🐉7」─3─中国の虐殺史。太平天国の乱で中国人キリスト教徒は数千万人の満洲人を虐殺した。~No.22 

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 2025年9月3日 YAHOO!JAPANニュース 草の実堂「『太平天国洪秀全の「満洲人大虐殺」…犠牲者は本当に数千万人だったのか?
 画像 : 洪秀全太平天国の乱 草の実堂作成(AI)
 洪秀全太平天国
 画像 : 太平天国の乱 public domain
 19世紀半ばの中国では、清王朝の支配に対する不満が各地で高まっていた。
 アヘン戦争後の経済混乱に加え、重い増税や銀の海外流出、農村の困窮などが重なり、社会全体が不安定になっていた。
 こうした状況下で登場したのが、広東出身の宗教家・洪秀全(こうしゅうぜん)である。
 洪秀全は、独自に解釈したキリスト教思想を基盤に「拝上帝会(はいじょうていかい)」を結成し、やがて宗教結社から大規模な反乱組織へと発展させた。
 1851年、広西省で蜂起して「太平天国」を建国し、清王朝との全面戦争が始まることとなる。
 太平天国が掲げた最大の敵は、当時の支配者である満洲人であった。
 洪秀全は檄文の中で清王朝に対して「妖胡を滅せよ」「満洲妖を斬るべし」と繰り返し呼びかけ、満洲人虐殺政策(屠満政策)を推し進めた。※以降、屠満(とまん)政策と記す。
 この思想は単なる政治的対立ではなく、宗教的・民族的な要素を強く含んでおり、満洲人そのものを排除する方向へと進んでいったのである。
 洪秀全とはどんな人物だったのか
 画像 : 洪 秀全(こう しゅうぜん)1860年頃に描かれた肖像画 public domain
 洪秀全(1814年-1864年)は、広東省花県(現・広州市花都区)の客家(はっか)系農民の家に生まれた。
 客家とは中国南部に住む漢民族の一派で、移住を繰り返して形成された集団である。
 幼少期から科挙による立身出世を志したが、四度受験してすべて失敗した。この挫折は洪の思想形成に大きな影響を与えたとされる。
 1843年、洪は病中に「神の啓示」を受けたと主張し、自らを「天父上帝の次子」「天兄イエスの弟」と位置づける独自の宗教観を築いた。
 この頃、広州のキリスト教伝道士・梁発が著した『勧世良言』に出会ったことで、洪はキリスト教的要素を取り入れ、偶像崇拝を否定し、儒仏道を「妖術」として排斥する思想を形成していったのである。
 こうした理念に基づき、洪は宗教結社「拝上帝会」を設立した。
 この会では、飲酒・賭博・売春・纏足を禁じ、厳格な規律を敷いたため、社会的に抑圧されていた農民や客家人を中心に支持を集めた。
 やがて信徒は武装化し、1851年、広西省金田村で挙兵して「太平天国」を建国、洪は「天王」として政教一致体制を築くに至る。
 こうして彼のもとで太平天国は、清朝打倒を掲げた大規模な戦争へと突き進んでいったのである。
 南京での大量虐殺と「論功行賞」制度
 画像 : 天王・洪秀全玉座(南京の洪秀全記念館) KongFu Wang CC BY-SA 2.0
1853年3月、太平軍は清朝の重鎮であった江寧城(現在の南京)を攻略し、ここを「天京」と改称して太平天国の首都とした。
 この南京攻略は、太平天国の勢力拡大における大きな転機となったが、同時に苛烈な大量虐殺の引き金ともなった。
 太平軍は満洲人の支配階級である「旗人」の屋敷を一軒ずつ調べ上げ、年齢や性別を問わず捕らえた者を処刑した。
これは、洪秀全が掲げた「斬妖滅胡」というスローガンに基づくもので、満洲人虐殺政策(屠満政策)へとつながっていった。
 さらにこれは単なる報復ではなく、制度として奨励されていた点が特徴的である。
 太平天国は「論功行賞」の仕組みを導入し、満洲人を殺害した人数に応じて功績を認定し、報奨金や昇進を与えたとされる。
 南京攻略後の記録では、「旗人を一人捕らえし者には銀五両を与う」とする通達が確認されており、事実上の報奨金制度が虐殺を助長したとみられる。
 この南京での大量虐殺は、当時の外国人宣教師や清朝側の記録にも一致して記されており、規模の大きさは歴史的にほぼ確定的とされている。
 一方で、洪秀全が直接指示したのか、現場指揮官の判断によるものかについては議論が続いている。
