🔯34」─3・②─古代ローマ帝国を滅ぼした異民族異教徒の西ゴート族。短命に終わったゲルマン諸王国。〜No.120 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 人口が激減する古代ローマ帝国内に、フン族フランク族西ゴート族などのゲルマン民族などの異民族が東方から大量に移住した為に滅亡した。
 古代ローマ民族は、移住してきた異民族によって死滅した。
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 歴史的事実として、同化を拒絶する異民族の増加は繁栄ではなく滅亡であった。
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 2025年4月10日 MicrosoftStartニュース Stars Insider「西ゴート族とはいったい何者だったのか?
 西ゴート族とはいったい何者だったのか?
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 西ゴート族は後期古代にローマ帝国を襲撃し、その結果、ローマの影響力は西ヨーロッパで大きく衰えた。彼らの物語は複雑で、敵と不安定な同盟を結びながら、自分たち同士で争い、殺し合った。領土は獲得したり失ったりし、フン族フランク族などの他の野心的な蛮族部族からの脅威も常にあった。西ゴート族の王国は繁栄したが、彼らに挑戦する力強い勢力が現れた。では、次に何が起こったのだろうか?
 このギャラリーでは、この特別な民族とその歴史的な役割についてもっと学んでみよう。
 起源
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 西ゴート(ゴート族)は、紀元3世紀頃に黒海の西に定住した遊牧ゲルマン民族である。
 アブリットゥスの戦い
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 紀元250年、クニヴァ王率いるゴート族がローマ領土を襲撃。翌251年、ローマ軍はアブリトゥスの戦いで大敗し、ローマ皇帝デキウスとその息子ヘレニウス・エトルスクスはともに戦死した。写真は、ローマ人とゴート人の激しい衝突を描いたルドヴィシの戦いの石棺。
 ローマ人への対応
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 ローマ帝国との戦場での成功は、さらなる帝国への侵入を促した。そして376年、ゴート族の首長フリティゲルンが東ローマ皇帝ヴァレンスを説得し、西ゴート族の共同体がドナウ川南岸に定住することを許可した。
 ゴート戦争(376–382)
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 しかし、ローマ人は一般的にゴート族を侮蔑的に扱った。ローマで飢饉が起こると、ローマの指導者たちはゴート族に食料と土地を提供することを渋った。公然と反乱が起こり、ゴート戦争へと発展した。
 ハドリアノポリスの戦い
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 この戦争の決定的な決戦は、378年8月9日に行われたハドリアノポリスの戦いだった。フリトゲルンに率いられたゴート族は圧倒的な勝利を収め、ヴァレンス皇帝の命を奪った。
 西ローマ帝国の滅亡
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 歴史家たちは、5世紀に西ローマ帝国が滅亡するきっかけとなった出来事だと考えている。写真は西暦117年、帝国が最大規模になったときのもの。
 アラリック1世
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 ゴート族は西への進撃を続けた。395年、古代ギリシャの都市アルゴスとエレウシスが破壊された。同年、ゴート族は最初の王アラリック1世を戴冠させた。
 西への前進
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 翌396年、スパルタはコリントスと同様に略奪された。しかし、最大の戦利品はまだ獲得されていなかった。 ローマそのものである。
 ローマ包囲戦
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 408年、ゴート族がローマを包囲した。飢饉はまだ蔓延しており、アラリックは飢えを武器に、飢えに苦しむ市民に食料を届ける代わりに莫大な身代金を要求した。
 ローマ略奪
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 その2年後、皇帝ホノリウスとの交渉に失敗したゴート族は、再びローマを標的にした。410年8月24日、アラリックとその軍勢はローマ略奪を開始。ローマが攻撃され、敗北し、略奪されたのは、およそ800年ぶりのことだった。
 古代から中世まで
