🐉9」─1─《知られざる日中戦争の悲劇》河南省大洪水。黄河の堤防爆破で溺死100万人以上、難民117万人。〜No.26No.27No.28 

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 2024年3月12日 YAHOO!JAPANニュース JBpress「《知られざる日中戦争の悲劇》河南省では蒋介石が人為的に黄河の洪水を発生させ、省内の117万人が難民に
 国民政府を率い、日本や共産党と戦った蒋介石(写真:AP/アフロ)
 1937年の盧溝橋事件に端を発し、南京事件、38年の重慶爆撃などを経て、その後の太平洋戦争につながる日中戦争。だが、真珠湾攻撃によって太平洋戦争に突入して以降、中国との戦争がどう展開していったのか、それほど詳しくは知られていない。日中戦争の後半を詳述した『後期日中戦争』の続編『後期日中戦争 華北戦線 太平洋戦争下の中国戦線2』(広中一成著、角川新書)が刊行された。日本軍と国共両軍、三つ巴の戦場では何が起きていたのか――
 【当時の写真】黄河決壊でぬかるみとなった戦場を匍匐前進する日本兵
 (*)本稿は『後期日中戦争 華北戦線 太平洋戦争下の中国戦線2』(広中一成著、角川新書)の一部を抜粋・再編集したものです。
■ ひとたび氾濫すれば、甚大な被害をもたらす黄河
 河南省は、黄河下流域に位置し、北は山西と河北、東は山東と安徽、南は湖北、西は陝西の6つの省と隣接する。省の総面積は終戦頃で約16万5000平方キロメートルに及ぶ。
 この地は古くから中原といわれ、数多くの王朝が発生し繁栄を築いた。省北部の安陽は、今からおよそ3500年前、殷王朝後期に都が置かれた所だ。殷は占卜(せんぼく)に漢字の原点といわれる甲骨文字を用いたことで知られる。
 西部の洛陽は、周代の都市国家洛邑を原形とし、後漢以降いくつもの王朝がここに首都を定めた。省中部にある開封は、隋代に大運河が通ると、この地域の商業の中心地として発展し、960年に成立した宋(北宋)の首都となる。
 このように河南省が早くから発展したのも、黄河の影響が大きい。上流から流れてくる栄養を含んだ土砂が河南省の河岸に流れ着き、肥沃な土地を形成した。そこに人が住みつき、それが集団となり、やがて文明を花開かせていく。
 人々に恵みをもたらした黄河は、全長5464キロメートルもの長大さがゆえに、ひとたび氾濫すれば、川筋すら変えるほどの濁水が溢れ出し、甚大な被害をもたらす。
 黄河下流のなかでも、特に河南省鄭州から中牟の流域は砂泥が溜まりやすく、古くから洪水が何度も起こった。『中牟県誌』によると、その回数は元代(1271─1368年)から1938年までのおよそ650年間で、大きなものだけでも30回余りを数える。
 日中戦争中に起きた38年の洪水は、6月9日頃から鄭州の花園口の堤防が決壊し、集落や農地を次々と水没させていった。南東方面へと流出した河水は幅30~80キロメートル、長さ400キロメートル以上に達し、河南省だけでなく、東の安徽省江蘇省にまで広がる。新たにできたこの河流は新黄河と呼ばれた。そして、この洪水によって5万4000平方キロメートル以上(北海道の面積の7割近くに相当)の土地が水に浸かり、約89万人が死亡、1250万人以上が住む家を失ったのだ。
 その浸水の程度はどのくらいだったか。河南省開封南方の尉氏(いし)付近にいた第16師団輜重兵第16聯隊の小原孝太郎一等兵は、15日の日記にこう書き残す。
■ 「馬は首だけ出して城壁まで泳いだ」「城壁外は満々たる水」
 横江分隊長が尉氏城内との連絡から帰ってこられた。城壁のまはりは水で、馬は首だけ出して城壁まで泳いださうである。城内に師団司令部があるが、飛行機が機上から乾パンを投げてゐるさうだ。もう城壁外は満々たる水で、アノ自分等の宿営地であった部落も水浸しで影も形も見えないさうだ。(『日中戦争従軍日記』所収)
 独歩第56大隊本部附の梶野渡軍曹は、44年4月25日、安徽省潁州(えいしゅう、現阜陽市)の攻略を目指す潁水作戦に参加した。だが、その途上、一面の深いぬかるみに足を取られ、行軍が予定より大幅に遅れてしまう。このぬかるみは、まさに黄河の洪水によってできたものだった。
 拙著『「華中特務工作」秘蔵写真帖』に掲載された、そのとき撮影された写真を見ると、地面はぬかるみ、遠い先にわずかな建物があるのみでほとんど何もない。おそらく洪水によって何もかもが押し流されたのではないか。洪水の被害の深刻さをこの一枚は映し出している。
 この甚大な被害をもたらした洪水はなぜ起きたか。『中牟県誌』には次のようにある。
