👠8:─2─国連女性差別撤廃委員会はローマ教皇即位での男性優位の絶対3条件に反対しない。~No.13 

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 マザー・テレサなどの敬虔で有徳なキリスト教の女性信者を、ローマ教皇に就任させないのは女性差別である。
 そもそも、枢機卿や教区の監督官である大司教には女性がいないし、教会の司祭には女性が少ない。
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 歴史的な普遍宗教の宗教指導者には女性はいない。
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 日本の天皇に、男系父系女性皇族が即位していた。
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 レオ14世(ラテン語: Leo XIV, 英語: Leo XIV, イタリア語: Leone XIV, 1955年9月14日 - )は、第267代ローマ教皇(在位: 2025年5月8日 - )。出生名、ロバート・フランシス・プレヴォスト(英: Robert Francis Prevost)。2025年ローマ教皇選挙(コンクラーヴェ)において、4回目の投票で教皇に選出され、同年5月8日よりカトリック教会の首長およびバチカン市国の元首を務めている。アメリカ合衆国出身だが、2015年にペルーの国籍も取得しており、アメリカ合衆国・北米出身者そしてペルー市民としては初めての教皇である。聖アウグスチノ修道会(アウグスチノ会)出身としても初めての教皇となった。
 英語、スペイン語、イタリア語、フランス語、ポルトガル語を話し、ラテン語とドイツ語を読むことができる。
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 ローマ教皇になるには?
 一般人でもなれる?世界最高位の宗教指導者への道
 カトリック教会の頂点に立つ「ローマ教皇(Pope)」。
 その存在は、世界中の信徒たちにとって精神的な支柱であり、また世界的にも影響力のあるリーダーです。
 では、そんなローマ教皇になるには、一体どのような道のりを歩む必要があるのでしょうか?
 この記事では、その条件やプロセスを詳しく解説していきます。
 そもそもローマ教皇とは?
 ローマ教皇は、カトリック教会の最高指導者であり、バチカン市国国家元首でもあります。
 正式には「ローマ司教」とも呼ばれ、聖ペトロ(イエス・キリストの弟子)を初代とする、2000年以上続く伝統の継承者です。
 カトリック教徒にとって、教皇は「キリストの代理人」とされ、その言動は極めて大きな重みを持ちます。
 ローマ教皇になるための条件
 意外に思われるかもしれませんが、ローマ教皇になるための明確な「法的資格」は驚くほど少ないのです。
 基本的な条件は以下の通りです。
✝️ カトリック教徒であること
✝️ 男性であること
✝️ 洗礼を受けていること
 この3点だけが絶対条件です。
 つまり、理論上は司祭でも司教でもない一般のカトリック男性でも選ばれる可能性はあります。
 ただし、実際には次のような人が対象になります。
 枢機卿(カーディナル)であることがほとんど
 教皇選挙(コンクラーベ)で投票権を持つのは80歳未満の枢機卿たちです。
そして通常、枢機卿団の中から新教皇が選ばれます。
 豊かな神学的知識とリーダーシップを持つ人物
 敬虔な信仰心と道徳的人格を備えている人物
 つまり、形式上の「資格」は緩やかでも、実際には厳しい精神性と実績が求められます。
 ローマ教皇になるまでの道のり
1. 司祭になる
 カトリック教会の中でまず「司祭(神父)」になる必要があります。
司祭になるには、神学校で長年の厳しい神学・哲学の教育を受けた後、司祭叙階を受けます。
2. 司教・大司教へ昇格
 司祭として卓越した働きを認められた場合、司教に任命される可能性があります。
さらに重要な教区(大都市など)を担当する大司教に昇格するケースもあります。
3. 枢機卿(カーディナル)に任命される
 教皇によって特別に選ばれ、枢機卿に任命されることが、次のステップです。
枢機卿になると、バチカンの重要ポストや世界中の教区を指導する立場となり、教皇選挙にも参加できるようになります。
4. コンクラーベで選出される
 前任の教皇崩御または辞任した際に行われる「コンクラーベ教皇選挙)」で、新教皇が選ばれます。
 コンクラーベでは、枢機卿たちが密室にこもり、投票を繰り返します。
 3分の2以上の得票が必要
 白い煙(ハビエムス・パーパム)が上がれば、選出完了
 選ばれた人物が教皇名を選び、新たなローマ教皇として即位します。
 教皇に選ばれた後に行うこと
 選ばれた新教皇は、次のような手続きを行います。
 新しい教皇名(例えば「フランシスコ」)を自ら決める
 信徒に向けて、バチカンサン・ピエトロ大聖堂のバルコニーから「ウルビ・エト・オ ルビ(ローマと全世界へ)」の祝福を与える
 その後、公式な就任ミサ(戴冠式に代わるミサ)が行われる
 これで正式にローマ教皇としての任務が始まるのです。
 一般人がローマ教皇を目指すには?
 ローマ教皇カトリック教会の最高指導者。
 一見、特別な家系や聖職者だけがなれるように思われますが、**形式上は「カトリック男性で洗礼を受けていること」**だけが条件です。
 では、もし一般人が「ローマ教皇になりたい!」と本気で志した場合、どんな道を歩むことになるのでしょうか?