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 ローマ帝国統治機構ラヴェンナに移っていたが、ローマの略奪は西ローマ帝国崩壊の大きな転機となった。より広く言えば、古典的古代から中世への緩やかな移行を示すものであった。 
 不安な同盟関係
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 ローマでの勝利後、西ゴート族はさらに西へと拡大したが、アラリック王は411年に死去したため不在だった。アラリック王の後を継いだのは妻の弟アタウルフだった。ゴート族はローマとの不安な同盟関係を確保し、418年にはフランス南西部のアキテーヌに定住した。西ゴート王国は拡大していた。
 アタウルフとシゲリック
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 アタウルフ王の治世は短かった。彼は415年に殺害された。シゲリック王は在位わずか7日間で、暗殺者の犠牲となった。次の王ワリアは皇帝ホノリウスと協定を結び、西ゴート族がフランスに拠点を構えることを許可した。
 カタラウヌムの戦い
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 ワリアは415年から418年まで統治した。テオドリックは、451年のカタラウヌムの戦いで、ローマ人と西ゴート人の連合軍がフン族アッティラを阻止したことで有名である。しかし、テオドリックは戦場で戦死した。
 テオドリック2世とスペイン進出
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 テオドリック2世は462年、ヒスパニアイベリア半島とその地方のローマ時代の呼称)への西ゴート進出を開始した。西ゴート王国内の勢力争いは、466年にテオドリック2世が弟のエウリックに暗殺されても驚くことはなかった。
 エウリック国王
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 エウリックは466年から484年に死去するまで西ゴート族の王として統治した。在位中、西ゴート族の様々な対立を統一し、ローマ皇帝ユリウス・ネポスと和平条約を結んだ(476年までに西ローマ帝国は事実上消滅)。エウリックはイスパニアにおける西ゴート族の勢力を拡大し、イベリア半島のほぼ全域を支配した。
 西ゴート領
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 500年までに、トゥールーズを中心とする西ゴート王国は、アキタニア、南フランスのローマ帝国ガリア・ナルボネンシス州、イスパニアの大部分を支配した。地図は西ゴート領土の最大範囲を示す。
 ヴイエの戦い
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 ゴート族は無敵だと感じていた。ところが、考えられないことが起こった。507年春、彼らはヴイエの戦いで、同じゲルマン民族であるフランク族に敗走させられたのだ。クロヴィスが指揮するフランク族の勝利と、父エウリックの後を継いだアラリック2世の死は、西ゴート王国が苦労して築いた王国に最初の亀裂をもたらした。
 フランク王クロヴィス
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 ヴイエの戦いをきっかけに、それまで分裂していたガリアは、西ゴートの支配を弱体化させるため、クロヴィスのもとでフランシア統一王国へと変貌した。
ユスティニアヌス1世とビザンツへの挑戦
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 527年から565年までビザンツ皇帝だったユスティニアヌス1世が535年、ゴート族からイタリアを再征服する目的で戦争を開始すると、ヨーロッパにおける西ゴート族の支配はさらに困難になった。
 西ゴート・ヒスパニア
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 西ゴート支配の中心は再びバルセロナに移り、次いで内陸のトレドへと南下した。571年、ゴート族がコルドバを征服。
 イタリア陥落
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 しかし、その間もユスティニアヌス1世は西ゴート族との戦争を続け、562年にはついにイタリアを征服した。急速に侵攻するビザンチン軍は深刻な脅威として認識された。
 ビザンツ帝国
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 565年、ユスティニアヌス1世の時代になると、コンスタンティノープルを中心とするビザンツ帝国は、イベリア半島南部を含む最大の領土に拡大した。
 レオビヒルド王
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 レオビヒルド王(写真)と後のスィンティラ王は、ビザンツ帝国に奪われたイスパニア南部の一部を取り戻すことに成功した。一方、帝国ローマ軍は西ゴート族の対立を利用し、コルドバに新政権を樹立した。
 グアダレーテ河畔の戦い
