☭9」─1─対馬事件。尊王攘夷派はロシア軍将校と水兵を襲撃した。ロシア軍艦による対馬武力占拠と租界要求事件。1854年~No.23No.24No.25 * ⑧ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つを立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 白人の中でもロシア人ほど信用できない人間はいない。
 ロシア人は、強盗・追いはぎ・泥棒に似て信用できない。
 ロシア人は、不法な手段で手に入れた土地は決して手放さない。
 もし取り返そうとすれば、戦争を起こしてでも奪った土地を守った。
 ロシア人には、真面な話し合いは通用しない。
 ロシア人は、恩義があっても答える意志は持っていないどころか、仇で返してくる。
   ・   ・   ・   
 小国日本には、植民地にならない為に軍国主義化しか選択肢がなかった。
 日本の軍国主義化は、犯罪とされた。
   ・   ・   ・   
 ロシア帝国は、キリスト教の神聖な使命で、周辺諸国を侵略し併呑して版図を広げた。
 日本は、ロシア帝国の侵略の脅威に脅え、国土防衛の為に武力を強化して軍国主義化した。
 軍国主義国家日本は、世界から犯罪国と糾弾され、侵略国家として滅ぼされた。
 後年。昭和天皇は、軍国主義のシンボルとされ、凶悪な犯罪者とされた。
 靖国神社は、侵略戦争を美化するものとして廃棄が求められている。
   ・   ・   ・   
 ロシア帝国は、宗教的人種差別主義から、非白人非キリスト教徒日本人を薄汚い野蛮人「黄色いサル」と軽蔑していた。
   ・   ・   ・   
 明治維新の序章。
 吉田松陰ら「心と志」ある靖国神に祀られた勤王の志士・尊皇派日本人達は、国家存亡の危機として発狂した如く武力を用いて立ち上がった。
 民族主義者は、国難に直面して狂人となった。
 反天皇反日日本人は、吉田松陰靖国神社)を侵略戦争を主張した極悪人として糾弾している。
   ・   ・   ・   
 サムライ日本人は、外国語を話せなかったが、交渉能力はあった。
 現代日本の国際派日本人は、流暢に外国語を話すが、交渉能力はない。
   ・   ・   ・   
 サムライや庶民は、日本を軍国主義化して軍事力を付けて戦争を覚悟為なければ、キリスト教徒白人諸国に侵略され、植民地になり、奴隷にされると恐怖した。
 現代日本は、反戦平和の立場から、如何なる理由だあったとしても日本の軍国主義化を「悪」と完全否定している。
   ・   ・   ・   
 1854年 吉田松陰靖国神社)は、ロシア帝国の侵略から神国日本と天皇・皇室を守る為に、朝鮮を征服して朝貢国とし、満州・台湾・インド・カムチャッカを占領せよと主張した。
 天皇に忠誠を誓う高杉晋作靖国神社)や久坂玄瑞靖国神社)らは、神国日本をキリスト列強の植民地としない為に、日本人を白人キリスト教徒の奴隷としない為に、吉田松陰の海外侵出策を聞いた。
 靖国神社には、外敵の侵略から神国日本を守る為に死んだ多くの勤皇の志士を祭神として祀られている。
 自己犠牲で死んだ坂本龍馬中岡慎太郎武市半平太らサムライや百姓町人の尊皇派も、護国の神として靖国神社に祀られている。
 国際社会から、愛国心に基ずく宗教心は軍国主義として完全否定された。
   ・   ・   ・   
 1855(安政2)年 島津斉彬は、日本の軍事力を強化する為に、朝鮮を領有し、福州を軍事占領する計画を立てていた。
 そして、欧米列強の植民地とならない為に、アヘン戦争で衰退した清国の内政改革に協力して両国が提携すべきであると話した。
 1月 ロシア軍艦ディアナ号の難破。日本人漁民は、嵐の中、命の危険を顧みず500人のロシア人水兵を救助し保護した。
 2月7日 下田条約。日露和親条約川路聖謨(祖父は庶民)と筒井政憲は、プチャーチン提督と日露和親条約(下田条約)を締結した。
 両国は、国境を択捉島とウルップ島の間に画定した。
 択捉島国後島歯舞諸島色丹島北方領土は、正式に日本の領土となった。
 北方領土はこの時をもって日本の正式な領土となり、そこに住むアイヌ人は日本人となった。
 プチャーチン「将来の紛争を避けるための細心を行った結果、択捉が日本の領土である事が証明された」
 江戸幕府は、友好の証として、ロシア全権プチャーチン提督らを帰国させる為に、見様見真似で小型の西洋風帆船を建造して提供した。
   ・   ・   ・   
 ニコライ2世の希望は、日本との交易を求め、領土拡大ではなく経済関係を優先した。
   ・   ・   ・   
 1856年 アロー号事件
   ・   ・   ・   
 1857年 橋本左内靖国神社)は、南からの侵略から神国日本を守る為には、北の強敵であるロシア帝国と 同盟し、朝鮮・支那満州・インドを征服して軍事力を付けるべきと主張した。
   ・   ・   ・   
 勤皇の志士の多くは、神国日本が生き残る為に朝鮮の占領を考えていた。
 江戸幕府は、徳川家康以来の祖法に従って、朝鮮との友好関係を望んでいた。
   ・   ・   ・   
 1858年 ロシア軍は、満州の以北にある黒竜江省を軍事占領し、アイグン条約を締結して領土とした。
 ロシア帝国は、圧倒的な軍事力で侵略し、周辺諸国を衛星国とし、諸地域を領土とした。
 幕府は、西洋による侵略戦争と植民地支配の実態を知り、何時かは軍隊とキリスト教を用いて日本に迫り来る事を予想していた。
 地位の低い下級武士はもちろん身分卑しい百姓・町人の間でも、アヘン戦争アロー号事件などの侵略戦争の顛末書が行き渡り、彼等はむさぼる様に書籍を読み恐怖した。
 サムライや町人は、清国の二の舞にならない様に、西洋との戦争を覚悟為た。
 それが、神の裔・天皇中心とした国體を外敵から守ろうとする尊皇攘夷運動となった。
 幕府や大名達は、外国との戦争を回避する為の外交方策を思案した。
 これが、日本の鎖国の実態である。
   ・   ・   ・   
 1859年 横浜で、尊王攘夷派はロシア軍将校と水兵を襲撃してた。
 2016年11月5日 産経ニュース「「攘夷」犠牲のロシア人よ安らかに あす10年ぶり慰霊祭 神奈川
 この墓の前で慰霊祭が行われる=4日、横浜市中区
 幕末に攘夷派の武士により横浜で襲撃され、犠牲となったロシア艦隊の乗組員2人の慰霊祭が6日、横浜外国人墓地横浜市中区)で10年ぶりに行われる。主催するNPO法人「県ユーラシア協会」の田中豊造理事長(65)は「埋もれた歴史に光を当て、草の根からの日露友好を深めたい」と話している。
 安政6(1859)年、横浜港が開港すると、ロシア帝国東シベリア総督のニコライ・ムラビヨフが樺太など日露間の国境策定の交渉のため江戸と横浜に来航。同年夏、ロシア海軍少尉と水兵の2人が1人のコックを連れて、横浜港から食料品を買うために上陸したところを攘夷派の武士に襲撃され、コックを除く2人が死亡した。
 幕末に発生した初めての外国人殺傷事件で、横浜外国人墓地に最初に葬られたのも、この2人だった。
 2人の慰霊祭は、横浜港開港150周年を3年後に控えた平成18年11月に行われ、これをきっかけに22年に墓誌が在日ロシア大使館によって横浜外国人墓地に建立。関東大震災で倒壊していたロシア人の墓碑10基も再建された。
 前回慰霊祭から10年が経過したことを受け、県ユーラシア協会が今回の慰霊祭を企画した。
 田中理事長は「(安倍晋三首相とプーチン大統領による)日露首脳会談も来月、予定されており、今後、両国で友好関係が深まればいいと思う。慰霊祭も、その一つのきっかけにしたい」としている。
 慰霊祭で祈りをささげる横浜ハリストス正教会の水野宏司祭(53)も「2人が非業の死を遂げ、横浜に葬られたことは単なる一事件ではなく、むしろ日露交流が前進していくうえでの重要な礎だったとも言える。将来の日露交流の益々の発展を祈ってやみません」とコメントした。
 慰霊祭は6日午後2時から3時半まで、横浜外国人墓地22区のロシア軍人墓所(元町門そば)で行われる。献金300円。参列者は、1時45分に横浜高速鉄道みなとみらい線元町・中華街駅6番口に集合する。問い合わせは県ユーラシア協会(電)045・201・3714まで。
   ◇    
【用語解説】幕末のロシア人襲撃事件
 安政6(1859)年の夏、ロシア海軍少尉、ロマン・モフェトと水兵のイワン・ソコロフの2人が横浜で襲撃、殺害された事件。その後、水戸藩内外の尊皇攘夷派「天狗(てんぐ)党」による犯行であることが判明した。」
   ・   ・   ・   
 1860年3月 桜田門外の変大老井伊直弼は、水戸藩薩摩藩の脱藩浪士らによって暗殺された。
 国際金融資本は、幕府が世界の金銀交換比率に無知なのを付け込んで、日本に著しい不利なレートを押し付けた。
 キリスト教徒金融家は、銀貨を日本に持ち込んで金貨に替え、その差益で莫大な利益を手にした。
 世界の資産は、ユダヤ系国際金融資本の手に集められた。
 日本の金価値が下落して、貧困層の生活を直撃した。
 各地の百姓は、貨幣価値の下落に伴い米価の高騰で生活苦に陥ったとして一揆を起こしていた。
 天皇への忠誠心が強い下級武士や庶民の尊皇派は、不当貿易で暴利を貪る外人への敵意を剥き出しにして、攘夷運動に奔った。
 国際武器商人は、日本で大動乱が始まると見越して大量の武器を売りさばき、その収益の一部をキリスト教会による日本での布教活動資金とする為に寄附した。
 河井継之助「天下の形勢は、早晩大変動を免がれざるべしと存ぜられ候。即今外国の形勢は、戦国時代とも申すべきか、ベートルを出し候オロシアなどは、殊の外の勢威と承り候」
 新潟の小藩・長岡藩家老河井継之助は、アメリカを追い出してもロシアが南下して攻めてくると予測していた。
   ・   ・   ・   
 ロシアは、奪った土地は決して返還しなかった。
 日本は、ロシアに侵略されようとしていた。
 ロシアは、日本を植民地化しようとしていた。
 日本は、ロシアから日本を守る為に戦争を決意した。
 時代は、キリスト教列強諸国が地球を植民地として分け合い、白人キリスト教徒が非白人非キリスト教徒を奴隷として使役しようとしていた帝国主義時代であった。
   ・   ・   ・   
 幕府は、外国との戦争を避けて平和的に事件を収拾しようとした。
 軍国主義者は、外国の侵略から武力で祖国を守るべきだと主張して、暴発した。
 軍国主義者は、好戦派として、外国の侵略に対して戦争を望んだ。
   ・   ・   ・   
対馬事件
 平和的な対話ではなく、強力な軍事力のみが正義とされた実力至上主義の時代である。
 1860年 露清北京条約。ロシア帝国は、ウスリー江以東の沿海州を武力で強奪した。極東アジア侵略への足掛かりとして、日本海沿岸に要塞軍港ウラジオストック(意味、東方を支配せよ)を建設した。
   ・   ・   ・   
 1861(文久1)年 南北戦争。犠牲者、約62万人。
