想の社会をでっち上げる」
 権力を奪取した共産主義者は自らの理想のために、粛清の嵐が吹き荒れる監獄のような恐怖社会をつくりだしてきた。カンボジアでもそれが繰り返された。クメール・ルージュ一神教の神、それも優しさのかけらもない邪悪な神となってカンボジアに君臨した。
 理想の社会を夢想することを私は否定しない。ただ共産主義者が性急に自分たちの理想を追えば何が起こるか…。私たち人間は「虫けら一匹造れない」存在なのだ。まずそのことを謙虚に受け止めたい。日本に生きる私たちにできるのは、国や社会に根を張った伝統や文化を踏まえながら、主権者として「よりマシ」と思われる選択をしていくこと、これ以外にない。「FUNAN フナン」を見てこんなことを考えた。
 ※モンテーニュの引用は関根秀雄訳『モンテーニュ随想録』(国書刊行会)による。(文化部 桑原聡)
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