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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
中国共産党は、陝西(せんせい)省などで生産していたアヘンを日本軍や汪兆銘南京国民党政権の協力を得て海外に輸出し党費・活動資金・戦費を稼いでいた。
中国共産党内には毛沢東派など幾つもの派閥が存在し、毛沢東による党中央の命令は他派閥、末端支部までは届かなかった。
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2025年9月3日 MicrosoftStartニュース 新華社通信「習近平氏「中国は平和的発展の道を堅持」
3日、演奏する中国人民解放軍連合軍楽団。(北京=新華社記者/張玉薇)
© 新華社
【新華社北京9月3日】習近平(しゅう・きんぺい)中国共産党中央委員会総書記・国家主席・中央軍事委員会主席は3日、北京で開かれた中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利80周年記念大会で重要演説を行い、次のように述べた。
今日、人類は再び平和か戦争か、対話か対抗か、ウィンウィンかゼロサムかの選択に直面している。中国人民は断固として歴史の正しい側に立ち、人類文明の進歩の側に立ち、平和的発展の道を堅持し、各国人民と手を携えて人類運命共同体を構築していく。
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9月1日 YAHOO!JAPANニュース「台湾で機密解除 抗日戦争戦場での手書き極秘報告集が暴く「中共軍と日本軍の生々しい共謀」記録発見
國史館臺灣文獻館より転載
台湾の「国史館档案史料文物査詢系統」で、中華民国27年6月(1938年6月)から中華民国33年6月(1944年6月)にかけての抗日戦争での戦場手書き極秘報告集(電報)が機密解除されていたのを発見した。宛先は蒋介石委員長で、書いたのは抗日戦争戦場における国民党側の各戦場現場指令官などである。
戦場において時々刻々変化する中での記録であり、鉛筆で書かれたものが多く、かつ時間節約のためか句読点がないので非常に解読しにくいが、432項目に及ぶ資料の中から、今回は4枚の打電だけ抽出してご紹介する。
それによれば、中共軍は(日本軍との交戦がほとんどないため戦死者の数が極端に少ないことや、日本軍と共謀することによる日本側からの資金援助のためと推測されるが)兵士の数が年々急増していることがわかる。
1938年以降なので第二次国共合作(1937年)以降の戦況であるにもかかわらず、中共軍は専ら国民党軍を攻撃することに専念し、日本軍に国民党軍がどこにいるかを通報しているだけでなく、中共軍は庶民の「便衣服」に着替えて日本軍の中に紛れ込み、複雑な地形の道案内をして国民党軍の深い防御線を突破させている現状も生々しく記録されている。
なお、標記に関してだが、報告者がまちまちであることもあり、国民党軍を「国軍、我軍、本軍」などいう形で書いてあったり、中共軍を「共匪、匪軍、奸党、共軍」と書いてあったりするので、読者に分かりやすいように、和訳に当たっては「国民党軍」および「中共軍」で統一した。
手書き報告のうち、「敵」は「日本軍」を指し、「偽」は「汪兆銘傀儡政権」を指すので、和訳だけを記した。
文献自身は「國史館臺灣文獻館」にあるので、複雑な手続きを経てそのURLに辿り着いたので、各文献にはリンク先を示す。また( )内に筆者の説明を加筆した。
◆【1449号】文献:民国29年(西暦1940年)5月13日(5月21日20:00審査)
まず、「國史館臺灣文獻館」に所蔵されている【1149号】文献(典藏號:002-090300-00209-203)を図表1に示す。
図表1:「1449号」文献
國史館臺灣文獻館より転載
「國史館臺灣文獻館」が分類した「件名」と実際の「戦場現場からの手書き極秘報告」の内容の和訳を以下に示す。
【件名】石友三が蔣中正(蒋介石)に打電。奉明南吉利営一帯で中共軍が3000~4000人に増加し、たびたび(国民党軍に)猛攻を仕掛けてくる。張雨卿師が(中共軍に)大きな打撃を与えているが、依然として双方は対峙し膠着状態にある。現在、中共軍は日本軍と相互に呼応して結託し、抗日戦争を破壊している。すでに張師に対し、機に乗じて中共軍を撃つよう命じた。
【戦場現場からの手書き極秘報告】(至急・重慶)蒋委員長宛て、極秘(別表添付)。張師長・雨卿の電報によれば、奉明南吉利営一帯の中共軍は次第に増加しつつあり、現在3000~4000人に達し、たびたび猛攻してくるので、その都度これを痛撃しているが、目下、対峙中であり、精査を待つ。中共軍は国民党軍に敵対し、しかもくり返し日本軍と結託している。公然と抗日戦争を破壊しているその様は、人の心を失い狂気じみているとしか言いようがない。よって、機に乗じて厳重に打撃すべし。その旨、既に下達したことをここに謹んで申し上げる。石友三 拝(以上)
