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2024年12月4日 YAHOO!JAPANニュース 文化放送「英語は「ヨーロッパの田舎」の言語だった? 言葉と辞書の歴史をたどる
ニュースキャスターの長野智子がパーソナリティを務める「長野智子アップデート」(文化放送・月曜日~金曜日15時30分~17時)、12月4日の放送で「言葉と辞書の関係」というテーマを特集。毎日新聞論説委員の小倉孝保が解説を務め、ヨーロッパにおける辞書づくりについて語った。
鈴木敏夫(文化放送解説委員)「フランスでは400年近くにわたってずっと辞書の改訂を続けている、ということです。続けているのはなぜなのか、辞書の果たす役割はなんなのか、それが国のかたちにどう影響しているのか、小倉さんに解説していただきます」
小倉孝保「僕、2012年から数年間、ロンドンにいたとき、ヨーロッパの辞書づくりというのに関心を持って。一時期かなり集中的に取材したこともあるんです。なぜ長い時間をかけて、彼らは辞書をつくっていくのか。有名なのはオックスフォード英語辞典ですよね」
鈴木「映画にもなりました」
小倉「あれなんか19世紀からつくり始めて、いま2版ぐらいなんですね。3版をどうするか、といった議論をしている。イギリスで19世紀に始まった辞書づくりというのは、もともとフランスをすごく意識していたんです」
長野智子「そうなんですか」
小倉「イタリアとフランスで辞書づくりが始まっていて。イタリア語やフランス語はラテン語の派生語なんですね。自分たちの言葉に敬意を表して、重要性をよくわかっていた。英語というのは当時、どちらかというとヨーロッパの田舎の言葉だとみられていて。イギリス人自身もそう思っていたんです」
鈴木「イギリス自体がヨーロッパの田舎だったような」
小倉「そう。シェイクスピアが英語で書いているんですけど、書いた当時はヨーロッパでそれほど話題にならなかった。ラテン系の言葉がやはり共通語だった」
長野「田舎のどこかの言葉でシェイクスピアは書いている、みたいな」
小倉「シェイクスピアっていうやつがいるらしいね、ぐらいの。ニュートンは全部、論文はラテン語で書いていますからね。それでヨーロッパは全部わかるわけです。イギリスはフランスを非常に意識していて。ということで僕はフランスの辞書についても調べたことがあって。それが今回できあがった辞書、第9版なんです」
鈴木「9版ができあがって、マクロン大統領を招いてお祝いをしたと。国家プロジェクトじゃないですか」
小倉「ひとつの辞書ができたことに、大統領が行って。まさに国がお金を払ってつくっている辞書なんです。辞書を手渡されてマクロン大統領が『これがフランスだ』みたいな顔をする。なんで自分たちの国があるのか、なんで自分たちはフランスなのか、というところを突き詰めていけば、彼らは『言葉』というのに行きあたると思っている」
長野「ほう」
小倉「イギリスでもそうなんです。イギリス人というのは言葉をいっぺんちゃんと整理しようということで、オックスフォード英語辞典などをつくっているわけです。僕はそのイギリス人が、今度イギリスのラテン語の辞書をつくった、中世ラテン語の辞書プロジェクトを『中世ラテン語の辞書を編む 100年かけてやる仕事』という本にしました」
長野「小倉さんがね」
小倉「10数冊、僕は本を書いていて、そのうちネットとかで見ると『100年かけてやる仕事』が、日本でいちばん人気あるんです(プレジデント社から単行本、KADOKAWAから文庫が発売)。日本人も言葉に関してこんなに関心があるのか、言葉の歴史にこんなに関心があるのか、と。コメントとかを読んで日本人ってすごいなと思っているんです」
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西洋白人の祖先は、ケルト人やガリア人などの先住民の大地を侵略し、虐殺し、占領し、新たな征服者として君臨し、先住民のケルト人やガリア人を奴隷にするか北方へと追いやって数多くの西洋白人国家を樹立し、お互いに戦争をし殺し合った。
それは、アジア、東洋、中華でも変わりなく同じであった。
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ウィキペディア
ケルト人は、以前は中央アジアの草原から馬と車輪付きの乗り物(戦車、馬車)を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の言語を用いていた民族であると考えられていた。ケルトとは古代ローマで「未知の人」を意味し、もともとは民族を示す言葉ではない。
大陸のケルト
ケルト人はおそらく青銅器時代に中部ヨーロッパに広がり、その後期から鉄器時代初期にかけて、ハルシュタット文化(紀元前1200年 - 紀元前500年)を発展させたと考えられてきた。当時欧州の文明の中心地であったギリシャやエトルリアからの圧倒的な影響の下、ハルシュタット文化はラ・テーヌ文化(紀元前500年 - 紀元前200年)に発展する。ちなみに、イギリスの世界遺産であるストーンヘンジはより古い新石器時代~青銅器時代(紀元前3千年~2千年) の建造と以前は考えられていた。
島のケルト
ケルト人がいつブリテン諸島に渡来したかははっきりせず、以前は鉄製武器をもつケルト戦士集団によって征服されたとされていたが、遺伝子などの研究から新石器時代の先住民(ケルト以前の巨石文化の担い手)が大陸の文化的影響によって変質したとする説もある。いずれにしてもローマ帝国に征服される以前のブリテン島には戦車に乗り、鉄製武器をもつ部族社会が展開していたがこれらはケルト人とはいえない。
現代のケルト系諸言語
ケルト語派の言語が話される国はアイルランド、スコットランド、マン島、ウェールズ、及びブルターニュである(これにコーンウォールを加えることもある)。しかし、その5ヶ国の人々の中で、まだケルト系言語を使って日常的生活を送る人の数は30%程度を超えない。
