🔔59」─1─移民テロ。ドイツ東部のマグデブルクで起きた無差別襲撃テロ。〜No.146 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 欧米で起きている地元住民と外国人移民との衝突は、外国人移民(主に中国人移民)1,000万人受け入れを推進している日本の未来である。
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 残虐なテロリストは0.1%で、99.9%はテロとは無縁な善良な移民である。
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 2025年1月14日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「衝撃だった「車での無差別襲撃」…ドイツに住む「移民」として考えたこと
「火があがりさえすれば」……
 2024年12月20日の夕刻、ドイツ東部の街マグデブルクで、無差別襲撃を目的とする車両がクリスマス・マーケットに突入し、5名が死亡しただけでなく220名を超える負傷者が出るという大きな事件が起こった。
 【写真】かつて、「死体処理」をおこなった部隊があった…
 犯人はその場で逮捕されたものの、捜査は年をまたいだ今も続いており、事件の全容が明らかになるまでまだまだ時間がかかりそうだ。現時点での報道からは、拘束されたのがサウジアラビア出身の精神科専門医で、ドイツの永住権を2006年に取得していた人物であること、また、犯人が何らかの事件を起こす可能性について当局が通報を受けていたにもかかわらず対応できなかったことなどがわかっている。
 事件については日本のテレビ・新聞でも報じられた。ドイツ西南部に暮らすわたしも、もちろんすぐにそのニュースを知ることになったが、第一報を読んで、なんとも形容しがたい胸騒ぎを感じた。
 というのも、その数日前、まさに「車両を使った無差別襲撃がキリスト教の祭日に起こる」ことをテーマにした、チェコの映画作品『火があがりさえすれば(Kdyby radši hořelo, 本邦未公開)』を観る機会があったからだ。
 *以下、映画の結末を含む物語の展開に触れる箇所があるためご注意ください。
 この『火があがりさえすれば』という映画は、2022年に第72回ベルリン国際映画祭で上映された、アダム・コロマン・リバンスキー監督のデビュー作品である。春の復活祭を祝うチェコの片田舎の広場に、白いバンが突っ込み、村に暮らすゲーザという男に衝突。車はその後、炎上する。自警消防団員ブローニャが消火活動にあたり、ゲーザは一命を取り留めるものの、すでに運転席はもぬけの殻。妻を亡くし落ち込みながらも「コミュニティを護る」ことに生き甲斐を見出していたブローニャは、もともと外国人がチェコにいることをよく思っておらず、命を救うことになったゲーザさえ「ハンガリー系」という理由から煙たがっていたような人間だ。「ついに俺たちの村にもアラブのテロリストがやってきた」と憤慨するブローニャ。ネオナチ思想にかぶれた若者たちを引き連れて、例年よりもひっそりとイースターを祝うひとびとの家を、警護と称して調べ上げていく。
 火があがりさえすれば、あとは早い。村のひとびとは姿の見えない犯人の影に怯える。
 復活祭のミサで、神父が「罪を犯してしまった者にも祈りを捧げましょう」と言えば、侵入者の「移民」の暴力を許すのか、とばかりに参列者は退席していく。こんな小さな村を襲うなんて馬鹿げている、きっと事故だろう、そう考える村人と、恐怖に支配された人間とのあいだにも、対立の火種がくすぶる。主人公のスタンダは、妊娠中の妻ヤナの身を案じるあまり冷静さを失い移民ヘイトを煽るサイトを閲覧し、ヤナに病院には来ないでほしいと言われる。
 結局、ブローニャたちが想像するような「アラブの移民テロリスト」など存在せず、村の事件は思わぬかたちで解決をみるのだが、そこに至る過程で過激になっていく村の面々の行動が時にシリアスに、時にコミカルに描かれる。
 その時点ではわたしも、ミサから立ち去る村びとの様子などは大袈裟にも見え、滑稽に戯画化された表現だと受けとめていたが、マグデブルクの事件のあとに作品のことを考え直すと、また違って見える。疑心暗鬼に陥った人間は、「こうであるはずに違いない」という思い込みだけで犯人探しをする人間は、いかにたやすく排外的な感情を抱え、実際にはあがりさえしていない煙の向こうに火を見出し始めるのだ。
