🔯38」─2─ヨーロッパの偉大な統一者、カール大帝の治世の全容。西欧の誕生。~No.131 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 非ローマ人である異民族のフランク族は、ヨーロッパを統一した。
 フランク人は、ヨーロッパを土着宗教世界からキリスト教世界に塗り替え、多神教多民族から一神教一民族に作り変えた。
 現在のフランス人、ドイツ人、イタリア人など欧州大陸人の直近の祖先は、古代ローマ人ではなくフランク人である。
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 「ヤマト大王ヤマト王権による日本統一」を否定する日本人には、日本の歴史はもちろん世界の歴史さえ理解できない。
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 新羅は、中国の唐王朝の軍事支援を受けて半島を統一し、反日天皇を国是として日本・日本人を半島から排除した。
 唐帝国は、アジア支配を完成させる為に、統一新羅を先兵にして日本を侵略しようとしていた。
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 2025年5月13日 MicrosoftStartニュース Stars Insider 「ヨーロッパの偉大な統一者、カール大帝の治世の全容
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 ヨーロッパ史において、カール大帝ほど影響力のある人物はほとんどいない。フランク王国の戦士王として数十年にわたる征服を経て、偉大なローマ帝国以来、ヨーロッパ最大の帝国を築き上げた。カール大帝は鉄の支配のもと領土を統一しただけでなく、教皇庁の熱心な支持者として、何十万人ものヨーロッパの異教徒をローマ・カトリックに改宗させた。カール大帝と彼のあくなき権力と覇権への渇望がなければ、ヨーロッパは今日私たちが知る大陸とはならなかっただろう。彼は今日「ヨーロッパの父」と呼ばれているもの当然である。
 カール大帝と彼のヨーロッパ統一計画について知っておくべき歴史をすべて紹介する。
 8世紀のヨーロッパ
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 西ローマ帝国が西暦476年に滅亡してから300年以上経った8世紀のヨーロッパは部族、王国、そして国家間の争いによる混乱に巻き込まれていた。東方ではビザンティン帝国が依然として繁栄し、カトリック教会の教皇庁も相変わらず大きな影響力を行使していたため、国家と政治世界は、境界が絶えず変化する小国によって構成されていた。
 フランク人
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 中世初期において、これらの文化の中で特に強大な力を持っていたのは、フランク人の故郷であるゲルマン民族フランク王国だった。フランク王国ローマ帝国の崩壊後、徐々に勢力を拡大し、かつての偉大な文明の直系の子孫であると主張することが多かったのだ。
 ピピン3世
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 カール大帝は代々王や統治者のか系に生まれたわけではない。父のピピン3世(小ピピン)は王子の息子として生まれ、フランク王キルデリク3世の下で宮廷長官を務めた。
 フランク王国の初代王
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 8世紀半ば、フランク王の地位には実質的な権力が限られており、王国に関する実質的な権限は宮廷長が握っていた。751年、ピピン3世は教皇ザカリオスにキルデリク3世の廃位への支援を訴え、宮廷長としての権力を保持しつつフランク王の総合を継承しようとした。キルデリク3世の廃位とピピン3世の権力掌握は、数世紀にわたって続いたメロヴィング朝の終焉とカロリング朝の幕開けとなった。
 カール大帝とカールマン
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 ピピン3世には2人の息子がいた。今日、カール大帝として知られるチャールズは、747年4月2日に生まれた。カール大帝の弟であるカールマンは、父がフランク王となったのと同じ年である751年に生まれた。
 カール大帝の治世が始まる
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 カールマンの死後、カール大帝フランク王国の王位にたった一人で座した。わずか24歳にしてカール大帝は絶大な権力と可能性を秘めた地位に就いた。
 カールマンの死
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 768年にピピン3世が死去した後、フランク王国の王権はカール大帝とカールマンに継承され、2人は共同でフランク王国を統治した。だがこの共同統治は長く続かなかった。カールマンは771年に自然死と見られる死因で急逝した。しかし、若きカール大帝が弟の死に関与したのではないかと推測する者もいる。
