🗽12」─1─イタリア系ナポレオン将軍はフランス人王族ではなかったがフランス皇帝に即位できた。~No.46No.47No.48 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 2025年6月1日 YAHOO!JAPANニュース プレジデントオンライン「なぜ王族でもないナポレオンがフランス皇帝になれたのか…"イメチェン"で庶民の熱烈な支持を得た大胆な戦略
 フランス革命後の混乱を収拾し、皇帝となったナポレオンとはどんな人物だったのか。広島大学准教授の藤原翔太さんは「最新研究によれば、彼の人気には劇的な『イメチェン』が関わっている」という――。
 【画像】ジャック=ルイ・ダヴィド『サン・べルナール峠を越えるボナパルト』(1801年)
 ※本稿は、藤原翔太『ポピュリスト・ナポレオン 「見えざる独裁者」の統治戦略』(角川新書)の一部を再編集したものです。
ボナパルト将軍、英雄として登場
 視覚芸術におけるナポレオンのプロパガンダ戦略については、フランス革命期の表象を専門とするアニー・ジュールダンの研究が詳しい。
 1796年のロディでの勝利の後、芸術家たちは英雄の登場に歓喜し、若き将軍ボナパルトの肖像画を自発的に制作していく。アッピアーニやグロがその代表格で、巨匠ダヴィドでさえパリにいながら、ロディの勝利を主題にした油彩画の制作を計画するほどであった。このように、多くの画家たちがイタリアを征服したフランス共和国の将軍の肖像画を描こうとしたのだが、その際、ナポレオンは厳格な顔つきをした人物として描かれ、本人に似ているかどうかはあまり問題とはされなかった。
 1798年頃になってようやく本人との類似性が重視されるようになり、アッピアーニらの作品がボナパルト将軍像の「モデル」として認められていった。これらの絵画では、基本的にサーベルを握って立ち上がる将軍が半身像か四分の三身像で描かれた。共和国軍の軍服をまとい、風になびく長髪、痩せた顔立ち、わし鼻、そして鋭い輪郭といった身体的特徴が、その人物がナポレオンであることを鮮明に示した。また、グロの『アルコレ橋のボナパルト将軍』に典型的にみられるように、それらの絵画では、しばしばナポレオンが腕を上げて兵士を鼓舞する身振りが描かれ、ダイナミズムの効果を高めた。
■ロマン化された英雄像の確立
 ダヴィドが1801年に制作した『サン・ベルナール峠を越えるボナパルト』では、ケープが舞うほどの強風の中、急峻な坂で馬を後脚で立たせる勇壮なナポレオンの姿が鮮烈に描き出されている。戦士の大胆さを強調したこの作品をナポレオンはとくに気に入ったようで、その後、同様の絵を何枚も注文し、一つはマルメゾン宮に、もう一つはアンヴァリッド(廃兵院)に飾っている。そのうえ、多くの複製版画が出回り、ゴブラン織のタピスリーでも描かれたので、当時から、多くの人々がこの作品を目にすることができた。
 一方で、第一統領に就任した後、ナポレオンの表象にはある大きな変化が生じた。ブリュメール18日までのナポレオンは、長髪をなびかせることで、どこか若さと野性味を残した将軍として描かれてきた。しかし、今や彼は共和国の元首である。ナポレオンは洗練された「大人」にならなければならなかった。その必要を意識して、ナポレオンがまず取り掛かったのが、髪型を変えることであった。それまでの長髪をばっさり切って、ティトゥス風の短髪スタイルを採用したのである。
■髪型で、「国家元首」へとイメージチェンジ
 パリで流行した古代ローマ風の髪型を取り入れたことで、第一統領ナポレオンと、髪型の名前の由来となったティトゥスの父であり、ローマ共和政の初代統領ユニウス・ブルトゥスとの類似性を声高に叫ぶ、多くのナポレオン崇拝者が現れることになった。要するに、ナポレオンは髪型を変えたことで、「戦士」から「国家元首」へとイメージチェンジに成功したのである。
 事実、1802年以来、戦場を描く絵画の中で、ナポレオンが武器を手に取ることはなくなっていく。戦闘シーンが消えたわけではないが、ナポレオンは常に平静を保ち、戦争の成り行きを見通し、何よりもまず兵士の命に気を配り、労わる国家元首として描かれた。もう少し後になると、被征服民に対しても寛大な態度を示す、「平和の使者」としてのナポレオン像もまた主題としてよく取り上げられるようになる。
