🛲19」─1─中東は日本の近代化を学び、中国・朝鮮は日本の近代化を学ばず拒否した。~No.114No.115 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 中東は親日知日だったが、中国や韓国は反日敵日であった。
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 日本における近代化の成功は、ロシアの軍事侵略に対する危機感による言語の統一、国土防衛の強力な軍隊を作る為の国語の単一化であった。
 言語の統一とは、個人と集団を運命共同体として統合する、民族的宗教的文化的国家的帰属意識による自己同一性に目覚める事である。
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 多言語社会とバベルの塔
 多様性社会には、共通言語による多民族多文化社会と多言語による多民族多文化社会の2種類ある。
 永世中立国スイスは多言語国家で、国民が話す言語はフランス語・イタリア語・ドイツ語を話し、外国人移民・難民が増える事でそれ以外の言語が話されるようになっていく。
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 2025年2月10日 YAHOO!JAPANニュース 東洋経済オンライン「「中東の近代化」日本との共通点で見えること。歴史を通して緊迫する中東情勢の今を考える
 エジプト(写真: ネオンイオン / PIXTA
 今なお緊迫した状態が続いている中東情勢。かつてヨルダンの日本国大使館で専門調査員を務め、現在日本女子大学教授の臼杵陽さんは、今の中東情勢の発端となった近代化の過程において、実は日本との共通点は少なくないと言います。それでは、何が中東と日本の分かれ目となったのでしょうか。臼杵さんの著書『日本人のための「中東」近現代史』から一部を抜粋、再編集してお届けします。
 【写真】『日本人のための「中東」近現代史』(臼杵陽)
■中東が遭遇した「黒船来航」
 ナポレオンのエジプト遠征は、この地域の鎖国からの開国という意味で日本における黒船来航に相当する。リファーア・タフターウィー(1801〜73)という思想家の名前は、ほとんどの読者が初めて聞くかと思われるが、啓蒙思想家としての彼の業績は福澤諭吉(1835〜1901)とよく似ている。
 タフターウィーは伝統的なイスラームの教育を受けており、エジプトのイスラーム学の最高峰であるアズハル大学という教育機関の出身である。そして19世紀初めのムハンマド・アリー総督の時代に、5年間フランスに留学している。
 このムハンマド・アリー(1769〜1849)という人物はアルバニア系商人の息子として現ギリシア領の港町カヴァラで生まれた。のちにオスマン帝国によってエジプトに派遣され、ナポレオン侵攻後の混乱を収めて、エジプト総督(在位1805〜48)に就任して、富国強兵・殖産興業に基づくエジプトの近代化改革を行なった。
 旧勢力のマムルークを一掃し、徴兵制に基づく近代的な軍隊を編成し、また、それまでの徴税請負制度(イルティザーム制と呼ばれている)を廃止して、土地を国有化して綿花栽培を行なうとともに大規模な灌漑設備を整えたのである。このような改革は明治維新に先立つものだった。
■バラバラだった言葉の統一
 日本においては明治維新後、それぞれの藩(地域)によって言葉が異なっていたので、今で言う標準語を作る事業が行なわれた。同じようなやり方で、タフターウィーは帰国後、アラビア語のアカデミーの責任者として、標準語制定の事業に取りかかる。
 日本語の場合、東京方言と長州方言を混ぜたものを標準語としたが、エジプトの場合、結局うまく行かず、いわゆる書き言葉である正則アラビア語、今風に言えば標準アラビア語(フスハー)と方言(アンミーヤ)とは乖離したままである。日本ではその後、言文一致運動が起き、二葉亭四迷以来、小説はすべて口語体で書くという流れになった。
 エジプトでも同じような試みが行なわれたが、アラビア文字では方言の音をうまく表現できないこともあり、失敗した。ただ、アブドゥルラフマーン・シャルカーウィー(1920〜87)というエジプト人小説家は、1954年に出版した小説『大地』をエジプト方言で書くという試みを行なった。