 ロシア海軍の太平洋艦隊司令官リハチョーフ大佐は、日本海をロシアの庭とし、艦隊の航行を自由にする為に対馬海峡を支配すべきだと提案した。
 リハチョーフ司令官は、日本領対馬を軍事占領するべく軍艦ポサドニック号を派遣した。
 ロシア政府は、中央アジアでイギリスとの対立を深めている今、日本との関係を悪化させる事は好ましくないとしてリハチョーフの提案を却下した。
 海軍大臣ニコラエヴィチ大公は、今後のアジア戦略の上から、イギリスの出方を確かめる目的で日本領対馬への艦隊派遣を許可した。
 リハチョーフ司令官は、対馬を軍事占領するべくポサドニック号を派遣した。
 世界的軍事大国ロシア帝国は、日本を欧州並みの対等国家と認めてはいなかった。
 ロシア人も、キリスト教価値観による宗教的人種差別主義から、非白人の日本人を非文明圏の薄汚い「黄色いサル」と馬鹿にし差別していた。
 ロシア側の意図は、極東に根拠地を獲得して不凍港を確保し、対馬を植民地として南海航路の安全を図る事であった。真の狙いは、日本が本格的に開発の手を加えていない蝦夷地・北海道を、アイヌ人の土地であるとして領有化する事であった。
 日本の敵は、イギリスやフランスやドイツではなく、隣国の超軍事大国ロシア帝国であった。
 当時の日本人が恐れていた白人種の侵略とは、ロシア帝国の侵略である。
 サムライ日本人が、日本を植民地にし、日本人を奴隷にしようとしていると警戒したのも、ロシア帝国であった。
   ・   ・   ・   
 2月 対馬事件。ロシア軍艦ポサドニック号は、イギリスが対馬を軍事占領しようとしていると言い掛かりを付けて、対馬浅茅(あそう)湾に侵入して停泊した。
 ロシアは、軍事力を使って日本領対馬を自国領にしようとしていた。
 軍事力を伴わない話し合いだけの平和解決は、無意味であった。
 外交交渉は、軍事力があってこそまとまる。
 軍事力を否定した平和的な話し合いで外交交渉が解決できる考える者は、無知無能な一般常識なバカである。
 対馬藩主宗義和は、不法行為であるとして、重臣を急派し速やかに退去する様に抗議した。
 ビリリョフ艦長は、船が難破して航行に耐えられないので、修理の為に来航したと詭弁を弄し、修理工場の設営資材と食料などの補充と遊女を要求した。
 欧米列強が、植民地拡大に使用する砲艦外交である。
 相手の軍事力に恐怖して譲歩すれば、外圧に弱いとみなされ、脅迫や恫喝や威嚇が繰り返されて、最後には全てを失って亡国となる。
 3月 ロシア海軍水兵は、芋崎(いもざき)に無断で上陸し、船体修理を名目に工場や兵舎などを建設した。
 対馬藩は、武力での排撃を主張する攘夷派と紛争を避け話し合いで解決しようという穏健派で藩論が分裂し、藩内は混乱した。
 藩主は、対馬藩の軍事力では、ポサドニック号を排除できない事を自覚していただけに、要求された米・塩・薪炭を贈り懐柔を図った。全藩士に事態の深刻を自覚させて軽挙を戒め、沿岸に砲台を築造して攘夷派を納得させた。
 ビリリョフ艦長は、軍事力を見せつけ、退去要求を拒否した。対馬藩の攘夷派が暴発して攻撃してくれば、それを口実に武力を持って対馬を軍事占領する計画であった。
 日本人を未開人として軽蔑するロシア水兵は、上陸して島民を襲い、婦女を追いかけ回して乱暴を働き、武力抵抗を誘う為に挑発を繰り返した。
 激昂した島民は、対馬藩の手ぬるい対応に失望し、自力で自分達を守る為に乱暴狼藉を働くロシア水兵との間で紛争が起こしていた。
 宗氏の所領である筑前田代の代官は、本領でのロシア人水兵による横暴を聞き知るや、ロシア人水兵から領民を救い、ロシアから領土を守る為に、わずかな手兵を率いて対馬に渡った。
ビリリョフ艦長は、芋崎の永久租借を認めさせる為に、藩主との面会を要求した。対馬藩との間で租借契約を結び、これを既成事実として幕府に日本領内での租借を承認させようとした。
 日本が外圧に屈して租借地を認めれば、他の列強も好きな土地を自由に軍事占領して植民地とする事が可能があった。
 対馬藩は、軍事力を背景として圧力をかけてくるロシア側の対応に苦慮し、長崎と江戸に急使を派遣して幕府の指示を仰いだ。
 島民は、永年に渡って朝鮮に侵略され虐殺と拉致を受けた苦しい歴史を持ち、「応永の外寇」では強制的に朝鮮人にさせられた経験を持つだけに恐怖した。
 3月28日 第121代孝明天皇は、年号を文久改元した。
 4月12日 ロシア人水兵は、ボートに乗って大船越の水門を通過しようとした。対馬藩の警備兵は制止するや、ロシア人水兵は警備兵を銃殺し、郷士2名を捕虜として軍艦に連行した。
 拉致された日本人の内1名は、敵に捕まったという恥辱から舌を噛み切って自殺した。
 これ以前から、サムライは俘虜になる事は死ぬ事以上の恥として自害していた。
 翌日には、100名以上の水兵が大船越を強襲して、略奪を行い、婦女暴行を行った。
 ロシア側は、日本への挑発行為を繰り返し、各地の番所を襲撃して、武器を強奪し、数人の婦女子を強姦目的で拉致した。軍艦に拉致された日本人女性のその後は、不明である。 長崎奉行・岡部長常は、対馬藩からの報告を受けるや、事態の深刻さを理解して、直ぐさまビリリョフ艦長に対して不法行為を詰問する書を送った。
 対応を誤れば、両国の戦争に発展する恐れがある為に、対馬藩に対し自重を促した。
 佐賀、筑前、長州をはじめ隣藩諸侯に、詳しい実情を調査さた。
 各藩の重臣長崎奉行所に集まって、情報を基にして事態の収拾を図る為の協議を行うが、事の重大さは現場ではどうにもならないとして、幕府の対応策を待つ事になった。
 長崎奉行所は、刻々と入ってくる情報を重視し、注意深く事態の推移を見守った。
 西国諸藩は、外国軍の侵略から日本を守るべく、長崎の武器商人から大量の武器弾薬を購入し、軍備の強化を急いだ。
 尊王意識が強い下級武士や町人や神官は、朝廷内の尊王攘夷派公家と共謀して、公武合体派公家らを排除し、開国容認の幕府に攘夷決行を要求する様に孝明天皇に働きかけた。
 孝明天皇は、強硬な攘夷派であると同時に公武合体派でもあった。
 老中・安藤信正(小藩の藩主)は、箱館奉行・村垣範正(下級旗本)に箱館駐在のロシア総領事ゴシケーヴィチにポサドニック号退去を強い口調で要求させると同時に、外国奉行小栗忠順(下級旗本)を対馬に急派した。
 幕府は、如何に優れていようとも、石高の高い大藩の藩主を政治に参加させ、権力を与える事は戦乱の元になるとして禁止していた。
 名門ではあるが、石高の低い小藩の藩主を老中や若年寄などに任じて集団で重責を負わせた。
 身分は低いが才能の有る者は異例の抜擢をして、権限を制限しながらも現場の重要な役職に付けた。もし、失敗すればトカゲの尻尾のように責任を押し付けて切腹させた。
 江戸幕府が、260年間、戦乱も暴動もなく平穏無事に過ごせたのは、世界の非常識という発想の転換にあった。
 日本型集団支配体制が盤石だったのは、日本一の石高を持つ徳川家が武力を持って、神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)を虜として京都御所に軟禁していたからである。
 5月 幕府は、長崎から江戸へ向かうイギリス公使オールコックに対して、警備上の問題から海路での移動を勧めた。オールコックは、条約で定める国内旅行権を強硬に主張して陸路で江戸へ旅した。 5月10日 小栗は、ビリリョフ艦長との会談に入った。
 日本側は、ロシア人水兵の無断上陸は条約違反であり、乱暴狼藉は犯罪行為であるとして強く抗議した。
 ロシア側は、傲慢にも日本側が求めた謝罪要求を無視し、威圧するように贈品謝礼を口実にして藩主との謁見を強く要請した。
 軍事力を伴わない外交交渉は、愚か者の戯言と馬鹿にされ、如何に話し合いを続けても成果は得られず、失う所の方が多かった。
 幕府には、他国の侵略から、国土と国民を守る海軍力を持っていなかった。
 小栗は、ロシア側の強大な軍事力を背景にして日本を見下す強硬姿勢に容易ならざる気配を感じて、やむなく謁見を認めた。
 5月20日 ロシア帝国側は、日本を英仏の侵略から保護する見返りとして、対馬に要塞軍港の割譲を要求して譲らなかった。
 小栗は、ロシア側の意図が対馬の植民地化である事がわかった以上、今後の対応の為に幕閣と協議するべく江戸に戻った。
 江戸に戻った小栗は、対馬を直轄領とする事、今後は万国公法に則った形式で外交交渉を行う事、国際世論にロシアの非を訴えて同情を得る事などを提言した。
 老中・安藤は、国内で激昂する攘夷派への配慮から、時間をかけて穏便に交渉を進めようとする慎重論の小栗の意見を退けた。
 幕府の権威は、井伊大老殺害の桜田門外の変以来、凋落傾向にある為に、尊王攘夷派を鎮める為にも強硬な姿勢を見せる必要があった。
 小栗は、交渉の場から外され、7月には外国奉行の任を解かれた。
 5月26日 対馬藩は、交渉が行き詰まった為に、ロシア海軍水兵の犯罪行為を不問にして、藩主との謁見に同意した。
 ビリリョフ艦長は、ポサドニック号を府内に回航して、武装した水兵を従えて上陸し、士官数名と共に藩主宗義和を表敬訪問した。
 平穏無事に長期間碇泊し、船体の修理が出来る事に対しての恩を謝して、短銃、望遠鏡、火薬および家禽数種を献じてた。
 そして、芋崎の永久租借を要求し、見返りとして大砲50門の進献と外国からの侵略に対する警備協力などを提案した。
 対馬藩は、ロシア側の最終目的が対馬全島の領土化である事がわかっていた為に、幕府に直接交渉して欲しいと即答を避けた。
 沿道警備にあたった藩士らは、巨大な軍事力を見せつけて横暴を極めるロシア人への敵意を露わにして殺気だったが、主君の主命に従って屈辱に耐え隠忍自重した。
 5月27日 オールコック公使は、無事に、イギリス公使館が置かれていた江戸高輪東禅寺に入った。
 尊王攘夷派の志士は、対馬におけるロシア軍艦の不法行為とロシア人水兵の犯罪行為に激怒し、このまま外国人を放置しては神州日本が穢され、万世一系男系天皇(直系長子相続)の玉体が危ないとして憤激した。
 5月28日 水戸藩脱藩の攘夷派浪士14名が、イギリス公使オールコックらを殺害する為に、品川東禅寺の仮公使館を襲撃した。
 7月9日 オールコック公使とイギリス海軍中将ホープは、窮地に立たされた幕府に対し、イギリス艦隊の圧力によるロシア軍艦退去を提案した。
 老中・安藤信正は、再度、箱館奉行・村垣範正に命じてロシア領事に抗議を行わせた。自国の国益を守るだけの海軍力を持たないだけに、イギリスの提案を好意と受け止めてイギリスに軍事介入を依頼した。
 攘夷派は、本気で自国を自力で守ろうとしない幕府の弱腰に激怒し、キリスト教諸国の侵略に対抗すべきであると主張した。
 オールコック公使は、軍事力を強化して自国の国益を守ろうとしない幕府の無能ぶりを見て、ロシア帝国よりも先に対馬を租借させるべくであると本国政府に提案した。
 フランスは、イギリスの意図を察知して、対馬海峡の有利な通行権を確保するべく幕府に好意的な姿勢をみせはじめた。