 いずれにしても、国家元首たるナポレオンはもはや兵士の先頭に立ち、命を賭して戦闘に飛び込むような危険を冒してはならなかったのである。こうして、ナポレオンの肖像画からかつてのダイナミズムは失われていった。
 皇帝に即位した後、ナポレオンは新王朝(第四王朝)を正統化するために、フランスの歴代王朝の象徴をかき集め、自身の新たな肖像を作り出していく。すなわち、第一王朝(メロヴィング朝)からは蜜蜂が、第二王朝(カロリング朝)からは翼を広げた鷲や王杖などが、そして第三王朝(カペー朝)からはオコジョの毛皮が借用された。月桂冠と緋色の衣装は古代ローマ皇帝を想起させるものであった。第四王朝を正統化すべく、使えるものは何でも使おうとするその態度からは、フランス共和国の皇帝であるにもかかわらず、ヨーロッパの王族の血が流れていないことへのコンプレックスと、王朝の正統化への強迫観念を感じ取ることができる。
■ナポレオンのコンプレックス
 そのため、ナポレオンはヨーロッパ大陸の覇権を握ると、列強の君主たちに対して、支配者というよりも対等な君主として会合に臨む様子を画家たちに描かせた。たとえば、ティルジットでプロイセン王妃を迎え入れる光景や、神聖ローマ皇帝フランツ二世との出会い、ロシア皇帝アレクサンドルと議論する姿が描かれている。
 ナポレオンのコンプレックスを解消したのは、オーストリア皇女マリー・ルイーズとの結婚である。これにより、ナポレオンはヨーロッパの王族たちの仲間入りを果たしたことに安堵した。王族の血を引いた息子(ローマ王)の誕生は二つの帝国の結合の賜物であり、第四王朝の正統性が確固たるものになったとナポレオンに感じさせた。その余裕は絵画でもよく表れている。たとえば、1812年にアレクサンドル・マンジョが制作した『昼食時にローマ王と遊ぶナポレオン』では、国家元首の威厳は微塵もなく、愛する息子を前に微笑みをこぼす等身大のナポレオンが描かれており、皇帝の正装時の重々しい姿とのギャップに、見ている方もつい笑みがこぼれてしまう作品になっている。
■列強と対等な君主像の演出
 国家元首が微笑みを見せ、父親の優しさを示すこれらの絵画は、君主像の新たなジャンル、すなわち極めて近代的な君主像を作り出すことになった。
 新たな君主像は、ナポレオンがあくまでフランス国民に選ばれた「共和国の皇帝」であることを示し続けようとした産物でもあった。ナポレオンの治世下において、戦場の絵画は描き続けられたが、1802年以降、現在ではお馴染みの二角帽子と灰色のフロックコートを着たナポレオンが描かれ始め、派手な装飾を施した軍服姿の将軍たちとのコントラストが際立った。
 素朴な服装をして兵士たちの輪に入り、彼らと食事を共にしたナポレオンが、兵士たちから親しみを込めて「ちび伍長」と呼ばれたことはよく知られている。
■親しみやすい皇帝像が国民全体に広まった
 そうした彼の親しみやすさを示す絵画として、兵士の水筒で水を飲む皇帝や、兵士から渡されたジャガイモを受け取る皇帝を描いた民衆向けの版画が普及したことで、親しみやすい皇帝像が軍隊を越えて、国民全体に広まっていった。
 最後に、国民が期待する「共和国の皇帝」像を具現した絵画作品として、書斎で仕事に勤しむナポレオンがしばしば描かれたことを指摘しておこう。たとえば、1809年にロベール・ルフェーヴルによって制作されたナポレオンの肖像画では、机の上に燃え尽きようとしている蠟燭が描かれており、深夜遅くまで(あるいは朝方まで)、国家元首であるナポレオンが身を粉にして、フランス国民のために仕事に取り組んでいる姿が示されている。
■書斎の皇帝と勤勉な支配者像
 我が身を顧みず国家・国民に奉仕する政治家の姿勢こそ、まさに国民が革命以後の君主、すなわち国民によって選ばれた「共和国の皇帝」に期待することであった。なお、この当時、絵画は限られた公衆しか観覧できず、プロパガンダとしては効力が弱かったのではないかと思われるかもしれないが、必ずしもそうではない。ジャン=ポール・ベルトーによれば、パリでは毎週土曜日と日曜日にサロン(美術展)が開かれて、絵画作品が展示され、すべての階層の人々に無料で開放された。そのため、サロンは連日多くの人で賑わった。具体的な入場者数の記録は残されていないが、展示作品のカタログの販売数は1799年から1810年にかけて9230部から3万2459部へと急増しており、帝政期に入場者数が着実に増加していったことがよくわかる。