 六月五日、蔣介石は繰り返し厳命した。今回の決壊は国家の命運がかかっており、小さな犠牲でなく、大きくすることにより達成できるのだ。重要な点は厳しく手を抜かないことであり、必ずあらゆる懸念を打ち破り、決然と実行し、最後にすべてを成功させなければならないと。当時作業を監督した第二〇集団軍総司令の商震の命令のもと、新編第八師(元八八師)に花園口近くの京水鎮に進駐させ、堤防決壊の責務を負わせた。この師は六月七日午前、花園口関帝廟より西の地点で堤防の破壊を始め、同時に大きな甕に爆薬を詰めて発破させたのだ。師長の蔣在珍は自ら現場で作業の指揮をとった。
 すなわち、この花園口での黄河堤防の決壊は、蔣介石の命令のもと、現地の部隊によって決行された人為的に作り出された災害だったのである。自然災害ならまだしも、これはきわめて悪質ではないか。
■ 黄河決壊は抗日戦略のひとつだった
 森久男「蔣介石の対日抗戦戦略と平綏路東段抗戦」(『愛知大学国際問題研究所紀要』第160号、2022年10月所収)によると、蔣介石率いる国民革命軍は、28年より近代的な軍制改革を推し進めるため、ドイツから軍事顧問団を受け入れていた。35年、団長に就任したファルケンハウゼンは、8月20日、「時局に対処する対策に関する建議」を蔣介石に提出し、来たる対日抗戦の基本的な戦略構想を示した。
 その構想とはおよそ次のとおりだ。「ファルケンハウゼンの建議は、華北で軍事衝突が起こる危険性が高く、地方軍のみの抵抗に任せて、主抵抗線が平漢線に沿った線まで後退すれば、沿海諸省はすぐに陥落すると予想している。北方では、滄県・保定の線を絶対防禦して、黄河を最後の戦線とし、計画的な人工氾濫による防禦力の増大を付言している」。
 つまり、この建議ですでに黄河を人為的に決壊させることが計画に盛り込まれていたのだ。この考えは36年末に軍事委員会参謀本部が起草した「民国廿六年度国防作戦計画」に採用され、国民革命軍の抗日戦略となる。
 38年5月、国民革命軍は北支那方面軍に江蘇省北部の徐州を占領され、戦線が黄河にまで達した。ここに及んで、蔣介石はすでにあった抗戦戦略に基づき、洪水がよく起こる中牟付近に狙いを定め、堤防を爆破したのだ。
 河水が溢れ出したことで、北支那方面軍は国民革命軍の追撃を諦めた。黄河の戦線をめぐる日中両軍の対決は、決着を見ずに終わる。
■ 組織的放火だった湖南省の長沙大火では、市街地の3分の2が焼失、2万人死亡
 蔣介石は黄河決壊の5ヶ月後の11月、湖南省都の長沙が日本軍の占領目標にならないよう、省政府主席の張治中に命じて市内に火を放ち焦土化した。長沙大火といわれたこの組織的放火で、市街地の3分の2が焼失し、住民2万人余りが命を落とす。
 国民政府は39年、黄河決壊の被災者を対象に、内陸の官有地を開放して入植させるという救済策を講じた。だが、そのような措置をしたとしても、黄河決壊も長沙大火も、日本軍の侵略を防ぐという目的だったとはいえ、無辜の人々の命を必要以上に奪い、おびただしい数の民衆の生活の糧を無にしたことは、いかに戦時であろうとも非難すべきではないだろうか。
 『難民たちの日中戦争』(元データは趙燕「抗戦期河南的難民問題与難民救済」〔華中師範大学碩士論文、2007年〕による)によると、黄河決壊のあった38年の河南省における難民の総数は約117万人。これは省全人口の18パーセント余りに及ぶ。省内のおよそ5人に1人が難民となった計算だ。
 広中 一成
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 日中戦争の初期(第二次上海事変~南京攻略・第二回南京事件)までは、ファシスト中国(国民党)はナチス・ドイツの友好国として軍事支援を受けていた。
 ドイツ国防軍は、ワイマール共和国時代に軍事顧問団を派遣し、親中国反日ヒトラーの許可を受けて抗日戦の為に要塞建設と軍事訓練を強化した。
 ドイツの軍需産業は、ナチ政権の指導に従って日本軍の装備品より優秀な最新兵器を抗日軍に輸出していた。
 ドイツの国際金融資本は、ファシスト中国(国民党)の抗日戦勝利の為に金融支援を行っていた。
 ドイツ経済界が反日親中国路線を採用したのは、中国のレア‐メタル(希少金属)を輸入する為であった。
 日中戦争は、日本軍と抗日軍・ドイツ軍との戦闘で始まった。
 日本にとって、ヒトラーナチス・ドイツは敵であった。
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 A級戦犯松井石根は、ナチス・ドイツ、ドイツ軍の軍事支援を遮断する為に政府・軍部に国際法に従って「中国に対する宣戦布告」を意見具申したが、近衛首相と軍部は事変を国家間戦争に拡大しない為に拒否した。