 デジデリアとの結婚
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 カール大帝の政治的征服の人生は、770年にロンバルディアの王女デジデリアと結婚したことから始まったと言えるだろう。この結婚により、フランク王国ロンバルディア王国の間に暫定的な法的同盟が成立した。しかし、この結婚は長く続かなかった。
 ヒルデガルド・フォン・フィンツガウ
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 結婚から1年も経たないうちにカール大帝ロンバルディア公女を追放し、代わりにヴィンツガウ公ヒルデガルドを妃とした。同じフランク人であるヒルデガルドはカール大帝との間に9人の子供をもうけた。
 ロンバルドの征服
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 カール大帝とデジデリアの突然の離婚はロンバルディア王国との法的同盟に終止符を打っただけでなく、デジデリアの父でありロンバルディア王であったタシロ3世の不興を買った。カール大帝はこの時、新たに選出された教皇ハドリアヌス1世に忠誠を誓い、フランク軍を率いて現在のイタリア北部に位置するロンバルディア地方に進軍した。774年の夏、カール大帝ロンバルディアの首都パヴィーアを占領し、教皇ハドリアヌスによってロンバルディア王に即位した。
 ザクセン戦争
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 カール大帝が率いた戦役の中で最も長く、最も影響力のあったのは、30年近くにわたり何らかの形で続いたザクセン戦争である。フランク人とザクセン人の対立は数世紀にわたって続いていたが、カール大帝の権力欲を再び燃え上がらせた。
 ザクセン戦争
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 496年クローヴィス1世がカトリック教会に改宗して以来、フランク人はカトリック教会と同盟を結んでおり、政治権力だけでなく精神的な永y効力も争奪戦を繰り広げた。キリスト教の台頭以来、土着の信仰を頑なに守り続けてきたサクソン人は、カール大帝の手によって容赦なく厳しい懲罰、略奪、そして征服を受けた。カール大帝は、領土を占領するたびに、サクソン人を強制的にキリスト教に改宗させ、洗礼を受けさせた。
 スペイン征服
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 8世紀、スペインはイスラムの影響下にあり、多くの都市国家イベリア半島南部から領土の安全を脅かすウマイヤ朝との戦闘に巻き込まれていた。ムーア人支配下のスペインの支配者たちは、軍事支援と引き換えに忠誠を誓い、778年にカール大帝とその軍隊を歓迎した。カール大帝はやや無謀にもスペイン全土の征服を企み、当初はムーア人バスク人に惨敗した。
 スペイン征服
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 再編後、カール大帝アハ781年に3歳の息子ルイの統治下でアキテーヌ王国を建国した。その後まもなく、フランク軍はイベリア半島北部の大半を征服し、確保することに成功した。
 地中海でのカール大帝
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 カール大帝は生涯を通じて地中海イタリア沿岸の大部分を支配していたが、それより東の地中海領土は頑なに掌握できなかった。地中海の海域の大部分はサラセン海賊の支配下にあり、彼らはフランク軍を陸上に留めていた。
 バイエルンを占領する
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 カール大帝イベリア半島と西ヨーロッパおよび南ヨーロッパの大部分を制圧した後、すぐに東ヨーロッパに目を向けた。バイエルン公国は789年にフランク王国に陥落し、その後フランク王国に併合された。
 東方でのカール大帝
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 バイエルン侵攻後、カール大帝は再び異教徒の勢力と領土に直面した。しかし790年代の東方およびスラヴ遠征は、ほぼ容易な征服であった。スラヴ人からセルビア人に至るまで、フランク王国の直接の支配下には決してなかったクロアチア人という顕著な例外を除き、多くの東ヨーロッパ文化圏はほとんど抵抗することなく降伏し、キリスト教への改宗を受け入れた。
 カール大帝の帝国
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 8世紀末までに、カール大帝フランク王国とその従属諸国は、大西洋西岸から東のスラヴ諸国にまで広がった。西ローマ帝国の崩壊以来、ヨーロッパにおいて単一の君主が支配する最大の領土だった。
 カール大帝教皇レオ3世