 富裕層もまた「金曜日の特別パス」を購入できたので、サロンは社交の場ともなり得た。
 そのうえ、ナポレオン時代には文芸の批評空間が拡大し、サロンに特化した出版物が登場して、展示された絵画や彫像についての批評がなされた。また、現物を見ずとも絵画を購入できるように、絵画販売店ではサロンで最も注目された絵画の複製版画が客に提示され、作品集(カタログ)も販売されたので、パリだけでなく、地方の人々も著名な絵画に触れることができた。複製版画は人気を呼び、地方にまで流通した。早くから地方の公的機関ではナポレオンの肖像画が飾られたり、祭典時には、行列の通り道の壁にナポレオンの肖像画が貼られたりしたことなども併せて考えれば、多くの国民がナポレオンの肖像画を目にする機会があったことは間違いない。

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 藤原 翔太(ふじはら・しょうた)
 広島大学大学院人間社会科学研究科准教授
 1986年生まれ、島根県出身。トゥールーズ・ジャン・ジョレス大学博士課程修了(フランス政府給費留学)。博士(歴史学)。福岡女子大学国際文理学部准教授などを経て、現職。専門はフランス革命・ナポレオン時代の地方統治構造。2024年、『ブリュメール18日 革命家たちの恐怖と欲望』(慶應義塾大学出版会)で、第24回大佛次郎論壇賞を受賞。他の著書に、『ナポレオン時代の国家と社会 辺境からのまなざし』(刀水書房)、『東アジアから見たフランス革命』(共著、風間書房)、訳書にクリスティーヌ・ル・ボゼック『女性たちのフランス革命』(慶應義塾大学出版会)などがある。

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 ヨーロッパには、王女が他国の王子や騎士・英雄と恋に落ちて結婚し、「恋は盲目」として相手を国王に即位させる恋愛物語が数多く存在する。国民は、王女が選んだ他国人を国王として戴く事に反対はしなかった。
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2018-09-07
🔯66」─1─他国人に開かれた王家。フランス系スウェーデン王家。デンマークノルウェー王家。~No.244No.245No.246 @ 
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2024-07-06
💍46)─3─皇位継承問題は皇族の結婚問題。西洋王族は外国人と結婚して混血の子供を国王に即位させる。〜No.160 
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 (ナポレオンは)皇后ジョゼフィーヌを後嗣を生めないと言う理由で離別して、1810年オーストリア皇女マリ・ルイーズと再婚した。この婚約は当初アレクサンドル1世の妹、ロシア皇女アンナ・パーヴロヴナ大公女が候補に挙がっていたが、ロシア側の反対によって立ち消えとなった。オーストリア皇女に決定したのは、オーストリア宰相メッテルニヒの裁定によるものであった。そして1811年に王子ナポレオン2世が誕生すると、ナポレオンはこの乳児をローマ王の地位に就けた。
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 ナポレオン・ボナパルト(フランス語: Napoléon Bonaparte、出生名(1794年以前): ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテ、イタリア語: Napoleone di Buonaparte、1769年8月15日 - 1821年5月5日)は、フランス革命期の軍人、革命家で、フランス第一帝政の皇帝に即位してナポレオン1世(フランス語: Napoléon Ier、在位:1804年 - 1814年、1815年)となった。1世から7世まで存在するが、単にナポレオンと言えばナポレオン1世を指す。