 もしこの時、日本が中国に宣戦布告していれば日中戦争は数年で日本軍の勝利で終わっていた。
 それは、ロシアのウクライナ侵略戦争に似ている。
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日本の農業技術が中国の食糧不足を救った。
2019-12-05
💖17)─1─稲塚権次郎の小麦農林10号が、飢餓に苦しむ華北の中国人を救った。1935年。〜No.65No.66No.67・ 
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日中戦争
2019-05-13
💖18)─1─河南省黄河防爆破と大洪水。溺死100万人以上。日本軍は中国人10万人以上を助けた。1938年〜No.68No.69No.70No.71・ 
2019-05-15
💖18)─2─河南省大飢饉。日本軍は戦争をしながら飢餓民約1,000万人を助けた。日本軍の敵兵虐殺事件。1940年No.72No.73No.74No.75・ 
2019-05-16
💖18)─3─日本軍は河南省救援物資輸送路を死守した。大陸打通作戦。泰緬鉄道。日本軍兵士の餓死・病死。1944年〜No.76No.77No.78No.79・ 
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日本陸軍防疫部隊が中国人を救った。
2020-06-14
💖19)─1─日本軍は中国軍が行った堤防破壊、井戸への毒やコレラ菌投入の尻拭いをしていた。〜No.80No.81No.82No.83・ 
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第一次上海事変桜田門事件(昭和天皇殺害失敗事件)。
2020-02-16
🎹12:─1─華北大水害・華南大洪水。第二次上海事変国際連盟理事会。中国共産党江西省瑞金大虐殺。1932年〜No.50No.51No.52・ 
2018-07-16
🎹12:─2─スチムソン・ドクトリン。第一次上海事変。オタワ会議。5・15事件。中国共産党の瑞金大虐殺。1932年~No.53No.54No.56・ @ 
2018-07-17
🎹12:─3─桜田門事件。キリスト教朝鮮人テロリストによる昭和天皇殺害失敗。大日本帝国憲法天皇条項。1932年1月8日。~No.57No.58No.59・ @ ⑨
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2019-03-27
🎹13:─1─日米戦争を想定した、軍国日本とアメリカの建艦競争。1933年〜No.60・ * 
2023-12-20
🎹13:─2─大和型戦艦設計案は最高軍事機密として保護されていた。~No.61No.62No.63 ⑩ 
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2018-07-18
🎹14:─1─ナチ党と国防軍は中国に軍事顧問団を派遣した。日本の国際連盟脱退。日本陸軍イスラーム工作。1933年~No.64・ @ 
2022-04-09
🎹14:─2─日本人が直に見たソ連の第一次5ヵ年計画とウクライナ餓死地獄。~No.65No.66 ⑪ 
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2018-07-19
🎹15:─1─ドイツ軍事顧問団は、アメリカ世論を反日派にして味方に付けるよう蒋介石に進言した。1934年~No.67・ @ 
2020-10-18
🎹15:─2─中国共産党が反英運動から反日運動に変わったわけ。中国共産党と瑞金大虐殺。~No.68No.69 ⑫ 

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2018-07-22
🎹16:─1─ファシスト・イタリアのエチオピア侵略。エチオピア帝国と軍国日本。オマーン国王と結婚した日本人女性。1935年~No.70No.71No.72・ @ ⑬
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2019-04-19
🎹17:─1─ドイツは、ヒトラーナチス・ドイツ時代から親中国反日派である。〜No.73No.74No.75・ * ⑭
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2018-07-23
🎹18:─1─ヒトラーは、ファシスト中国に対日戦用に要塞と陣地の築城技術を提供した。1935年~No.76No.77No.78・ @ 