 7月23日 ホープ中将は、イギリス東洋艦隊の軍艦2隻を対馬に回航して示威行動し、ロシア軍艦の退去を迫った。
 8月15日 ロシア領事ゴシケーヴィチは、イギリスが本腰で介入した事に形勢不利と判断し、軍艦ヲフルチニックを対馬に急派してビリリョフ艦長を説得した。ポサドニック号は、イギリス軍艦との戦闘が両国の戦争に発展する事を警戒して対馬から退去した。
 だが、ロシア帝国対馬海峡を占有する意思が消滅したわけではない以上、日本領対馬がロシア領になる恐れが消えたわけではなかった。
 軍事力を持たない外交は無意味であり、軍事力を否定した正論の外交は滅亡しかもたらさなかった。
 ゴールドバーグ「外交とは、最も汚い事を、最も美しくなすという事である」
 ヘンリー・ウォット「外交官とは、嘘をつく為に海外に派遣される正直な人間である」
 9月 老中・安藤信正は、外国奉行・野々山兼寛らを対馬に派遣して、ロシア人が建設した兵舎などを破壊してその材料は長崎奉行所に保管させた。
   ・   ・   ・   
 1862年1月 老中・安藤信正は、江戸城坂下門外で、水戸藩脱藩浪士に襲撃されて負傷し、失脚した。
   ・   ・   ・   
 外国を見聞して来た幕府内の改革派は、欧米列強の侵略から日本を守る為には、諸藩・諸大名によるの地方分権的連合体ではなく徳川家を中心とした中央統一政体を造り、強力な海防が必要性であると訴えた。
 能力ではなく家柄のみで幕閣となっていた守旧派は、諸外国と外交交渉を重ねるにつれて世界情勢の知識が豊富となり、祖法では欧米列強の奴隷にされる事を自覚して幕府の改革に同意した。
 旧態依然の体制で利益を得ていた既得権層も、中国やインドの様に自分の利益のみで欧米列強とつながる事は、皇室を中心とした国體・国柄の消滅につながるとして、不承不承ならも変革を受け入れた。
 幕府は、東洋的な感覚が時代遅れになっている事を痛感し、新たな時代に対応するべく西洋の知識が豊富な改革派の意見を聞きながら舵を切り始めた。
 幕府の改革派は、西洋に自ら出向いて実地検分し、西洋諸政府との外交交渉にのぞみ、肌身で厳しい国際情勢の洗礼を受けてきた現実重視の実務家であった。
 だが。欧米列強の帝国主義侵略は、脆弱な日本を怒濤の如く襲い、幕府の緩やかな変革を許さなかった。
 尊皇攘夷派や勤皇の志士は、目の前に迫った西洋の東洋侵略という激流に対し、戦争を避けた話し合いによる解決という弱腰の対応と、即事国防力強化という軍事優先策をとらない幕府に激怒して爆発した。
 「おもてなし」の精神を美徳として育んできた内向的な鎖国時代の日本人は、礼節を蔑ろにし、信義を踏みにじり、道理を無視して、武力をちらつかせた恫喝や脅迫や威嚇といった砲艦外交を行う外国を蕃国として打ち払おうとした。
 自分の事よりも相手の事を神経質的に気を遣う気の弱い日本人は、中国や朝鮮の様に自分の価値観に囚われて、単細胞的に、異文化の外国人が嫌いなわけでもなく、珍しい物品を多く持って来る異国との交易を拒絶したいわけではなかった。
 相手の事、日本の事を、理解せず、配慮もせず、がなり立てながら土足で家に上がり込んで、家人の迷惑も顧みず我が家の如く振る舞い、自分の物のように家具調度をかき回し、断りもなく自分の物の様に使って破損させ、清潔に掃き清めた場所を汚し散らかし、穏やかな静寂を破壊し台無しにする、自分だけ良ければ他人の事など気にしないという「和」を乱す理不尽な行為が我慢ならなかったのである。
 弱小国日本は、島国という狭苦しい閉鎖された空間であっただけに、何時までも、いがみ合って内輪揉めをし、議論ばかりして何も決められず先送りし、責任回避で事なかれ的に行動を起こす、目を逸らして無関心で済まされる国情にはなかった。
 だが。独断専横の独裁的英雄・指導者が育たない生ぬるさから、その決断を行う為には何時も時間がかかっていた。
   ・   ・   ・   
 日本人の気質は、自然災害多発地帯という人智では如何とも解決できない理不尽な暴力地帯で、大陸の他国に逃げ出せない島国で生きる中で培われてきた。
 日本が島国として、海が防波堤として他国の侵略を拒んだという事は、海は日本人を受島国に閉じ込めた事を意味する。
 何故なら。軍艦は、何時の時代でも国家の威信をかけて建造されて最新鋭で頑丈な軍船である。それに比べて、民間船などは足下にも及ばない。
 軍船が攻めてこられない海は、民間船の航行を拒絶する海である。
   ・   ・   ・   
 日本の尊皇攘夷と中国や朝鮮の尊皇攘夷とは、本質から違う。
 その違いゆえに。日本は、近代化し、軍事力を強化して、欧米列強に植民地にされず、白人キリスト教徒の奴隷となら、国際情勢を上手く利用して独力で自主独立を守り通した。
 清国は、軍閥による内戦で衰退し、欧米列強の蚕食されて滅亡した。
 朝鮮は、さらに惨めに、宗主国・清国(中国)から見捨て、日本に合邦され消滅した。
 国家の命運は自国民が決める事であり、衰退滅亡は他国ではなく自国に責任がある。
 近代に於ける中国と朝鮮の悲惨な責任は、日本ではなく、それを許した中国人と朝鮮人の責任である。
   ・   ・   ・   
 ドイツの歴史的責任とは、国家と特定民族・ユダヤ人との問題である。
 日本の歴史的責任とは、国家と国家の問題である。
 ドイツの問題は民族問題であり、日本の問題は国家間問題である。
 歴史的事実として、人種・民族問題は深刻な問題であるが、国家間問題はそれ程の問題ではない。
 世界史に於いて、侵略して征服した或いは侵略され征服された問題は、人類史の必然でり、その事を取り上げたら人間の歴史そのものが成り立たなくなる。
   ・   ・   ・   
 日本は、国家の独立と民族の安全の為に、「一身の独立なくして、一国の独立なし」(福沢諭吉)の信念で、一国のみという孤独な状況にもめげずに、武器を持って死に物狂いで戦い続けた。
 朝鮮は、生きる事を最優先として「独立自尊」(福沢諭吉)という自尊心を捨て、武器を持って戦わず、大国の軍事力に依存して生き延びようとしただけである。
 中国は、「夷を以て夷を制す」として、本気で日本と戦わず、他国の軍隊が介入するのを待ちながら逃げ回っただけである。
   ・   ・   ・  
 尊皇派や勤皇の志士は、西洋の侵略に対抗する為に神の裔・天皇を中心に据えた中央集権政府を樹立しようとした。
 世界から侵略戦争を行った戦争犯罪国家と告発される、日本型軍国主義国家の誕生である。
 軍国主義に基ずく殖産興業と富国強兵の両政策が、日本が生き残れる唯一の道であった。
   ・   ・   ・  
 日本は、弱肉強食の容赦なき非情な外交交渉を繰り返す事で、如何なる国も自国の国益を拡大する為に、理不尽な要求を武力を背景として強引に押し付けてくる事を痛感した。
 幕末の動乱は、こうして起きていった。
   ・   ・   ・   
 ヨーロッパの大地は、同じキリスト教を信仰していながら殺し合い、戦乱による流血が絶えない大地となっていた。
 西洋史の大半は、戦争史であり、平和史はほんの僅かな年数でしかかない。
 西洋のキリスト教文明は、中国・朝鮮の儒教文明同様に、弱肉強食の戦争文明である。
   ・   ・   ・   
 1866年 普墺戦争

   ・   ・   ・   

☭8」─1─バルチック艦隊を撃滅した海洋戦略思想は水戸学の『新論』にあった。幕府海軍。本土決戦思想。~No.20No.21No.22 * ⑦ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つを立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   ・   
 攘夷の主敵はロシアであった。
   ・   ・   ・   
 2018年2月号 新潮45「水戸学の世界地図 片山杜秀
 31 天皇と船大工
 ロシア皇帝が船大工に身をやつす。オペラの元ネタは史実だった。『文明開化』の悲喜劇。
 『ドイツ語の職人』のオペラ
 『ロシア皇帝と船大工』という名のオペラがある。1837年にライプツィヒで初演された。とても楽しいものである。喜歌劇に分類される。作曲したのはアルベルト・ロルツィング。1801年にベルリンで生まれた。シューベルトより4つ年下、ベルリオーズより2つ年上になる、ナポレオン戦争の終わりが少年期に当たる世代だ。
 ……
 このフリーメイソンの組織は、時代が下がるにつれて変質した。ヨーロッパで、封建諸侯の領土の境界・国境・言語圏の壁を越えて活躍するが、特殊かつ高度な技能をもった職人だけではなく、経済や学問や文化芸術に関わる人々にとっても当たり前になってくると、彼らにも国の枠組みとは別のセーフティー・ネットが必要になってくる。その役割を担ったひとつがフリーメイソンだったと考えることができる。あちこちを渡り歩く俳優で演出家で歌手で作曲家のロルツィングは、フリーメイソンのメンバーになることで何らかの安心を物心両面で得ていたに違いない。
 フリーメイソンの起源は、繰り返せば石工である。職人のメソッドやスキルに象徴される、科学技術や文化芸術の国境を越えて共有されてゆくわざ。それに自分たちが支えられ、そのわざを人類愛的な理想を持って広めるのが自分たちの使命だと考えることに、フリーメイソンの思想の根幹があるだろう。それを確認しようと思ったら、職人讃美という主題に行き着く。そこにロルツィングの思想がある。
 だが『ロシア皇帝が船大工』に関していうと、それだけではない。職人讃美のための作り話だとしたら、あまりにも不自然すぎる。なぜロシア皇帝ともあろう人物が遠い異国で一介の労働者になっているのか。
 ロシア史に明るい方には改めて申すまでもない。物語の土台には実話がある。ロシアの脱走兵と市長の娘の恋物語は作り話にしても、ロシア皇帝がザールダムならぬオランダのアムステルダムで船の建造を自ら手掛けたことは本当にあった。ロシア皇帝が船大工だった。しかも帝位に就く前の下積み時代とかの話ではない。豊臣秀吉のように草履取りが太閤殿下になった話ではない。皇帝が身分を隠して船大工をしていた。史実とされている。
 その皇帝とは、ロマノフ王朝ピョートル大帝ことピョートル1世(1672〜1725年)である。ローマ帝国カエサルを語源とするツァーを16世紀にイワン雷帝が名乗って以来、ロシアはヨーロッパ東方の強国として躍進を続けていた。しかし、西欧・中欧諸国に比べれば、政治の仕組みも経済の程度も科学技術も、まだまだ遙かに劣っていた。ピョートル1世は遅れを一気に挽回したかった。ロシア帝国を西方と肩を並べる大国へと促成したかった。そのために大胆な開明路線をとった。
 まさにロシア帝国の『文明開化』である。その象徴が大使節団の派遣だった。ピョートル1世は1697年3月から翌8月までの1年半ものあいだ、約250名に及ぶ使節団を西欧・中欧に派遣した。オランダ、イギリス、プロイセンザクセンハプスブルク帝国などを歴訪させた。種々の外交交渉のためでもあるが、何よりまずは西方諸国の制度や科学技術を学ばせることに主眼があった。一行がいちばん長く居たのはオランダである。4ヵ月以上も滞在していた。