 タフターウィーは、改革の初期の段階を担った。福澤の場合、直訳的なやり方ではなく非常に巧みに日本語に置き換え、日本の文脈に合わせたかたちでヨーロッパの思想を紹介した。
 通常、このような旧弊打破の革新的な世俗思想や活動を啓蒙主義、あるいは啓蒙思想と呼んでいる。タフターウィーも、数多くの書籍をフランス語からアラビア語に翻訳した。その数たるや、1000以上という凄まじいものだ。エジプトにおけるヨーロッパ文明の受容の窓口となった最も代表的な人物である。
 イスラーム自身が変わっていき、近代ヨーロッパの考え方(ヨーロッパにおける合理主義的な発想、理性と信仰を調和するような議論等)を受容できるような素地を作る役割を果たしたということで、タフターウィーは「近代主義者」と呼ばれている。
 一般的に『エジプト誌』(Description de l’Égypte:1809〜22年にわたって刊行)と言われている、イラストがたくさん載った調査報告書がある。たしかにフランスはエジプトに遠征して一時期占領したが、その際、200〜300人程の学者を一緒に連れて行き、徹底的な調査を行なっている。
 その記録である『エジプト誌』は、未だカメラ等で写真を残す手段がない時期に、すべて手描きでエジプトの自然から人間の習慣、風景等、ありとあらゆるものを当時の博物学的観点から図像として残したことで大変貴重である。
 エジプトの植物や動物も徹底的に調査しており、さらには建物や風景、そして風俗・習慣に至るまで描写して記録を残している。エジプト人自身がそのような記録を残していないので、この調査報告書は、エジプト人自身にとっても、19世紀初頭のエジプトがどのようなものであったかを知る貴重な資料なのである。
 なお、この調査で最もよく知られている発見がロゼッタ・ストーンであるが、この貴重な資料はフランスに持ち帰られ、その後、ヒエログリフ(神聖文字)、デモティック(民衆文字)、ギリシア文字の3種類の文字で刻まれた碑文はジャン゠フランソワ・シャンポリオン(1790〜1832年)によって解読された。
■西洋人による詳細な調査
 日本では、19世紀前半はまだ鎖国時代であるが、長崎の出島で活動した人たちが記録を残している。最も有名なのがフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796〜1866)である。
 彼が最初に来日したのが1823年だったので、ナポレオンのエジプト遠征より20年ほど後だが、19世紀前半という意味ではほぼ同時代といってよいだろう。シーボルトはドイツ人であるがオランダの使節に紛れ込んで入国し、江戸にも随行しており、その際に資料を収集したようである。
 最終的には日本の地図を持ち出そうとした「シーボルト事件」(1828)で追放処分になったものの、開国後の1859年に再来日を果たしている。彼が残した『日本博物誌』(1823)は、日本の当時の状況を知るための貴重な資料である。同じようなかたちで西洋の技術を使って現地を描写することが、エジプトでも行なわれたのだ。
 だが、『エジプト誌』の方が、『日本博物誌』よりもはるかに組織的な学術調査に基づいている。
 西洋との遭遇を技術の受容という観点から見るとすれば、アラブ世界、もっと広く言えば中東も日本とよく似た体験をしている。ただし、中東は地理的にヨーロッパとは地中海を挟んだ裏庭的な位置にあることもあり、西洋との遭遇は時期的には日本より半世紀近く早いのである。
■出発点は似ていたエジプトと日本だが
 エジプトと日本の両者の出発点は似ていたが、その後の過程は大きくかけ離れていった。中東においても、西洋の圧倒的な技術力を前にどのように対応するかということで、様々な議論が起こり、実際に改革も行なわれた。
 しかし、結果的にはそのような試みは失敗して植民地化されていった。対照的に、日本の場合は独立を保ち、むしろ逆に明治以降は列強諸国の仲間に入っていった。2つの国の分かれ目はどこにあるのか? 
 この問いが、19世紀における開国という事態を考える際に非常に重要になる。
 実際に現地の人たちの間でも、なぜ日本が「近代化(西洋化)」に成功し、中東は失敗したのか、と対比されて問題が語られることもあることを改めて強調しておきたい。
 臼杵 陽 :日本女子大学教授
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