 満洲人はどれほど粛清されたのか
 画像 : 太平天国全盛期の勢力範囲図 M.Bitton CC BY 4.0
 このように太平天国は、満洲人を「外来の異族」と位置づけ、清朝から中華を奪還することを宗教的使命として、徹底的な排除政策を行った。
 南京以外の地域でも、太平軍の進軍に合わせて旗人を中心とした満洲人社会がしばしば標的となった。
 たとえば、江蘇省揚州では1853年から1856年にかけて、複数回にわたり大量虐殺が行われた。
 犠牲者数については諸説があり、研究者によって大きく推定が分かれている。
 1853年の南京攻略時には、城内に住んでいた旗人(八旗兵とその家族)約3,000〜7,000人が虐殺されたと複数の史料に記されている。また同年の揚州でも約2,000〜4,000人規模の旗人虐殺が報告されている。
 さらに太平軍の北伐時には、河北・山東方面で清軍八旗兵が大規模に壊滅し、数万人単位の損失があったとされる。
 これに加え、江蘇・安徽・江西など各地の旗人集住地でも、虐殺が断続的に発生したことが一次史料で確認できる。
 これらの記録を総合すると、太平天国期の戦乱で旗人を中心に約30万〜50万人規模の満洲人が戦乱期に命を落としたとされる。ただし、当時の人口統計は不完全であり、正確な数字を確定することは困難であるものの、数十万単位の人口損失があったことは確かとみられている。
 一方で、屠満政策が全国で一律に実施されたわけではなかったことも指摘されている。
湖南や広西などでは清軍八旗兵の多くが漢族出身であったため、見た目や言語で満洲人と漢人を厳密に識別するのが難しく、政策の徹底度には地域差があった。
 また、一部の地方では満洲人女性や子供を、奴隷や下働きとして生かした例も報告されている。
 屠満政策がもたらした影響と歴史的評価
 画像 : 洪秀全拝上帝会が蜂起を開始した場所 金田蜂起遺址 STW932
 このように太平天国の屠満政策は、清朝の軍事体制と満洲人社会に大きな打撃を与えた。
 しかし同時に、この過激な方針は漢族を含む住民の反発も招き、太平天国の統治を不安定にする要因となった。
 その影響は国外にも及んでいる。
 南京攻略後、イギリスやフランスは太平天国接触を試みたが、過激な宗教政策や大規模虐殺を知ると態度を変え、最終的には清朝を支援する立場を取った。
 後世の評価は大きく分かれる。
 国民党の孫文や蔣介石は太平天国を「反清民族革命」の先駆として高く評価し、中国共産党も「農民革命」として肯定的に位置づけた。
 一方で、現代の研究者はこうしたイデオロギー的評価とは距離を置き、犠牲者数についても慎重な立場を取っている。
 かつては太平天国の乱による死者数を「5,000万〜7,000万人規模」とする説も流布していたが、現在では、屠満政策による満洲人の犠牲者は約30万〜50万人程度にとどまり、戦乱全体の犠牲者もおおよそ2,000万人前後と考えられている。
 このように、屠満政策は太平天国の象徴的な特徴であり、清朝崩壊を加速させた要因の一つであることは間違いない。
 しかし、その過激さが太平天国を国内外で孤立させたのも事実である。
 この相反する影響こそが、太平天国史をめぐる評価が分かれる理由といえるだろう。
 参考 : 『清史稿・咸豊朝実録』『太平天国起义记』『賊情匯纂』他
 文 / 草の実堂編集部
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 歴史的事実として、数百万人を虐殺する歴史を持っているのは日本民族日本人ではなく漢民族中国人である。
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 古典漢籍に精通した日本人は、中国史を学べば学ぶほど漢族中国人の猟奇的人格を知って恐怖し、鎖国令で中国人を唐人屋敷の押し込めて日本国内から追放した。
 日本民族は、日本文明・国風文化を開花させ中華文明・中国文化を排した。
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 歴史的事実として、日本人と中国人は全然違う。
 虐殺行為の犠牲者数は、日本では数百数千人だが、中国では数百万数千万人である。