2018-07-24
🎹18:─2─日本軍部は、中国軍内部のドイツ軍事顧問団とドイツ軍需産業の情報を集めていた。1935年7月~No.79No.80No.81・ @ ⑮
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中国人による日本人虐殺。
暴支膺懲。
2019-04-18
🎹19:─1─通州大虐殺と暴支膺懲。第二次上海事変、第二回南京事件。1936年〜No.82No.83No.84・ * 
2018-07-25
🎹19:─2─中国国民党は、ナチス・ドイツと軍事支援の協定を結びファシスト陣営に参加した。2・26事件。1936年~No.85No.86No.87・ @ 
2018-07-26
🎹19:─3─2・26事件と軍部大臣現役武官制復活の陰にコミンテルン共産主義者の対日謀略と世界戦略。~No.88No,89No.90・ @ 
2018-07-27
🎹19:─4─日本人居留民惨殺事件。日独防共協定。西安事件ファシスト中国の日本本土無差別爆撃極秘作戦。1936年7月~No.91No.92No.93・ @ 
2018-07-28
🎹19:─5─軍国日本は、1940年に東京でオリンピック大会を開催する為に、親日派エチオピアを見捨てた。1936年~No.94No.95No.96・ @ 
2018-07-30
🎹19:─6─ドイツ人は、日本人五輪選手団の礼儀を知らない無作法で傲慢な態度に憤慨し、反日感情を高めた。1936年~No.97No.98No.99・ @ ⑯
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2018-07-31
🎹20:─1─ドイツ軍顧問団は、アメリカを戦争に巻き込み、アメリカを利用して軍国日本を撃退すべきであると提案した。1937年~No.100No.101No.102・ @ 
2018-08-01
🎹20:─2─五族協和・王道楽土の犠牲になった流転の王妃・嵯峨浩の悲劇。~No.103No.104No.105・ @ ⑰
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2018-08-02
🎹21:─1─盧溝橋事件は中国共産党が仕組んだ罠であった。1937年7月7日~No.106No.107No.108・ @ 
2019-04-17
🎹21:─2─反日中国共産党政府と香港・台湾の反日市民団体の盧溝橋事件80年式典。2017年〜No.109No.110No.111・ * 
2018-08-05
🎹21:─3─中国共産党の真っ赤なウソ。抗日反ファシズム戦争勝利70年周年記念式典に集う同じ穴のムジナ。~No.112No.113No.114・ @ ⑱
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2018-08-03
🎹22:─1─国際報道機関は、軍国日本が主張する日本人居留民保護と自衛的軍事行動を犯罪と非難した。1937年7月28日~No.115No.116No.117・ @ 
2018-08-06
🎹22:─2─日本は中国に対して報復権・復讐権があった。通州大虐殺事件と暴支膺懲。侵略とは。~No.118No.119No.120・ @ 
2019-05-23
🎹22:─3─日本の戦争は財宝・領土・イデオロギー・宗教ではなく情の戦争であった。暴支膺懲。〜No.121No.122No.123・ 
2018-08-14
🎹22:─4─戦争を支持した庶民の熱狂の奥底には寂しい虚無感があった。~No.124No.125No.126No.127・ @ ⑲
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日本軍部と中国共産党の密約。
2019-04-25
🎹23:─1─毛沢東と日本軍部の裏取引。中国共産党と日本軍の共同アヘン密売。共産主義者汪兆銘。No.128No.129No.130・ * 
2018-11-26
🎹23:─2─日本軍と中国共産党が共謀した阿片密売。阿片王・里見甫。~No.131No.132No.133・ @ 
2019-04-26
🎹23:─3─中国共産党のアヘン、ヘロインによる日本人廃人化計画。~No.362No.363~No.134No.135No.136 * ⑳ 
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イギリス産業界はファシスト中国軍に大量の軍需物資を売った。
2019-04-27