このように戦場からの打電報告からは、
●中共軍と日本軍が結託していることを国民党軍は熟知している。
●中共軍は国共合作期間中でありながら(即ち、国民党軍の禄を食み、国民党から武器を与えてもらいながら)、実際は国民党軍を猛攻撃している。
●中共軍は、国民党軍が日本軍と戦っている「抗日戦争」を破壊し、日本軍の強化に協力している。
といったことが明確に見えてくる。
◆【1488号】文献:民国30年(西暦1941年)2月22日(3月23日16:40審査)
「國史館臺灣文獻館」に所蔵されている【1188号】文献(典藏號:002-090300-00209-227)を図表2に示す。
図表2:【1488号】文献
國史館臺灣文獻館より転載
【件名】熊斌が蔣中正に打電。打電によれば、壺関(地名)の日本軍が陵川東北の樹掌(地名)一帯へ進攻した際、(中共軍)十八集団軍第三縦隊の何長工部の工作人員らが道案内人となったため、(日本軍は)范漢傑軍(国民党軍の副総司令)の防御線の奥深くまで入り込むことができた。職 熊斌 寅馬 陝辦 勇印
【戦場現場からの手書き極秘報告】重慶・蒋委員長宛て。龐総司令の打電によると、「平順県長・馬成邠の報告によれば、壺関の日本軍がまさに樹掌(陵川の北東)へ侵入せんとしたとき、(日本軍の)内部に(庶民の便衣服を着た)中共軍が極めて多く参加していることを発見した。福頭・芳岱一帯の住民の多くは、彼ら(地元の中共軍)とは顔見知りなので、彼らが(中共軍)第十八集団軍第三縦隊の何長工部隊の工作人員であることを見分けることができた。日本軍は彼ら(地元の中共軍)が地元の人でないと分からない複雑な地形を熟知していることを利用して、道案内人として用いた(臨時雇用した)ため、(国民党軍の)范漢傑軍の防衛地の奥深くへと進入し得た」とのこと。以上、謹んで報告申し上げる。職 熊斌 寅馬 陝辦 勇印
◆【1489号】文献&【1490号】文献:民国30年(西暦1941年)3月23日(3月23日19:00審査)
【1489号】文献と【1490号】文献は2枚綴りの一本の打電によるものなので、2枚とも【典藏號:002-090300-00209-228】文献として所蔵されている。そのため、連続した内容なので、まとめてご紹介する。但し図表としては別々に示すこことする。
図表3:【1489号】文献
國史館臺灣文獻館より転載
図表4:【1490号】文献
國史館臺灣文獻館より転載
【件名】李宗仁が蔣中正に打電。国民党軍が錦屏山(銀屏山の記録ミスか)の中共軍巣窟を攻略占拠すると、中共軍は路東へ退却。国民党軍が淮南路へ進出して追撃するや、日本軍は六路に分かれて莫德宏師(莫德宏が率いる師団)へと進撃した。また日本軍が古河(地名)を合流攻撃した折、中共軍の張雲逸が別路から進み、周家山などを占領した。
【戦場現場からの手書き極秘報告】重慶・蒋委員長宛て国家機密。李兼総司令(李宗仁)・総参謀二よりの電曰く:今回の皖東作戦(「皖(かん)」は安徽省の略称)について、中共軍が「日本軍および汪兆銘傀儡政権軍」と結託し、国民党軍攻撃に対応した確固たる象徴的な出来事がある。経過は以下の通り。
(一)国民軍が銀屏山の中共軍巣窟を攻撃占拠したのち、中共軍は路東へ遁走した。国民党軍が淮南路に進出し追剿しようとすると、日本軍は六路に分かれて国民党軍の莫(德宏)師を攻撃。
(二)そこで、敵は滁県の周家崗、全椒の赤鎮、含山の仙踪から古河を合流攻撃。激戦の最中、中共軍の便衣隊300人余りが短銃を携えて国民党軍の側面背後を潜伏襲撃し、同時に中共軍軍首・張雲逸が自ら2000人余りを率い、日本軍の背後に続いて周家山・東王集・赤鎮などを(日本軍とともに)分進して占領し、日本軍を援護射撃する態勢を示した。
(三)国民党軍は古河を克復し、残った日本軍は西へ遁走。国民党軍による追撃の途上、突如として中共軍1000人余りが定滁境界の藕塘に現れ、列馬廠およびその南方地域を拠点として、国民党軍の前進を阻み、古河を脅かした。現在なお古河東北部一帯で対峙中。
(四)(国民党軍は)東方作戦に策応するため、(国民党軍)第十一縦隊の潘支隊に命じ、巣県および烔煬河各所の日本軍を襲撃させたところ、突如、中共軍1000人余りが巣湖南岸の散兵鎮に上陸して、国民党軍の側面背後を猛攻した。今なお激戦中。
以上四項につき、注意を促すとともに、打電をもって審議照合に供する。
敬具 李宗仁/馬瑜萍印(以上)
◆日本はどうすべきか