 あえて真剣に、その「奇跡への道筋」を解説してみます。
ステップ1:まずカトリック信者になる
🔹洗礼を受けていないなら、まずカトリックに改宗する必要があります。
 洗礼を受け、正式なカトリック信者となる
 教義を学び、信仰を深める
 地元教会に通い、積極的に活動する
 ※カトリックでは、洗礼、堅信、聖体拝領などの「秘跡」を正しく受ける必要がありま
す。
 ステップ2:神学校に進学し、司祭を目指す
🔹信者になっただけでは教皇選出の現実的な対象になりません。司祭への道が不可欠です。
 神学校に入学する(通常は哲学・神学を専攻)
 4〜8年程度の厳しい宗教教育を受ける
 規律正しい生活を続け、司祭叙階(任命)を受ける
 ここまででも、かなりの精神力と努力が求められます。
 ステップ3:司教→大司教へ昇進する
🔹司祭になった後、さらに教会内で高い地位を目指します。
 司教に任命される(教区の長)
 大都市などの重要教区を担当する「大司教」になる
 教会運営だけでなく、神学的な発信力、国際的な人脈を築く
 ※この昇進は実力・人格・運のすべてが絡む、非常に狭き門です。
 ステップ4:枢機卿に選ばれる
🔹教皇選挙に参加できる立場、「枢機卿」になることが最大の目標になります。
 教皇に認められて、枢機卿に任命される
 バチカンでの重責を担う、あるいは世界の重要教区を統括する
 ここまで来れば、「教皇候補」として名前が挙がる可能性も現実味を帯びてきます。
 ステップ5:コンクラーベで選出される
🔹枢機卿団による教皇選挙(コンクラーベ)で選ばれる瞬間を待ちます。
 人柄、信仰、リーダーシップ、国際的バランスなどが考慮される
 多数決ではなく、3分の2以上の得票が必要
 最後は、神の導きと仲間の信任に身を委ねる
 選ばれた瞬間、あなたは世界中のカトリック教徒13億人の精神的リーダーとなります。
 まとめ:一般人でも「絶対不可能」ではない
 カトリック男性であり
 洗礼を受け、司祭として活動し
 長い年月をかけて司教→大司教枢機卿へ昇進し
 そのうえでコンクラーベで選出される
 という、何十年にも及ぶ壮大なプロセスを経れば、理論上は一般人からでも教皇になることは可能です。
 ただし、
🌟 卓越した信仰心
🌟 圧倒的な人格とリーダーシップ
🌟 世界情勢に対する深い理解
🌟 仲間からの絶大な信頼
 などがすべて必要です。
 「奇跡」という言葉が、これほどふさわしい挑戦もないかもしれません。
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 国連女性差別撤廃委員会は、日本天皇の男系父系即位に反対するが、キリスト教の洗礼を受けたキリスト教徒男性のみがローマ教皇に即位する事に反対しない。
 同様に、日本人のエセ保守、リベラル左派そして過激派も天皇に反対しても教皇には反対しない。
 そうした日本人は、メディア業界や教育現場に多く存在し、心を持たないイデオロギー人として、北朝鮮による日本人拉致事件を否定し日本の公安による陰謀と非難して、北朝鮮を擁護し、拉致被害者を日本に生還させて事件を解決する事に協力しない。
 彼らこそ、反宗教無神論・反天皇反民族反日的日本人である。
 過激な左派活動家は、日本を滅ぼすべく、反天皇反日的な国際機関を巧妙に利用している。
 日本国内で、正当女系母系天皇賛成派が増え正統男系父系天皇賛成派が減ってきている、特に超難関校出の高学歴な政治的エリートと進歩的インテリ達に増加している。
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 http://960k.blog47.fc2.com>blog-entry-116
 誰でもなれる?ローマ法王のなり方
 2013年02月15日03:19 ■好奇心と雑学 写真あり
 ローマ法王
 世界のカトリック教徒の指導者、ローマ法王(=ローマ教皇ベネディクト16世が、今年2013年2月28日に退位すると発表されました。
 退位後の後継者選出までは、ローマ法王の地位は空白になります。
 その選出会議を「コンクラーベラテン語: Conclave)意味:鍵がかかった」と呼び、選出権を持つ枢機卿団システィーナ礼拝堂に篭って後継者を決めます。
 昔は満場一致で決定するまで礼拝堂から一歩も出られない慣わしでしたが、2005年に改定され、現在は聖マルタ館という宿舎で生活しながら礼拝堂に通うようになっています。
 そこで気になったのが、ローマ法王って一体どんな条件で選ばれるのか。
 ローマ法王って誰でもなれるの?どうやってなるの?
 新たな進路が開けるかもしれないので、ローマ法王のなり方を調べてみました。
 聖ペトロ
 初代ローマ法王は、イエスキリストの最初の弟子ペトロとされています。
 ペトロはイエスキリストから「天国の鍵」を授かり、その権威を継承しているのがローマ法王です。
 ローマ法王は、ローマのバチカン市国という世界最小の主権国家のトップになります。そこが世界中のカトリック教会を統括しているのですが、ローマ教皇庁という組織が運営を担っています。
 教会管理や人事、財産管理などを受け持つ各省があり、その長官である高級行政官が「枢機卿」と呼ばれています。そしてこの「枢機卿」達が、自分達の中からローマ法王を選びます。
 予言ができるとか、水の上を歩けるという能力は関係ないようです。
 ローマ法王を目指す最も重要な条件は、男であること。
 それをクリアしている人は、教会に行って洗礼を受けてください。
 そして神学校で学び、司祭になると町の教会で信仰・布教に勤しみます。
 そこでの実績と神学の研究と論文が認められれば、司祭から司教へ。
 担当する地域のトップになれば大司教です。
 病気を治せるとか、水をワインに換えるという能力は関係ないようです。
 大司教にまでなるとバチカン会議などの重要な場にも出席できるようになります。
 ローマ教皇庁に功績が認められると「枢機卿」に命じられます。
 ヨーロッパ圏内なら司教でもかなりの権威があるので、司教から枢機卿に任命されることが多いようです。
 ここまできて一応はローマ法王になる権利が得られます。
 当然ですがローマ法王に求められるのは聖書にあるような奇跡を起こせる能力ではなく、巨大な組織を統括し、守り継ぐのに相応しい立派な人格者だということです。
 ものすごく省略しましたが、どうやら想像以上の超絶難関エリートコースです。
 日本人で「枢機卿」になった人は過去に5人だけとか。
 日本国内での神学校は「日本カトリック神学院」というところで、22歳以上の独身男性が入学条件。そこで6年学ぶと司祭になれます。上智大学カトリック神学部というのもあるようです。
