🔯20」─6─宗教家イエスと哲学者ソクラテスの意外な共通点。~No.66 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2025年3月6日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「イエスソクラテスの「意外な共通点」、二人の「偉大な思想家」はこんな能力が高かった…!
 グローバル化が進むなかで、自分とは異なったさまざまな背景をもつ人と関係を築くようになったという人は多いかもしれません。たとえば、日本で、あまり宗教を意識せずに育った人にとっても、キリスト教の知識をもっておくことは、以前に比べて重要性を増していそうです。
 キリスト教について知るために非常に役に立つのが、『キリスト教入門』(講談社学術文庫)という一冊。著者は、比較文化史家でキリスト教に関する著書が多数ある竹下節子氏です。
 本書は旧約聖書新約聖書の内容をわかりやすく紹介しつつ、キリスト教を知るうえでポイントとなる「キーワード」を整理して提示してくれます。
 さらには、イエスという人物について、その秀でていた点を指摘しつつ、生き生きとしたイメージを与えてくれる部分があるのも本書の特徴の一つ。そのなかで、イエスは意外にもソクラテスに似ていたのではないかという考えが飛び出します。同書より引用します(読みやすさのため、改行などを編集しています)。
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 殺伐としていた2000年前のパレスティナで愛を説いたのも、イエスが最初ではなかった。イエスの教えの内容は、当時の進歩的ファリサイ(パリサイ)派に近い。イエスファリサイ派のように縁のある上衣を着ていたし、ファリサイ派の人たちと共に食事もした(ルカ7・36、11・37)。
 ラビ・ヒレルやラビ・シャンマイといった人たちは愛を語り、イエスと同様、モラルにおいては外的な形よりも内的良心の方が重要だと言っていた。しかしイエスが彼らと違っていたのは、その言い方だ。
 進歩的なファリサイ派といえども、律法の解釈を説いたのであって自分たちの言葉に絶対的権威を付与することはない。ところがイエスはたとえば、「あなたがたも聞いているとおり……しかし、わたしは言っておく」(マタイ5・21~22)というふうに、自分の言葉が先験的に正しいという立場で語った。だからこそ神殿の祭司長や律法学者や長老たちがやってきて「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか」とイエスを問い詰めたのだ(マルコ11・28)。
 イエスは天から付与された権威を持って語り、預言者としてふるまった。厖大な数の群衆を前にして説教できたということは、よく通る堂々とした声の持ち主であったに違いない。そして天才的なのはその説教のしかただった。分かりやすくしかも深い含蓄のある数々の喩え話は、その後キリスト教文化共通の貴重な教養源になっている。山上の垂訓などで有名なイエスの説教を知るためにだけでも福音書は必読書だ(マタイ5~7ほか)。
 中国の思想書などにも巧みな喩え話はたくさんあるけれど、分かりやすさや絶妙な効果でイエスの喩え話は独特だ。柔軟で弁証法的でパラドクスに満ちていて、紋切り型や教条主義と縁遠く、質問に対して質問で答え、相手の自問を促すやり方は、むしろソクラテスに一番似ているかもしれない。
 イエスユダヤ教をつきつめ、ソクラテスギリシャ哲学をつきつめて、両者とも自然の美を愛した。ソクラテスは汝自身を知れ、そうすれば宇宙と神々を知ることになろうと語り、イエスは「神の国はあなたがたの間にある」(ルカ17・21)と言った。
 でも、ものごとの本質を深く語る人は、既成の価値観に従って満足して生きている人たちからは歓迎されない。だからソクラテスもイエスも権力者に殺されてしまった。
 真理とは銀の盆にのせて押しつけられるものではなく、いろいろな綾を織り成しながら人を誘う道のように与えられるのかもしれない。イエス預言者の権威をもって語ったが、人間性の深いところにある、人々の中の最善のものを引き出そうとした。律法などが、時代や場所や民族の文脈が変化するにつれて多くの意味が理解不能になるのと違って、ソクラテスの言葉やイエスの説教が決して古くならないのはそのためだろう。
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 イエスが当時において、どのような意味で新しかったのかをおしえてくれる記述です。
 さらに【つづき】「なぜキリスト教は、神を「父と子と聖霊の“三位一体”」としたのか…? そこには「意外すぎる理由」があった」でも、キリスト教の「三位一体説」についてくわしく紹介しています。
 学術文庫&選書メチエ編集部
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 2024年12月3日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「なぜキリスト教は、神を「父と子と聖霊の“三位一体”」としたのか…? そこには「意外すぎる理由」があった
 どうして「父と子と精霊」?
 グローバル化が進むなかで、自分とは異なったさまざまな背景をもつ人と関係を築くようになったという人は多いかもしれない。
 たとえば、日本であまり宗教を意識せずに育った人にとっても、キリスト教の知識をもっておくことは、以前に比べて重要性を増している。
 キリスト教について知るために非常に役に立つのが、『キリスト教入門』(講談社学術文庫)という一冊。著者は、比較文化史家でキリスト教に関する著書が多数ある竹下節子氏だ。
 『キリスト教入門』(講談社学術文庫
 本書は旧約聖書新約聖書の内容をわかりやすく紹介しつつ、キリスト教を知るうえでポイントとなる「キーワード」を整理して提示してくれる。
 キリスト教徒と言えば、「三位一体」という考え方を取り入れていることで知られるが、なぜ三位一体は教えに組み込まれていったのか?