2015年11月に出版した拙著『毛沢東 日本軍と共謀した男』では、あくまでも毛沢東が中共スパイ藩漢年らを日本外務省所轄の上海にある岩井公館に潜らせて、国民党軍側の軍事機密情報を日本側に高値で売っていた状況を軸にして詳細に考察した。実際の戦場における「中共軍と日本軍の結託」に関しては、スタンフォード大学のフーバー研究所に日参して蒋介石日記の中から一行一行、毛筆を解読しながら拾い上げたのが精一杯の成果だった。
あれだけ入手したいと渇望した国民党側の抗日戦争戦場現場における「日本軍と共産党軍の結託」が、ここまで如実に生々しく記録されていた国家機密情報が機密解除されたのは、拙著が出版された後の事である。汪兆銘傀儡政権と毛沢東が共謀したか否か、すなわち藩漢年が毛沢東の親書を汪兆銘に渡したか否かに関して拙著ではギリギリの証拠追跡を試みたのだが、何のことはない、戦場における現状報告にはいかなる躊躇いもなく、堂々と偽(汪兆銘傀儡政権)の軍隊の事が明記してあるではないか。
このいずれにしても、実に衝撃的な機密情報の解除である。
今年9月3日に北京で挙行される「中国人民抗日戦争・世界反ファシスト戦争勝利80周年記念式典」は、習近平国家主席が唱える「中国共産党軍は抗日戦争の中流砥柱(中心的柱、主力)であった」という強烈なスローガンを軸としている。
しかし、日中戦争(中国から見れば抗日戦争)における中国共産党軍の実体は、本稿に書いた国民党軍側からの機密情報によっても、白日の下に晒(さら)されたと言っていいだろう。
拙著に書いた毛沢東の実態を「妄想」だとして非難する人々は、拙著のみならず、中国共産党自身が編集している『毛沢東年譜』(全9巻)からも読み取ることができるだけでなく、本稿に書いた、機密解除された国民党軍の機密情報にアクセスして頂ければ一目瞭然なので、ぜひともアクセスして頂きたい。そのために苦労して探し出したリンク先だが、世界中の誰でもアクセスできるような形で公開した。
真実を直視する勇気を持とうではないか。
特に式典に参加するという日本の鳩山由紀夫元総理には、是非とも現実を直視し、ご自分が何をなさろうとしているのかを認識していただきたいと心から願う。
日本がかつて、あってはならない侵略行為をした事実はしっかり認識し次世代への教訓としなければならないのは言うまでもない。
しかし、その教訓を認識することと、中国が抗日戦争時代の「共産党軍と日本軍との結託を隠蔽し、歴史を歪曲・捏造すること」は分けて考えなければならない。
中華民族の命を日本に売り、中華民族を最も裏切ったのは中国共産党であり、毛沢東なのである。
これを認識したからと言って、現在習近平政権が進めてきた製造業などの実績は否定されるものではない。むしろ中国共産党がいつの日か、この事実を認めてこそ、世界から尊敬を受ける国になるのではないだろうか。そのときに初めて「平和」を語れるようになるのではないかと、惜しむ次第だ。
遠藤誉
中国問題グローバル研究所所長、筑波大学名誉教授、理学博士
1941年中国生まれ。中国革命戦を経験し1953年に日本帰国。中国問題グローバル研究所所長。筑波大学名誉教授、理学博士。内閣府総合科学技術会議専門委員(小泉政権)や中国社会科学院社会学研究所客員研究員・教授などを歴任。著書に『米中新産業WAR トランプは習近平に勝てるのか?』『中国「反日の闇」 浮かび上がる日本の闇』、『嗤う習近平の白い牙』、『習近平が狙う「米一極から多極化へ」 台湾有事を創り出すのはCIAだ!』、『もうひとつのジェノサイド 長春の惨劇「チャーズ」』、『 習近平 父を破滅させた鄧小平への復讐』、『毛沢東 日本軍と共謀した男』、『ネット大国中国 言論をめぐる攻防』など多数。
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9月3日 YAHOO!JAPANニュース「抗日戦争中、中共軍は日本軍と水面下で「不可侵条約」を結んでいた 解除された台湾の機密軍事情報が暴露
湖南省に聳える毛沢東像(写真:REX/アフロ)
9月1日のコラムで<台湾で機密解除 抗日戦争戦場での手書き極秘報告集が暴く「中共軍と日本軍の生々しい共謀」記録発見>と書いたが、この機密解除された同じ記録から、抗日戦争中、中共軍は日本軍と水面下で「不可侵条約」を結んでいたことが判明した。記録の時期は1940年12月。
また、7月10日のコラム<習近平、BRICS欠席して抗日戦争「七七事変」を重視 百団大戦跡地訪問し「日本軍との共謀」否定か>で、毛沢東が上海にある日本の外務省管轄の岩井公館に潜り込ませたスパイ藩漢年に「華北一帯における中共軍と日本軍との停戦」を依頼していたことを証拠物件となる図表付きで示した。それを証明するかのように、台湾の軍事機密資料の中の一つには「江蘇省一帯における中共軍と日本軍の間の不可侵条約が結ばれていた」ことが記録されている。
ふしぎなのは、その現象の一つとして「中共軍が日本軍の代わりに綿花を購入運搬し、その見返りに日本軍から弾薬を贈ってもらった」と書いてあることだ。
なぜ――?