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 1796〜1805年 仏教系弥勒菩薩信仰白蓮教の乱。
 総人口は、1791年の3億435万人が1801年に2億9,750万人に減っていた。
 中国仏教は、仏陀弥勒菩薩という救世主が世の中を救うという反皇帝反儒教反体制の革命宗教であった。
 中華儒教は、天帝・天子・皇帝の権威や聖人君主の人徳を否定し脅かす仏教などの奇跡と恩寵を売る宗教を悪徳の邪教として弾圧した。
 中華道教は、天帝の権威を護る為に釈迦を否定し仏教と敵対していた。
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 1840~42年 阿片戦争
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 1851~64年 プロテスタントキリスト教徒中国人の反乱である太平天国の乱で2,000万人以上が虐殺され、中国全土では人口の約4億3,000万人中1億6,000万人以上に激減したという。
 無宗教の日本人は、神の為なら人殺しや日本人を奴隷として売る事を正当化する中世キリスト教に恐怖した。
 大陸世界では、信仰宗教をめぐる戦争による虐殺が繰り返さる殺戮地獄であった。
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 1853〜66年 捻匪(ねんひ)の乱。
 1852年に発生した華北の飢饉が引き金となった。
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 回教の乱。1856〜73年 雲南省のパンゼーの乱。1862〜73年 陝西省甘粛省のドンガン人(中国系ムスリム)の蜂起。
 漢人と回教徒の両方が報復として虐殺を繰り返し、戦乱を恐れて多くの住人が逃亡した。
 1861年 甘粛省の人口は、1,945万9,000人が1,394万人に減った。
 1880年 甘粛省では495万5,000万人、陝西省では772万人に激減した。
 陝西省の回教は70〜80万人いたが10年後にはおよそ9万人まで減少した。
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 1796年から1873年までの宗教結社による「教党の反乱」だけで、5,000万人~1億人が虐殺されたと言われている。
 日本人が憧れた中国は、血に飢えた中国人による猟奇的虐殺で地獄と化していた。
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 日本に帰化した中国人は、人を殺し合う地獄のような中国に耐えられず逃げ出してきた中国人である。
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 日本に渡って来た帰化人と渡来人は違う。
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 DIAMOND onllne「死者2000万人!?「受験に落ちた人」がショックで起こした“史上最大規模の大反乱”とは?
 2023年8月12日 4:30
 「世界史とは、戦争の歴史です」。そう語るのは、現役東大生集団の東大カルペ・ディエムだ。全国複数の高校で学習指導を行う彼らが、「戦争」を切り口に、世界史の流れをわかりやすく解説した『東大生が教える 戦争超全史』が話題を呼んでいる。世界史、現代情勢を理解するうえで超重要な「戦争・反乱・革命・紛争」を地域別にたどった、教養にも受験にも効く一冊だ。古代の戦争からウクライナ戦争まで、約140の戦争が掲載された、まさに「全史」と呼ぶにふさわしい教養書である。今回は、本書の内容を一部抜粋しながら、史上最大規模の反乱「太平天国の乱」について紹介します。
 死者2000万人!?「受験に落ちた人」がショックで起こした“史上最大規模の大反乱”とは?
 Photo: Adobe Stock
 受験に落ちた男が、夢に導かれて新宗教を設立
 みなさんは、受験に落ちたことはありますか?