 目指す方はそちらで詳しくお話を伺ってみてはいかがでしょうか。
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 第一テモテ2章12節
 「私は個人的には、女性が「男性(人類全体を含む)」を教えたり、それに対して節度のない権威を主張する(横暴に支配する・指図する・命令を出す・威張り散らす・不当に権威を振るう・支配する)のを認めるわけにはいかない。」
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 コリント 11章
 3-5 全ての男性の頭はキリストであり、女性の頭は男性であり、キリストの頭は神であるということを、あなた方に知って欲しい。
 9-10 頭にかぶりながら祈りをしたり預言をしたりする全ての男は彼の頭を侮辱する。しかし、頭に覆いにかけないで祈りをしたり預言をしたりする全ての女は、彼女の頭を侮辱する。なぜならば、彼女は髪を剃られてしまった女性と全く選ぶところのないものだからである。
 コリント
 14:34~36 婦人たちは教会では黙っていなければならない。婦人らは語ることが許されていない。だから、律法も命じているように、服従すべきである。もし何か学びたいことがあれば、家で自分の夫に尋ねるがよい。教会で語るのは、婦人にとっては恥ずべきことである。
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 学校法人上智学院
 カトリックイエズス会センター
 カトリック教会で女性が聖職者になれないというのは、女性蔑視ではないでしょうか。
この質問には、いささか心苦しいですね。現代では世界の各地でフェミニズムとか女性解放運動とかが声高に叫ばれ、女性が社会のさまざまな分野で活躍するようになりました。特定の地位や役割が女性に開かれていないということは、時代遅れのように見えます。
では、なぜカトリック教会では聖職者を男性に限るのでしょう。これは、多分に歴史のなりゆきでそうなったのだ、と言ってもよいと思います。
 もともとイエスは、当時のユダヤ社会では異様に思われるほど、女性を大切にしました。ユダヤ教の教師たちとは違って、女性を弟子にしましたし、女性は献身的にイエスの宣教活動に協力しました。福音書を読みますと、イエスが捕らえられたとき男の弟子たちは逃げてしまったのに、女性たちは十字架の下にまでつき従ったと言われています。また復活の朝、イエスは栄光の姿をまず女性たちに現します。イエスの女性へのかかわり方は、当時の世界では、いわば革命的なほどに進歩的だったと言えます。
 そして、このイエスの生きざまを反映して、原始のキリスト教の教会では、女性が活躍していました。パウロの宣教活動にも女性の協力者たちの役割は大きかったし、あちこちのキリスト者の共同体で、女性たちが教師とか預言者などの役職についていたようです。もちろん、これはカリスマによる役職であって、法制化された制度であったわけではありません。
 後の教会が原始の教会の精神をずっと保っていたとしたら、教会の歴史はまったく違った発展を見たことでしょう。でも私が思うには、あのヘレニズム世界の中で教会が発展していくには、よきにつけあしきにつけ、その社会の考え方や慣習を受けとらざるをえなかったのではないでしょうか。だいたい二世紀の半ばには、司教、司祭、助祭という三段階の職制がしだいに教会内に定着していきました。そして、制度としての役職は、その当時の風習から当然に、男性に限られていました。
 そのようなわけで、教会の制度というのは多分に歴史の偶然がつくってきた面があります。聖職者が男性に限られるというのは、永遠に不変の神定法によるわけではないし、司祭職の本質を神学的に考えるとき、これが男性でなければならないという必然性はないと思います。現に聖公会プロテスタントの諸教会では、女性の司祭や牧師がりっぱに活躍しています。カトリック教会は非常に伝統を重んじる教会ですから、一朝一夕には、これまでの習慣を変えるわけにはいかないでしょう。でも、将来はどうなるでしょうか。あんがい近いうちに変革が起こるかもしれません。
 ただ現実的には、私は日本の教会では、もっともっと女性たちが自覚してほしいと思います。確かに信徒の人数から見て圧倒的に女性の方が多いし、その中には指導的な立場にある方々も少なくありません。特にシスターたちはさまざまな福音宣教の場で男性以上に活躍しています。でも、未来の教会を方向づけるために欠かせない神学の分野について言えば、女性の活躍はほとんど見られません。これまでの教会の伝統がそうさせてしまったのでしょうか。神学講座などに通う女性は多くても、そこからもう一歩先まで進んで、たとえば学会に参加したり、学術的なレベルの神学研究や教育にたずさわる女性はごくまれです。これは、残念でしかたありません。とにかく教会の改革には、まず内部からの意識変革がなければならないと思います。
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 末日聖徒イエス・キリスト教会
 教義の研究
 教会における女性
 概要
 女性は幸福の計画に欠かせない存在であり,女性なしにその計画を進めることはできません。女性は救いの業に参画します。救いの業には,伝道活動,改宗者の定着,教会にあまり活発でない会員の再活発化,神殿および家族歴史活動,福音の教授,および貧しい人や助けの必要な人の世話をすることが含まれます。教会のすべての女性には,イエス・キリストの弟子として,女性の神聖な役割を知り,それを擁護する責任が与えられています。妻や母,娘,姉妹,おば,友人などとしての神聖な役割です。女性は信仰において,家庭において,そして慰めを与えることにおいて,力強く立ち,揺るぎません。女性は全世界で,会員の活動を監督する評議会に出席しています。女性は神から授かった特質ゆえに,家庭や子供に対して,また,家庭やその他の場所で人を養うことに対して,賜物と責任が男性より大きいのです。
 末日聖徒イエス・キリスト教会の女性は扶助協会に所属し,扶助協会の指導者として奉仕します。女性はまた,12歳から18歳までの少女のための組織である「若い女性」と,1歳半から11歳までのすべての子供のための組織である「初等協会」で奉仕し,指導します。女性は,日曜学校の教師も務めます。女性は教会の集会で祈る機会を与えられますし,教会が地元で行う集会や中央で行う集会で話者を務める機会も与えられます。
 女性が扶助協会や若い女性,初等恊会で会長として奉仕する際には,評議会に出席し,所属する教会ユニットの会員に関する様々な決定に関与します。