当時、日本軍は軍需製品の一つとして中国の農家に強制的に綿花を作らせ、華中の生産量の92%を日本が購入していた。それなのになぜ日本軍が自分で購入運搬しないで中共軍に購入運搬させたのか?
唯一考えられるのは、中共軍が「見返りの弾薬が欲しいために、積極的に日本軍の手伝いをすることを申し出た」ことだ。岩井公館における藩漢年のスパイ行動から見ると、そういうことしか考えられない。
悩みに悩んだ末に、遂に見つけた。
今年5月に中国政府のシンクタンク中国社会科学院の研究者が、「1940年初頭、蒋介石が中共軍への弾薬配給を停止したために、中共軍は激しい弾薬不足に追い込まれていたこと」を書いている論考を発見したのである。理由は「国共合作をしているのに、あまりに中共軍が国民党軍を攻撃ばかりしてくるから、蒋介石が激怒したから」だが、その事には論考は触れていない。中国政府側の論考なので、言えないだろう。
しかし国民党側の軍事機密記録には、「中共軍が日本軍とは戦わずに日本軍と結託ばかりして、国民党軍への攻撃に集中している」事実が、至るところに書いてある。蒋介石としては「自分を攻撃させるために中共軍に弾薬を配給する」というようなバカげたことを続けられるわけがないと判断せざるを得ない。
◆【1248号】文献:民国29年(西暦1940年)12月17日(12月18日11:05審査)
今回発見したのは民国29年(西暦1940年)12月17日に、戦場から重慶の蒋介石委員長宛てに送られた電報である。
前回同様、まず「國史館臺灣文獻館」に所蔵されている【1248号】文献(典藏號:002-090300-00209-054)を図表に示す。
図表:【1248号】文献
國史館臺灣文獻館より転載
前回同様、図表に関して、「國史館臺灣文獻館」が資料整理のために分類した「件名」と、実際の「戦場現場からの手書き極秘報告」の内容の和訳を以下に示す。( )内は筆者が説明のために加筆。
【件名】顧祝同(陸軍司令官、江蘇省政府主席)が蔣中正(蒋介石)宛てに打電。電報によれば、益林(地名。江蘇省塩城市阜寧県益林鎮)の中共軍は日本軍に代わって綿花などの物資を購入・運搬し、しかも日本軍と不可侵条約を結んでいた。すでに各部隊に対し、厳重な警戒と全力の固守を督促した。
【戦場現場からの手書き極秘報告】重慶・蒋委員長宛て、機密。韓主席(韓徳欽、江蘇省主席、江蘇省保安司令)の亥元戊電の要旨:霍師長守義(=霍守義師長)の徴午電によれば、益林の中共軍は淮安(わいあん)(江蘇省中西部、淮河の流域にある都市)の日本軍に代わって綿花二万斤を購入・運搬した。淮安の日本軍は大量の弾薬を(中共軍に)お返しとして贈った。また中共軍は淮安の日本軍と不可侵条約を既に締結しており、淮安の日本軍は「永遠に中共軍の駐屯地には進攻しない」という声明を出したという。なお、日本軍は先月、国民党軍側を積極的に攻撃し、臨澤(地名)の要点を奪取した後も、なお出動を重ねて擾乱(じょうらん)している。しかし中共軍が国民党軍側を擾乱し、陶家林・霖直港・蘇家を経由して移動した際には、日本軍は中共軍に対しては全く動かなかった。その結果、湖西の中共軍の大部隊が無事に通過して東へ移動するのを黙認した。かくの如く、日本軍と中共軍が互いに通じ合い、結託している情況は明白である。この件に関して、すでに各部隊には、厳格な警備と全力の固守を命じた。顧祝同 印
(【1248号】文献に関する和訳は以上)
問題は冒頭に書いたように、なぜ日本軍が自分で綿花を運ばずに中共軍に頼み、そのお礼として弾薬を中共軍に差し出したか、ということである。
◆中共軍の弾薬は枯渇していた!