 実は約170年前の中国で、受験に落ちたショックで、とある人物が反乱を起こし、第一次世界大戦以上の死者を出す大きな事件に発展したことがあったのです。今回は、『戦争超全史』でも紹介した、この中国の大事件「太平天国の乱」をご紹介したいと思います。
 19世紀前半、アヘン戦争後に混乱に陥った清国内では、新宗教拝上帝会が信者を集めました。彼らが、「太平天国」という独立国家を樹立し、打倒清王朝を掲げて起こしたのが太平天国の乱です。
 反乱の中心人物となったのは、洪秀全という人物でした。
 中国には科挙といわれる、隋の時代から続く官僚選抜試験があります。この試験の合格倍率は最盛期で約3000倍にも達したとされ、洪秀全もまた科挙合格を目指し、必死に勉強していた一人でした。
 しかし、3度も不合格となり、失意の中、病気で寝込んでいたところ、夢の中である老人に出会い、現世の悪魔を滅ぼすように命令を受けます。
 その後、4度目の科挙にも失敗した彼は、たまたま見つけたパンフレットでキリスト教について知ることになり、夢に現れた老人は神であり、自分はイエスの弟で、神からの言葉を授かった「預言者」だという謎の結論に至りました。
 こうして洪秀全は、キリスト教の影響を受けた宗教団体、拝上帝会を組織します。ここで言う「上帝」とは「ヤハウェキリスト教における創造主)」のことであり、洪秀全は自らをイエスの弟と称しました。
 当時、アヘン戦争の影響で清国内の情勢が不安定だったことや、男女平等を説く思想などが低階層の人々に支持され、拝上帝会は、数万人規模の信者を抱える宗教団体に成長しました。そして、次第に清朝との間に軋轢が生じ始め、ついに拝上帝会は「太平天国」という独立国家を樹立し、「滅満興漢(満州族の清を倒し、漢民族の王朝を立ち上げよう)」を掲げて清王朝に反乱を起こしました。これが太平天国の乱です。
 死者2000万人。史上最大規模の反乱の結末
 この反乱は、死者2000万人といわれる史上最大規模の反乱となりました。
 太平天国軍の士気は非常に高く、南京を攻め落として天京と名を改め、新たな拠点とするなど、破竹の勢いで連勝を重ねていきました。
 しかし、太平天国のナンバー2であった楊秀清が「自分もヤハウェとイエスの声を聞くことができる」と主張し始めたことなどで状況は一変しました。洪秀全は楊の粛清を決意し、楊の親族や配下など、数万人を虐殺しました。それをきっかけに、太平天国は弱体化していくことになりました。
 またイギリスやアメリカも清に加勢しました。両国は常勝軍という名の軍隊を組織し、反乱の鎮圧に乗り出しました。さらには、清の命令を受けて曾国藩李鴻章が組織した軍隊も太平天国を苦しめました。
 その結果、太平天国は天京以外の領地をすべて失い、孤立してしまいます。食料事情はひっ迫し、洪秀全は「神がお与えになった」雑草を食べることを推進しました。しかし、その雑草を食べた洪秀全は食中毒になって亡くなったそうです。「そんなんだから4回も試験に落ちるんだ」と言いたくなるのは私だけではないと思うのですが、その後天京も陥落し、太平天国の乱は終結しました。
 なんとか反乱を鎮圧した清でしたが、この反乱による死者は2000万人に及ぶといわれ、国力が大きく低下してしまいます。第一次世界大戦の死者が1600万人ほどだと考えると、その規模の大きさがわかるでしょう。
 東大カルペ・ディエム
 現役の東大生集団。貧困家庭で週3日アルバイトをしながら合格した東大生や地方公立高校で東大模試1位になった東大生など、多くの「逆転合格」をした現役東大生が集い、全国複数の学校でワークショップや講演会を実施している。年間1000人以上の生徒に学習指導を行う。著書に『東大生が教える戦争超全史』(ダイヤモンド社)などがある。
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 死者2000万人!?「受験に落ちた人」がショックで起こした“史上最大規模の大反乱”とは?