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 メモの作成
 関連トピックス
 わたしの王国の娘
 伝道活動
 親の務め
 神権
 初等協会
 扶助協会
 救い
 聖文
 参照聖句
 使徒9:36-40
 ローマ16:1-2
 教義と聖約25:1
 教義と聖約88:125
 聖文研究のリソース
 『聖句ガイド』「女」の項
 教会指導者からのメッセージ
 ラッセル・M・ネルソン大管長
 姉妹たちへの懇願
 ラッセル・・ネルソン大管長
 ヘンリー・アイリング管長
 聖約の娘たち
 ヘンリー・アイリング管長
 ディーターウークトドルフ管長
 義にかなった女性の影響力
 ディーター・ウークトドルフ管長
 ジュリー・ベック
 末日聖徒の女性が秀でている事柄—力強く確固として立つ
 ジュリー・>ベック
 リンダ バートン
 ともに高め合いましょう
 リンダ・バートン
 ボニー・L・オスカーソン
 姉妹のきずな—わたしたちは何と互いを必要としていることでしょう
 ボニー・オスカーソン
 そのほかのメッセージ
 学習リソース
 教会機関誌
 「モルモン書ヒーロー—モルモン書の中の女性のヒーロー」『リアホナ』2016年10月号
 学習用手引き
 『わたしに従ってきなさい—個人と家族用 2019年』
 9月2-8日:1コリント14-16章
 『わたしに従ってきなさい—個人と家族用:新約聖書 2019年』
 歴代大管長の教え
 『歴代大管長の教え—ブリガム・ヤング』
 「扶助協会と個人の責任」
 『歴代大管長の教え—ブリガム・ヤング』第19章
 『歴代大管長の教え—ロレンゾ・スノー』
 「扶助協会—真実の慈愛と清い信心」
 『歴代大管長の教え—ロレンゾ・スノー』第13章
 『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』
 「母親の影響力」
 『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』第4章
 『歴代大管長の教え—ハロルド・リー』
 「母親の義にかなった影響力」
 『歴代大管長の教え—ハロルド・・リー』第15章
 『歴代大管長の教え―スペンサーキンボール』
 「教会の女性」
 『歴代大管長の教え―スペンサー・キンボール』第20章
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 宗教法人 カトリック中央協議会
 コンクラーベ(Conclave、教皇選挙)とは?
 教皇の死後(辞任後)、15日~20日の間に開かれます。
 選挙権は80歳未満の枢機卿で、定員は120人となっています(最新版、選挙権を有する枢機卿リストはこちら[教皇庁サイト・英語版])。
 会場は使徒宮殿内の、ミケランジェロの「最後の審判」で有名なシスティーナ礼拝堂
 「コンクラーベ」ということばは、ラテン語に由来します。ラテン語のクム(ともに、一緒に、の意味)と、クラービス(鍵、キーの意味)が一つの語になっているのです。直訳すれば、「鍵とともに」。なぜそういうのでしょう。
 ローマ時代の雄弁家キケロは、「秘密の場所、あるいは建物の立ち入り禁止の場所」を指して「コンクラーベ」と言っています。教会では教皇選挙が行われる場所と選挙者の集団を指しています。
 コンクラーベという用語が教会に取り入れられたのは、1268年、イタリアのビテルボで行われた教皇選挙の時からというのが通説です。教皇クレメンス四世はビテルボで没し、ここでコンクラーベが行われました。有権者は18人でしたが、イタリア派とフランス派に分かれて、3年間空位が続きました。
 数カ月経っても合意がないので、当時のフランシスコ会の総長、聖ボナベントゥラの勧めで、ビテルボの人たちは枢機卿たちを宮殿に閉じ込め、鍵を閉めて、外部との関係をいっさい絶たせ、食料もパンと水だけを供給し、武装した人たちで城を囲ませ、他の食事を運び込ませんでした。その結果、1271年9月、6人の枢機卿の妥協による選挙によって、イタリア人の教皇グレゴリオ十世が選ばれました。その後、使徒空位期間を長引かせないため、グレゴリオ十世は、教皇選挙の規則を作ったのです。
 現在の教皇選挙(コンクラーベ)の規定は、教皇ヨハネ・パウロ二世使徒憲章『ウニベルシ・ドミニチ・グレジス−−使徒空位教皇選挙について(1996年2月22日)』[英語版全文]をもとに、教皇ベネディクト十六世による自発教令、『ローマ教皇選挙の規定の一部改正について(2007年6月9日)』[仏語版全文]と、自発教令の形式による使徒的書簡『ノルマス・ノンヌラス−−ローマ教皇選挙に関するいくつかの規則の変更について(2013年2月22日)』[英語版全文]による改訂が加えられています。選挙は以下の手順で進められます。
 教皇選挙(コンクラーベ)は、前教皇の死去ないし退位により教皇空位が生じてから、丸15日が過ぎてから開催されます(第37条)。これは、教皇選挙権を有する枢機卿全員がローマに到着するのを待つためです。ただし、全枢機卿が揃った場合、枢機卿団教皇選挙の開始をこれより早めることができます。また、重大な理由がある場合には15日から数日延ばすことができますが、20日を過ぎたら選挙手続きに入らなければなりません。この規定に従って定められた教皇選挙の開催日程に選挙権をもつ枢機卿が集まり、ミサをもって教皇選挙が始まります(第49条)。
 コンクラーベ教皇が選ばれるには、投票総数の3分の2以上の得票を得ることが必要です(第62条)。
 投票は初日午後に1回行われ、この投票で決まらなければ続く2日に、午前・午後2回ずつ行うことができます(第63条)。
 3日間の投票で決まらない場合は、最大1日の祈りの期間をおいてから、同じ手順で選挙をし、7回の投票をしても決まらなければまた1日おいて7回行います。それでも決まらない場合、また1日おいて7回行われます(第74条)。それでも決まらなければ、1日の祈り、考察、対話の期間をおいてから、前回の投票における上位2人の得票者について決選投票を行い、投票総数の3分の2以上の得票を得た人が選出されたこととなります。なお、この2人は決選投票には加わりません(第75条)。
 コンクラーベ教皇が選出され、被選出者が教皇となることを同意したときに終了します(第91条)。
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 5月9日 YAHOO!JAPANニュース リアルサウンド「『教皇選挙』と現実のコンクラーベを比較検証 新教皇・レオ14世は“ベリーニ枢機卿”に近い?