 ブオナパルテ家の先祖は中部イタリアのトスカーナ州に起源を持つ家系であり、古い血統貴族。それがジェノヴァ共和国傭兵隊長としてコルシカ島に渡り、16世紀頃に土着した。判事であった父カルロは、1729年に始まっていたコルシカ独立闘争の指導者パスカル・パオリの副官を務めていたが、ナポレオンが生まれる直前にフランス側に転向し、戦後に寝返りへの見返りとして報奨を受け、フランス貴族と同等の権利を得た。旧ジェノヴァ共和国領であるコルシカ島には貴族制度がなかったが、新貴族としての身分を晴れて認められたことで特権を得て、フランス本国への足がかりを得た父カルロはやがてコルシカ総督とも懇意になり、その援助でナポレオンと兄のジュゼッペ(ジョゼフ)を教育を受けさせるためにフランス本国へと送った。

 フランス革命後の混乱を収拾し、軍事独裁政権を確立した。大陸軍(フランス語: Grande Armée グランダルメ)と名づけた軍隊を築き上げ、フランス革命への干渉を図る欧州諸国とのナポレオン戦争を戦い、幾多の勝利と婚姻政策によって、イギリス、ロシア帝国オスマン帝国の領土を除いたヨーロッパ大陸の大半を勢力下に置いた。対仏大同盟との戦いに敗北し、百日天下による一時的復権を経て、51歳のとき、南大西洋の英領セントヘレナにて没した。
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 日本の天皇制度は、閉じた王家として、即位する正統必須条件は、日本民族であり、民族宗教、神話物語で語られる最高神・女性神からの血筋を神聖不可侵の絶対根拠とする血筋・血統の家世襲万世一系の男系父系天皇家・皇室の家族・一族のみである。
 非皇族系日本人もしくは外国人で、日本天皇に即位した者はいなかった。
 日本民族は、数千年の歴史・伝統・文化・宗教である正統性男系父系継承論に固執して、世界の王族・王家の常識である正当女系母系即位論を拒否し排除してきた。
 西洋礼算主義者であるエセ保守は、数千年の血筋・血統による民族的世襲制を古い制度として廃止し、皇室を大陸の常識で開かれた王家に改造しようとしている、それが正当女系母系推進論である。
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 西洋諸王家は、男系女系両系継承として、他国人を王侯貴族・身分・地位に関係なく有能・優秀で巨万の富を持っていれば自国の国王に即位させた。
 王権神授説。君主の権力は神から授けられた絶対のもので、教皇キリスト教会の権威や他の権力から制約されないし、領民(国民)には君主の政治・行為・発言に対し不服を持って反抗する権利はない。
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 国家と民族の成立は、日本とヨーロッパと中国・朝鮮とでは三者三様で全然違う。
 現代の日本人には、その歴史的事実が理解できない。
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 世界の開かれた王家とは、人種・民族、出自・出身、身分・家柄、血筋・血統に関係なく、個人の才能・能力・実力で即位できる事である。
 王位の正統性は、宗教で、絶対神の代理である教会による宗教由来「神と国王」の王権神授説・帝位神授説である。
 王位の正当性は、人で、憲法・法律が設置した会議による人間由来「国民と国王」の社会契約説である。
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 西洋は数多くの国に分かれて戦争を繰り返していたが西欧キリスト教カトリック教会、プロテスタント諸教会)と白人で一つであり、東方正教会とスラブ人のロシアそしてイスラム教のアラブ人・ペルシャ人・非白人と対峙していた。
 アメリカは、移民の国であり、ワスプの国であった。