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 皮肉なことに、西ゴート族を滅ぼしたのはビザンツ帝国ではなく、イスラム勢力による侵略だった。711年、グアダレテの戦いで、イスパニアの西ゴート王ロデリクは、タリク・イブン・ジヤド率いるベルベル人の攻撃に対抗しようとした軍勢に殺された。
 ターリク・イブン・ズィヤード
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 ウマイヤ朝の司令官であったターリク・イブン・ズィヤードは、8世紀初頭にイベリア半島の大半がイスラム支配下に入った西ゴート・イスパニアイスラム教徒が征服するきっかけを作ったとされている。
 西ゴート王国の終焉
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 最後の西ゴート王はアルドで、713年か714年から720年か721年に亡くなるまで君臨した。最後の西ゴート属州はガリア・ナルボネンシスで、716年にイスラム教徒の支配下に入った。西ゴート王国は消滅した。
 出典 ( Britannica) (World History Encyclopedia) (National Geographic) (Khan Academy)
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 4月10日 YAHOO!JAPANニュース ダイヤモンド・オンライン「【素人の国家運営、その末路】ゲルマン諸王国の「悲劇」が教えてくれること
 【素人の国家運営、その末路】ゲルマン諸王国の「悲劇」が教えてくれること
 「地図を読み解き、歴史を深読みしよう」
 人類の歴史は、交易、外交、戦争などの交流を重ねるうちに紡がれてきました。しかし、その移動や交流を、文字だけでイメージするのは困難です。地図を活用すれば、文字や年表だけでは捉えにくい歴史の背景や構造が鮮明に浮かび上がります。
 本連載は、政治、経済、貿易、宗教、戦争など、多岐にわたる人類の営みを、地図や図解を用いて解説するものです。地図で世界史を学び直すことで、経済ニュースや国際情勢の理解が深まり、現代社会を読み解く基礎教養も身につきます。著者は代々木ゼミナールの世界史講師の伊藤敏氏。黒板にフリーハンドで描かれる正確無比な地図に魅了される受験生も多い。近刊『地図で学ぶ 世界史「再入門」』の著者でもある。
● “素人”が国家を運営すると、どうなる?
 375年、フン人の圧迫を受け、ゲルマン人の一部族である西ゴート人が移住を開始したことをもって、ゲルマン人の大移動が始まったと見なします。これを機に、各地のゲルマン人諸部族もまた、ローマ帝国を目指して次々と移住を開始し、のちに各地で王国を築きます。加えてさらに決定的な出来事が生じます。
 395年にローマ帝国が東西に分裂したのです。その後ローマは二度と統一されることはありませんでした。分割支配により、西ローマ帝国東ローマ帝国ビザンティン帝国)が成立しましたが、このうち西ローマ帝国ゲルマン人傭兵隊長であったオドアケルにより、476年に滅亡します。
 とはいえ、これは実態としては西ローマ皇帝位が「空位になった」と見なすべきもので、オドアケルは東ローマ皇帝の権威のもと、東方の宮廷との人脈を活かしながらイタリア統治に当たります。
 ですが、彼もまた最終的に東ローマ帝国の命を受けた東ゴート人の侵攻を受けてたおれます。一方で、東ローマ帝国ビザンティン帝国)は、この後も1000年にわたって命脈を保ちます。交通の要衝に位置した首都コンスタンティノポリスコンスタンティノープル/現イスタンブル)は、地中海世界の大都市という地位を長年にわたって保持し続けることになります。
● ゲルマン諸王国が短命で終わった理由
 さて、ここである問題が生じます。それは、大移動によって建国されたゲルマン諸王国が、どれも長期支配を保てなかったということです。では、なぜゲルマン諸王国は長期政権を維持することができなかったのでしょうか。
 まず、諸王国において、支配層であるゲルマン人は少数派に過ぎないということです。諸国の人口比で圧倒的に多いのはローマ系住民であり、彼らはローマ帝国で正統とされたアタナシウス派(ニカイア派)を信仰していました。
 一方、支配層であるゲルマン人たちも、少なくない割合がキリスト教徒ではありましたが、異端とされたアリウス派を信仰していました。この宗派対立によるローマ系住民の反感が、ゲルマン諸王国を悩ませます。
● しくみの問題も大きかった
 しかし、それにも増して問題なのは、ゲルマン人は有史以来、国家を運営した経験がないということです。
 ここでいう「国家」とは「領域国家」を指し、すなわちゲルマン諸王国では、国土より効率よく税を集める官僚制(徴税システム)が欠落ないし不備な状態にあったのです。これでは到底円滑な国家運営などできるわけもなく、このためゲルマン諸王国は短命に終わる運命にありました。
 (本原稿は『地図で学ぶ 世界史「再入門」』を一部抜粋・編集したものです)
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