 『教皇選挙』©2024 Conclave Distribution, LLC.
 バチカン市国に位置するシスティーナ礼拝堂の煙突から白い煙がのぼり、サン・マルコ広場が歓声に包まれる。日本時間5月9日午前1時過ぎにアメリカ出身のロバート・フランシス・プレボスト枢機卿が、新教皇・レオ14世として即位することが発表された。
 【写真】レイフ・ファインズ演じるローレンス枢機卿
 日本では教皇を決定する秘密選挙、コンクラーベを題材とした映画『教皇選挙』の興行収入が7億円を突破し、ゴールデンウィークには満席が続いた盛況っぷりである。第97回アカデミー賞で脚色賞を受賞し、コアな映画ファン層を中心に人気を集めていた本作であったが、フランシスコ前教皇の逝去し、12年ぶりとなるコンクラーベが開催に。現実とフィクションがリンクしたことで、さらに客足を伸ばしたと言えよう。そのような状況下で開催されたコンクラーベとあって、日本国内での注目度も大いに高まった。
 映画評論家の小野寺系氏は、今回のコンクラーベに対し、「過去数回のコンクラーベでは今回同様2日から3日ほどで教皇が決まっており、早期決戦がトレンドになってきているのかなと感じました。その一方で、教皇がプレボスト氏に決まったという点には少し驚きました」と所感を述べる。
 ※以下、映画『教皇選挙』のネタバレを含みます
 「アメリカという超大国の出身者から教皇を選出するのはどうかという問題意識が、各国の枢機卿の間にあるではないかという予想もありました。ただ、今回選出されたプレボスト氏は80年代頃から何度もペルーで布教活動をされており、どちらの国籍も持っています。アメリカ人としての印象が薄いという面では選びやすかったのかもしれません。プレボスト氏は、映画『教皇選挙』でリベラル派の人物として登場したベリーニ枢機卿のイメージに重なる部分が多いです。プレボスト氏は基本的にはリベラルで、フランシスコ前教皇の遺志を継ぐのではないかと推測されている一方で、過激な改革派ではなく、バランス感覚のある人物として知られています。保守派からも支持を得やすい存在だったのではないでしょうか」
 アメリカとローマ教皇というと、先日トランプ大統領SNSローマ教皇に扮した自身のコラージュ画像を投稿したことで話題になった。アメリカ人初となる教皇の誕生はトランプ政権をさらにに勢いづかせるものになるのでは、という推測に対し、小野寺氏は以下のように論じた。
 「プレボスト氏は、2025年2月、アメリカのヴァンス副大統領をSNS上で批判していました。アメリカから初の教皇が選出されたということで、ある程度は国民も盛り上がりそうですが、トランプ政権としては冷や水を浴びせられた感覚かもしれません。もしかしたら今回プレボスト氏に投票した枢機卿たちが、アメリカの政治状況を頭に浮かべていた可能性はありますよね。とはいえ、そもそもコンクラーベは、神が人の心に働きかける力だと言われている「聖霊」が枢機卿数たちに囁きかけ、そのインスピレーションを与え、その囁きを基に教皇を選ぶというのが前提だと言われています。政治的な方向性以外に、宗教的な性質も含んでいるところが、コンクラーベが一般的な選挙とは違う面白い点ですし、意外な結果が生まれやすい理由なのかと思います」
 そして、実際のコンクラーベを経たことで、『教皇選挙』のリアリティが浮き彫りになったと小野寺氏は語る。
 「コンクラーベ自体は秘密選挙なので、礼拝堂の中で実際に何が起きているかを知ることはできませんが、『教皇選挙』は、私たちが知り得る範囲では非常に忠実に描かれていたと思います。外部から確認できる場面、例えば煙の色で教皇選出を知らせる場面などは、ほぼ現実と同じように再現されています。ただ、屋外の撮影はバチカンではなく、ローマ市内の別の建物で行われ、礼拝堂内部の場面に関しては、チネチッタ撮影所で敢行されました。こちらは手に入る情報などを基に再現されていますが、美術監督も『厳密さよりも映画的な迫力を優先した』と語っていたように、やや映画的な意匠が加わっています。また、コンクラーベの参加にあたり、枢機卿たちが、予習として『教皇選挙』を鑑賞していたとの報道もありました。(※)驚きもありますが、よく考えれば納得できる気もします。というのも、教皇の在位は政治家の任期に比べて長く、回数が限られているため、参加経験のある人は限られています。しかも秘密選挙ですから、位の高い聖職者であっても、参加者以外は詳細を知ることができないのだと思われます。。だから、映画のようなフィクションであっても、そういった映像を参考にして概要をつかむしかないというのが、正直なところだったのではないでしょうか」