 チェコでは、中東やアフリカからの「難民」がテロを起こしたという事例は実際にはない。
 むしろ、シーンの一部は、極右思想に傾倒したチェコ人男性が、過激派テロリストを装って鉄道線路に妨害を加え、偽りの自白の書簡を送りつけたという2019年の事件に着想を得たものだ*。
 しかしながら、ヨーロッパに暮らすひとびとのなかに、「宗教過激派による車をつかった無差別襲撃」というイメージは、いくつかの前例とともに、「テロリズム」のひとつの形として記憶に刻み込まれていた。2016年の夏、フランス国民祭(建国記念)の日に、南仏ニースの広場で祝日を祝うひとびとにトラックが突っ込み、80人以上の死者が出るというテロ攻撃が起こった。同年の12月にもベルリンのクリスマス・マーケットに車両が突入し、13人の死者と70人以上の負傷者が出た。車は使用されていないが、2018年にはフランス・ストラスブールのクリスマスマーケットがやはり銃撃テロの現場となった。このことから、「キリスト教の祝祭日」が標的にされているという印象も深まった。
 この映画の舞台となったチェコを含む中東欧地域(一般に旧東欧とも)では、アフリカ、中東、アジアからの移住者・難民が、西欧に比べればまだまだ数として存在感をもつには至っていない。そのようななか、陰謀論まがいの「煙」がひとびとの目を曇らせ、必ずしも事実関係を検証せぬまま、過剰なヘイト言動を生み出しているのが現状だ。
 特に近年、こうした「移民」や「難民」、または「外国人」をめぐる負の感情は、フィクション・ノンフィクションのジャンルを問わず、中東欧映画でも繰り返し語られる主題となっている。以下では、日本でも公開となったルーマニアハンガリー、そしてポーランドの作品を紹介したい。
 「ヨーロッパ新世紀」におけるヘイトのメカニズム
 クリスティアン・ムンジウ監督作品『ヨーロッパ新世紀(R.M.N.)』(原題は脳の症状の解析画像検査MRIを意味するルーマニア語の略式表記)も、「移民問題」を扱ったルーマニア映画だ。ルーマニア北西部トランシルヴァニア地方のパン工場に勤務し始めたスリランカ人労働者を、地元のひとびとが「危険な存在」と見做し、排斥に至る様子を描く本作の脚本は、トランシルヴァニア地方ディトラウという町で実際に起きた事件に基づいている。
 トランシルヴァニア地方の歴史的なドイツ系少数民族ザクセン人の血をひくマティアースは、ドイツ・シュトゥットガルトの精肉工場に出稼ぎしていた。ある日、ドイツ人上司に(ルーマニア出身であることを理由に、ドイツ語を流暢に話せるにもかかわらず)「ジプシー」扱いされたことに腹を立てて暴力沙汰を起こし、地元に逃げ帰る。マティアースの仕送りで暮らす家族は貧しく、信心深い。そんな家族のもとに居るのが嫌で、元恋人のチッラの家に住もうとするも、マティアースの古臭い考えのせいかうまくいかない。チッラはチッラで、マネージャーとして務めるパン工場EUからの補助金を受けるために雇用したスリランカ人をめぐる対応に苦心する。スリランカ労働者への殺害予告も出るなか、住民の集会が開かれ、住民のプレッシャーからオーナーは彼らを解雇する。
 2022年のカンヌ国際映画祭で上映され、2023年には日本でも公開されたこの映画は、先述のチェコ映画『火があがりさえすれば』よりも高い解像度で、中東欧における移民ヘイト発生のメカニズムの要点を捉えている。
 まず、移民ヘイトの根元には、地域的な前史が存在するということだ。トランシルヴァニア地方の民族構成は複雑で、『ヨーロッパ新世紀』で描かれる町では、歴史的に支配層にあったハンガリー系住民が、数としてはマジョリティではないものの今でも重要な地位を占め(町長もハンガリー人)、それに続いてルーマニア語母語とするルーマニア人がマジョリティとして存在し、さらにはマティアースのようなトランシルヴァニア・ザクセン人なども少数だが居住している。彼らは直近ではロマを追い出すことで団結していたようだが、実際には何世紀にもわたって築かれたヒエラルヒーに縛られ、仮にアジア人相手でなかったとしても、民族同士の「一触即発」の不穏な空気が常にあることが読み取れる。