今年5月8日、中国政府のシンクタンク中国社会科学院が中国歴史研究院とともに運営する近代史研究所が、<隠されてきた手:1941-1945年、八路軍と新四軍の弾薬供給に関する新たな研究>というタイトルで、中共軍の弾薬が枯渇していた事実を率直に認めている。非常に詳細にその実態が書いてあるが、あまりに長いので本稿に必要な部分だけをいくつかピックアップすると、以下のようになる。( )内は筆者注。
●中国共産党の軍事力の拡大を抑制するため、(蒋介石率いる)国民政府の軍事委員会、軍司令部および関係する戦場は、1940年初頭に八路軍と新四軍への弾薬供給を停止した。同時に1940年初頭までに、基地地域の民間弾薬のほとんどが回収された。
●1940年初頭、八路軍と新四軍は二つの主要な弾薬供給源(蒋介石から配給される供給源と民間の弾薬保持者から購入する供給源)を失い、補給網に深刻な混乱が生じた。1940年2月末までに、八路軍司令部は弾薬備蓄をほぼ枯渇させた。状況はさらに悪化し、1940年末には司令部ではすべての弾薬が枯渇し、各部隊への大規模な弾薬補給が困難になった。
●彼ら(八路軍や新四軍などの中共軍)はまた、傀儡軍(汪兆銘傀儡政権の軍隊)を利用して弾薬を入手しようとした。たとえば、八路軍司令部は1940年1月30日に全部隊に対し「敵軍(日本軍)および傀儡軍から弾薬を購入することは可能である」と指示した後、1941年1月13日にはさらに全部隊に対し「(日本軍および汪兆銘傀儡政権から)弾薬を購入する」よう指示を出した。(筆者注:習近平が言うように、「中国共産党こそが抗日戦争の中流砥柱(主要な柱)である」ということであるなら、その日本軍から政敵・蒋介石率いる国民党軍をやっつけるために、日本軍から弾薬を買うなどということはあってはならないはずだ。だというのに、毛沢東は「日本軍から(国民党軍を攻撃するための)弾薬を買え!」と全中共軍に指示を出したことになる。弾薬を買った相手を攻撃することはあり得ないので、中共軍はかくして、日本軍を攻撃することを控えるしかかなっただろう。毛沢東が本当に倒したいのは政敵・蒋介石であって、誰が天下を取るかということにしか関心がないことが、この指示により明確になるのではないだろうか?)
●八路軍と新四軍への弾薬供給のために秘密裏に弾薬を収集・蓄積することは、1941年から1945年にかけて、傀儡軍との「コネ」が八路軍と新四軍に弾薬を供給するために用いた主要な手段の一つであった。
●この方法を最大限に活用して弾丸を入手するため、傀儡軍の「コネ」は八路軍と新四軍と密かに合意を交わした。また「虚偽の戦闘」を捏造して報告した(戦っていないのに戦ったと報告して、弾薬がその戦いで消耗されたから弾薬が足りないという報告書を作成したという意味)。
●機会を積極的に探し出し、機に乗じて盗むということは、傀儡軍の「コネ」を通して弾薬を集めるために使う、もう一つの重要な手段である。この手法は通常、傀儡軍の兵器庫を標的とし、傀儡軍内で軍事装備や物資の取り扱い責任者によって実行された。彼らは自らの地位を利用して、容易に傀儡軍の兵器庫に出入りできる。
●(汪兆銘傀儡政権は日本軍によってコントロールされているが)日本軍が傀儡政権に発給する経費は限られていたため、傀儡軍は十分な食料も衣服も給料も得られない状態に陥ることが多かった。
●このような状況下で、八路軍と新四軍が傀儡軍の「コネ」により金銭や現物で弾丸を購入することは、傀儡政権の生活状況の苦境を軽減したため、傀儡軍側も積極的に弾丸を集めて八路軍と新四軍に供給し続けるよう促した。(以上)
かくして中共軍の汪兆銘傀儡政権および日本軍との結託が深まっていったものと解釈できるが、中共軍が汪兆銘政権に近づいたきっかけが、まさか弾薬の枯渇にあったとは知らなかった。
たしかにそう言われてみれば、拙著『毛沢東 日本軍と共謀した男』で書いたように、藩漢年が岩井英一に「中共軍と日本軍との間の停戦を申し込み、その後、汪兆銘政権の汪兆銘に会いたいと岩井英一に依頼したのも、1940年前後に迫っていた時期だった。
◆本日が「抗日戦争勝利80周年記念祭典」の日である皮肉
これらの事象が点と点を結ぶ形で立体的に浮かび上がってきた事実を文書化できる状況に至ったのが、本日(9月3日)北京で盛大に行われている「抗日戦争勝利80周年記念祭典」の日であるとは、なんと皮肉なことだろう。
毛沢東の日本軍への停戦依頼までは知っていたが、まさか具体的に不可侵条約まで結んでいたなどという実態までは知らなかった。その原因の一つが、中国政府のシンクタンク中国社会科学院系列のウエブサイトに出ていたのを昨夜発見したということにも、感慨深いものがある。
中国政府のシンクタンクである中国社会科学院が、ここまでの真相を暴いてしまったということは、中国共産党が「日中戦争中、毛沢東は日本軍と共謀していた」という事実を認めざるを得ない方向へと導いていることに、中国社会科学院およびその執筆者は、気が付いているだろうか?