 岩倉使節団と『文明開化』
 日本人ならこの話を聞いて思い出すことがあろう。いわゆる岩倉使節団である。1871(明治4)年の暮れから翌々年の秋までの2年近くものあいだ、岩倉具視を正使とする100名以上の大使節団が欧米を回った。メンバーは岩倉のほか、木戸孝允大久保利通由利公正山田顕義田中光顕、佐佐木高行、金子堅太郎、牧野伸顕中江兆民等々。当時の新政府の指導者や後世の要人ばかりと称しても過言ではない。
 いちばん長く滞在したのはアメリカで8ヵ月。イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、オーストリア、スイス、ロシアなどにも行っている。この岩倉使節団は身も蓋もない言い方をすると『174年遅れのピョートル大帝使節団』であろう。これほどの大物たちが国を留守にして大丈夫かと心配になるくらいの、大胆な規模と期間に及ぶ洋行。それを以て『文明開化』の礎にする。ロシアの真似としか言いようがあるまい。
 だが、日本がロシアほど大胆でなかったところがある。『ロシア皇帝と船大工』は実話を基にしていると述べた。ピョートル・ミハイロフという偽名を使って。『ロシア皇帝と船大工』でロシア皇帝の変名がペーター・ミヒャエロフなのは、この史実に由来する。なぜ皇帝が偽名を使ったかといえば、皇帝本人は本国にとどまっていると敵対勢力に対して偽装しようとしたからである。方便であり策略である。岩倉使節団明治天皇が公家か士族を名乗って紛れ込んでいたようなものだ。維新政府がそこまでやったことにすれば、小説や漫画やオペラが幾らでもできそうだが、ピョートル1世は実際にそれをした。大国の皇帝が18世紀目前に。やはり驚くべき出来事である。
 ピョートル1世の喫緊の課題。それは海軍建設であった。ロシア帝国にはそれなりの軍事力がある。ユーラシア大陸で騎馬を中心とした陸戦の伝統は西方の教えも受けながら築かれている。だが、近代国家として脱皮を遂げるには国富の増進が必要で、そのためには海上貿易が欠かせない。陸路だけでは限界がある。海が必要だ。
 しかるに、バトル海はスウェーデンに、黒海オスマン帝国に押さえられている。そもそもロシアにはまともな海軍が無かった。建軍から始めねばならなかった。ピョートル1世は造船所を作り、軍艦の建造に取り組んだ。でも当然ながら技術がない。イギリスやオランダにも負けない軍艦はどうしたらできるのか。ピョートル1世の大使節団の目標は造船技術の習得だった。だからピョートル1世はピョートル・ミハイロフを名乗ってアムステルダムで船大工をした。現場で働きながら皇帝自ら学んだ。こうしてスウェーデンオスマン帝国に対抗するロシア海軍が促成された。その海軍がそれから1世紀を経ずして極東に出没するようになった。今日の北方領土を巡って悶着が絶えなくなった。
 このロシアの近代軍艦事始をめぐる秘話は、19世紀のはじめには日本で知られていた。会沢正志斎の『新論』にも出てくる。『新論』は1825(文政8)年に仕上げられているから、オペラ『ロシア皇帝と船大工』の初演よりも12年前。ほぼ同時代である。偶然でもあるまい。ロシアの海軍力への関心が、ロシアの西でも東でも高まっていたということであろ。正志斎は次のようにしたためている。
 『鄂羅(ロシア)の汗(君主)、伯得勤(ペトル=ピョートル)なる者、かつて徴服して船匠となり、間行して荷蘭(オランダ)に到り、大船を造ることを習ふ。鄂羅のよく大舶を用ひ、航海術に精しきは、蓋しこれを始めとなす。実に元禄年間のことなりと云う。虜情の心を用ふることなほかくのごとし。況や中国にして返つて自ら捨ててなさざらんや』
 『徴服して船匠となり』とは『身分を隠して造船技術者となり』の意。『間行して』とは『伴も連れずに平民を装って』の意。ピョートル大帝の大使節団は元禄10年把握も正確である。元は建艦技術をもったく持たなかったロシアが、そう長い時間をかけずに優れた海軍を建設し、中国=皇国=日本を脅かしている。夷狄ですらそこまでやっている。日本も諦めずに粉骨砕身すれば、ロシアに出来ていることがやれないはずはない。ロシア皇帝がやったように、たとえスパイ行為をしてでも異国の科学技術を取り入れれば、短期間に強力な海軍を建設可能と説いている。
 尊皇攘夷の方策として、まずは天皇中心で神道の力により士農工商の人心をまとめ、日本の特別な国体を自覚させて、ナショナリズムを呼び覚まし、贅沢慣れした武士には、愛国心に基づく耐乏生活を求め、それによって武家の経済を切り詰めて、浮いた富で武士階級を増員し、ひいては国民総動員で海岸線防御をはかるべきという。つまりこれは陸軍の話である。海からの侵略を水際で防ぐ話である。
 明治維新後もしばらくのあいだ国防思想の根幹は、日本本土での水際撃滅であった。海沿いに砲台を築き、要塞を建設し、敵を近付けない。明治前期の日本は、もしも清やロシアとの戦争になったら、陸軍を朝鮮半島や中国大陸に送り出して敵地でばかり戦えるとは、必ずしも思っていなかった。国力に劣る日本としては、向こうからやってくる敵を自国で退けるしか手はあるまい。近代初期の日本の国防は、江戸時代の鎖国海防論の延長線上に構築された。要するに本土決戦の思想である。その名残りとして、東京湾舞鶴対馬をはじめとする全国各地の要塞は第二次世界大戦の終わりまで機能し、敗戦間際まで米軍上陸に備えていた。
 だが正志斎は、1820年代の段階で既に、陸上戦力に頼った海防を上策とは考えていなかった。西洋の軍艦の能力が向上した今となっては、いざというとき敵は日本の至るところを砲撃し、至るところから上陸してくると思わねばならない。1820年代まで、いや、その後も幕府や諸藩の海防論の主流は砲台建設や水際撃滅だったが、正志斎はそれでは無理があると考える。日本中の海岸線に屯田兵を張り付けての国防が現時点で可能な策には違いない。が、やはり海防には大砲が必要であり、大砲の移動は容易でない。日本沿海を自由に動き回る西洋の巨艦に対し、幾ら大砲を並べても追いつかない。
 したがって陸上から海岸防備は当座の策であり、可及的速やかに、国家何十年かの計をもってロシアやイギリスに負けない海軍を有さねばならない。そして先手を打つ。日本に近付いてくる敵海軍をなるたけ遠方で捕捉して撃滅する。これがいちばん効率的であり安全である。専守防衛は突き詰めると長躯しての予防攻撃になる。先制攻撃が必要なのだ。それを可能にするのは海軍力である。そこで『新論』はピョートル大帝のエピソードを強調する。
 大帝はロシア海軍建設に必要な技術をどこから導入したか。オランダではないか。鎖国日本が長崎で交際している唯一の西洋国である。鎖国を守りながら西洋の技術を学び、強力な艦隊を揃えるというのは決して夢物語ではあるまい。ロシア皇帝が船匠になったのなら、日本の天皇や将軍が同様の覚悟をもてば必ず海国日本に相応しい海軍を有しうる。
 そこまで行けば、日本は、世界に冠たる天皇の国、真の中国としての性質を発揮して、日本に邪心を持つすべての国を屈服させられるだろう。真の尊皇攘夷鎖国海防ではない。皇国に無断で近付く敵艦を一隻も出さないために、強力な皇国海軍によって先手必勝で世界の制海権を獲得することである。かくして尊皇攘夷の目標は、海上決戦の勝利による世界制覇へと一挙に飛躍する」
   ・   ・   ・   
 イスラム教のムガル帝国がなぜいとも簡単に滅亡し、ムガル帝室がどうしてインド人らから見捨てられて悲惨な末路を辿って消滅したのか。
 日本が研究すべきは、清国衰退ではなくムガル帝国滅亡の方である。
   ・   ・   ・   
 ロシアの日本侵略という脅威は、1700年代後半の田沼意次時代からすでに存在していた。
 林子平や工藤平助ら西洋事情・ロシア事情に詳しかった知識人達は、母国の危機を訴え、海防強化を幕府に求めていた。
 愛国心と尊皇の志を持った市井の臣らは、ロシア人を「赤蝦夷」と読んでいた。
 市井の臣とは、武士・サムライだけではなく、百姓や町人などの庶民や非人・エタ・散所などの賤民や山の民・川の民・海の民達にも数多く存在していた。
 勤皇や尊皇の志が強かったのは、武士や庶民(百姓や町人)ではなく、差別され虐げられていた非人・エタ・散所などの賤民や山の民・川の民・海の民などの極貧の部落民であった。
 賤民・部落民は、江戸時代、明治後期から昭和初期、昭和中期以降では全く異なる日本人である。
   ・   ・   ・   
 田沼意次は、「禍転じて福となす」として、幕府財政赤字を解消する為に開国してロシアとの交易を始めるべく蝦夷地・樺太北方領土探索の調査団を派遣した。
 その中に、出羽国村山郡楯岡村(現在の山形県村山市楯岡)の貧しい百姓の子・最上徳内が下人扱いの小者として参加していた。
   ・   ・   ・   
 身分が低い庶民でも、才能があり努力する者には武士になる道はあり、さらに滅私奉公で忠勤に励む者は成り上がり、勘定奉行町奉行遠国奉行などに昇進した。
   ・   ・   ・   
 武士の宮仕えは、極端最悪なブラック職場で、気力と体力がなければ務まらず、図太く・図々しく・強靭な精神力がないと生きられなかった。
 賄賂を拒否するような清廉潔白を貫く者は、空気を読まない協調性に欠ける偏屈者として武士社会から締め出された。
   ・   ・   ・   
 1772(安永元)年 田沼意次は軽輩の身分から成り上がって老中に就任した。
 1781(天明年)年 工藤平助は『赤蝦夷風説考』を刊行して警鐘を鳴らした。
 1791(寛政3)年 林子平は『海国兵談』を刊行して対ロシア兵備の急務を訴えた。
 松平定信は、国法の鎖国策を守るべく田沼意次蝦夷地開発及びロシアとの交易を潰し、林子平を御上・御公儀の政に口出す不届き者として罰し『海国兵談』を禁書として絶版させ、ロシアの脅威を世間から隠した。
 1807年5月30日(文化4年4月23日)〜1807年6月6日(文化4年5月1日) 文化露寇事件。(シャナ事件・北辺紛争・フヴォストフ事件)。
 幕府は、松前蝦夷地・樺太北方領土すべてを直轄する松前奉行所を新設し、南部・津軽・秋田など東北諸藩に警備の派兵を命じた。
 12月 幕府は、ロシア船打払令を発布して、幕府軍の増強を謀った。
 津軽藩士殉難事件。フヴォストフは、津軽藩士を殺害した。
 1808年 幕府は、蝦夷地・北方領土樺太防衛強化の為に奥羽諸藩に更なる兵隊の増派を命じた。合計兵力、約4,000人。
 皇帝アレクサンドル1世は、ロシア海軍の日本領北方領土への暴挙を聞くや全軍撤収命令を下し、フヴォストフは処罰された。 
 1839年 蛮社の獄水野忠邦は、ロシアの侵略ヘの防備強化より幕藩の権威を維持を最優先として洋学・蘭学を禁止する言論弾圧を行った。
   ・   ・   ・   
 水戸学は、皇室と神道邪教キリスト教から護り、神国日本を海軍力で夷敵・ロシアの侵略を守る為に、啓蒙書「新論」を発表した。
 後の、吉田松陰尊皇攘夷派・勤皇の志士に母国防衛・皇室守護の武力的献策を残した。