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 8世紀末までに、ヨーロッパでカール大帝よりも権力を持つ人物はただ一人、教皇レオ3世のみとなった。統一キリスト教世界における影響力をビザンティン帝国の皇帝たちに奪われつつあったレオ3世は、799年にローマで異端のカトリック教徒の一団に襲撃され、片目を負傷し、髪の毛を引き抜かれた。ローマがフランク王国の保護下にあったため、レオ3世は忠実なキリスト教徒であるカール大帝のもとに逃れ、保護を求めた。
 カール大帝戴冠式
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 カール大帝はレオ3世のローマ帰還を支配し、繊細な外交術によってイタリア教皇領の秩序を回復した。西暦800年12月25日、カール大帝サン・ピエトロ大聖堂でミサに出席し、教皇レオ3世は神の名において、ローマ教皇庁の立会いのもとカール大帝ローマ皇帝戴冠式を行った。
 ヨーロッパの新時代
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 当時の文書によると、カール大帝はその日サン・ピエトロ大聖堂で何が起ころうとしていたのか知らなかたようだが、後世の歴史家はそれを疑わしいとしている。カール大帝ロムルス・アウグストゥルス以来初のローマ皇帝に任命することは、レオ3世とカール大帝自身の間で決定されたことは間違いない。
 統一されたヨーロッパ
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 フランク人こそがローマ帝国の唯一の真の子孫であるという古くからの主張は、今や新たな命を吹き込まれ、カール大帝の統治下において広く受け入れられた。カール大帝戴冠式の何年も前から、ヨーロッパのキリスト教諸国、つまり改宗したばかりの人々から何世紀にもわたってキリスト教徒であった人まで、新たな統一形態、すなわち「キリスト教帝国」の構想が広まった。
 神聖ローマ帝国の誕生
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 ローマとキリスト教の新たな覇権が確立され、カール大帝を初代神聖ローマ皇帝とする神聖ローマ帝国が誕生した。
 カール大帝の遺産
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 西暦800年の神聖ローマ帝国の建国は、ヨーロッパ史における大きな転換点となった。西ヨーロッパの政治的、精神的勢力は、数世紀ぶりに東方ビザンティン帝国に対抗できる力を持つに至った。さらに、カール大帝の征服によって初めて、今日私たちが知る、大部分が伝統的にローマ・カトリック教会によって支えられたヨーロッパの姿が形作られ始めたのだ。
 抜本的な改革
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 カール大帝の軍事制服は神聖ローマ帝国の成立後、衰退したが、戦場での彼の行動は社会全体に波紋を広げ続けた。9世紀初頭には多くの社会構造改革が実施され、その多くは法と商業の標準化に重点が置かれていた。
カール大帝の多くの子供たち
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 カール大帝は活動的な父親として有名で、7人のパートナーとの間に18人もの子をもうけ、そのうち4人はカール大帝と結婚していた。嫡出子のうち、ヨーロッパ統一の巨匠カール大帝が814年に崩御した後にカール大帝の後を継ぎ、神聖ローマ皇帝として即位したのはルートヴィヒ1世のみだった。
 名門の子孫
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 カール大帝の生涯は、ヨーロッパにおいて政治的、精神的にだけでなく、系譜学的にも新たな時代を築いた。カール大帝の治世以降に成立したヨーロッパ貴族のほぼすべての家系は、その祖先をカール大帝に遡ることができると言われている。悪名高く、絶大な影響力を持ったハプスブルク家もその一つである。
 名門の子孫
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 カール大帝を祖先に持つもう一つの著名な家系は、ヨーロッパ史上最古かつ最も強固な貴族家系の一つであるカペー家である。フランス王朝としても知られるカペー家は、987年から1792年、そして1814年から1848年までフランスを統治した。数世紀にわたり、カペー家の血筋からは無数の分家や後継家が生まれ、その中には今日までスペイン王家を構成するブルボン・アンジュー家も含まれている。
 あらゆる暴君の偶像
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 カール大帝の遺産は、ヨーロッパ統一、文化的覇権、そして宗教的純粋さという理念と永遠に結びついており、ナポレオン・ボナパルトからアドルフ・ヒトラーに至るまで、ヨーロッパにおける近年の帝国主義覇権主義を志す多くの人々にとって、当然ながら模範となってきた。
 出典: (History) (Britannica) (Mental Floss)
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