毛沢東は稀代の戦略家であり、天下を取るために鋭い頭脳を使っただけで、至って正直であったと思う。だから抗日戦争勝利などを祝ったことがない。そこまでは淡々と事実を受け止めるだけで、日本が二度と侵略行為などをしなければ、大きな問題は生じない。
いま問題なのは習近平政権が「中国共産党こそが抗日戦争の中流砥柱(主要な柱)である」などと高らかに叫んでいることである。江沢民が1995年に「中国人民抗日戦争勝利記念・反ファシスト勝利記念祭典」などを全国的に始めなければ、このようなことにはならなかっただろう。江沢民は自分の父親が汪兆銘傀儡政権の官吏だったという過去を打ち消すために「反日」へと舵を切った。反日教育を始めてしまったからには、習近平としても逆戻りはできなくなってしまう。それが本日の盛大な「抗日戦争勝利80周年記念祭典」へと追い込んでしまったという見方をすることができる。
こうなってしまったからには、中国社会科学院のこの論考は、いつか削除されるかもしれない。関心のある方々はダウンロードしておかれることを推薦したい。
しかし、ここまで来たからには、真実が明るみに出る日は近いようにも思う。
それが現実になることを、ひたすら祈るのみだ。
遠藤誉
中国問題グローバル研究所所長、筑波大学名誉教授、理学博士
1941年中国生まれ。中国革命戦を経験し1953年に日本帰国。中国問題グローバル研究所所長。筑波大学名誉教授、理学博士。内閣府総合科学技術会議専門委員(小泉政権)や中国社会科学院社会学研究所客員研究員・教授などを歴任。著書に『米中新産業WAR トランプは習近平に勝てるのか?』『中国「反日の闇」 浮かび上がる日本の闇』、『嗤う習近平の白い牙』、『習近平が狙う「米一極から多極化へ」 台湾有事を創り出すのはCIAだ!』、『もうひとつのジェノサイド 長春の惨劇「チャーズ」』、『 習近平 父を破滅させた鄧小平への復讐』、『毛沢東 日本軍と共謀した男』、『ネット大国中国 言論をめぐる攻防』など多数。
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9月10日 YAHOO!JAPANニュース「1940年「台湾軍事機密情報」が日本に与える教訓 「中共軍と日本軍の結託」と「日ソ中立条約の予兆」
國史館臺灣文獻館より転載
1940年2月16日、台湾の国史館にある機密解除された「台湾軍事機密情報」は、華北にある山西省およびさらに北方の綏遠(すいえん)(現在の内モンゴル自治区)における日本軍と中共軍との間の結託を描き、日ソ中立条約締結の可能性を警戒している。旧ソ連コミンテルンの管轄下にある中共軍は日ソ中立条約により堂々と日本軍と結託できるからだ。
事実、1941年に日本はソ連と日ソ中立条約を締結するが、その結果、中共軍が強化されていったのだとすれば、中国共産党によって統治される国家の誕生を「大日本帝国」が助長したことになる。日ソ中立条約は敗戦時の北方四島のソ連による収奪にもつながる。
ということは、毛沢東の真相を追跡することは、「大日本帝国」の別の側面をも解き明かすことになり、日本が再び戦争を招くことから回避できる作業をしていることにつながっていく。日中戦争中の国民党軍の戦場における打電から、日本が学ぶものは多い。
◆【1362号】文献:民国29年(1940年)2月16日(2月17日16:00審査)
9月1日のコラム<台湾で機密解除 抗日戦争戦場での手書き極秘報告集が暴く「中共軍と日本軍の生々しい共謀」記録発見>同様、まず、「國史館臺灣文獻館」に所蔵されている【1362号】文献(典藏號:002-090300-00209-144)を図表1に示す。
図表1:【1362号】文献
國史館臺灣文獻館より転載
「國史館臺灣文獻館」が分類した「件名」と実際の「戦場現場からの手書き極秘報告」の内容の和訳を以下に示す。( )内は筆者の説明である。
【件名】蔣鼎文(しょう・ていぶん)(国民党軍・第10戦区司令長官)が蔣中正(蒋介石)へ打電。伝えるところによれば、劉伯承(りゅう・はくしょう)(中共軍・八路軍第129師団長)は「日本軍という強敵を前に、国軍(国民党軍)にはもはや共軍(中共軍)をやっつける余力がない」と述べた。しかも晋(しん)(山西省)東の八路軍と日本軍とは、すでに暗黙の合意に達し、互いに(衝突するのを)避け譲り合っているようだ。中には「日ソ結託の問題まで関わるかもしれない」等の件に関して。
【戦場現場からの手書き極秘報告】特急 重慶 蔣委員長宛て 極秘。
一、朱懷冰(しゅ・かいひょう)(国民党軍第97軍司令官)の電報に基づく谷正鼎(こく・せいてい)(軍事委員会天水行営政治部主任)の口頭報告によれば、概略は以下の通り。劉伯承は、彼(朱懷冰)宛に派遣した連絡員に対し、「かつて中共軍は5万人のみで、(国民党)中央は10年間にわたり全力で(中共軍を)攻撃してきた。いま中共軍はかつての10倍に増え、しかも(日本軍という)強敵が目の前にいる。国民党軍は、もはや、中共軍をどうにもすることはできない」との趣旨を伝えた。その態度は傲慢で横柄だ。