🎹24:─1─イギリスの金融資本と軍需産業は、大量の武器を抗日軍に売って日中戦争の停戦を妨害しドロ沼化した。~No.137No.138No.139・ * ㉑ 
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2019-05-07
🎹25:─1─中国共産党の嘘がバレなければ何でもありの悪意に満ちた対日歴史情報戦。旧日本軍が残した札束。 〜No.140No.141No.142・ * ㉒ 
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2019-05-08
🎹26:─1─高学歴出身知的エリートの731部隊アメリカ。〜No.142No.144No.145・ * ㉓ 
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2019-05-09
🎹27:─1─漢族系中国人はガチョウの群れ。中国共産党は日本併呑を宿願としている。〜No.146No.147No.148No.149・ @ ㉔
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日本軍とファシスト中国軍・ドイツ軍事顧問団連合軍との戦争。 
ドイツ軍事顧問団は敗退して撤退した。 
2018-08-07
🎹28:─1─ソ連の極秘命令を受けた中国共産党日本共産党。第二次上海事変。中ソ不可侵条約調印。日本軍部の軍医部。1937年8月〜No.150No.151No.152・ 
2018-08-09
🎹28:─2─国際世論は、ファシスト中国の対日批判を支持し、宣戦布告に匹敵する対日経済制裁宣言を要請した。1937年9月 ~No.153No.154No.155・ @  
2018-08-10
🎹28:─3─ルーズベルトの隔離演説。ドイツ軍事顧問団は、アメリカを日中戦争に引き込む為に長期戦を蒋介石に提言した。1937年10月~No.156No.157No.158・ @ 
2018-08-11
🎹28:─4─ドイツ軍事顧問団は、中国人民に日本人を根絶やしにしたいほどの憎悪を植え付ける反日教育を指導した。1937年11月~No.159No.160No.161・ @
2018-08-12
🎹28:─5─第二回南京事件。パネー号事件。日本軍は南京を占領してドイツ軍事顧問団が育成した中国軍を撃破した。1937年12月~No.162No.163No.164・ @ 
2018-08-15
🎹28:─6─ニューヨーク・タイムズ紙など反日的報道機関は、ドイツ軍人が創作した南京虐殺を報道して国際世論を反日に誘導した。1937年12月17日~No.165No.166No.167・ @ 
2018-08-18
🎹28:─7─ドイツの保守層、国防軍軍需産業は、ヒトラーの許可を受け、抗日軍に軍需支援を続けた。1937年12月21日~No.168No.169No.170・ @ 
2018-11-16
🎹28:─8─アメリカの宣教師史観と第二回南京事件。布教の為には手段を選ばない宣教師達。~No.171No.172No.173・ @ ㉕ 
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創作された第二回南京事件
2019-04-23
🎹29:─1─西洋の潜在意識には反天皇反日敵日感情が蠢いている。~No.174No.175No.176No.177・ 
2019-04-20
🎹29:─2─南京陥落前のファシスト中国による漢奸(かんかん、ハンジェン)狩りと親日派知日派大虐殺。〜No.178No.179No.180・ * 
2019-04-21
🎹29:─3─第2回南京事件を事実と証明する一次史料。〜No.181No.182No.183・ * 
2019-04-22
🎹29:─4─中国共産党の「南京大虐殺関連資料」。世界記憶遺産認定と天皇に対する謝罪要求。~No.184No.185No.186・ *
2018-08-20
🎹29:─5─戦後50周年の終戦記念日村山富市内閣総理大臣談話全文。(平成7年8月15日)~No.187No.188No.189・ @  
2018-08-21
🎹29:─6─各国に広がる「南京大虐殺記念日」制定動議可決と日本批判。カナダ。~No.190No.191No.192・ @  ㉖ 
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中立国ソ連ファシスト中国に正規兵や武器弾薬を提供していた。
2018-08-22
🎹30:─1─日中戦争がドロ沼化し長期戦したのはソ連が原因であった。~No.193No.194No.195No.196・ @