 最後に、コンクラーベと『教皇選挙』を踏まえたうえで、今回の選挙の争点にもなったカトリック内部における分断を小野寺氏はこのように分析した。
 「そもそも同じ神を信じているのに、なぜ保守派とリベラル派という対立軸が生じるのかという疑問もあるかと思います。争点の一つとなっているのは、性的マイノリティに関してです。前教皇は『同性愛者も神の子』という発言にもあったように、彼らも祝福を受けるべきだと主張していました。カトリックは聖書に則っていますが、新約聖書にはマグダラのマリアをはじめとして、社会から疎外されている人々や貧しい人を慈しむべきだという博愛の精神が説かれています。その考えに基づくのであれば、性的マイノリティを認めるべきだというのが、前教皇をはじめとしたリベラル派の意見でした。一方で、旧約聖書の『レビ記』には同性愛を禁じる記述があり、新約聖書では同性愛に関してはっきりと明言されていない以上、そちらの記述を尊重すべきだというのが、一部の保守派のロジックだと考えられます。さらに保守派の主張を掘り下げると、神学者トマス・アクィナスの言葉を根拠としている部分もあります。アクィナスは『神が人間に与えた肉体は自然の摂理に適うものであり、その摂理から逸脱する行為は神の意志に反している』という主旨の考えを述べており、それが性的指向の多様性に基づく営みを否定する根拠になっていました。『教皇選挙』も現実世界と同様に保守派とリベラル派の対立が描かれていましたが、最終的に教皇となった枢機卿による『この体も神がお創りになったもの』という台詞は、この「神が創った自然」という、保守派が強調する概念を逆に利用した、強烈なカウンターなのです」
 奇しくも現実世界と重なり、実際のコンクラーベに参加する枢機卿たちの“参考書”にもなった『教皇選挙』。現実世界のコンクラーベを見届けた今だからこそ劇場で観直すと、また新たな発見があるかもしれない。
 参照
 ※ https://hollywoodreporter.jp/movies/109407/
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 2019年10月13日 東洋経済ONLNE「「神を祀る存在」天皇ローマ教皇の決定的違い
 長い歴史の中で確立された天皇の歴史
 宇山 卓栄 : 著作家
 『古事記』や『日本書紀』といった最古の歴史書から、天皇のルーツをひもときます(写真:うぞいけ/PIXTA
 新天皇陛下が即位され、令和の時代が幕を開けて、あっという間に5カ月が過ぎました。
 初代の神武天皇から数えて、第126代天皇となります。天皇家の始祖は天照大神アマテラスオオミカミ)とされます。天皇は神ではありませんが、「神の子孫」という神話を包摂する存在です。神話を信じるかどうかは信仰の問題ですが、神話のストーリーが天皇家発祥に結び付けられていること自体は事実です。
 天皇と日本神話
 『古事記』によると、天照大神は数多くの自然神の中での最高神である太陽神です。天照大神の孫のニニギノミコトは大神に、地上を統治するように命令されて、降り立ちます。これを「天孫降臨」といいます。
 そして、ニニギノミコトの曾孫が神武天皇です。神武天皇は紀元前660年に即位したとされますが、『古事記』や『日本書紀』を典拠とする、この時代の十数代の初期天皇は、実在が疑われています。天皇として実在したのは、紀元前97年に即位した第10代崇神天皇から、または、270年に即位した第15代応神天皇から、それよりももっと後の時代とする説があります。
 初期天皇の実在・非実在を証明することは困難ですが、先祖が神様であるという文脈を天皇家が背負っていることは事実であり、その文脈(本当かどうかは別として)とともに、血統を守り、126代もの天皇を脈々と受け継いできました。天皇は人として生まれながら、神に最も近い存在と歴史上、見なされてきました。
 天皇は神に国家の繁栄と国民の幸福を祈る最高祭祀者で、神と人間との接点に成りうる存在として信仰され、継承することが最重要課題とされます。
 天皇即位後、はじめて行われる新嘗祭(にいなめさい)、継承の儀式が大嘗祭(だいじょうさい)です。11月14日の夜から明け方に執り行われる予定です。
灯明に照らされた神座のある内営に天皇だけが入り、皇祖の天照大神をはじめ神々に祈りを捧げます。その年に収穫された新穀を神々に供え、天皇自らも食べ、五穀豊穣と国家国民の安寧を祈ります。
 このように、天照大神の霊統を継ぐと信仰される天皇は人間世界を代表して、神を祀る存在、つまり最高祭祀者、あるいは祭祀王と見なされます。
 天皇は本当に教皇に近い存在なのか?