 吉田松陰が、「朝鮮や清国を攻めて領土とすべし」と高杉晋作山県有朋伊藤博文らに説いたのは、ロシアの侵略から母国日本と天皇家・皇室を守る積極的国防策であった。
 勝海舟西郷隆盛らが目指した、日本・清国・朝鮮の攻守軍事同盟も対ロシア戦略であった。
   ・   ・   ・   
 ロシアが、本気で日本を侵略しようとしていたかは分からない。
 だが、市井の知識人は、西洋勢力近代化(キリスト教化)の大義でアジアやアフリカを侵略し植民地を拡大し原住民を奴隷としている事を知っていた為に、ロシアの日本接近を侵略と認識した。
   ・   ・   ・   
 現代のグローバルな日本人と当時のローカルな日本人は、世界情勢に対する認識と母国存亡への覚悟からして別人の日本人である。
 現代日本人が、世界をよく知っていて賢く優れているわけではない。
 当時の日本人が、世界を知らず馬鹿で愚かであったわくではない。 
 当時の日本人は、世界の情勢から目を逸らした「井の中の蛙」ではなかった事だけは確かである。
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 幕府海軍は、江戸幕府が設置した、海上戦闘を任務とした西洋式軍備の海軍である。長州征討などで活動し、慶応3年(1867年)10月14日の大政奉還で幕府が消滅し、明治元年(1868年)4月11日の江戸開城後も戊辰戦争において榎本武揚に率いられ戦闘を続けた。
 沿革
 中近世的水軍と沿岸警備
 江戸幕府には、もともと、戦国大名時代に徳川氏の傘下に入った海賊衆を起源として、船手頭に率いられた水軍が設置されていた。しかし実戦参加は大坂の陣が最後であり、1635年(寛永12年)の武家諸法度の改正による大船建造の禁の発効によって外洋行動能力を喪失した。近世後期の段階では実効的な戦闘能力を失い、実質的には水上警察となっていた。中小の関船や小早が主力となっており、最大の軍船である関船「天地丸」(76挺艪)も、将軍の御座船として華麗な姿ではあったが、軍艦としての実用性は失っていた。
 寛政4年(1792年)のアダム・ラクスマンの来航を端緒として外国船の来航が頻繁になると、幕府も、同年にさっそく海岸防禦御用掛を設置したほか、天明5年(1785年)の蝦夷地調査や文化7年(1810年)の会津・白河両藩への江戸内海警備任命など、沿岸警備体制の強化に着手した。また海上戦力の整備も試みられ、嘉永2年(1849年)には、東京湾海上警備を担当する浦賀奉行所用としてスループ系統の和洋折衷船「蒼隼丸」が竣工、続いて同型船も建造された]。しかしこれらも沿岸警備の延長線上であり、近代海軍の創設というよりは、中近世的な水軍の強化というべき施策であった。
 このためもあり、嘉永6年(1853年)の黒船来航に際して、御船手や諸藩、浦賀奉行所の軍船の任務は偵察・伝令などに限定され、戦闘的な役割は付与されなかった。
 洋式船の導入と海軍伝習
 嘉永6年(1853年)の黒船来航直後より、急激な海軍力の整備が開始された。ペリー艦隊の浦賀退去からわずか1週間後の6月19日にはオランダからの艦船輸入が決定され、8月8日には西洋式軍備の導入に先進的だった水戸藩に旭日丸建造の内命を下し、9月5日には浦賀奉行鳳凰丸の建造を命じた。そして9月15日には「大船建造禁令」が解除され、諸藩でも軍艦建造への道が開かれた。
 オランダ商館長ヤン・ドンケル・クルティウス(後の初代駐日オランダ理事官)は、長崎奉行水野忠徳からの帆走フリゲートと蒸気コルベット各1隻の建造照会を受けて、オランダ領東インドに配備されていた蒸気機関搭載の植民地警備艦「スンビン」を日本に召致して展示することにより、建造注文と要員養成の教育委託をすることを提案した。「スンビン」は嘉永7年(1854年)8月に長崎に入港し、同地の警備を担当する佐賀藩鍋島直正の視察を受けた際に譲渡の希望を受けた。クルティウスは「将来の多数の受注のためにはまず1隻を献上するのが得策である」と本国政府に上申した。
 これを受けて、同艦はオランダ国王ウィレム3世から13代将軍徳川家定に贈呈されることになり、安政2年(1855年)6月、長崎に再入港した。「観光丸」と改称された同艦を練習艦とし、オランダ海軍から派遣されたライケン大尉以下22名を教官として、長崎海軍伝習所が開設された。オランダからは1857年にも37名の教官団が派遣されており、5年間にわたる伝習期間を通じて、幕府以外にも佐賀・福岡・熊本・薩摩・長州・土佐など諸藩からも伝習員が派遣され、計200名以上が入校した。これにより、幕府海軍の中核を担う士官が多く輩出された。
 また、長崎という遠隔地での伝習による不都合が指摘されたことから、これと並行して、江戸にも海軍教育機関を設置することになり、安政4年(1857年)、永井尚志や矢田堀鴻など第一次伝習生の一部が「観光丸」で江戸に移動し、講武所内に軍艦操練所が開設された。
 安政7年(1860年)、日米修好通商条約の批准書を交換するため、遣米使節団が派遣されることになった際、正使一行はアメリカ軍艦ポーハタン号に乗艦することになっていたが、同艦だけでは使節団の全員を収容できないことから、幕府海軍の練習航海も兼ねて、咸臨丸も派米された。往路の荒天下では、便乗していたジョン・ブルック大尉以下アメリカ海軍軍人が艦の運用のほとんどを代行する状況もあったとはいえ、往復83日間・合計10,775海里 (19,955km)の大航海を一人の死者もなく成功させたほか、アメリカ海軍の実情視察という成果もあった。しかし一方で、航海・運用の技量不足という重大な問題点が顕在化したものの、こちらは当時取り上げられることはなかった[11]。
長崎伝習所は安政6年(1859年)に閉鎖されたが、同年に軍艦奉行の役職が新設され、永井尚志が任命された。
 文久の軍制改革と作戦行動
 文久元年(1861年)5月、軍制改革を推進するため10名の軍制掛が任命された。海軍に関しては軍制掛の1人である軍艦奉行の木村を中心に改革の計画立案が行われた。同年6月、軍艦組が設置され、軍艦頭取に矢田堀鴻、小野友五郎、伴鉄太郎が任命され、後に荒井郁之助、肥田浜五郎、木下謹吾(伊沢謹吾)らが軍艦頭取に加えられた。文久2年(1862年)7月に船手組が、同年8月には小普請組288名が軍艦組に編入された。同年、関船などの在来型軍船は全廃された。
 同年、国産蒸気船「千代田形」の建造を開始。さらに、留学生のオランダ派遣、軍艦の海外発注(アメリカ:「富士山」「東艦」、オランダ:「開陽丸」)を実施した。多数の中古船の輸入も進められた。また大阪湾の防備拠点として神戸に着目する勝の運用構想に伴って、新たな海軍教育機関として、元治元年(1864年)に神戸海軍操練所も開校されたが、これは翌慶応元年(1865年)には閉鎖されてしまった。
 また閏8月、軍艦奉行 木村摂津守により、海軍大拡張計画が提案された。これは日本を6つの警備管区に分けて艦隊を整備するもので、艦船370艘、乗員61,205人と見込まれていた。しかし政事総裁職 松平春嶽は幕府に海軍の権能を集中させる点に反発し、また軍艦奉行勝麟太郎も計画のコストの高さを批判したことから、この計画は採択されず、木村は文久3年(1863年)9月26日に軍艦奉行を辞職した。
 幕府海軍の艦船は、国内での部隊や物資、要人輸送などに活躍した。また水戸浪士による横浜居留地襲撃の噂があったことから、万延元年(1860年)閏3月より、神奈川港において、講武所の剣術・槍術修行人を乗艦させた軍艦2隻による常駐警備が開始されたが、可動艦に余裕がなく、また実際の襲撃が起きなかったこともあり、元治元年(1864年)4月に終了となった。
 その後、同年3月に勃発した天狗党の乱への鎮定に投入されることになり、沖合を偵察する筑波勢の小舟を撃沈したほか、艦砲射撃も実施している。これは日本の近代海軍として初の実戦投入であった。

 初期の掲揚法の「旭日丸」
 初期の幕府海軍艦船は、日本船の総印として日の丸の旗を掲げ、別に幕府所属であることを示すために白紺の吹流しや黒帯の入った旗を用い、さらに帆にも黒帯を染め入れていた。これは、「鳳凰丸」などの整備に伴い、嘉永7年(1854年)に制定された方式である。嘉永6年8月(1853年9月頃)の浦賀奉行からの献策に基づいている。日の丸(朱の丸)は、従来から幕府御用船の標識(海外では国籍旗とみなされる)として用いられてきたものである。他方、白地に黒帯は、徳川氏の祖先とされる新田氏の源氏中黒旗に由来する。
 その後、安政6年(1859年)に掲揚法は改正され、幕府艦船であることを示す標識は、中黒の長旗に変更された。中黒の帆は廃止され、以後は白帆を用いることとされた。
   ・   ・   ・   ・
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人をキリスト教徒に改宗させ奴隷として世界中で売買し、異教徒の皇室を滅ぼして日本をキリスト教国家・神の王国・地上の天国に生まれ変わらせようとした。
 それが、キリシタンの夢であり偉大な使命であった。
   ・   ・   ・   
 日本には、キリスト教マルクス主義特に共産主義も馴染まなかった。
 非人・エタ・散所などの賤民や山の民・川の民・海の民などの部落民は、キリスト教世界の奴隷ではなかったし、儒教世界の家奴でもなかった。つまり人民でも大衆・民衆もなく、庶民の一部であった。
   ・   ・   ・   
 明治新政府とは、下級武士や庶民、さらには賤民や部落民が、ロシアの侵略から天皇家と母国日本を守るべく、天皇の伝統的権威を利用して武士の徳川幕府を打倒して樹立した革命政権であった。
   ・   ・   ・  
 李氏朝鮮が、文明開化によって近代化した明治新政府を毛嫌いして国交を拒絶したのは、国書に中華皇帝しか使用しない「皇」や「勅」の文字が有ったからではなく、身分卑しい下層民・下郎が叛乱を起こして樹立した不道徳・不義・不忠な逆臣政権だったからである。
 もし、徳川将軍家明治新政府の首班となっていたら、日本と朝鮮と対立・反目は起きず、日本の朝鮮併合も起きなかった。
 李氏朝鮮が日本の正統な統治者として認めていたのは、中華皇帝と対等な位置に存在する日本天皇であり、儒教価値観では国王より下位の位の大君・太守(長官)を称する徳川幕府であった。
 君主の位に過ぎない朝鮮にとって、主君である中華皇帝と同格を主張する日本天皇など認めるわけにはいかなかった。
 朝鮮国王は、中華世界では最下位に近い国王で、琉球国王よりも下座に追いやられていた。
 それは、中華皇帝への貢ぎ物と中華帝国から下賜品を見れば一目瞭然である。
 つまり、貢ぎ物の中に妓生(宮中慰安婦)と宦官(宮中奴隷)が含まれていたかどうかである。
 建国以来中華世界で屈辱を強いられてきた朝鮮にとって、格下の日本、それも下層民が叛乱で樹立した謀反の明治新政府と対等関係の国交など結ぶ気はさらさらなかった。