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 【本書で掲載されている戦争の一部】
 カデシュの戦い/ペルシア戦争ペロポネソス戦争ユダヤ戦争/白村江の戦い元寇百年戦争アヘン戦争フランス革命戦争ナポレオン戦争アメリカ独立戦争南北戦争クリミア戦争第一次世界大戦第二次世界大戦/冷戦/朝鮮戦争中東戦争レバノン内戦/イラク戦争/シリア内戦/ソマリア内戦/ウクライナ戦争……
 東大生が教える 戦争超全史
 東大カルペ・ディエム 著
 <内容紹介>
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   ・   ・   ・   
 Newsweek日本版「14年間で死者2000万人超 現代中国にも影引きずる「太平天国の乱」という未解決問題
 2020年12月28日(月)17時45分
 菊池秀明(国際基督教大学教授) *PRESIDENT Onlineからの転載
 太平天国に現れた問題点は、急速に大国化へ向かう今の中国でも未解決のままくすぶり続けているという。画像は南京郊外で戦う太平天国軍。 © Wu Youru
 2000万人超の死者を出した「太平天国の乱」とは何だったのか。国際基督教大学の菊池秀明教授は「太平天国に現れた問題点は、急速に大国化へ向かう今の中国でも未解決のままくすぶり続けている。権力集中、不寛容さは香港や台湾にも深刻な影響を与えている」という――。
 ※本稿は、菊池秀明『太平天国』(岩波新書)の一部を再編集したものです。
 太平天国の乱とは何だったのか
 14年にわたる太平天国の内戦は1864年に終わった。戦場となった地域とくに江南三省(江蘇、安徽、浙江)の被害は大きく、江蘇だけで死者は2000万人を超えた。読書人たちは流亡の苦しみに遭い、死んだ男女を「忠義」を尽くした者や「烈女」として顕彰した。死者の記憶は儒教を中心とする伝統文化の再興という形をとって伝えられた。
 清朝は南京占領後も太平天国の生き残りに対する捜索と弾圧を続けた。捻軍などの反乱勢力と合流して抵抗を続けた者はやがて敗北した。楊輔清は上海からマカオへ脱出し、10年間潜伏した後に捕らえられた。また逃亡先の香港で李世賢の軍を支援しようとして捕まった者、苦力(クーリー)となってキューバへ移住した者のエピソードもある。
 太平天国に献策したことが発覚して清朝の追及を受けた王韜は、逃亡先の香港でキリスト教儒教の接点を追い求めた。南京を訪問して太平天国の近代化改革を提案した容閎は、曽国藩の招きを受けて李鴻章と兵器工場の設立に尽力した。
 太平天国に共鳴したイギリス人のリンドレーは、帰国後に太平天国に関する著書を出版した。彼はイギリスが太平天国に対して取った態度はどうかと問いかけ、「私はイギリス人であることが恥ずかしくて顔が赤らむ」と述べている。そして植民地を擁した帝国の多くが没落した歴史を振り返り、今こそイギリスは「非侵略(Non-aggression)」の政策を取るべきだと訴えた。
 日本の伊藤博文も晩年、イギリス人の記者に対して「あなたたちイギリス人が、中国との交渉で犯した一番の誤りは、清朝を助けて太平天国を鎮圧したことだ」と語ったという。
洪秀全が創設した上帝教は、太平天国の滅亡と共に中国社会からその姿を消した。それは一つの宗教が信徒の内面的な実践に充分な時間を割かずに政治運動化した結果だった。また読書人の太平天国に対する反感はキリスト教への拒否反応となって残り、反キリスト教事件がくり返し発生した。
 20世紀に入ると、香港の中国人キリスト教社会から「第二の洪秀全」を自任する孫文が登場し、太平天国を反満革命として評価する動きが始まる。ただし辛亥革命によって太平天国の評価が一気に変わった訳ではなく、1930年代になっても江南では太平天国に対する否定的評価が残った。
 現代中国に通じる「他者への不寛容さ」