 その背景に関する解説を『キリスト教入門』から抜粋する(読みやすさのため、改行などを編集しています)。
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 三位一体の神とは「父と子と聖霊」だ。父は「目」であったり白髪のおじいさんだったりし、子は小羊やイエス・キリストで表され、聖霊は白鳩で描かれることが多い。
 モーセの神は、最初はその名も分からず、子音表記しかしない古代ヘブライ語でただ三人称の「存在する」という動詞の現在形の語根によって示された「在りて在る者」という抽象的なものだった。
 それが、イスラエルの民がカナンに定住した後でなぜか「父」のイメージを持つようになった。カナン人は父なる神とその妻である神々の母アシェラ、息子のバール、「乙女」と呼ばれた娘のアナトの四つの神性を拝していたから、ユダヤ人がカナン人を征服して、彼らの一神教を押しつけた時に、ヤハウェが「父」の地位を継承したのだろう。
 この「父子」の家族的なイメージは、本来の一神教を曖昧にしてしまった。後にこれが「父と子と聖霊」という「三位一体」の教義のベースになった。
 しかし、キリスト教が三位一体の教義(三八一年の第一コンスタンティノポリス公会議で教義化された)を真に必要としたのは、教会という制度を神格化したかったからだろう。
 原始教会の集まりではヒエラルキーも聖職者の地位も曖昧だったが、五五三年の第二コンスタンティノポリス公会議において、「父」と「子」に「聖霊」(具体的には聖霊によって導入された教会)を加えた三位一体によって教会の権威は超越的なものになった。
 同時に聖職者とは聖霊降臨で福音を伝える能力や赦しや癒しの能力を付与された者となる。こうして教会を批判したり攻撃したりすることは、聖霊を批判したり攻撃したりするに等しいことになった。
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 じつは「三位一体」の考え方には、そもそもほかの信仰との影響関係があったり、教会の権威を高める効果を狙った部分があったりした……。宗教というものがどのようにかたちを変えていくのかの一端を垣間見ることができます。
 さらに【つづき】「「キリスト教の神」が、「三角形の中の目」で示されることがあるのはなぜか…? じつは「深い理由」があった」の記事でも、キリスト教の意外な側面についてくわしく解説していきます。
 本記事の引用元である『キリスト教入門』では、ほかにもキリスト教に関するさまざまな解説を収録している。
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 2024年12月23日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「「キリスト教の神」が、「三角形の中の目」で示されることがあるのはなぜか…? じつは「深い理由」があった
 「三角形の中の目」
 グローバル化が進むなかで、自分とは異なったさまざまな背景をもつ人と関係を築くようになったという人は多いかもしれません。たとえば、日本で、あまり宗教を意識せずに育った人にとっても、キリスト教の知識をもっておくことは、以前に比べて重要性を増していそうです。
 キリスト教について知るために非常に役に立つのが、『キリスト教入門』(講談社学術文庫)という一冊。著者は、比較文化史家でキリスト教に関する著書が多数ある竹下節子さんです。
 本書は旧約聖書新約聖書の内容をわかりやすく紹介しつつ、キリスト教を知るうえでポイントとなる「キーワード」を整理して提示してくれます。
 たとえば、キリスト教では、神がシンボリックに「三角形の中の目」として描かれることがあります。これはなぜなのか。同書より引用します(読みやすさのため、改行などを編集しています)。
 〈「万物の中に神を見る」という意味の遍在の他に、「至るところで神から見られている」という遍在の強迫観念も存在した。子供に「だれが見ていなくても神さまからは全部お見通しですよ」というタイプのもので、その時の神は実際に目のあるイエス・キリストのイメージではなくて、三位一体の父なる神の方だ。シンボルとしてはイエス・キリストが小羊なら父なる神は三角形の中に描かれた大きな目だった。
 「目」のシンボルはフリーメイスンでも使われているが、罪を神父に告解して赦免を受けるというカトリック教会による信者支配システムにも有効に働いた。フランスでは一九世紀になってからも、公共の場所にその「目」の石版画が貼られて「神が見ています、ここでは宣誓に背かないこと」と書いてあったようだ。〉
 守護のシンボル
 〈キリスト教以前のヨーロッパにすでにあった呪術的な「邪悪な目」もこの「目」に転用されている。遍在する悪意のような「邪悪な目」に対抗する守護シンボルとして役立ったのだろう。
 目ほどには一般的ではないが、「神の耳」のイコンもたまにあって目を補強する。これはパワー発信装置ではなくて純粋な情報収集装置らしい。ギリシャ哲学の影響もあって、光と音の照応関係(太陽光線のプリズムと音階などが結びつけられた)は教会建築や教会音楽のベースになっていた。
 これに、典礼の時に燻らす香や、イエスの血と肉にして口に入れられるパンとワインの味と香りも加わって、人々は五感に充溢しミクロコスモスに遍在する神を実感したに違いない。〉
 「神が見ている」という感覚、そして、邪悪なものからの守護のシンボル。さまざまな考え方が融合しつつ、宗教的シンボルが形成されていく様子は、非常に興味深いものがあります。
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 さらに【つづき】「なぜキリスト教は、神を「父と子と聖霊の“三位一体”」としたのか…? そこには「意外すぎる理由」があった」では、キリスト教の「三位一体説」についてくわしく紹介しています。
学術文庫&選書メチエ編集部
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