 さらに、移民ヘイトの燃料となるのは、EU内の東西格差である。マティアースは「ドイツでゴミ拾いをしているやつなんかよりもずっとドイツ人なのに」、ルーマニアのパスポートを使用しているというだけで、ドイツでは見下しの対象となる。チッラの働く工場では、EU助成金目当てでオーナーが従業員を増やそうとした結果、スリランカ人たちが(首都ブカレスト在住の斡旋業者を通じて)呼び寄せられる。地元のひとさえ働きたがらない最低賃金の現場で勤務する彼らに対し、町のひとびとは「よそ者はここにいるべきではない」、「彼らのことが嫌いなわけではないが、自分の国で真面目に働けばいい」、「ムスリムで豚を食べられないから、彼らは羊を盗んでいる」と誹謗中傷を展開する。西欧に移民を出す側である中東欧のルーマニアにおける移民差別という、単純な矛盾さえ気づかぬフリをするのは、「自分たちは既に搾取されており、これ以上何かを奪われるべきではない」という不満ゆえである。
 火がなければ、自分で焚きつければいい――家主から追い出されたスリランカ労働者たちを招きいれたチッラの家に、地元のフーリガンたちが松明を投げ入れる。彼らから松明を奪って、獣を払うかのように追いかけるチッラ。ライフルを持ち歩き、チッラを「侵入者」から守ろうとするマティアースも、「人間」と「獣」との境界を見誤ってしまう。
 新しいヨーロッパのすがた――「ジュピターズ・ムーン
 ムンジウの作品がMRIを意味する原題から大きく離れた、『ヨーロッパ新世紀』というタイトルで日本公開となった事実は興味深い。というのも、2017年に公開されたハンガリー映画にも、「ヨーロッパ」と移動する人類の未来を示唆するタイトルをもつ作品があるからだ。それは、コルネル・ムンドツォー監督の『ジュピターズ・ムーン(Jupiter holdja/Jupiter’s Moon)』である。この「木星の月」とは同惑星の衛星のひとつである「エウロパ」を指す(もとは古代ギリシア神話の女神の名で、その女神の訪れた西方の地として現在の「ヨーロッパ」の語源ともなった)。
 カンヌでの公開のあと、同年に日本でも上映された『ジュピターズ・ムーン』は、森林と河川をわたる危険を冒してヨーロッパに到達したシリア難民の少年アリアンと、医療事故で病院を追われ、難民センターで働くハンガリー人医師シュテルンの不思議な交流の物語である。国境を渡る際、アリアンは警備の人間に銃で打たれたことで、身体浮遊を体験するようになる。この超常現象を利用して、事故の告訴取下げ費用の捻出を画策するシュテルンと、シュテルンとアリアンの逃走を知った警察との駆け引きが続く。ついにはブダペシュトの地下鉄でテロ事件が起き、アリアンが首謀者に仕立て上げられる閉じ込められたホテルからの脱出を試みる、というストーリーである。
 上記2作品と比べても、こちらは――超常現象である人体の浮遊を含め――とりわけフィクションの要素が強く、エンターテイメント性が高い。こちらも、ブダペシュトの地下鉄で過激主義等に由来する列車のテロ事件などが起こったことはないため、鑑賞の際に注意が必要だ。
 他方、2015年のいわゆる「欧州移民危機」の最前線ともなったハンガリーのブダペシュト東駅で立ち往生する数多くの難民の姿や、セルビア国境に壁とともに建設された難民受入センターの様子を描いたシーンは、当時のニュース映像を思い出させるものだ。ブダペシュト市内の空き家に隠れていた難民申請希望者らの摘発など、こうしたシーンは現実の報道ともリンクする。映画の公開された時期を考えれば、まだまだそうしたイメージは鮮明なものに映っただろう。
 2015年当時、わたしはハンガリーに住んでおり、時々ブダペシュト東駅を利用することもあった。あの時のひとびとの緊張した空気は忘れ難い。欧州社会の未来に抱く移住者たちの希望と不安は、その時点からヨーロッパに住み続けることをひとつの選択肢として考えていた自分にとっても、他人ごとではなかった。
 移住を望む者たちを個人として捉えるには、制度はあまりにも想像力を欠き、個別のケースの判断をする前に多数のラベリングを必要とする。人の移動にまつわる問題を専門的に扱う政府間機関である国際移住機関(IOM)は、「移民」の定義として「一国内か国境を越えるか、一時的か恒久的かに関わらず、またさまざまな理由により、本来の住居地を離れて移動する人」**の文言を採用している。そして、「移住」のあり方を、短期の海外旅行や留学から災害・紛争まで、自発的なものから非自発的なものまで、包括的に考えていく姿勢を示している。