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 世界の王国・帝国は、自国民でなくても他国民でも国王に即位させ、他国の女性でも自国の女王・女帝に即位させた。
 そこには、外国人に対する偏見や差別は存在しなかった。
 その意味において、日本の皇室は閉ざされた王家として世界の非常識で、人種差別・民族差別・宗教差別そして女性差別を含んでいる。
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 西洋諸王国の即位する正当必須条件とは、人種は白人、民族はゲルマン系、宗教は西欧キリスト教、職業が王族か軍人、人物・才能・能力優先で血筋・家柄・身分・階級は二の次、女性でも即位可能である。
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 イギリスの歴代国王の出身部族は、先住民ケルト人を征服したアングロ・サクソン系、ノルマン系、フランス系、スペイン系、ドイツ系であった。
 ヴィクトリア女王の共同統治者である夫アルバート公子は、ドイツ人でザクセンコーブルク=ザールフェルト公エルンスト(後のザクセンコーブルク=ゴータ公エルンスト1世)の次男。
 イギリス人のヴィクトリア女王は、インド皇帝を兼ねてインドを統治した。
 女王エリザベス2世の夫フィリップ (エディンバラ公)は、ギリシャ人(古代ギリシャ人との血の繋がりはない)でギリシャ王家の王子。
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 イングランドエドワード3世は、フランス王家カペー家の直系男児が断絶したのを好機としてフランスに領土を拡大するべく、自らの母(シャルル4世の妹イザベル)の血統(女系相続)を主張して、フィリップ6世のフランス王位継承に異を唱えた。
 フランスの貴族や領主は、フランス国王派とイギリス派に分かれて内戦を始めた。
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 百年戦争(英語: Hundred Years' War、フランス語: Guerre de Cent Ans)は、フランス王国の王位継承およびイングランド王家がフランスに有する広大な領土をめぐり、フランス王国を治めるヴァロワ朝と、イングランド王国を治めるプランタジネット朝およびランカスター朝というフランス人王朝同士の争いに、フランスの領主たちが二派に分かれて戦った内戦である。国家という概念は薄い時代であり、封建諸侯の領地争いが重なったものであったが、戦争を経て次第に国家・国民としてのアイデンティティーが形成されるに至った。現在のフランスとイギリスの国境線が決定した戦争でもある。百年戦争は19世紀初期にフランスで用いられるようになった呼称で、イギリスでも19世紀後半に慣用されるようになった。
 伝統的に1337年11月1日のエドワード3世によるフランスへの挑戦状送付から1453年10月19日のボルドー陥落までの116年間の対立状態を指すが、歴史家によっては、実際にギュイエンヌ、カンブレーにおいて戦闘が開始された1339年を開始年とする説もある。いずれにしても戦争状態は間欠的なもので、休戦が宣言された時期もあり、終始戦闘を行っていたというわけではない。だが戦争状態が続いていた。
 両国とも自国で戦費を賄うことができなかった。フランスはジェノヴァ共和国に、イングランドヴェネツィア共和国に、それぞれ外債を引き受けさせた。
 背景
 詳細は「百年戦争の背景」を参照
 百年戦争の原因は、14世紀ヨーロッパの人口、経済、そして政治の危機にある。遠因はイングランド王国プランタジネット家)とフランス王国(ヴァロワ家)とのギュイエンヌ、フランドル、スコットランドにおける対立によってもたらされた。戦争の正式な理由はカペー家の直系男児の断絶である。
 フランス王位継承問題
 百年戦争前のフランス王家の家系図