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ゲルマン民族は、東方の文明・文化を持たない野蛮な蛮族であった。
現代の西洋白人は、ゲルマン人の子孫である。
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インド・ヨーロッパ語族は、東はインドから西はヨーロッパまでの起源を共有する言語で、イタリック語派(現代のロマンス諸語)、ゲルマン語派、スラブ語派 、インド語派(インド–イラン語派)など幾つかの語派が存在する。
イタリック語派の一つであるラテン語には、古代ローマ帝国時代に民衆が話していた俗ラテン語(ラテン口語)があり、後にローマ・カトリック教会が正式に使用していた公用語である古典ラテン語がある。
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古代ローマ時代、アルプス山脈の北、ピレネー山脈とライン川の間のガリアにはケルト人が居住していた。
紀元前58年頃 カエサル(英語名シーザー)はガリアを侵略し、ケルト人のガリアとブリタニア、ゲルマン人のゲルマニアを征服してローマの版図を広げた。
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古代ローマ帝国は、広がった帝国属領に総督・軍団長を派遣して支配しが、皇帝の権威が弱まると地方の総督・軍団長が帝位を求めて反乱を繰り返した為に帝国は弱体化し、有力な総督・軍団長が皇帝に即位し帝国はさらに衰退した。
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4世紀頃から6世紀頃まで、ヨーロッパではゲルマン人による民族の大移動が起きていた。
476年 西ローマ帝国は、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルの反乱で滅亡した。
その後の異民族の侵略で、ローマは大火に包まれ大虐殺で死者の都となった。
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ザクセン人(サクソン人)は、ゲルマン民族のうち西ゲルマンに属する一部族で、ゲルマン民族大移動でエルベ川北岸のホルシュタイン一帯に移住して定着し集落を営んだ。
2世紀から4世紀にかけて徐々に生存圏を拡大していった。5世紀には一部のザクセン人がユトランド半島のアングル人・ジュート人と共にイギリスに上陸し、いわゆるアングロ・サクソン人の元となった。
ザクセン人は、ザクセン公家として、中世から近世にかけて北部ドイツ地方一帯を支配してザクセン公国を樹立した。
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フランク人は、ゲルマン民族の一部族で、民族大移動でフランス北部とベルギーに移住し、5世紀末に原住民のケルト族ガリア人(ゴール人)を攻めて征服してメロヴィング朝フランク王国を建てた。
ヨーロッパの階級ピラミッドの原型は、征服した部族によって積み重ねられて築かれた。
732年 メロヴィング朝の宮宰カール゠マルテルは、イベリア半島から侵略してきたイスラム軍をフランク領トゥール゠ポアチエで撃破して宗教侵略からキリスト教とヨーロッパを守り、メロヴィング朝における統治権を握った。
751年 カール゠マルテルの子ピピン(小ピピン、短軀王。)は、フラン国王の王位を簒奪し、メロビング朝を廃してカロリング朝を開いた。
768年 ピピンの長子シャルルマーニュ(大ピピン、カール大帝、チャールズ大帝。)は、ザクセン公国と北イタリ・ランゴバルド王国(東ゲルマン族の一部族ランゴバルド人)を滅ぼして中部ヨーロッパとイタリアに領土を拡大してゲルマン諸部族をまとめ、イスラム勢力をピレネー山脈以西に追いやり、800年にローマ教皇から西ローマ皇帝の冠を授かり西洋キリスト教文明世界の守護者に任じられた。
フランク王国が、現代ヨーロッパの原形であり、西洋キリスト教文明を成立させた。
フランク王国は、後に西フランク(フランス)、東フランク(ドイツ)、中部フランク皇帝領(イタリア・オランダ・ベルギー)に3分割され、後に数多くの王国や公国が建国され領土を巡る戦争を繰り返して起きたが、再統一される事はなかった。
ヨーロッパ人とは東方の侵略者・征服者ゲルマン民族の事で、古代ギリシャや古代ローマ、古代ローマ共和国、古代ローマ帝国との直接的な繋がりは薄い。
ヨーロッパ人に正統な統治者としての権威を与えたのは、西欧キリスト教文明のローマ・カトリック教会であった。
当時、現代のようなフランス人、ドイツ人、イタリア人、オランダ人、その他の人々は存在しなかった。
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ヨーロッパを政治的に統合されたのがEU(欧州連合)であるが、イギリスは離脱した。
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962年 ドイツ王オットー1世は、ローマ教皇ヨハネ12世から皇冠を戴いて神聖ローマ帝国を建国し、西洋キリスト教文明圏の保護者となった。
現代に繋がる欧州大陸部であるドイツ、フランス、イタリア、その他の諸国は、この混乱状況の中から建国され、各民族や諸国民が生まれた。
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ヒトラーが自称した第3帝国ナチス・ドイツとは、アーリア人種ゲルマン民族ドイツ人の事である。
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ローマ教皇に即位する絶対条件は、西洋系欧州系白人男性である事であった。
コンクラーベ(教皇選挙会議)を構成する枢機卿になる資格は、敬虔な経験と教会活動の実績があれば人種や民族は問わないが、性差別として女性には資格が認められていなかった。
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