 あまつさえ、天に唾を吐くような行為、世界で唯一の皇帝である中華皇帝のみが使用できる「皇」や「勅」の神聖な尊き文字を、下賤なお日本が使用する事など認めるわけにはゆかなかった。
 正統派儒教の徒として、朝鮮人の面子が許さなかったのである。
   ・   ・   ・   
 日本としては、清国(中国)と朝鮮が、ロシアの日本侵略に直接的間接的に協力するとあれば敵と断定し、正当防衛として自衛戦争を発動し両国を撃滅・粉砕するしかなかった。
 それが、日清戦争であり、日韓併合であった。
 日清戦争日露戦争日韓併合は、ロシアの侵略から日本を守る為の防衛戦争つまり自衛戦争であった。
 日本は、清国(中国)・ロシア帝国に比べれば芥子粒ほどの貧弱国家であり、国力・軍事力・経済力など総合力に於いても吹けば飛ぶような弱小国家で、世界の常識は日本の敗北で一致していた。
 日本の歴史・中華の歴史そして世界の歴史は、日本の自衛戦争を大陸侵略戦争として否定している。
   ・   ・   ・   
 日本では、身分・出自に関係なく優秀で努力家には武士身分が与えられ、能力以上の重要な任務が与えられていた。
 武士は、「死を覚悟」して主君・主家に奉仕する者の事である。
 ただし、その地位は不安定で、幕閣内の政権闘争に巻き込まれて左遷されるか分からなかったが、下層身分から成り上がった俄(にわか)武士の大半は公に対する使命感に燃え信じる任務を、腐る事なく忠実に果たしていた。
 最悪は、上意で切腹を命じられる事もあった。
 最上徳内も、そうした一人である。
 日本の武士・サムライとは、「命を捨てる」事を定められた過酷で厳しい身分であった。
 そうした武士・サムライは、日本にあって中国や朝鮮にはなかった。
   ・   ・   ・   
 現代の歴史教育は、ロシアの軍事侵略から母国日本を軍事力で守り、キリスト教の宗教侵略から民族宗教神道と皇室をキリシタン弾圧で護ろうとした事は、人類に対する犯罪とされている。
 歴史教育を日本否定・日本批判・皇室無視・天皇制度憎悪へと悪意的に改竄したのは、戦後のキリスト教史観・マルクス主義共産主義)史観・近隣諸国条項に基ずく日本人残虐非道の極悪人史観であった。
   ・   ・   ・   
 現代の歴史教育を受けた命大事の現代日本人は、ロシアの侵略から母国日本と天皇を死んでも守ろうとした昔の日本人とは別人である。
   ・   ・   ・   

💣13」─4・A─ウクライナ戦争で変わる中立国。スイスはNATOに接近、オーストリアは中立堅持。~No.49 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2022年5月2512:39日 MicrosoftNews 時事通信「スイスもNATO接近か=オーストリアは中立堅持―ウクライナ侵攻で欧州に動き
 【パリ時事】ロシアのウクライナ侵攻を受け、これまで軍事的中立を保ってきた欧州諸国で、北大西洋条約機構NATO)との関係を見直す動きが進んでいる。スウェーデンフィンランドの加盟申請に続き、永世中立国スイスがNATOとの合同軍事訓練を検討。一方、オーストリアは中立を堅持すると強調している。
 © 時事通信 提供 訪問したスロバキアのチャプトバ大統領(左から4人目)を迎えるスイス軍の儀仗(ぎじょう)兵=19日、ベルン(EPA時事)
  ◇ 解釈変更  
 スイスは1815年、ウィーン会議永世中立が認められた。国民皆兵制度を採用して軍事同盟を結ばず、紛争当事国への武器提供などが厳しく制限されている。
 ロイター通信によると、スイス国防省NATOとの合同軍事訓練を含む安全保障に関する報告書を作成中で、9月末にも議会に提出する。同省幹部はロイターに「最終的に『中立』の解釈が変わる可能性もある」と説明。一方で「スイスがNATOに加盟することはないだろう」とも述べ、あくまで関係強化にとどまると強調した。
 国民の間でも加盟に慎重な声が多い。4月の世論調査では、NATOとの関係強化に56%が賛成したが、加盟への賛成は33%にとどまった。
  ◇ 政界で温度差
 中立国としての立ち位置をめぐり、スイス政界の意見は割れている。ロイターによれば、連立政権を組む中道右派自由民主党のブルカルト党首は、全面的なNATO加盟は望まないとしつつ、中立性は「柔軟であるべきだ」と指摘した。これに対し最大勢力の右派国民党幹部のケレール氏は、NATO接近は中立性と相いれないと強調。「この外交方針がわれわれに平和と繁栄をもたらした。変える理由は何もない」と述べた。
 NATO接近の動きに、ロシアの警戒感は強い。フランスのBFMテレビによると、在スイス・ロシア大使館の報道官は「劇的な変化」を「無視できない」と指摘。スイスとの関係に「影響」があると警告した。
 ◇ ガス依存で立場複雑
 オーストリアは1955年に永世中立を宣言した。95年に欧州連合(EU)に加盟する一方、天然ガスの8割を依存するロシアとも良好な関係を維持。NATOとの関係では、スイスより複雑な立場に置かれている。
 オーストリアのネハンマー首相は4月11日、欧米の首脳では初めてウクライナ侵攻後にロシアのプーチン大統領と対面会談し、仲介に乗り出した。ドイツ公共放送ドイチェ・ウェレによれば、ネハンマー氏は会談前に「オーストリアは今も、これからも中立であり続ける」と強調し、NATO加盟を否定した。
 ただ、対ロ関係で変化の兆しもある。オーストリア政府は今月18日、ロシアへのガス依存を7割に引き下げることを目的とする緊急計画を発表。2027年までにロシアからの化石燃料輸入停止を目指すEUの方針に沿ったもので、AFP通信は「ロシアとの結び付きが強いオーストリアにとって、転機となるだろう」と報じている。」 
   ・   ・   ・   

🗽2─2─北米最大の洞窟壁画。アメリカ先住民文化。推定約1,500年前。〜No.3No.4 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2022年5月21日 MicrosoftNews ギズモード・ジャパン「アラバマで発見された北米最大の洞窟壁画。アメリカ先住民文化のルーツが垣間見える
 たもり
 洞窟で作業をする、研究の共著者のStephen Alvarez氏 Photo: A. Cressler洞窟で作業をする、研究の共著者のStephen Alvarez氏 Photo: A. Cressler
不思議な抽象画たち。
 ある研究チームが米国アラバマ州にある鍾乳洞の天井をスキャンしたところ、アメリカ先住民が制作したとされる、推定約1,500年前の大きな壁画が発見されました。
 これらの壁画は人のような形状や動物、抽象的な形を描写しており、研究者たちの計算によれば2世紀から10世紀の間に洞窟の天井に刻まれたとか。彼らは洞窟及び壁画の非常にリアルな3Dモデルを生成し、その研究成果はAntiquity誌に掲載されました。
 光の届かない洞窟で眠っていた絵画たち
 アラバマ州にある洞窟は、所在地を保護するために19番目の無名の洞窟と呼ばれおり、その内部にはヨーロッパ人が北米にやってくる前にアメリカ先住民たちが泥に刻んだ何百点もの壁画が存在していました。絵が刻まれていた空間は25メートル×20メートルの広さで、天井の高さは大部分において0.6メートルほど。つまり壁画は、自然光の届かない洞窟内の暗い場所に存在していたということです。
 四角い頭と片足立ちが特徴の、式服を着ている人のような姿 Graphic: Photograph by S. Alvarez; illustration by J. Simek.
 テネシー大学の考古学者で研究の主著者を務めたJan Simek氏は米Gizmodoへのメールで、「即興で作ったものではありません。彼らは計画があって洞窟の中に行き、描く予定の絵と、描くスケールを把握していました」とコメント。「これらは落書きではありません。彼らにとって意味を持つことが明らかな計画された絵です」と答えていました。
 壁画は洞窟内の暗い場所に位置していたため、描くに当たって米国産の竹を束ねた松明の灯を使っていたと考えられます。それゆえSimek氏は、松明を持ったまま窮屈な洞窟の天井に絵を刻むのは難しいだろうから、少なくともふたり以上の集団によって壁画は制作されていたと推測しています。
 洞窟内の冷たく湿気を帯びた空気によって、泥が天井に薄くくっついていたため、アーティストたちは泥に絵を刻むことができ、絵は長期的に保存されていたのです。壁画が刻まれたとされる時期には幅があり、放射性炭素年代測定では、壁画があった場所で見つかった木炭の破片が紀元660年~949年、さらに奥の部屋にあった松明の燃えかすが紀元133年~433年頃のものと判明しました。
 壁画が白く強調された、19番目の無名の洞窟の天井全体のパノラマ写真 Photo: S. Alvarez
 アメリカ先住民たちが遺した貴重なアート
 壁画を制作した人たちの正体は不明ですが、十中八、九、今のアメリカ先住民たちの先祖でしょう。描かれた象徴や神話もまた不明ですが、研究者たちによると北米各地に存在する壁画や岩絵とテーマ的に似ているそう。
 巨大な壁画は、洞窟の3Dモデル化によって新たに発見されたものです。天井が低いため、洞窟内で全体像を見るのは物理的に不可能でしたが、研究者たちは天井全体をスキャンして、各壁画の画像をまとめ合わせました。Simek氏はすべての壁画を目録に載せられたわけではないと述べていたので、他にも新発見があるかもしれません。
 論文の中で研究者たちは、発見した壁画の中でも大きな絵5点について説明しています。式服を着ている人の姿に見える絵が数点あって、そのうち2点は全長およそ6フィート(約1.81メートル)、もう1点が全長3フィート(0.93メートル)でした。最も大きな壁画は11フィート(約3.37メートル)に及ぶヘビの絵で、研究チームいわく地域に自生するヒガシダイヤガラガラヘビ(Crotalus adamenteus)のものと似ている模様が描かれているとのこと。
 数百点の絵を出入りしにくい洞窟の真っ暗な奥まった場所に刻むという判断は理解しがたいものです。しかし、Simek氏は、意図があってその場所が選ばれたと言います。「それに彼らがアートを一斉に見ることができなかったとしても、それに見ることができたのは共同体の特定の人物だけだったとしても、彼らはそこにあるとわかっていたのです」とコメント。
 洞窟壁画の基準からすると、これらの絵は古いものとは言えません。フランスのラスコー洞窟は2万年近く前、そしてインドネシアの洞窟にあったブタの壁画は4万3000年前のものですからね。しかし、今回の壁画は、今でいう合衆国南東の先住民たちの文化を垣間見ることができる貴重な存在だといえます。
 7 枚のスライドの 1 枚目: 人間のような形で式服を着ていて、ガラガラか武器を振り回しているように見えます Graphic: Photograph by S. Alvarez; illustration by J. Simek.