 たとえば、短期旅行滞在のつもりが、そこで配偶者を見つけて家族をもつようになった者、あるいは、留学で来ていたが国で紛争が起こり難民となった者など、単なるラベリングではなく、移住者の生活実態の変化も含めたグラデーション構造で移住というものを捉えていく視線が必要となる。
 移動する「人間の境界」はどこに引かれうるのか
 2017年に死去した社会学ジグムント・バウマンは、20世紀のナショナリズムの原理ですでに国境が策定され、「地図上に空白の土地はなく」「すでに主権領土として分断された地球という条件」のもと、必然的に生じる「移住」の矛盾に取り組むことの困難について論じた。定住を希望する人間、労働者を必要とする現場、それでも異邦人の受け容れに反対する地元のひとたち――これらのひとびとのあいだの調停は「21世紀の人類が直面する」「もっとも将来にわたって影響をもち、重大な帰結をともなう問題」であると、自身もユダヤポーランド人として移住を背景にもつバウマンは語っていた***。
 バウマンの故郷ポーランドで起こったその移住の「重大な帰結」をまさに捉えたのが、アグニェシュカ・ホランド監督作品『人間の境界(Zielona granica/Green Border)』である(2023年制作、本邦2024年公開)。ベラルーシ=ポーランド国境地帯の難民越境をめぐるベラルーシポーランド双方の暴力の過酷さを描き、ヴェネツィア国際映画祭で初上映され、大きな反響を呼んだ。
 『人間の境界』は、4部構成となっている。ベラルーシ行きの飛行機に搭乗し、ポーランド国境を越えようとするシリア難民やアフガニスタン人の様子が描かれる第一部「ヨーロッパ」(そう、ここでも空間・概念としての「ヨーロッパ」が主題になっている)。冬の森の過酷な環境で越境し、ついにEUの国境の内側にたどり着いたかと思えば、ポーランド国境警察に「スウェーデンに連れていく」と騙されてベラルーシ国境で無理やり引きずり下ろされる。この無謀な越境と強制的かつ暴力的な送還が繰り返されるなかで、多くのひとが命を失う。
 第二部「警備員」は国境警備にあたる男性職員の視点から、難民送還の職務の実態が描かれる・ロシアとベラルーシからの攻撃材料として「難民」を危険物扱いし、青年は葛藤しつつも暴力を行使するようになる。第三部「活動家」は、ベラルーシ国境で人道支援にあたるポーランドのグループの面々が描かれる。ポーランド国境警察にみつかれば自分たちの身も危ない。限られた物資で食事や医療の支援を続ける。第四部「ユリア」は、国境付近の一軒家に住むセラピストの女性ユリアが、家の裏の沼で溺れ死ぬ難民の少年を目撃したことや、活動家たちの出会いを通じて、難民支援に打ち込んでいく様子が語られる。
 原題のZielona granica(グリーン・ボーダー)は、「国境通過地点の区域外」を意味する言葉で、通常は国境警備員の管理が及ばない領域を指している。難民の避難ルートは、まさにこのようなグリーン・ボーダーを経由したものである場合が多い。第二次世界大戦以前にも、ポーランドと当時のソ連との国境をまたぐ違法の難民移動があったことが記録されており、映画で描かれたような東部地域では、内戦や政治体制の転換のはざまで翻弄されて移住に追い込まれたひとびとがいたという歴史的な経緯も忘れるべきではない。
 2021年以降に報じられることが増えたベラルーシ=ポーランド国境の事案を取り上げる本作で、ホランド監督は、ベラルーシポーランドの政治が生み出す越境者たちへの暴力のみならず、特定の国にこうして警備負担のかかるEUの難民政策実施の困難も含め、批判していると考えられる。そして、その批判の射程は、こうした状況を知りながら何もしない鑑賞者にも拡がる。たとえば、尊厳を踏みにじられる中東やアフリカ、アジアからの避難民との対比で、正規の「国境通過地点」からポーランドに入国するウクライナ難民を歓迎するシーンが挿入されているのもそのためだ。