 最高祭祀者といえば、世界的に有名なのはローマ教皇天皇はその立ち位置に近いとされることがあります。
 ローマ教皇カトリック教会の最高祭祀者である点で、確かに天皇と共通点があります。しかし、根本的に両者はその内実において、異なる存在です。
 まず、教皇位の継承は天皇と違い、世襲ではありません。各地のカトリック教会を代表する枢機卿(カーディナル)たちが「コンクラーベ」(ラテン語の「鍵がかけられた」の意)という選出会に集まり、外部と隔離された状態で、教皇を選挙します。
 天皇は神の子孫とされ、世襲です(繰り返しますが、本当に神どうかは別として)。教皇は神の子孫でもなく、神の子なるイエス・キリストの子孫でもありません。教皇はローマ・カトリック教会の主座であり、キリストの12使徒の1人ペトロの後継者です。
 キリストの死後、ペトロがローマにやってきて、この地に教会を開きました。当初、ローマ帝国の迫害を受けながらも、ローマ教会は信徒により守られ、発展していきます。ローマ帝国が4世紀にキリスト教を公認して以降、ローマ教会の地位が確立し、その主座である教皇の地位も認知されました。教皇使徒ペトロに由来する特別な起源を持つことから、キリスト教世界の指導者となります。
 5世紀半ばの教皇レオ1世は「自分の声はペトロの声である」と述べ、使徒代理人ラテン語:Vicariusウィカリウス)を自認します。さらに、同世紀末には、キリストの代理人を自称するようにもなります。こうして、教皇の位は歴代引き継がれ、今日まで続きます。
 神の子孫とされる天皇位が世襲によって引き継がれるべきものであるのに対して、イエス使徒代理人とされる教皇世襲によって引き継ぐべき神性を持ちません。代理人代理人でしかなく、有徳者でありさえすれば、赤の他人でもよいということです。祭祀王=プリーストキングという言葉のイメージから、天皇教皇に例えられることが多いのですが、「神の子孫」と「代理人」は自ずと異なる存在です。
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 2019年1月1日 東洋経済ONLNE「皇室を葬った中国と、守った日本の大きな差
 宇山 卓栄 : 著作家
 平成が終わる今こそ、日本の皇室の意義や歴史を振り返ってみてはどうでしょうか(写真:i-flower/PIXTA
 2019年4月30日に天皇陛下が譲位、5月1日には皇太子さまが即位され、改元が行われます。平成の終わりに、皇室の意義や歴史について考える機会がある人が増えているのではないでしょうか。
 歴史上、世界各国の多くの皇室(帝室)や王室は悲惨な終わり方をしています。国民や外敵に追放されたり、処刑されたりしました。世界の王朝が頻繁に変わるなかで、日本の皇室だけが万世一系を維持し、天皇は今日、世界に唯一残る「皇帝(emperor)」となっています。その存在は「世界史の奇跡」と言えます。
 清王朝の末期、隣国の中国は日本と同じように、皇室を残し、立憲君主制の下、近代化を進めようとしました。しかし、それは失敗しました。いち早く近代化に成功した日本では、皇室が大きな役割を果たしましたが、中国では、皇室が近代化の障害になると見なされました。この違いは、いったい何でしょうか?
 なぜ、孫文立憲君主制を認めなかったのか
 19世紀末から20世紀初頭、中国では近代化の方法を巡り、立憲派(皇室を残す)と革命派(皇室を残さない)が争いました。
 立憲派の代表は康有為や梁啓超清王朝の官僚たちで、彼らは当時の中国で、共和制や民主主義を行えば大混乱に陥り、列強の餌食となってしまうので、皇帝制を維持しながら改革を進めていくことを主張しました。彼らは日本やヨーロッパのように、中国にも立憲君主制を根付かせようとしたのです。
 革命派の代表は孫文と黄興です。彼らは、清王朝の体制のなかから近代化を行うことは不可能と考え、清を打倒しなければならないと考えました。孫文ら革命派は民族資本家と呼ばれるブルジョワ階級を主な勢力基盤としていました。20世紀に入ると中国でも工業化が進み、ブルジョワ階級が育ちます。孫文は国内の民族資本家や華僑(外国で成功していた民族資本家)の勢力を結集し、革命運動の原動力とします。
 民族資本家たちは、清王朝から特権を保証されていた封建諸侯と、利害関係において激しく対立しました。封建諸侯は領土を独占し、民族資本家の商工業にも不当に介入し、税などを巻き上げていました。封建諸侯によって支えられていたのが清王朝であったので、孫文ら革命派・民族資本の勢力にとって、清を倒すことは商工業の自由を獲得するために欠かせないことでした。
 清は末期症状のなか、極端な財政難に耐えられず、1911年、幹線鉄道を国有化し、鉄道を保有する民族資本家からこれを没収して財政不足に充てるという強硬手段に出ます。民族資本家は清に怒りを爆発させ、四川で暴動、武昌で蜂起し、辛亥革命となります。彼らは南部地域一帯で、清からの独立を宣言し、南京で孫文を臨時大総統に選出して、中華民国を建国しました。
 2100年続いた中国皇帝制は終わった
 しかし、清王朝袁世凱内閣総理大臣に任命し、革命の鎮圧を命じます。中国北部で軍事力を有していた地方豪族の軍閥という勢力があり、袁世凱はこの軍閥の領袖でした。彼は大軍を率いて、南京にやってきます。
 袁世凱は清の体制内部の要人でありながら、清の命運は長く持たないと考え、新しい中華民国の総統になるほうが得策と判断し、革命派と取引します。袁世凱は「私が清の皇帝を退位させることを条件に、私を中華民国の大総統にせよ」と要請しました。
 孫文ら革命派は袁世凱の強大な軍を前に、この要請を受け入れざるをえませんでした。しかし、皇帝を退位させ、清王朝を名実ともに終わらせることができるのは大きな前進と捉えました。
 大総統になった袁世凱宣統帝溥儀を退位させ、1912年、清は滅亡しました。こうして、彼ら中国人は秦の始皇帝から約2100年続いた皇帝制と訣別したのです。
 ちなみに、中国史上に登場した皇帝は600人以上にのぼります。中国において、皇帝制を葬るために戦ったのが孫文民族主義勢力で、皇帝制を葬ったのは袁世凱清王朝内部で特権を享受していた軍閥勢力でした。つまり、清王朝は外から仕掛けられて、中から壊れたと言えます。