二、範漢傑(国民党軍第27軍司令官)の報告の大意によれば、晋東南(山西省東南部)の八路軍と日本軍とは、すでに互いに(衝突を)避けて譲り合い、暗黙の合意を交わしているようだ。ご確認いただきたい。日本軍はこんにち、内外ともに難題を抱えながら、なお北綏(すい)南桂(「中華民国」時代の綏遠州か)へ遠征して深く侵入することを大胆にも敢行(かんこう)し、中共軍は最近ではそれを意に介さないようになっている。諸々を総合的に照合すると、怪しいことが多く、疑わざるを得ない。日本軍と中共軍はすでに暗黙のうちに契約を交わし妥協しているものと考えられる。ひいては、日ソ結託の問題へと発展する可能性すらあり得るものの、定かではない。拙い推測ではあるが、参考されたし。 職 蔣鼎文 銑午機府印(以上)
電文に関しては、できるだけ忠実に和訳したつもりだが、なんと言っても戦場での手書き。判読しにくい文字が多く、句読点もないので、推測するしかない部分もある。たとえば「北綏南桂」の前にある一文字が読み取れないため、ここは中華民国時代にあった「綏遠州」を指しているのであろうと推測した。
◆【1362号】文献時代前後の華北・東北における地図
【1362号】文献が具体的に何を指しているかを理解するために、【1362号】が打電された時代の華北・東北一帯における地図を図表2に示す。
図表2:【1362号】文献時代前後の華北・東北における地図
筆者作成
【1362号】文献の戦場となっている場所は、図表2において濃い赤で示した山西省(晋)である。日本軍がここからさらに北上して綏遠州まで遠征しているが、国民党とは激しい戦いを交わすのに、中共軍を攻撃しようとしないと、他の打電同様のことを訴えている。しかも強大化した中共軍が国民党軍を攻撃するが日本軍を攻撃しようとはしない。これは日本軍と中共軍の間の「暗黙の合意」があるからだろうが、それ以上に懸念されるのが、「ひょっとしたら、日ソが結託するのではないか」という可能性だと暗示しているのである。
「日ソが結託する」とは「日ソ中立条約」が締結されることで、それが現実になるのではないかという国民党側の懸念は尋常ではない。
なぜなら、中国共産党はソ連のスターリンが率いるコミンテルンの指導の下で誕生した党だからだ。日ソ中立条約が締結されたら、日本軍と中共軍の結託は、ますます進んでいくだろうというのが、蒋介石・国民党側の最大の恐怖だった。
◆「日ソ中立条約」締結と「毛沢東と日本軍の共謀」の深化を年表で考察
しかし、その日ソ中立条約は1941年4月13日に締結されてしまった。
なぜ、そのようなことになったのかを図表3で年表を作成して考察したい。
図表3:「日ソ中立条約」をめぐる中ソ日の相互関係
筆者作成
図表3の「1」や「2」にあるように、日本軍は盧溝橋事件や第二次上海事件などを起こして、日中全面戦争へと突入していった。
ソ連のスターリンは「日本は物凄く強い」と恐れていた。なぜなら、1904年から1905年にかけて大日本帝国とロシア帝国の間で戦われた日露戦争で、日本側が圧勝したからだ。したがって日本が日中戦争において「北進」しないように、なんとしても中国大陸で日本軍を押しとどめて、日中戦争で日本が消耗してロシアに攻め込んでこないようにさせたいと思った。
そこで日本と戦っている「中華民国」である「中国」と「中ソ不可侵条約」を素早く締結するのである。そして「中華民国」に膨大な金銭的支援や武器支援をした。「中華民国」を統治しているのは国民党・蒋介石なので、蒋介石にとってはありがたいことだったにちがいない。
なぜなら、蒋介石・国民党軍に追われて延安に辿り着いた毛沢東は、今度は延安を革命根拠地として「中華民国」蒋介石を打倒するための革命に邁進し始めたからだ。
毛沢東は「天下を取るために」革命を起こしているのだから、どのような状況に置かれようとも蒋介石を倒そうと懸命に頭を巡らす。それは自然なことで、中国は何千年にも及ぶ歴史の中で、絶えずこのような「勇士」が現れて天下を取るということをくり返してきた。
しかし、それでは日本軍の力を喰い止めることができないので、スターリンは毛沢東に命じて西安事変を起こさせ、「4」にある第二次国共合作を進めさせた。
ところが図表2の地図をご覧いただければ分かるように、日本が1932年に樹立した(旧)「満州国」の国境はソ連に接しており、国境線が不安定で、常にいざこざを起こしていた。そのため図表3の「5」にあるように豆満江河口で「張鼓峰事件」を起こしたり、「7」の「ノモンハン事件」を起こしたりして、結局のところソ連は日本の攻撃を避けることが困難になってきた。
一方、西を見ればナチス・ドイツが活発になり、ナチスとの衝突を避けるために「8」にある「独ソ不可侵条約」を締結するのだが、結局ナチスはポーランドを侵攻して第二次世界大戦が始まってしまう。ドイツを敵に回すのはほぼ確実になってきた。その流れの中で「10」にある「日独伊三国同盟」が出来上がってしまった。