 人間のような形で式服を着ていて、ガラガラか武器を振り回しているように見えます GRAPHIC: PHOTOGRAPH BY S. ALVAREZ; ILLUSTRATION BY J. SIMEK.」
   ・   ・   ・   

💞9」─2─歴史に目をつぶるポーランド。ユダヤ人をナチスに密告して殺したポーランド人。~No.26No.27No.28 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2018年2月22日 グローバルViews「歴史に目をつぶるポーランド ポピュリズムの重い代償
 有料会員が初回1カ月無料
 ベルリン支局 石川潤
 ドイツ南部で16~18日に開かれたミュンヘン安全保障会議でひときわ大きな拍手を浴びたのは、ユンケル欧州委員長でもメイ英首相でもなく、1人のジャーナリストだった。イスラエルの大手紙やニューヨーク・タイムズで活躍するローネン・バーグマン氏だ。
 バーグマン氏の母親は第2次世界大戦前にポーランドで生まれたユダヤ人だ。5歳の頃に教育大臣に表彰されるほど優秀な子どもだったが、戦争が始まると生活は一変。近所に暮らすポーランド人がゲシュタポ(秘密警察)に「ユダヤ人がいる」と密告すれば、命を失いかねない状況になった。
■母は「ポーランド語は話さない」と誓った
 まだ子どもだった母親がある夜、近所の住人が翌朝に自分たちを密告するつもりだという話を聞きつけ、ぎりぎりのところで一家は難を逃れた。すぐ近くに暮らしていたポーランド人の裏切り。戦後、母親は「残りの人生でポーランド語はただの一語も話さない」と誓ったという。
 バーグマン氏はこうしたいきさつを会議場でとつとつと語ると、壇上に座っていたポーランドのモラウィエツキ首相に語りかけた。「こんな話をすれば、私はあなたの国では犯罪者になってしまう」
 バーグマン氏の問いかけの背景には、ポーランドの上下両院を通過したばかりのいわく付きの法案がある。ポーランドナチスによるユダヤ人の大量虐殺(ホロコースト)に加担したと非難することを禁じる法律で、有罪になれば3年以下の禁錮か罰金となる。事実かどうかにかかわらず特定の言論を封じ込めかねない内容で、表現の自由を制限するだけでなく、歴史から目を背けることにつながるとイスラエルや米国が強く反発している。
バーグマン氏に対し、モラウィエツキ首相は「ドイツ人だけでなくポーランド人の中にも、ユダヤ人、ロシア人、ウクライナ人と同じように虐殺の加害者はいる。そう語ったとしても、犯罪にはならない」と答え、イスラエルをさらに激怒させた。外交問題を引き起こしてまで法案の制定を急ぐ狙いは何なのか。
 首相は法案の目的について、「ドイツ強制収容所」ではなく「ポーランド強制収容所」と表現するような間違いをなくすためだと強調した。アウシュビッツ収容所などはナチスドイツが生み出したが、現在の地図上ではポーランドにあるため、同国と結びつけられやすい。ポーランドは2017年だけで260回もこうした間違いをただしてきたという。
 ポーランドは戦後、共産圏に組み込まれたため、正確な情報を西側諸国に十分発信できなかったとの思いもある。モラウィエツキ首相は、ナチスによって消された村として有名なチェコのリディツェを引き合いに「ポーランドには800のリディツェがあった」と語った。ナチスの被害者である同国が、加害者のように扱われてはたまらないというのが首相の考えのようだ。
■法の支配に反した司法制度改革進める
 この法律によって、都合の悪い事実に目をつむることにならないだろうか。ポーランドで活動するユダヤ人ジャーナリストのヤン・ゲバート氏は「法律には『ポーランド強制収容所』という表現と闘うとは書いていない。曖昧な規制は虐殺についての真実を追及する自由を制限しかねない」と話す。「第2次大戦中にポーランド人に救われたユダヤ人がいることは分かっているが、同時に別のポーランド人との間には悪い経験もあった。新たな法律が、加害者を告発しようとする人を罰することにならないか心配だ」という。
 警戒の根っこには、民族主義的な色彩が強い強硬保守の与党「法と正義」が政権を率いていることがある。同党は法の支配に反した司法制度改革を進めており、欧州連合EU)が制裁に動こうとしている。自由主義や表現・報道の自由をないがしろにしてきたこれまでの姿勢からすると、本当に「ポーランド強制収容所」という表現をただすことだけが目的なのか、いぶかしむ向きもある。
 ポーランドでは1月、ナチスに関してもう一つ衝撃的な出来事があった。同国のテレビ局、TVN24による潜入取材で、ヒトラーの誕生日を祝うネオナチのパーティーの様子が映し出されたのだ。第2次世界大戦で多くの犠牲者を出したポーランドの若者が、ナチスの制服に身を包み、かぎ十字の旗などを掲げる。モラウィエツキ首相は先人の記憶と英雄的な戦いを踏みにじるものだと強く非難した。
 野党からは、現政権が人種差別などを放置していることが極右やネオナチの台頭を招いたとの批判が飛び出した。集票力のある極右と与党の右派議員とのつながりを指摘する声もある。仮にネオナチが現政権の民族主義路線の副産物だとすれば、根は深い。
 言論を規制するかのような法案もネオナチも、共通するのは事実と向き合うことを避け、歴史を軽視しようとする姿勢だ。欧州で広がるポピュリズムの代償は社会の分断だけではなく、歴史や記憶の領域にも及ぼうとしているようだ。」
   ・   ・   ・   

🐼20」─2─米、国連人権弁務官の新疆視察を懸念 「正確な検証かなわず」。〜No.52No.53 ⑱ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2022年5月21日06:49 MicrosoftNews Reuters「米、国連人権弁務官の新疆視察を懸念 「正確な検証かなわず」
 © Reuters/Denis Balibouse 米、国連人権弁務官の新疆視察を懸念 「正確な検証かなわず」
 [ワシントン 20日 ロイター] - 米国務省のプライス報道官は20日、バチェレ国連人権高等弁務官による新疆ウイグル自治区を視察を巡り「深く懸念している」と述べた。
 中国外務省は、バチェレ氏が23─28日の日程で訪中すると発表した。国連人権高等弁務官が中国を訪れるのは2005年以来となる。
 これについて同報道官は「中国が新疆ウイグル自治区の人権状況について、完全かつ操作されていない検証を行うために必要なアクセスを認めるとは思っていない」とした。
 米国はこうした懸念を中国とバチェレ氏側に伝えたという。」
   ・   ・   ・   
 5月21日11:12 MicrosoftNews KYODONEWS 共同通信「米、中国の新疆訪問制限を懸念 国連人権弁務官の沈黙批判
 © KYODONEWS バチェレ国連人権高等弁務官
 【ワシントン共同】米国務省のプライス報道官は20日の電話記者会見で、バチェレ国連人権高等弁務官が予定している中国新疆ウイグル自治区訪問について、中国政府に行動を制限されるとの懸念を表明した。バチェレ氏についても「中国政府が新疆で人権侵害をしている疑う余地のない証拠があるのに沈黙している」と批判した。
 中国外務省は20日、バチェレ氏が中国政府の招待で23~28日に訪中すると発表。米政府や人権団体は、人権侵害はないとする中国側の宣伝に利用される恐れがあると警戒を強めている。
 プライス氏は「完全な評価のために必要な立ち入りを中国が認めるとは思えない」と述べた。」
   ・   ・   ・   
5月24日13:01 MicrosoftNews 毎日新聞「「逃げる者は射殺」 中国のウイグル族「再教育施設」内部資料が流出
 © 毎日新聞 提供 テケス看守所内部を撮影したとされる写真。収容者が手錠、足かせ、覆面をつけられ連れ出されている。訓練とみられる。画像データによると、撮影は2018年9月25日午後4時31分=「新疆公安ファイル」より
 中国新疆ウイグル自治区少数民族ウイグル族らが「再教育施設」などに多数収容されている問題で、中国共産党幹部の発言記録や、収容施設の内部写真、2万人分以上の収容者リストなど、数万件の内部資料が流出した。「(当局に)挑む者がいればまず射殺せよ」などと指示する2018年当時の幹部の発言や資料からは、イスラム教を信仰するウイグル族らを広く脅威とみなし、習近平総書記(国家主席)の下、徹底して国家の安定維持を図る共産党の姿が浮かぶ。
 今回の資料は、過去にも流出資料の検証をしている在米ドイツ人研究者、エイドリアン・ゼンツ博士が入手した。毎日新聞を含む世界の14のメディアがゼンツ氏から「新疆公安ファイル」として事前に入手し、内容を検証。取材も合わせ、同時公開することになった。
 幹部の発言記録は、公安部門トップの趙克志・国務委員兼公安相や自治区トップの陳全国・党委書記(当時)らが会議で行った演説。特に陳氏の発言記録は「録音に基づく」とあり、正式な文書にまとめられる前の感情が交じった言葉が並んでいる。
 収容政策で重要な役割を果たした陳氏は17年5月28日の演説で、国内外の「敵対勢力」や「テロ分子」に警戒するよう求め、海外からの帰国者は片っ端から拘束しろと指示していた。「数歩でも逃げれば射殺せよ」とも命じた。
 また、18年6月18日の演説では、逃走など収容施設での不測の事態を「絶対に」防げと指示し、少しでも不審な動きをすれば「発砲しろ」と命令。習氏を引用する形で「わずかな領土でも中国から分裂させることは絶対に許さない」と述べ、「習総書記を核心とする党中央を安心させよ」と発破を掛けていた。
 内部の写真が流出したのは、自治区西部イリ・カザフ自治州テケス県の「テケス看守所(拘置所)」とされる収容施設。抵抗や逃走防止の訓練とみられる様子などが撮影されている。
 写真では、手錠や足かせ、覆面をつけられ連れ出された収容者が、「虎の椅子」と呼ばれる身動きができなくなる椅子で尋問を受けている。また、銃を持つ武装警察らが制圧訓練をしているとみられる写真や、収容者が注射のようなものを受けている写真もある。
 これらは、中国当局が過激思想を取り除くためなどとして運用した「再教育施設」の元収容者が証言した内容とも一致した。
 収容者のリストには、身分証番号や収容の理由、施設名などが記されている。主に自治区南部カシュガル地区シュフ県在住のウイグル族など少数民族のもので、ゼンツ氏は、数千人分を含む452枚のリストを検証。17〜18年の時点で、シュフ県の少数民族の成人のうち12・1%(2万2376人)以上が「再教育施設」、刑務所、拘置所に何らかの形で収容されていると推計した。別に警察署などで撮影された収容者約2800人の顔写真も流出した。
 資料を見ると、1980、90年代にモスクでイスラム教を学んだなどとして17年に拘束され、テロ行為の準備罪で懲役15年の判決を受けたケースなど、テロとの結びつきが疑問視されるものが目立つ。中国当局が少しでも宗教色があると判断すれば「再教育施設」や刑務所に収容しているケースが多いとみられる。
 この問題をめぐっては、国連のバチェレ人権高等弁務官が23日から6日間の日程で中国を訪問中だ。欧米諸国が人権侵害を指摘する自治区を訪れる。しかし、中国側は「政治的に利用することに反対する」として、人権問題の調査が目的ではないと強調している。国連外交筋は「(何も問題はないという)中国側の宣伝に利用される危険がある」と警戒を示している。
 中国政府は「職業技能教育訓練センター」と呼ぶ「再教育施設」について、イスラム教の過激思想の影響を受けた人物によるテロ行為を防ぐために設置し、19年後半に運用を終えたとしている。中国語の学習や食品加工などの職業訓練を行ったとも主張。欧米からの「ジェノサイド」との指摘には「荒唐無稽(むけい)で、下心あるデマだ」と反論している。