 987年のユーグ・カペー即位以来フランス国王として君臨し続けたカペー朝は、1328年、シャルル4世の死によって男子の継承者を失い、王位はシャルル4世の従兄弟にあたるヴァロワ伯フィリップに継承された。フィリップは1328年、フィリップ6世としてランスでの戴冠式を迎えたが、戴冠式に先立って、イングランドエドワード3世は自らの母(シャルル4世の妹イザベル)の血統を主張して、フィリップ6世のフランス王位継承に異を唱えた。エドワード3世は自らの王位継承権を認めさせるための特使を派遣したが、フランス諸侯を説得することができず、1329年にはフィリップ6世に対し、ギュイエンヌ公として臣下の礼を捧げて王位を認めた。
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 ロシア皇帝エカテリーナ2世は、ドイツ人でプロイセン軍少将の娘で、側近や反ピョートル勢力の貴族・軍隊・教会・その他の支持を得て宮廷クーデターを起こして夫ピョートル2世を廃帝して即位した。側近達は、後顧の憂いを断つ為にピョートル2世を幽閉先で暗殺した。
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 メキシコ皇帝マクシミリアンは、ドイツ人でオーストリアハンガリー皇帝フランツ=ヨゼフ1世の弟。
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 オーストリア皇帝は、スペイン国王を兼ねた。
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 スペイン国王は、ポルトガル国王を兼ねた。
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 フランス・平民階級出身のジャン=バティスト・ベルナドット将軍は、スウェーデンノルウェー連合王国国王に即位してカール14世ヨハンと名乗った。
 スウェーデンの政治家や国民は、フランス人国王を認め受け入れた。
 フランス・マルセイユの絹商人フランソワ・クラリーの末娘デジレ・クラリーは、ベルナドット将軍と結婚して王妃となる。
 カール14世ヨハンとクラリー王妃の王太子がオスカル1世として即位し、フランス系ベルナドッテ王朝第2代のスウェーデン国王およびノルウェー国王となった。
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 ギリシャは、15世紀以後イスラム教国オスマン帝国に支配されていたが、1829年に独立戦争に勝利し、1832年にキリスト教ギリシャ王国を建国して独立した。
 ギリシャ国会は、国王に南ドイツ・バイエルン王国を支配するヴィッテルスバッハ家出身のオソン1世を迎えた。
 ギリシャ軍は、1862年にクーデターを起こしてドイツ人オソン1世を退位させた。
 ギリシャ国会は、次の国王にデンマーク王(グリュックスブルク家)クリスチャン9世の息子ヴィルヘルムが迎えた。
 1863年 ヴィルヘルムは、ギリシャ正教に改宗してゲオルギオス1世として即位し、王妃にロシア大公女オリガ・コンスタンチノヴナを迎えた。
 男ドイツ系女ロシア系のグリュックスブルク朝ギリシャ王国は、1974年までギリシャを統治した。
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 グリュックスブルク家は、オルデンブルク家の流れを汲む由緒ある名家で、現在のデンマーク王国ノルウェー王国の王家で、一族からはギリシャ国王も出している。
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 オルデンブルク朝は、1448年から1863年まで続いた、デンマークを中心とした北欧の王朝で、祖先はドイツ・ニーダーザクセン州オルデンブルクの出身であった。
 オルデンブルク伯エギルマール1世(1108年没)はザクセン公家の家臣であったが、1180年に独立した。
 オルデンブルク家は、13世紀に同家はオルデンブルク伯系とデルメンホルスト伯系に分かれたが、15世紀前半のオルデンブルク伯ディートリヒがデルメンホルスト伯の女相続人アデルハイトと結婚し、デルメンホルスト伯領は本家に復帰した。
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