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2025年3月28日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「リベラルや保守から悪意をもって一緒にされがちな「マルクス主義とアナキズム」の関係
酒井 隆史
リベラルや保守から悪意をもって一緒にされがちな「マルクス主義とアナキズム」の関係
「クソどうでもいい仕事(ブルシット・ジョブ)」はなぜエッセンシャル・ワークよりも給料がいいのか? その背景にはわたしたちの労働観が関係していた?ロングセラー『ブルシット・ジョブの謎』が明らかにする世界的現象の謎とは?
マルクスとアナキズム
要するに年貢(地代すなわちレントです)を「掠奪」して、それをなんらかのかたちでばらまく、これが分配様式としての封建制です。
これだけだとなんだか荒削りなお話にみえるかもしれません。そこで、もう少し厳密な理論的裏づけについてみてみたいとおもいます。
ここでグレーバーが下敷きにしているのは、マルクスの理論です。でもグレーバーは人類学者であると同時にアナキストを自称しているのではないでしょうか?
アナキストとは、「無政府主義者」とも訳されますが、ものすごく初歩的な誤解をまず解いておくと、それはたんなる無秩序という意味でのカオスの思想ではありません。
それは組織の思想です。ただその組織には、アナキズムにおいては指導者がいないのです。ヒエラルキーもありません。自由な諸個人が自由に関係を連携し合う、そのような社会のありようを実践的に構築する指向性をもった考えが、おおまかにいうところのアナキズムです。
アナキズムを「アナキズム」と名指ししたのはピエール=ジョゼフ・プルードンという19世紀フランスの思想家でした。まだ駆け出しのころのマルクスはすでに著述家として名高かったかれに接近しましたが、プルードンはマルクスのうちにある独善性を嗅ぎつけ、それを拒絶します。すると、マルクスはプルードンの一書をあげて猛攻撃をします。このように、マルクスとアナキズムは、実はアナキズムがそう言葉をえて早々の段階から戦闘状態のなかにありました。
とはいえ、それでも実践においてはそう厳格な区別があったわけではありません。そもそも19世紀において、その後半のドイツをのぞいて、マルクスの影響は大きくはありませんでした。強かったのは──あくまで比較するならばの話ですが──アナキズムです。
しかし、その源泉はおなじです。すなわち、フランス大革命以来のラディカルな民衆運動、啓蒙思想から初期社会主義思想にいたるまでの自由思想の展開、そしてとりわけイギリスで進展をみせていた政治経済学といった、知的・実践的ゆりかごです。
そこからあらわれたマルクス主義とアナキズムとは、ものすごく仲の悪い姉妹ないし兄弟といったおもむきがあります。おなじ母胎から生まれたゆえに共通するものも多いのだけれども、なにか決定的なところでちがう。姉妹兄弟でありがちな、それが他人よりもはげしい決裂や嫌悪となってあらわれるということです。とはいえ、これを「近親憎悪」とするのは安直だとおもいます。本当にゆずれない根本的なところで異なるところもあるのですから。
したがってこの二つの潮流を、リベラルや保守の視点から悪意をもっていっしょくたにするのも、あるいは善意からいっしょくたにするのもどちらもまちがっているとおもいます。それらはたとえ、両者が共鳴しているとしても、そして実践的にはときに肩を並べているとしても、根本的に緊張状態におかれねばならないのです。
マルクス主義を活用したグレーバー
グレーバーはアナキストと自称しているわりには、マルクスをよく読んで、大事なところで活用しています。グレーバーの発想は、アナキズムによってある種の要素にターボをかけられた人類学、あるいはその逆、人類学によってある種の要素にターボをかけられたアナキズム的思考によって枠づけられているのにしても、その中核附近にマルクスがおかれていることはまちがいないのです。そもそもグレーバーの人類学の方法的基礎というべき人類学的価値論も、かれの師の一人であるテレンス・ターナーというかなり厳格なマルクス派人類学者の理論を継承発展させたものなのです。
かれは、マルクス主義とアナキズムとをこう位置づけています。マルクス主義は、「革命戦略のための理論的/分析的言説をめざす傾向がある」いっぽうで、アナキズムは、「革命実践のための倫理的言説をめざす傾向がある」と。
マルクス派にとって、情勢分析は同時に戦略分析でもありました。というのも、それはその社会のなかでどこに矛盾が集中的にあらわれているかの分析であり、革命勢力がどこをどう攻略していけばよいかはそこから論理的にみちびかれるからです。だから、たとえば農民階級は革命的になりうるか、プロレタリアの同盟者でありうるのか、といった問題があらわれ、喧々諤々となります。ところが、アナキストはこういう発想はしません。農民が革命的になるかどうかは、農民自身の問題であって、だれかが理論的に規定できることではないのです(!)。
こういう二つの指向性は、たがいに補うことができるというのがグレーバーの立場です。かれはアナキストですが、その分析の多くがマルクスを批判的に経由したものであり、少なくともある程度はそれをふまえておくとより理解が深まるようにおもいます。
さて、先ほどみた封建制は、ものすごく骨だけのイメージでいうと、お上が民衆の生産物を「掠奪」し、それを取り巻きたちにばらまく、といった感じに考えておいてよいでしょう。
領主はふつう、法的権利と伝統の複雑な集合体にもとづいて、農民や職人たちによる生産物の一部を吸い上げ(わたしは大学で「法的−政治的徴収(juro-political extraction)」という専門用語を学んだ)、それから、その略奪品をみずからの配下、取り巻き、戦士、従者たちに割り当てる。そして、たまにごちそうをふるまい、宴を開いたり、ときには贈り物や利益供与などによって、そのうちの一部を職人や農民たちにふたたび送り返しもするのである(BSJ 233)
グレーバーは封建制をなによりもまず、このような余剰の「分配様式」として捉えています。
つづく「なぜ「1日4時間労働」は実現しないのか…世界を覆う「クソどうでもいい仕事」という病」では、自分が意味のない仕事をやっていることに気づき、苦しんでいるが、社会ではムダで無意味な仕事が増殖している実態について深く分析する。
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