 太平天国がその掲げた理想にもかかわらず、矛盾と混乱に満ちた運動であった。これは新著『太平天国』(岩波新書)で詳述した通りである。
 洪秀全は「神はただ一つであり、偶像崇拝は誤りだ」というキリスト教のメッセージから、中国の歴代皇帝は上帝ヤハウエを冒涜する偶像崇拝者であり、清朝を打倒して「いにしえの中国」を回復すべきだという主張を導き出した。
 そして太平天国は上帝の庇護のもと、これを信仰する「中国人」の大家族を創り出そうと試みた。また彼らは公有制の実現をうたい、人々は「天父の飯を食う」ことで生活の保障と死後の救済が与えられると説いた。
 だが太平天国は、満洲人や漢人清朝官僚、兵士とその家族を「妖魔」と見なして排撃した。彼らは太平天国の言う「中国人」の範疇には入らなかったのである。
 太平天国の「われわれ」意識はヨーロッパとの出会いのなかで発見されたものであったが、同時に客家など辺境の下層移民がもっていた「自分たちこそは正統なる漢人の末裔である」という屈折した自己認識に裏打ちされていた。また彼らが「大同」世界の実現のために実行した政策は強圧的なもので、江南の都市など他地域に住む人々の習慣や考え方に対する包容力を欠いていた。
 こうした不寛容さは元をたどればユダヤキリスト教思想の影響にたどりつく。抑圧された民の異議申し立ては、しばしば自分たちがかかえた苦難の大きさゆえにエスノセントリズム(自民族中心主義)に陥り、他者の苦悩に対する理解を欠いてしまうからである。
 また宣教師の活動を含むヨーロッパの近代が「文明」を自任し、それと異なる他者を「野蛮」とみなして攻撃する側面をもっていたことも影響した。「唯一の神を信じるか」という問いは、それを受け容れない他者に対する暴力を後押ししたのである。
 分権か、権力の独占か
 さて太平天国は皇帝の称号を否定し、洪秀全と彼を支える5人の王からなる共同統治体制をしいた。軍師として政治・軍事の権限を任された楊秀清と、主として宗教的な権威として君臨した洪秀全のあいだには一種の分業体制が生まれた。
 それは秦の統一以前の封建制度を模範とした太平天国復古主義が生んだ結果であり、皇帝による専制支配が続いた中国に変化をもたらす可能性をもっていた。占領地の経営のために実施した郷官制度も中央集権的な統治の弊害を改め、新興の地域リーダーに地方行政への参加を促す分権的な側面をもっていた。
 だが太平天国の分権統治には大きな矛盾があった。洪秀全に与えられた「真主」という称号は天上、地上の双方に君臨する救世主を意味し、中国のみならず外国に対しても臣従を求める唯一の君主だった。そこには権限を明確に区別し、分散させるという発想が欠けていた。
 また洪秀全の臣下で「弟」だったはずの楊秀清は、シャーマンとして天父下凡を行うと洪秀全の「父」として絶対的な権限をふるった。彼の恣意的な権力行使に対する不満が高まると、楊秀清は「万歳」の称号を要求して洪秀全の宗教的な権威を侵犯した。
 逆上した洪秀全は楊秀清の殺害を命じて天京事変が発生し、石達開の離脱によって建国当初の5人の王はすべていなくなった。その後諸王による統治は復活したが、洪秀全は独占した権力を手放さず、かえって中央政府の求心力の低下と諸王の自立傾向を生んだ。
 この結果をどのように考えればよいのだろうか。
 下層移民の異議申し立てから始まった太平天国は、同じ境遇にある人々に希望を与えたが、自分たちと異なる相手を受け入れ、これを包摂していく寛容さを欠いていた。この排他性は満洲人など清朝関係者を太平天国の掲げる「上帝の大家族」に包摂できなかっただけでなく、偶像破壊に反発した読書人や豊かな江南に住む漢族住民を遠ざけ、太平天国が新王朝として彼らの支持を広げるチャンスを失わせた。
 くり返し現れる排除の論理
 また太平天国のかかえた不寛容さは、その後の中国で進められた西欧諸国および日本の侵略に対する抵抗運動へと受けつがれた。中国だけではない。ヨーロッパとの出会いをきっかけに始まったアジア近代の歴史は、しばしばその内部に復古主義的な傾向をもち、列強の植民地化が深まるほど抵抗は激しく非妥協的なものとなった。