だというのに、「11」から「13」にあるように、中国国内では国民党軍と中共軍の争いが絶えず、遂に「14」にあるように蒋介石が中共軍への軍費や武器の支援をするのを止めてしまった。このことは9月3日のコラム<抗日戦争中、中共軍は日本軍と水面下で「不可侵条約」を結んでいた 解除された台湾の機密軍事情報が暴露>で詳述した通りだ。
結果、スターリンは「いっそのこと日本と中立条約を締結しよう」という方向に急転換し、「15」にある通り、1941年4月13日に「日ソ中立条約」を締結してしまうのである。「日ソ不可侵条約」としなかったのは、さすがに「中ソ不可侵条約」という軍事条約があるため、軍事色を少し薄めて「日ソ中立条約」にしたそうだ。当然のことながら、「中ソ不可侵条約」は事実上、消滅してしまう。
となれば、スターリンは蒋介石側に軍事支援金を送る必要が無くなり、しかも中国共産党はスターリンが君臨するコミンテルンが育てあげたようなものだから、スターリンが日本と手を結んだからには、毛沢東も日本軍と結託しても、そうおかしなことではない。
◆毛沢東は天下を取りたかっただけ それに手を貸した日本
毛沢東は天下を取りたいだけで、そこに日中戦争が勃発したのだから、それを「天下を取るために利用した」ことは「罪悪」ではなく、「賢明な戦略家」として、むしろ礼賛されてもいいくらいだと思う。日本は徹底して「中国共産党を育てあげ発展させてあげることに貢献した」というだけのことだという見方もできる。
「4」の国共合作が始まると、周恩来は常に重慶にいて国民党軍の対日軍事作戦を共有する立場になった。その情報を日本軍側に高値で売ったのは「天下を取るための戦略」であって、「6」に書いたスパイ活動は、「日ソ中立条約」が締結されると、一気にその真価を発揮しはじめたというに過ぎない。詳細は拙著『毛沢東 日本軍と共謀した男』に書いたが、コラムでは、たとえば<毛沢東は日本軍と共謀していた――中共スパイ相関図>など、至るところで書いてきた通りだ。
7月10日のコラム<習近平、BRICS欠席して抗日戦争「七七事変」を重視 百団大戦跡地訪問し「日本軍との共謀」否定か>で書いた「百団大戦」は中共軍が日本軍と戦った戦争の中で最大規模のものだったが、それは1940年8月から12月にかけた戦争であったことは注目に値する。すなわち、「日ソ中立条約」が締結される前のものだったということだ。「日ソ中立条約」が成立したからには、もうスターリンに「ほらね、中共軍も、ちゃんと日本軍と戦っているよ」というところを見せなくても良くなった。だからその後は、中共軍にはもう目立った日本軍との戦いはなくなっていく。スターリンが日本と仲良くしているんだから、何もその弟子である中国共産党が日本軍と戦う必要はなくなる。天下を取るために、思い切り、国民党・蒋介石を打倒することに力を注いでも良い状況になった。
しかし「大日本帝国」は、「日ソ中立条約」があったにも関わらず、北方四島をソ連に奪われてしまった。おまけに毛沢東に勝たせてあげたのだから、日本はこの側面からの反省も大いに必要となる。
筆者が驚いているのは、拙著では扱えなかった、戦場におけるリアルな証拠が、解除された台湾の軍事機密情報に満載だということである。まるで拙著で書いたことを証拠づけてくれているような「宝の山」だ。今後も、「國史館臺灣文獻館」で興味深いテーマを見つけたら、その都度分析していきたいと思っている。
なお、毛沢東の真相を追究することを極端に嫌う読者がおられる。
よほど中国共産党のプロパガンダに洗脳されてしまったためだと考えられるが、毛沢東の真相から目を背(そむ)けることは、「大日本帝国が何をやったか」から目を背けることに等しい。そのことに気が付いておられるだろうか?
それは再び戦争を招く思想傾向を助長することにほかならないのである。
警鐘を鳴らし続けていく所存だ。
遠藤誉
中国問題グローバル研究所所長、筑波大学名誉教授、理学博士
1941年中国生まれ。中国革命戦を経験し1953年に日本帰国。中国問題グローバル研究所所長。筑波大学名誉教授、理学博士。内閣府総合科学技術会議専門委員(小泉政権)や中国社会科学院社会学研究所客員研究員・教授などを歴任。著書に『米中新産業WAR トランプは習近平に勝てるのか?』『中国「反日の闇」 浮かび上がる日本の闇』、『嗤う習近平の白い牙』、『習近平が狙う「米一極から多極化へ」 台湾有事を創り出すのはCIAだ!』、『もうひとつのジェノサイド 長春の惨劇「チャーズ」』、『 習近平 父を破滅させた鄧小平への復讐』、『毛沢東 日本軍と共謀した男』、『ネット大国中国 言論をめぐる攻防』など多数。
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