 宣統帝の退位により、皇帝制は終わりましたが、皇帝制とともにあった封建政治は温存されました。袁世凱が政権を握り、軍閥や封建諸侯の特権を保証しながら、孫文ら民族資本家勢力を弾圧しました。孫文らは強大な軍事力を誇る彼らの敵ではありませんでした。
 皇帝制崩壊により、共産主義が急拡大
 袁世凱は野心をあらわにします。1915年、皇帝に即位し、国号を中華民国から中華帝国に改めます。年号を洪憲と定め、洪憲皇帝を名乗ります。
 何の血統の正統性もない者が突如、皇帝になったことに当時の日本をはじめ、世界各国は驚きましたが、中国では易姓革命の伝統があり、血筋に関係なく実力者が皇帝になってきたので、袁世凱自身、自分が皇帝になるのは当たり前だと考えていました。しかし、袁世凱に対する中国国内から反発は強く、彼はわずか3カ月で退位しました。そして、間もなく、失意のうちに病死します。
 袁世凱が病死した後も、軍閥勢力と孫文ら革命派との対立は続き、近代革命は進展しません。第1次世界大戦後、北京の学生が中心となり、五・四運動という反帝国主義運動を展開します。民衆の政治への関心の高まりを感じた孫文は以後、民衆を取り込み、革命勢力を形成する方針をとります。孫文はそれまで、エリート主義的なブルジョワ革命を目指してきました。しかし、この考え方を変え、民衆全体を取り込み、革命を推進していこうとしたのです。
 以後、中国では共産党勢力が急速に拡大し、猛威を振るうようになります。1925年、孫文は「革命いまだ成らず」という有名な言葉を残して、病死します。後継者の蒋介石孫文と異なり、共産党を危険視し、弾圧します。蒋介石毛沢東と激しく対立しますが、もはや、共産党の拡大は誰にも止められない状態でした。共産主義者が唱える平等社会が平民たちに広く受け入れられていきます。
 中国では、ヨーロッパと異なりブルジョワ市民階級が未成熟でした。皇帝制を打倒した後に、その受け皿となるべき民族資本家たちが国家を強力に牽引していく存在にはなれませんでした。
 1912年、辛亥革命で清が倒れたとき、牽引者不在のなかで中国は方向性を失います。秩序がもろくも崩壊し、共産主義が圧倒的多数の貧民の支持を得て勢力を拡大します。つまり、皇帝制崩壊により、中国では共産主義国家の誕生が避けられない事態となっていたのです。
 天皇の存在が日本の近代化成功のカギだった
 日本も中国と同様に、ヨーロッパのようなブルジョワ階級は未成熟でした。代わりに、従来の特権階級であった藩主や武士が近代革命を担いました。
 17世紀のイギリス市民革命でも、18世紀のフランス革命でも、国王をはじめ多くの特権階級が処刑されています。フランス革命では、日々の大量処刑を迅速に執行するために、ギロチンが考案されました。ヨーロッパの近代革命は血生臭い暴力が付いて回り、それは中国の易姓革命と同質のものでした。
 日本の近代化である明治維新では、そのような血生臭い暴力は最小限に抑えられました。革命への穏健な姿勢が終始貫かれ、日本独自の絶妙なバランス感覚で体制の旧弊を漸次改変しながら、近代化が進められていきました。日本の近代革命は「アンシャン・レジーム(旧体制)」を急進的に打破していく、ヨーロッパ型の近代革命とは根本的に異なっています。
 日本の近代化が穏健に進められた背景として、天皇の存在が大きかったと思われます。最後の将軍徳川慶喜は自らの体面を失うことなく、政権から退きました。それは、将軍よりも格上の天皇に、それまで預かっていた政権を返上するという大政奉還の建て前を通すことができたからです。
 約270年間続いた江戸の将軍が、薩摩・長州という辺境の家臣に屈服したという恥辱にまみれるならば、幕府勢力は死力を尽くして、革命軍と戦い、血で血を洗う陰惨な内戦に発展した可能性があります。幕府はあくまで大政奉還により、天皇に恭順したのです。超越的な天皇の存在が日本の危機を救いました。
 ヨーロッパの民主革命の闘士から見れば、天皇を頂点とする明治の新生国家は、王政復古への逆行と映ったかもしれません。このとき、新生国家を共和制とせず、立憲君主制にしたのは、維新の革命者たちの深遠な知恵でした。
 天皇と共に歩んだわれわれの父祖
 首班や内閣は天皇に対して、責任を負います。そして、彼らは天皇によって大権を与えられます。この大権の実効性を強固なものにするため、多少、天皇を神格化しすぎたというところもあります。しかし、そのような天皇の存在が、困難な改革を実現させるのに大きな役割を果たしたのです。
 大政奉還と同様に、廃藩置県は藩の小君主(藩主)たちの実権を天皇に返還させるものでした。封建諸侯である彼らが、自らの特権を手放したのは、彼らよりもずっと身分の低い足軽上がりの革命者(西郷隆盛大久保利通など)が命じたからではなく、天皇の大命を仰いだからでした。
 武士の忠義からして、天皇の大命には逆らえず、封建時代の実質的な実力者であった彼らのほとんどは潔く身を引いたのです。その潔い精神というものは、他国の特権階級には見られません。彼らの多くは処刑台の前に引きずり出されるまで、悪態をつき、暴言を吐きながら抵抗しました。
 日本には、鎌倉幕府から江戸幕府に至るまで、将軍という世俗の権力者の上に、天皇という超越的な存在がありました。この二重権力構造が続き、天皇制が維持されたことが近代日本に幸いしました。日本が過激に社会秩序を崩壊させることなく、緩やかな変革を実現することができた最大の理由がここにあります。
 中国は王朝がコロコロ変わる易姓革命を繰り返したため、天皇のような国家の中核存在を持つことができませんでした。維新の革命者が孫文のように共和主義を掲げ、天皇制を廃止していたならば、日本も中国と同じように、無秩序と混乱に陥っていたことでしょう。
 われわれの父祖たちは、つねに天皇と共に歴史を歩んできました。来る5月1日の新天皇の即位以降も、その歩みを一層、輝かせたいものです。
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