 だが、この抵抗の歴史においても、異質な他者に対する排斥の論理はくり返し現れた。外国勢力に対してだけでなく、国内においても「敵」を創り出し、これを攻撃することで「われわれ」の結束を強化したのである。
 中国の場合はこれに階級闘争の理論が結びつき、毛沢東によって「一つの階級が他の階級をひっくり返す」革命の暴力が肯定された。それが中華人民共和国の建国後、反右派闘争や文化大革命などの政治運動で「革命の敵」とみなされた人々に対する迫害を生み出したことはよく知られている。
 いっぽう太平天国の王制や地域支配に見られる分権的な傾向は、郡県制の中央集権的な統治がかかえる構造的な問題を改める可能性を含んでいた。だがその実態は混乱していた。洪秀全と5人の王たちは身分のうえでは同じであったが、厳密に等級づけられており、権限にも大きな差があった。郷官に与えられた権限も小さく、中央から派遣される軍や上級将校の命令と地域社会の板挟みになることが多かった。
 「権力を分散させれば破滅をもたらす」太平天国の教訓
 そして何よりも問題だったのは、様々な王位や官職がもつ権限が曖昧で、複数の権威や組織のあいだで常に激しい競争原理が働いていたことだった。
 その最たるものは「万歳」の称号と救世主の権威をめぐる洪秀全と楊秀清の争いであり、他の王たちも庇護を求める人々の声に応えるために競合した。公有制が充分に機能せず、中央政府の求心力が低下するほど、諸王の地方における勢力拡大は進み、中央以上の富と兵力を蓄積する者も現れた。そして洪秀全とその側近によるコントロールのきかない諸王に対する不信と抑圧は、政権そのものの崩壊を招いたのである。
 その結果、後世の人々は太平天国が失敗した原因を内部分裂に求めた。そして「中国は常に強大な権力によって統一されていなければならない。少しでも権力を分散させれば破滅をもたらす」という、中国の歴史においてくり返し唱えられてきた教訓を読み取ろうとした。
 実際には清末に李鴻章をはじめとする地方長官の権限が拡大し、20世紀に入ると省を単位とした連邦政府構想である「聯省自治」論が模索された。だがいっぽうでそれを「軍閥割拠」あるいは外国勢力と結託する「分裂主義」と批判する傾向も強まった。そして蒋介石の国民党であれ、中国共産党であれ、強大な権力を握って異論を許さない「党国体制」が生まれていくことになる。
 太平天国に現れた問題点は未解決のままだ
 急速に大国化へ向かう現在の中国を見るとき、太平天国に現れた中国社会の問題点は、なお未解決のまま残っていることがわかる。自分と異なる他者を排斥してしまう不寛容さと、権力を分割してその暴走を抑える安定的な制度の欠如は、中国国内だけでなく、台湾や香港、少数民族をはじめとする周辺地域に深刻な影響を与えている。
 books20201228.jpgあるいは「それが今も昔も変わらない中国の姿なのだ」と醒めた見方をすることも可能だろう。もはや中国に「民主化」を期待できないのであれば、外圧で抑え込む以外に方法はないと考えるのもやむを得ないことかもしれない。
 だがそれは中国が多様な相手の存在を認め、権力の一極集中を是正することにはつながらないだろう。西欧世界や日本にとって普遍的な価値も、中国にとっては近代社会の「排除」の論理がもたらした「屈辱」の歴史を想起させるものであり、今なお中国が引きずる被害者としてのトラウマから解き放ってくれるものではないからだ。
 「中華の復興」を掲げて強国化の道をつき進む中国に、我々は粘り強く冷静に向き合うしかない。そのために中国社会がもっていた異なる可能性を発見し、検証していくことが求められていると言えよう。
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