 ポーランド国内では、本作品への関心だけが先行し、上映前から評価が大きく分断されていた。当時の右派与党「法と正義」(現在は下野)の法相であったズブグニェフ・ジョブロが、ホランドの作品はポーランドを貶めるための外国政府のプロパガンダに過ぎず、ナチス映画のようだという趣旨のことを述べるなど、監督をはじめとする制作関係者へのヘイト発言が目立った。中道左派側からも国境警察の仕事を揶揄するような表現や不正確な難民越境の実態の描写に苦言が呈された。
 現在も、ウクライナへのロシアの全面侵攻後の安全保障上の懸念が増すなか、国境警備と密接に関係する「越境者の送還」は依然として重大な問題であり、映画が話題になったからといって、人道状況が改善されているわけではまったくない。
 暴力の生成プロセスを見つめる想像力
 マンハイム・マルクト広場に添えられた献花(2024年12月 著者撮影)
 以上にみたように、中東欧地域の映画作品のなかの「移民」にまつわる表象は、実際の事件や題材をもとにしながらも、西欧のように大きなテロや襲撃に見舞われてきた国々と比べると、どうしても過剰に想像力を刺激する傾向にあると思われる。
 その一方で、ここで紹介したそれぞれの映画が伝えんとするのは、そのような想像力の重要性でもある。どの作品も、フィクショナルな要素と現実を掛け合わせることで、他者に対する暴力の生成プロセスを相対化するという特徴をもつ。
 煙のないところにさえ炎を見出すという事態を防ぐのは、こうした異なる目線を内在化させる映像表現の可能性だと言えるだろう。
 映画を鑑賞するわたしも、今年で在欧15年である。ポーランドハンガリーで暮らしたあと、ドイツ南西部のマンハイムという都市に居住するようになった。在留の資格も一時的な滞在という要素の強い「留学」や「駐在」から「家族滞在」に変化し、アジアからの「移民」としての自分の姿を強く意識するようになった。
 『ヨーロッパ新世紀』のなかに、スリランカ労働者の住居のオーナーが、アジア系移民は「日本からのひとたちだって聞いたけど……」と不安げにつぶやくシーンがある。これは「日本人なら信頼できる」という意味ではない。世界中のどこからだってヨーロッパに「移民」がやってくる現実が彼らにはあり、「日本」からだって「移民」はやってくるだろう、とある程度は具体的に考えているということである。そして、スリランカ人が日本人になったからと言って、映画で描かれたような排斥が起こらないとは決して言えない。
 2024年5月には、わたしが暮らすマンハイムでも、移民ヘイトをめぐる殺傷事件が起きた。「ヨーロッパの平和ための市民運動(BPE)」など、反イスラム・反移民を掲げる団体の主催する演説集会が開かれ、登壇中のジャーナリスト・ミヒャエル・シュトゥルツェンベルガーが、アフガニスタン出身の男性によりナイフで襲撃されたのである。犯人は死亡し、取り押えようとするなかで警察官1名も命を失った。
 現場となったマルクト広場から自宅までは、徒歩10分も離れていない。この広場周辺には、アラブやトルコ系の料理店が立ち並び、「リトル・イスタンブール」と呼ばれる。周囲にはシーシャ・バーや中東系食料品・衣料品店が軒を連ねる。このような場所でヘイトを煽ったらどうなるのか、演説集会の主催者側の脳裏にすこしでもコミュニティを慮る気持ちはあっただろうか。暴力やテロは決して許されることではない。だが、無用な対立を煽る言説には、徹底して反対の声をあげ続けなければならない。
 注

チェコ国内で報告されているテロ行為としては、国の管理する弾薬庫が爆破された事件など(2014年)。これはロシアによる犯行で、外交官を罷免するなどの対応が取られた。

国際移住機関(IOM)日本支部のウェブサイト(https://japan.iom.int/)を参照。特に「移住(人の移動)について」の頁にある「人の移動(移住)のさまざまな形」の図は、移民の性質を考える上で重要な分類を示している。

Bauman, Zygmunt. (2014) Disposable Life: Zygmunt Bauman in History of Violence: http://opentranscripts.org/transcript/disposable-life-zygmunt-bauman/

 中井 杏奈
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