 流出文書を検証した14のメディアは、内容について共同で中国外務省にコメントを求めた。
 日本時間24日午前9時段階で回答はないが、在米中国大使館の報道官は問い合わせに対し「新疆に関する問題は本質的に反テロ、脱過激化、反分裂主義にあり、人権や宗教問題ではない」と強調。「深刻で複雑なテロ対策の状況に直面し、新疆は、断固とした強固で効果的な脱過激化の措置を多数講じてきた。その結果、新疆では数年間連続して暴力的なテロ事件は発生していない。新疆は現在社会の安定と調和、経済の発展と繁栄を享受している」と回答した。個別の質問には答えなかった。【ニューヨーク隅俊之】
   ◇
 流出した内部資料は、情報提供を受けた世界の14のメディアが取材・確認を進めた上で、取材結果を共有して検証の精度を高めた。
 ゼンツ氏によると、資料は新疆ウイグル自治区南部カシュガル地区シュフ県と西部イリ・カザフ自治州テケス県の公安当局のコンピューターに保存されていたもので、第三者がハッキングを通じて入手し、ゼンツ氏に提供したと説明している。
 14のメディアは、収容者リストに載っている人の家族への取材や流出写真の撮影情報の確認、衛星写真との比較、専門家への鑑定依頼などを行った。毎日新聞は検証で確認された情報の信ぴょう性と社会的意義から報道する価値があると判断した。
 今回の報道に参加したメディアは以下の通り。
 BBC News(英)▽ICIJ(国際調査報道ジャーナリスト連合)▽USA TODAY(米)▽Finnish Broadcasting Company YLE(フィンランド)▽DER SPIEGEL(独)▽Le Monde(仏)▽EL PAIS(スペイン)▽Politiken(デンマーク)▽Bayerischer Rundfunk/ARD(独)▽NHK WORLD-JAPAN(日本)▽Dagens Nyheter(スウェーデン)▽Aftenposten(ノルウェー)▽L'Espresso(イタリア)▽毎日新聞
   ・   ・   ・   
 5月24日19:56 MicrosoftNews KYODONEWS 共同通信「新疆収容施設の建設、習氏が指示 英BBC報道、目標200万人
 © KYODONEWS 高い塀や鉄条網、監視塔を備えた施設=2021年5月、中国新疆ウイグル自治区アルトゥシュ(共同)
 【北京共同】英BBC放送電子版は24日、中国新疆ウイグル自治区少数民族の収容施設を建設するよう習近平国家主席が指示していたとする内部資料の内容を報じた。2018年当時の記録で、「過激な思想」を持つ200万人を収容することが目標だったという。中国の人権状況に関する国際社会の懸念がさらに高まりそうだ。
 内部資料は政府幹部の発言記録など複数あり、新疆の警察のコンピューターから流出したという。趙克志公安相が18年6月に新疆を訪れた際に演説し、収容のための施設建設や資金増額の「重要な指示」を習氏が出したと称賛していた。」
   ・   ・   ・   
 5月31日12:38 MicrosoftNews 時事通信「中国に利用された国連高官=ウイグル視察に批判噴出
 © 時事通信 提供 中国の習近平国家主席(右)とバチェレ国連人権高等弁務官のオンライン会談の様子を伝える国営中央テレビの画面=25日(同テレビ電子版より)
 【北京時事】バチェレ国連人権高等弁務官による中国・新疆ウイグル自治区の視察に対して、国際社会から批判が噴出している。米欧は少数民族ウイグル族に対する人権侵害を問題視するが、習近平国家主席はバチェレ氏との会談で「人権を口実に内政干渉するな」と言明。バチェレ氏は、人権侵害を否定する中国の宣伝工作に利用された格好となった。
 バチェレ氏は23~28日に訪中し、自治区の区都ウルムチと西部カシュガルを視察した。自治区トップの馬興瑞・共産党委員会書記と会談したほか、刑務所などを見て回った。中国外務省によれば、綿花畑の視察や宗教関係者との対談も行った。
 ただ、バチェレ氏が自治区に滞在したのは2日間だけ。視察の様子は非公開で、人権侵害の実態は全く明らかにされなかった。
 米政府系放送局ラジオ・フリー・アジア(RFA)によると、中国政府はバチェレ氏の訪問に先立ち、ウイグル族らに対し、拘束や抑圧など「国家の秘密」を話さないよう指示。海外在住のウイグル族にも、新疆に残る家族を通じ、行方不明者に関する情報発信をやめるよう圧力をかけたという。
 中国政府はバチェレ氏の訪問受け入れに当たり、「交流と協力の促進」が目的だと説明していた。バチェレ氏は28日のオンライン記者会見で「今回の訪問は調査ではなく、直接対話を持つ機会だ」と述べ、中国側への配慮を隠さなかった。
 これに対し、国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウオッチのケネス・ロス代表はツイッターで「密室での(バチェレ氏との)会話はまさに中国側が望んでいるもので、ウイグル族らへの激しい抑圧を終わらせる圧力にはならない」と非難。ブリンケン米国務長官は声明でバチェレ氏の視察に不満を示し、松野博一官房長官も「国際社会から異論が多く出ている」と苦言を呈した。
 習政権は今回の視察で自治区での人権侵害が否定されたと位置付けている。中国外務省の馬朝旭次官は28日の声明で「虚偽情報による中国への中傷や攻撃に断固反対する」と主張した。」
   ・   ・   ・   

💟8¦─1─ハワイにおける日系アメリカ人強制収容所。「地獄谷」。~No.29No.30No.31 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 戦時中、日本人も日系アメリカ人もそしてアメリカ人もよく頑張って戦ったが、反天皇反日本の朝鮮人だけは戦わず死の危険がない安全なところで日本人約200万人が死んで行くところを眺めていた。
   ・   ・   ・   
 2022年5月22日 読売新聞「日本人の記憶 強制収容の80年
 負の歴史 未来に残す
 ハワイの『地獄谷』特定
 太平洋戦争中の1942年に日系米国人に対する強制収容が始まってから今年で80年となった。経験者が少なくなる中、『負の歴史』を保存する取り組みは今も続く。(ロサンゼルス支局 渡辺晋
 ◇ 口閉ざす
 〈風通しが悪く、一年中焼けつくようなひどい暑さに苦しめられた。収容者たちは年中ショートパンツ一枚の裸暮らしで、シャツを着るのはまれだった〉
 〈ヤブ蚊の群れが夜になると、我々のバラックを襲って来る。戸外で立ち話でもしていると、遠慮なく口の中に飛び込んで来た〉
 〈ホノウリウリ秘話〉と題された手記には、収容生活の様子が生々しく記される。ホノウリウリとは、旧日本軍が真珠湾を攻撃したハワイ・オアフ島の西部に設置されたハワイ最大の強制収容所を指す。山に囲まれ、高温多湿の盆地にあったことから、収容者の間で『地獄谷』と呼ばれた。
 手記はここに収容され、2013年に亡くなった日系2世のヨシタミ・タサカさんが1980年に書き残した。
 米西海岸の日系人が強制収容された事実は広く知られるが、ホノウリウリは1949年の閉鎖後、草木に覆われ、その存在は文字通り埋もれていた。日系人が家族ごと軒並み強制収容された米本土とは違い、日系人口が3分の1超に上ったハワイでは、収容者が恣意(しい)的に選別された。多くは戦後、収容生活について口を閉ざし、強制収容の歴史が広く伝えられることはなかった。
◇ 発見まで5年
 転機は1997年に訪れた。地元テレビ局から問い合わせを受けたホノルルの『ハワイ日本文化センター』(JCCH)が場所の特定を始めた。調査に携わったJCCHボランティアの日系3世ジェームズ・クラハラさん(91)は『多くの人がハワイに収容所があったことこさえ知らなかった』と話す。
 写真などをてがかりに、クラハラさんとボランティアの日本人、林達巳さん(87)がようやく跡地を見つけたのは、5年後の2002年だった。JCCHは収容者の調査も続け、2年後の04年、タサカさんの手記のコピーを入手した。
 ホノウリウリには、日本で教育を受けた『帰米2世』と呼ばれる日系2世を中心として400人以上が収容されたが、正確な人数ははっきりしていない。林さんは当時に記録や収容者の手記をてがかりに、今も収容者を特定する作業を続ける。『正確な記録を歴史の1ページとして残したい』との思いがあるためだ。
 跡地は15年に米国の国定史跡に指定され、将来的には一般公開も見込まれる。『過去を学ぶことでよりよい未来を築くことができる。強制収容という不正義について、人々が考える場所にしたい』。跡地を管理する米国立公園局の日系4世ハナコ・ワカツキさんは(36)はそう語った。
 ◇ 80年前の荷物
 ワシントン州シアトルの『パナマホテル』では、80年前に付近の日系人が収容時に預けた衣服やカバンなどの荷物が今も保管されている。
 ホテルは1910年にかつての『日本町』に建てられ、戦前は長期滞在する日系人労働者でにぎわった。シアトルとその周辺では、1942年4月下旬からの2週間で日系人7,390人が、一時的な代替施設を経て、主にアイダホ州のミニドカ収容所に送られた。
 収容所に持ち込める所有物には限りがあり、日系人たちは収容前、ホテルに荷物を預けた。戦後、シアトルに戻らなかった人も多く、引き取り手のない荷物が残った。
 ホテルは1980年、シアトル出身で歴史的な建造物に造詣の深い米国人ジャン・ジョンソンさんが日本人オーナーから譲り受け、経営を引き継いだ。
 地下には、かつて日系人の社交場として栄えた銭湯『橋立湯』も保存される。1階のカフェには、戦前の新聞記事や写真が飾られ、床のガラス部分から地下室の様子が見ることができる。
 地下の荷物について『博物館に寄贈すべきだ』という意見もあるが、ジョンソンさんは『このパナマホテルで起きたことを、ここで見て学ぶことが重要だ。このホテルこそが、博物館なんだ』と語り、保管を続けるつもりだという。
 強制収容に関する証言や記録の保存活動をしているシアトルの非営利団体『DENSHO(伝承)』の田辺直子さん(63)は『強制収容は風化させてはいけない歴史の1ページだ。負の歴史を語り継ぐことで、差別に対して皆が批判の目を持てるようになることを願う』と語った。」
   ・   ・   ・    
 日本人にとって隣人の朝鮮人とは、油断も隙もない怖ろしい敵であって、信用できる友・友人でもなく頼れる親友ではなくましてや心を許し命を預けられる安心できる戦友でもなかった。
   ・   ・   ・   
 戦前・戦中。
 日本にとってアメリカは、鬼畜米英であった。
 アメリカにとって日本は、ジャップであり、イエロー・モンキーであり、害虫・毒虫であり、害獣・鼠であった。
 アメリカ人兵士は、害虫駆除・害獣駆除として兵士はもちろん女子供に関係なく見付けしだい日本人を殺した。
 中世キリスト教会と白人キリスト教商人にとって日本人は、アフリカ人同様に奴隷であり、人間以下の家畜であり獣であった。
 日本人奴隷交易で海外に売られた日本人は、生きて故国・故郷に帰る事なく異国・異郷で死んだ。
   ・   ・   ・   
 日系アメリカ人は、国民の義務として、国家に忠誠を誓い、志願して兵士となり、偏見と差別、嫌がらせに耐えながら、ヨーロッパ戦線でドイツ軍と太平洋戦線で日本軍と戦い、多くの戦死者を出しながらアメリカの勝利に貢献し、その勇敢な活躍が認められて多くの勲章を授かった。
 日本国籍を持っていた朝鮮人で、日本軍に志願し、天皇に忠誠を誓って戦った朝鮮人は少く、終戦後は反日派侮日派として日本国内で暴れ回った。
 日系アメリカ人は逃げずに戦い、朝鮮系日本人は戦わずに逃げた。
   ・   ・   ・   
 軍歌において、日本人兵士の間では情緒的情感的内向的なしんみりとした歌を一人か数人で唄い、アメリカ人兵士の間では攻撃的積極的外向的な勇ましい歌を皆で大勢で唄った。
   ・   ・   ・